彼女はドア枠にぶつかる。それでも、足を止めない。そのままリビングへ向かう。リビングのダイニングテーブルには、すっかり冷え切ったままの角煮が置かれている。表面には白い脂が固まり、硬い膜のようになっている。醤油の色は黒ずみ、まるで乾いた血のようだ。父が部屋から飛び出してくる。呆然としている妻を見る。母を引き止めようと、一歩踏み出す。その瞬間。父の足が止まる。両手で胸を強く押さえる。顔が一瞬で紫色に変わる。目が白目をむく。喉からガッ、ガッと、首を絞められた鶏のような音が漏れる。必死に息を吸い込む。額には青筋が一本、また一本と浮かび上がる。そして――まるで根元から切り倒された木のように。父の体が、真っすぐ後ろへ倒れていく。ドンッと、後頭部がリビングの硬い床に激しく叩きつけられる。救急車のサイレンが、静まり返った住宅街を切り裂く。赤と青の警告灯が、激しく明滅している。医師と看護師が担架を抱えて階段を駆け上がってくる。意識を失った父を担架に乗せ、そのまま運び下ろしていく。母は呆然としたまま、その後ろをついていく。綾音も自分で車椅子を動かし、必死にエレベーターへ乗り込む。市立病院。救急処置室の赤いランプが灯る。しばらくして、医師が何枚かの書類を手に出てくる。「急性の脳出血です。かなり危険な状態です。すぐに手術が必要になります。ご家族は、まず五十万円の入院保証金をお支払いください」医師は書類を母に渡すと、すぐに処置室へ戻っていく。母は手元の支払い用紙を見つめる。そして、自分の体を慌てて探る。家を飛び出してきたため、バッグを持っていない。手元にあるのは、スマホだけだ。母はスマホを開き、ネットバンクのアプリを起動する。口座からお金を引き出そうと、残高を確認する。その瞬間。母の動きが止まる。口座に、見覚えのない入金がある。――百万円。振込日時は、今日の未明。振込名義には、フードデリバリー月次精算と表示されている。母の指が、画面の上で止まる。ふと、先ほど警察官から渡された袋を思い出す。ポケットから、画面が粉々に割れたスマホを取り出す。生前の私が、最後まで胸に抱えて守っていたスマホだ。母は指紋認
Read More