LOGIN婚約者の成瀬周平(なるせ しゅうへい)は、いわゆる「回避型」の人間だ。何かあっても私と話し合おうとはせず、少しでも言い争いになると、すぐにイヤホンを耳に突っ込み、音楽の音量を最大まで上げる。 今回も、どの洗濯洗剤を使うかで口論になった。周平は苛立ったようにイヤホンを私めがけて投げつける。 「穂坂紗綾(ほさか さや)、いい加減にしてくれないか? 写真写りが悪いって騒ぐ。ゴミをすぐ捨てなかったって騒ぐ。記念日を忘れたって騒ぐ。 今度は洗濯洗剤ひとつ選ぶことすら、俺には自由がないのか?」 私は黙って、自分の太腿についた赤い痕を見下ろす。それから、床に転がる、見るも無残にバラバラになったイヤホンへ目を向ける。 Apple AirPods Max。九万円。 半月以上の給料をつぎ込んで、誕生日プレゼントとして買ったものだ。それが今では、彼が怒りをぶつけるための道具になっている。 なのに、幼なじみの岡田紗英(おかだ さえ)から贈られた洗濯洗剤だけは、彼は六年間も大切に取っている。 大切な日が来るたび、彼はその洗剤をキャップ一杯だけ使って、家中の服をすべて洗う。 鼻腔いっぱいに、甘ったるい洗剤の香りが広がっている。私は顔を上げ、込み上げてくる涙を必死にこらえる。 「周平、私たち……別れよう」
View More周平は苦笑し、涙を拭う。きっと自分は、この世で一番自分を愛してくれた人を失ったのだ。もう、自分のために七年もの時間を捧げ、苦労を共にしてくれる人はいない。仕事の付き合いで遅くなった夜、家で自分の帰りを待ち続け、何度も温め直した酔い覚ましのスープを用意してくれる人もいない。心が折れそうになるたび、そっと背中を撫でながら「周平、私はずっとそばにいるから」と言ってくれる人も、もういない。全部、自業自得だ。紗綾の消息を再び耳にするのは、それから三年後のことだ。周平は会社の倒産寸前まで追い込まれ、毎日、目が回るほど忙しい。もうこれ以上は無理だと思うたび、左手の薬指にはめた指輪をそっと撫でる。周平はSNSを開き、指先でゆっくり画面をスクロールする。そのとき、一枚の見覚えのある、とても美しい顔が目に飛び込んでくる。周平は固まる。写真を消えてしまうのが怖いかのように、何度も何度も慎重に眺め、指先でそっと撫でる。紗綾はウェディングドレス姿で、お腹を優しく撫でている。その隣には晴が立ち、紗綾を愛おしそうに見つめている。二人は本当にお似合いだった。その光景が、周平の目を容赦なく刺す。投稿したのは梨々香だった。添えられている言葉は――【めでたいことが二つ。私の大切な親友が、一生幸せでありますように】周平は、その写真を食い入るように見つめる。まるで、少しでも目を離せば写真が消えてしまうとでもいうように。しばらくして、写真を長押しし、保存する。机の上に積み上がった書類を見つめ、周平は大きく息を吐く。そして窓際まで歩いていく。会社が入っているのは、31階。「3月1日」は、紗綾の誕生日だ。ここから見下ろせば、街全体が一望できる。周平はずっと思っていた。同じ街で暮らしているなら、二人はいつか必ず再会するはずだ、と。けれど、まさか二人の縁がここまで薄いとは思わなかった。三年もの間、周平は一度も紗綾に会っていない。ただ、必死になって周囲の人間から彼女の消息を聞き出そうとする。けれど、紗綾は自分たち全員と縁を切ったのだと知る。だから周平は、梨々香のSNSから、ほんのわずかな紗綾の姿を探すしかない。どうやら梨々香は周平を非表示にしているらしく、普段の投稿は見ることができない。それな
紗綾は眉を寄せ、梨々香を止めようとする。けれど梨々香は紗綾に首を横に振る。紗綾は仕方なく、彼女に任せることにする。梨々香は一歩前へ出ると、周平の前に立ちはだかる。「あんたみたいな男は、自分勝手で身勝手。相手から愛情も世話も受け取っておきながら、他の女とも曖昧な関係を続ける。罰を受けて当然じゃない?自分が謝ると言えば、相手は許して当然だと思ってるの?あんた、自分を買いかぶりすぎじゃない?」梨々香の言葉を聞くにつれ、周平の顔から笑みが消え、表情が次第に険しくなる。彼は梨々香を押しのけ、紗綾を見る。声には、かすかな震えが混じっている。「紗綾、こっちに来て。紗綾が一番好きなウェディングドレスを買った。好きなメイクさんもカメラマンも呼んである。今日は俺たちの結婚式だろ。忘れたのか?今、俺のところに戻ってきてくれたら、全部なかったことにする。それでいいだろ?」紗綾はしばらく周平をじっと見つめ、それから笑う。「周平。梨々香が言ったこと、何一つ間違ってないね。自分勝手で、思い上がってる」その言葉を聞いた瞬間、周平はその場に凍りつく。胸の奥が、何度も引き裂かれるように痛む。どうして、こんなことになってしまったのか。周平には、それがどうしても理解できない。紗綾は周平を見つめる。けれど、その瞳にはもう、一片の感情も残っていない。「周平。あなたが私に手を上げた、あの瞬間から……私たちは完全に終わってる。お互い、綺麗に別れよう。これ以上、相手を惨めにするのはやめよう」そう言い終えると、紗綾は晴の手を取り、そのまま立ち去ろうとする。「紗綾。俺たちの七年間は何だったんだよ」紗綾の足が止まる。けれど、振り返らない。「私が人を見る目がなかったってことよ。もしあの頃、両親の言うことを聞いていたら……私は七年も無駄にしなかった。今頃だって、私は穂坂家のお嬢様として、何不自由なく幸せに暮らしてた。それなのに、ひとりの男に七年も付き添って、最後には暴言を吐かれて、挙げ句の果てに暴力まで振るわれるなんてね」紗綾の言葉が、無数の刃となって周平の胸を容赦なく突き刺す。周平はその場に立ち尽くし、二人が遠ざかっていく姿をただ見つめている。拳を強く握りしめながらも、追いかける勇気は出ない。ただ、紗綾がもうすぐホテルを出る
一週間後、江川ホテル。朝七時。周平はほとんど一睡もしていない。寝室に座り込み、一晩中、二人が付き合っていた頃に書いた手紙を読み返している。全部で千通近くもある。ベッドの下の箱に、ずっとしまっていたものだ。手紙を読み終えた周平の胸には、複雑な感情が渦巻いている。強い罪悪感もある。この数年間、自分が確かに紗綾の気持ちをないがしろにしてきた。だから周平は決めている。結婚式で紗綾にきちんと償い、彼女にとって最高の結婚式を贈るのだと。メイク担当者から電話がかかってくる。「成瀬さん、新婦さんはまだいらっしゃっていませんか?もうこれが限界の時間です。このまま来なければ、この後の予定もかなり遅れてしまいます」周平は焦っている。それでもメイク担当者をなだめるしかない。「もう少し待ってください。あと少しだけ」三十分。一時間。二時間。それでも、紗綾は一向に姿を見せない。招待客の席に座っている親族たちも、ひそひそと話し始める。そこへ、周平の友人たちが控室に駆け込んでくる。皆、困惑した顔をしている。「周平さん、紗綾さん、まだ来てないか?」「そうだよ。もう式の開始時間に間に合わないんじゃないの?」友人たちの催促は、火に油を注ぐように、周平の焦りを一気に煽る。手のひらにはじっとりと汗が滲み、眉間に皺を寄せながら催促する。「何回か電話してみてくれ。俺はブロックされてる」友人たちは顔を見合わせ、ニヤニヤしながら声を上げる。「周平さん、まさか今時、まだ痴話喧嘩か?」周平は呆れたように笑いながら怒鳴る。「うるさい。いいから早く電話しろ」何人かが電話をかける。けれど、どの番号も電源が切られている。そのとき、少し離れたところから、驚きの声が上がる。「えっ、新婦さん、今になって来たの?」「そうだけど……一緒に歩いてる男の人、誰?」その声を聞いた瞬間、周平は勢いよく立ち上がる。そして、目の前にいた友人たちを押しのけ、大股で走り出す。ホテルのエントランス。そこから、男女二人が腕を組み、ゆっくりとロビーへ入ってくる。女の顔を見た瞬間、周平の呼吸が一瞬止まる。紗綾は、背の高い男の腕に自分の腕を絡め、そのまま受付へ向かう。「穂坂紗綾と婚約者から、お祝いとして20万円です。食事は遠慮します。ご結婚お
周平は大股で歩み寄り、プレゼントを美代の隣に置くと、笑顔で言う。「おばあちゃん、誕生日おめでとう。これ、俺と紗綾からのお祝い」美代は彼の手をそっと押しのけ、ため息をつく。「プレゼントなんていらないよ。私は紗綾に会いたいだけ。京子から聞いたけど、今回もまた喧嘩したんだって?」周平の笑顔が、その場で固まる。「うん」美代は包みを開け、柔らかな枕を取り出す。そして、何度も優しく撫でる。「これ、紗綾が手作りしてくれたんでしょう?」「うん」「紗綾は本当に気が利く子だよ。少し前に私が夜なかなか眠れなくてねって話したら、『数日待ってて。ラベンダーの香りを入れた安眠枕を作るから』って言ってくれたんだ」そう言って、美代が小さく咳き込む。周平は慌ててその背中をさする。けれど美代は手を振り、その手を止めさせる。「今回も、あの紗英のことで喧嘩したのかい?」周平は目を伏せる。「うん」美代はため息をつき、首を横に振る。そして初めて、彼をフルネームで呼ぶ。「成瀬周平。あんた、間違ってるよ。あんたと紗綾は、もうすぐ結婚して夫婦になるんだ。なのに、どうしてまだ紗英と曖昧な関係を続けてるんだ?」周平の胸が、ズキッと痛む。反射的に弁解する。「おばあちゃん、俺と紗英は本当に何もない。妹みたいに思ってるだけだよ」美代は鼻で笑う。「妹のために、妻になる人とここまで喧嘩する人間がどこにいるの。周平、よく自分の胸に聞いてみな。紗綾が、この何年もの間、うちの家族に何か悪いことをしたかい?昔、あんたの起業を支えるために、あの子は七か月もカップ麺ばかり食べて、とうとう胃に穴まで開けた。栄養失調にもなったんだよ。数年前、京子が転んで怪我をしたときだって、紗綾は何も言わずに仕事を辞めて、何か月も家で京子の面倒を見てくれた。紗綾の実家がどれだけ裕福か、あんただって知ってるだろう。それなのに、あんたと一緒になるために、ほとんど実家と縁を切ったんだ。あんなに大切に育てられたお嬢さんが、うちに来て何年も苦労してきたんだよ。それどころか今だって、この家の食事や生活用品まで、全部紗綾が用意してくれてる。うちは家族全員、あの子に借りがあるんだ。そんな紗綾を、あんたはどうして傷つけていいと思うんだい?」その言葉を聞き、周平はゆっくりと、これまでの日々