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あのときの恋心は、昨日に置いてきた のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

周平が洗濯洗剤をボトルから注ぐ手が、ぴくりと止まる。次の瞬間、いつもの何倍もの量がドバッと流れ出す。彼は、信じられないものを見るような目で私を見る。「お前、頭おかしくなったのか?昨日婚約したばかりだろ。今さら別れるなんて言い出して、俺たち二人の家族を笑いものにしたいのか?」私は淡々とうなずく。「そう。私、頭がおかしくなったの」昨日は私たちの婚約パーティーだった。この日を、私は丸七年も待ち続けていた。婚約パーティーのために半年以上前から準備を始め、自分の理想を細かくまとめて、式場のプランナーにすべて伝えている。ところが、当日会場に着いてみれば――私が気に入ったものは、ひとつもない。私はシャクヤクの花が好きなのに、会場中を埋め尽くしているのはジャスミンの花。私はピンクが好きなのに、会場は一面、ゴールドで彩られている。しかも、受付に飾られている写真まで、私が周平に何度も「嫌い」と愚痴をこぼしていた写真だ。そのとき、私はすぐにプランナーの責任者を呼んで説明を求めようとする。けれど、周平が眉をひそめて私を止める。「俺がそうするように頼んだ」その瞬間、私の感情は一気に崩れ落ちる。なぜそんなことをしたのかと、私は周平を問い詰める。だって私は、今回の婚約パーティーをどれほど大切にしているか、何度も何度も彼に伝えてきた。周平は面倒くさそうに舌打ちする。「紗綾、そんなに自分勝手になるなよ。婚約は俺たち二人のことだろ。俺が自分の好きなように変えちゃいけないのか?」私は言葉を失う。何も言えないまま、ただ立ち尽くす。そして婚約パーティーが終わる頃、周平の幼なじみの紗英が、恥ずかしそうにグラスを手にして私の前までやってくる。「紗綾さん、今回は本当にありがとう。紗綾さんが協力してくれなかったら、私と俊介(しゅんすけ)の婚約パーティー、どうしたらいいのか分からなかったよ」その瞬間、全身から血の気が引いていく。周平はそんな私には目もくれず、優しい眼差しで紗英を見つめる。そして、彼女の頭をそっと撫でる。「これくらいどうってことないよ。次は結婚式も、先に俺たちで試してみるか?」ジャスミンの花も、ゴールドの装飾も、好きなのは最初から周平じゃない。そのことを思い出し、私はかすかに口元を歪める。「ご両親には、私からちゃんと話す
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第2話

私は荷造りを始め、すべて片付け終わったのは、もう明け方近くになってからだ。部屋の隅に山のように積み上がったスーツケースや袋を見つめると、肩がわずかに落ちる。ここで暮らして七年。私はいつの間にか、ここが自分の家なのだと思っていた。だから家具や日用品を買うときも、持って出やすいかどうかなんて、一度も考えたことがない。ドンッという音とともに、ドアが勢いよく開く。顔を上げると、周平が大股で入ってきて、そのまま私を強く抱きしめる。体からは、むっとするほど酒の匂いがする。彼は目が真っ赤に充血し、声も涙で詰まっている。「紗綾、俺から離れるな。こんなに長い間一緒にいたのに……紗綾、お前には本当に情がないな」体の脇に垂らしていた手が、かすかに震える。けれど私は、以前のように彼の肩を撫でて慰めることはしない。私は彼を支えながら、なんとかベッドまで連れていき、横たえる。彼のスマホが、何度も何度も鳴り続ける。私は反射的に電話に出る。「周平さん、私を想ってくれている気持ちは分かっている。いろいろ考えたけど、やっぱりその気持ちには応えられない。周平さん、来月の私の結婚式には、絶対に来てね」画面に表示された名前を見た瞬間、スマホが手から滑り落ち、床に叩きつけられる。乾いた音が響く。岡田紗英。その名前を見つめながら、私はふと気づく。周平はいつも、気持ちが高ぶると私の瞼にキスをし、愛おしそうに「紗英」と呼ぶ。私はずっと、彼が地方出身だから、発音が少し曖昧になっているだけだと思っていた。でも今になって思えば――彼は私を通して、愛しても決して結ばれない誰かを呼んでいたのだ。私は拳を握り、胸の奥に広がる痛みを必死に押し込める。スマホを拾い上げ、引っ越し業者に連絡しようとしたところで、紗英がSNSに投稿した内容が目に入る。そこには、長い文章が綴られている。幼い頃からずっと自分を気にかけてくれた「お兄さん」について。どんな気持ちにも必ず応えてくれて、どんなことにもちゃんと返してくれて、自分の気持ちを決してないがしろにしない人について。私は唇を噛み、投稿に「いいね」を押す。なのに、目の奥が一気に熱くなる。どうして彼は、私とは一度もちゃんと話し合おうとしてくれなかったのだろう。私は顔を上げ、大きく息を吐き出す。
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第3話

迷った末、私はそれでも家を出る。途中で大雨が降り出し、私は全身びしょ濡れになる。雨が激しすぎて、目を開けているのもやっとだ。警察署に着くと、すぐに椅子に座っている周平の姿が目に入る。私は一瞬ためらってから、彼のもとへ歩いていく。警察官が私の姿を見ると、ポケットティッシュを一個差し出してくる。「これで拭いてください。風邪引きますよ」それから、何の脈絡もなく、ふと口にする。「彼女さんですよね?でも、今日一緒にいた人とは、あんまり似てませんね」私の鼓動が、一瞬だけ遅れる。そして、周平を見る。けれど周平は何の反応も示さず、椅子に座ったまま険しい顔をしている。必要な書類にサインを終えると、私は周平の前に立つ。「全部済ませたよ。行こう」周平は動かない。私の忍耐も少しずつ限界に近づき、背を向けて、そのまま雨の中へ踏み出す。すると周平がすぐ後を追ってきて、私の腕をつかむ。声が冷え切っている。「紗綾、説明してくれないか?」私はゆっくり瞬きをする。「説明って、何を?」周平は私の両肩を強くつかむ。あまりの痛みに、顔から血の気が引いていく。「紗綾、知ってるか?お前が紗英にあのマンションを返せって言ったせいで、あの子は彼氏と別れることになったんだ。今日、紗英は川沿いに立ってた。俺があと少しでも遅かったら、あの子は何をするか分からなかった。自分が悪者だとは思わないのか?謝るべきじゃないのか?どうしてお前はいつも、何も悪くないみたいな顔をしていられるんだ?」矢継ぎ早に浴びせられる言葉に、私は頭が真っ白になる。雨粒が顔を叩きつけ、目の前の周平の顔すら、ほとんど見えない。ただ、私に向けられた険しく歪んだ表情だけが分かる。彼は私を責めている。でも、私は何もしていない。私は口を開き、説明しようとする。けれど、周平が冷たく遮る。「何もしてないなんて言うなよ。紗英にはお前とのメッセージのやり取りが残ってる」私は口を閉ざす。突然、どうしようもなく虚しくなる。七年かけて必死に守ってきたこの関係は、たった一欠片の信頼すら私に与えてくれない。なんて惨めなんだろう。涙と雨が混ざり合い、頬を伝う。もう、それが涙なのか雨なのか、自分でも分からない。胸の奥が何度も締めつけられるように痛む。何日も押し殺して
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第4話

私は電話をかけようとしている。周平が奪おうとしてくるけれど、私は渡さない。周平の顔が一気に険しくなる。私の腕を力いっぱいつかみ、指を一本ずつ無理やり引き剥がしていく。――パキッ。骨が不自然に鳴る音が聞こえる。恐る恐る手元を見ると、指がありえない方向に曲がり、力なく垂れ下がっている。折れたの?周平は私のスマホを奪い取ると、怒鳴りながら床に叩きつける。「電話したいんだろ!かけろよ!かけてみろ!お前の心は腐ってる!何を見ても汚く考えやがって!紗英を追い詰めて死なせたいのか!」スマホが砕ける乾いた音に、胸の奥がびくりと震える。私は反射的に二歩後ずさる。この人は、もう私の恋人じゃない。悪魔だ。警察官が私の指に気づき、厳しい声を上げる。「君、何をしてるんだ?!これ以上やるなら、また留置場に入れるぞ!」周平は掠れた声で何かを言い、私を見る目には恨みと冷たさが満ちている。私は心の中で自分に問いかける。どうして、こんなことになったんだろう。昔は、こんなんじゃなかった。七年前、私たちは古いアパートの狭い部屋で暮らしていた。冬になると暖房代すら払えなくて、夜は二人で布団にくるまり、抱き合って暖を取っていた。私の足が冷たいと、周平は起き上がり、手をこすって温めてから、私の足を両手で包んで温めてくれた。私が体調を崩したとき、何か月ぶりか分からないほど豪華な食事を用意してくれた。でも、私たちにそんな余裕がないことくらい、私は分かっていた。顔を上げると、周平の青白い顔が見えた。そして、袖口から隠しきれずに覗いていた、小さな針跡。彼は――私にちゃんとした食事を食べさせるために、血を売っていた。こんな思い出まで、全部嘘だったの?そのとき、遠くから誰かが傘を差しながら慌ただしくこちらへ歩いてくる。近づいてきて、私はようやくその顔を見分ける。紗英だ。紗英は慌てて周平の頭上に傘を差し、焦ったような、申し訳なさそうな声を出す。「周平さん、私のことで喧嘩しないで。全部私が悪いって分かってる。でも、だからって自分の体を粗末にするようなことはしないでよ。ごめんなさい……本当にごめんなさい。私のせいで、俊介と喧嘩することになったんだよね」結局、紗英のためだったんだ。周平は、つま先立ちになって傘を差
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第5話

周平の呼吸が一瞬止まる。しばらくして、彼は口元をわずかに歪める。「あいつは行くわけない。たぶん、この数日でちょっと拗ねてるだけだ。気持ちが落ち着けば、すぐ戻ってくる」周平は紗英を見る。さっきまで険しかった目元が、少しだけ柔らかくなる。「分かった。まず俺が部屋を探してやる。しばらくそこで暮らせばいい」紗英は目を赤くする。「周平さん、紗綾さんもいないし……しばらく周平さんのところに泊めてもらえないかな?私、俊介と別れたばかりで、一人でいるのが怖いの」周平はほとんど反射的に断る。「ダメだ。紗英、俺はもうすぐ結婚するんだ。紗綾に知られたら、きっと怒るぞ」言い終えた瞬間、周平はふと固まる。まさか自分が、そんなことを口にするとは思っていなかったようだ。紗英は唇を噛み、結局うなずく。紗英を送り届けて家に戻った周平は、無意識に声をかける。「紗綾、ただいま」けれど、いくら待っても返事はない。そこでようやく、周平は思い出す。紗綾は数日前、彼と喧嘩したあと、家を出ていったのだ。胸の奥に苛立ちが込み上げ、周平はソファに体を預ける。そのとき、スマホが鳴る。電話に出ると、母親――成瀬京子(なるせ きょうこ)の声が聞こえてくる。「周平、おばあちゃんがもうすぐ七十歳の誕生日なの。ちゃんと紗綾も連れて、家に帰ってきて一緒に食事しなさいよ」周平はしばらく黙ってから答える。「お母さん、今回は無理かもしれない。俺たち、喧嘩してるんだ」京子はため息をつく。「周平、今まで紗綾がどれだけあなたのために頑張ってきたか、私たちはちゃんと見てる。あの子は本当にいい子よ。普段、少し譲ってあげてもいいでしょう?おばあちゃんだって、あなたたちが結婚してひ孫を抱くのを楽しみにしてるのよ。このままじゃ、いつになったら結婚するつもりなの?」周平は眉を寄せる。胸の奥に、また苛立ちが込み上げてくる。京子は有無を言わせぬ口調で言い切る。「もういいわ。三日後、必ず紗綾を連れて帰ってきなさい」そう言って、京子は電話を切る。周平はしばらく迷った末、紗綾にメッセージを送る。【いつ戻ってくるんだ?】送信した直後、画面に表示された赤い「!」が、周平の目を刺す。周平は呆然とする。紗綾が彼をブロックしたのは、これが初めてだ。今まで紗綾は、どれだけ怒
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第6話

彼はソファに座ったまま、数時間も身動きが取れずにいる。その間、何年も前、紗綾と付き合い始めたばかりの頃のことを思い出している。あの頃の紗綾は、まだ無邪気で天真爛漫だった。彼女が一番好きだったのは、周平の腕に自分の腕を絡めて、「絶対に私をいじめちゃダメだからね」と何度も念を押すことだった。紗綾が顔を上げて周平を見ると、その瞳はいつもきらきらと輝いていた。あの頃の周平は、心に誓っていた。この先の人生、絶対に自分の隣にいるこの女の子を大切にしよう、と。そこまで思い出したところで、周平はため息をつく。自分が少しくらい譲ってやるべきだった。周平は紗綾の親友――杉山梨々香(すぎやま りりか)にメッセージを送る。【紗綾と喧嘩してしまった。悪いのは俺だって、あの子に伝えてくれ。今週中に紗綾の好みに合わせて、ちゃんと結婚式の準備をする。これで謝らせてほしい】【一週間後、江川(えがわ)ホテルで午前九時から結婚式を挙げる】梨々香から返信はない。それでもメッセージが無事に送れたことで、周平はほっと息を吐く。紗綾と梨々香は、本当の姉妹のように仲がいい。梨々香が知れば、紗綾にも必ず伝わる。周平は結婚式の準備について調べ始める。ウェディングドレスからブーケ、そして会場まで、一つひとつ時間をかけて考えていく。ウェディングドレスを選んでいるとき、周平は目を細め、紗綾の好みを思い返す。紗綾と初めて迎えた記念日のことを思い出す。あの頃、紗綾はまだ周平の起業を支えていた。二人で財布の中身を全部かき集め、ようやく仕出し弁当を一つ買えるだけのお金を作った。二人は橋のたもとに座り、一口ずつ交互に食べる。紗綾は肉を食べるのを惜しんで、箸で周平の弁当に入れる。「私、ダイエットしないといけないから」そのとき、橋の上を新婚夫婦が歩いていく。花嫁は、風に揺れる美しいウェディングドレスを身にまとっている。紗綾の瞳には、羨ましそうな光が浮かぶ。彼女はご飯を大きく一口頬張り、頬をぷくっと膨らませる。「周平、早く成功してよね。私、いつかあの人よりずっと綺麗なウェディングドレスを着るんだから。シルクのやつ。それも、一番高いやつ!」紗綾が冗談めかして言った言葉が、ふいに脳裏に蘇る。周平の目がわずかに動く。そして、一番高いウェディングドレス
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第7話

周平は大股で歩み寄り、プレゼントを美代の隣に置くと、笑顔で言う。「おばあちゃん、誕生日おめでとう。これ、俺と紗綾からのお祝い」美代は彼の手をそっと押しのけ、ため息をつく。「プレゼントなんていらないよ。私は紗綾に会いたいだけ。京子から聞いたけど、今回もまた喧嘩したんだって?」周平の笑顔が、その場で固まる。「うん」美代は包みを開け、柔らかな枕を取り出す。そして、何度も優しく撫でる。「これ、紗綾が手作りしてくれたんでしょう?」「うん」「紗綾は本当に気が利く子だよ。少し前に私が夜なかなか眠れなくてねって話したら、『数日待ってて。ラベンダーの香りを入れた安眠枕を作るから』って言ってくれたんだ」そう言って、美代が小さく咳き込む。周平は慌ててその背中をさする。けれど美代は手を振り、その手を止めさせる。「今回も、あの紗英のことで喧嘩したのかい?」周平は目を伏せる。「うん」美代はため息をつき、首を横に振る。そして初めて、彼をフルネームで呼ぶ。「成瀬周平。あんた、間違ってるよ。あんたと紗綾は、もうすぐ結婚して夫婦になるんだ。なのに、どうしてまだ紗英と曖昧な関係を続けてるんだ?」周平の胸が、ズキッと痛む。反射的に弁解する。「おばあちゃん、俺と紗英は本当に何もない。妹みたいに思ってるだけだよ」美代は鼻で笑う。「妹のために、妻になる人とここまで喧嘩する人間がどこにいるの。周平、よく自分の胸に聞いてみな。紗綾が、この何年もの間、うちの家族に何か悪いことをしたかい?昔、あんたの起業を支えるために、あの子は七か月もカップ麺ばかり食べて、とうとう胃に穴まで開けた。栄養失調にもなったんだよ。数年前、京子が転んで怪我をしたときだって、紗綾は何も言わずに仕事を辞めて、何か月も家で京子の面倒を見てくれた。紗綾の実家がどれだけ裕福か、あんただって知ってるだろう。それなのに、あんたと一緒になるために、ほとんど実家と縁を切ったんだ。あんなに大切に育てられたお嬢さんが、うちに来て何年も苦労してきたんだよ。それどころか今だって、この家の食事や生活用品まで、全部紗綾が用意してくれてる。うちは家族全員、あの子に借りがあるんだ。そんな紗綾を、あんたはどうして傷つけていいと思うんだい?」その言葉を聞き、周平はゆっくりと、これまでの日々
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第8話

一週間後、江川ホテル。朝七時。周平はほとんど一睡もしていない。寝室に座り込み、一晩中、二人が付き合っていた頃に書いた手紙を読み返している。全部で千通近くもある。ベッドの下の箱に、ずっとしまっていたものだ。手紙を読み終えた周平の胸には、複雑な感情が渦巻いている。強い罪悪感もある。この数年間、自分が確かに紗綾の気持ちをないがしろにしてきた。だから周平は決めている。結婚式で紗綾にきちんと償い、彼女にとって最高の結婚式を贈るのだと。メイク担当者から電話がかかってくる。「成瀬さん、新婦さんはまだいらっしゃっていませんか?もうこれが限界の時間です。このまま来なければ、この後の予定もかなり遅れてしまいます」周平は焦っている。それでもメイク担当者をなだめるしかない。「もう少し待ってください。あと少しだけ」三十分。一時間。二時間。それでも、紗綾は一向に姿を見せない。招待客の席に座っている親族たちも、ひそひそと話し始める。そこへ、周平の友人たちが控室に駆け込んでくる。皆、困惑した顔をしている。「周平さん、紗綾さん、まだ来てないか?」「そうだよ。もう式の開始時間に間に合わないんじゃないの?」友人たちの催促は、火に油を注ぐように、周平の焦りを一気に煽る。手のひらにはじっとりと汗が滲み、眉間に皺を寄せながら催促する。「何回か電話してみてくれ。俺はブロックされてる」友人たちは顔を見合わせ、ニヤニヤしながら声を上げる。「周平さん、まさか今時、まだ痴話喧嘩か?」周平は呆れたように笑いながら怒鳴る。「うるさい。いいから早く電話しろ」何人かが電話をかける。けれど、どの番号も電源が切られている。そのとき、少し離れたところから、驚きの声が上がる。「えっ、新婦さん、今になって来たの?」「そうだけど……一緒に歩いてる男の人、誰?」その声を聞いた瞬間、周平は勢いよく立ち上がる。そして、目の前にいた友人たちを押しのけ、大股で走り出す。ホテルのエントランス。そこから、男女二人が腕を組み、ゆっくりとロビーへ入ってくる。女の顔を見た瞬間、周平の呼吸が一瞬止まる。紗綾は、背の高い男の腕に自分の腕を絡め、そのまま受付へ向かう。「穂坂紗綾と婚約者から、お祝いとして20万円です。食事は遠慮します。ご結婚お
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第9話

紗綾は眉を寄せ、梨々香を止めようとする。けれど梨々香は紗綾に首を横に振る。紗綾は仕方なく、彼女に任せることにする。梨々香は一歩前へ出ると、周平の前に立ちはだかる。「あんたみたいな男は、自分勝手で身勝手。相手から愛情も世話も受け取っておきながら、他の女とも曖昧な関係を続ける。罰を受けて当然じゃない?自分が謝ると言えば、相手は許して当然だと思ってるの?あんた、自分を買いかぶりすぎじゃない?」梨々香の言葉を聞くにつれ、周平の顔から笑みが消え、表情が次第に険しくなる。彼は梨々香を押しのけ、紗綾を見る。声には、かすかな震えが混じっている。「紗綾、こっちに来て。紗綾が一番好きなウェディングドレスを買った。好きなメイクさんもカメラマンも呼んである。今日は俺たちの結婚式だろ。忘れたのか?今、俺のところに戻ってきてくれたら、全部なかったことにする。それでいいだろ?」紗綾はしばらく周平をじっと見つめ、それから笑う。「周平。梨々香が言ったこと、何一つ間違ってないね。自分勝手で、思い上がってる」その言葉を聞いた瞬間、周平はその場に凍りつく。胸の奥が、何度も引き裂かれるように痛む。どうして、こんなことになってしまったのか。周平には、それがどうしても理解できない。紗綾は周平を見つめる。けれど、その瞳にはもう、一片の感情も残っていない。「周平。あなたが私に手を上げた、あの瞬間から……私たちは完全に終わってる。お互い、綺麗に別れよう。これ以上、相手を惨めにするのはやめよう」そう言い終えると、紗綾は晴の手を取り、そのまま立ち去ろうとする。「紗綾。俺たちの七年間は何だったんだよ」紗綾の足が止まる。けれど、振り返らない。「私が人を見る目がなかったってことよ。もしあの頃、両親の言うことを聞いていたら……私は七年も無駄にしなかった。今頃だって、私は穂坂家のお嬢様として、何不自由なく幸せに暮らしてた。それなのに、ひとりの男に七年も付き添って、最後には暴言を吐かれて、挙げ句の果てに暴力まで振るわれるなんてね」紗綾の言葉が、無数の刃となって周平の胸を容赦なく突き刺す。周平はその場に立ち尽くし、二人が遠ざかっていく姿をただ見つめている。拳を強く握りしめながらも、追いかける勇気は出ない。ただ、紗綾がもうすぐホテルを出る
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第10話

周平は苦笑し、涙を拭う。きっと自分は、この世で一番自分を愛してくれた人を失ったのだ。もう、自分のために七年もの時間を捧げ、苦労を共にしてくれる人はいない。仕事の付き合いで遅くなった夜、家で自分の帰りを待ち続け、何度も温め直した酔い覚ましのスープを用意してくれる人もいない。心が折れそうになるたび、そっと背中を撫でながら「周平、私はずっとそばにいるから」と言ってくれる人も、もういない。全部、自業自得だ。紗綾の消息を再び耳にするのは、それから三年後のことだ。周平は会社の倒産寸前まで追い込まれ、毎日、目が回るほど忙しい。もうこれ以上は無理だと思うたび、左手の薬指にはめた指輪をそっと撫でる。周平はSNSを開き、指先でゆっくり画面をスクロールする。そのとき、一枚の見覚えのある、とても美しい顔が目に飛び込んでくる。周平は固まる。写真を消えてしまうのが怖いかのように、何度も何度も慎重に眺め、指先でそっと撫でる。紗綾はウェディングドレス姿で、お腹を優しく撫でている。その隣には晴が立ち、紗綾を愛おしそうに見つめている。二人は本当にお似合いだった。その光景が、周平の目を容赦なく刺す。投稿したのは梨々香だった。添えられている言葉は――【めでたいことが二つ。私の大切な親友が、一生幸せでありますように】周平は、その写真を食い入るように見つめる。まるで、少しでも目を離せば写真が消えてしまうとでもいうように。しばらくして、写真を長押しし、保存する。机の上に積み上がった書類を見つめ、周平は大きく息を吐く。そして窓際まで歩いていく。会社が入っているのは、31階。「3月1日」は、紗綾の誕生日だ。ここから見下ろせば、街全体が一望できる。周平はずっと思っていた。同じ街で暮らしているなら、二人はいつか必ず再会するはずだ、と。けれど、まさか二人の縁がここまで薄いとは思わなかった。三年もの間、周平は一度も紗綾に会っていない。ただ、必死になって周囲の人間から彼女の消息を聞き出そうとする。けれど、紗綾は自分たち全員と縁を切ったのだと知る。だから周平は、梨々香のSNSから、ほんのわずかな紗綾の姿を探すしかない。どうやら梨々香は周平を非表示にしているらしく、普段の投稿は見ることができない。それな
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