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私の死に、両親は遅すぎた後悔を

私の死に、両親は遅すぎた後悔を

By:  草原の晴天Completed
Language: Japanese
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五歳のとき、交通事故に遭い、姉の早田綾音(そだ あやね)は私を助けるために両脚を失った。 あの日から、両親が私に一番よく言う言葉は、いつも同じだった。 「お姉ちゃんの人生は、あなたのせいでめちゃくちゃになったのよ」 私は名門大学に合格する。すると綾音は部屋に閉じこもり、一晩中泣き続ける。 母は目を真っ赤にして、私の合格通知書をビリビリに破り捨てる。 「お姉ちゃんが歩けるようになってから、もう一度受験しなさい」 それから私は、毎日16時間も配達の仕事をする。稼いだお金は、一円残らず綾音のリハビリ費用のために貯める。 お腹が痛くて腰を伸ばせないほど苦しんでも、両親は私を責める。綾音がサプリメントを食べてるのが羨ましくて、仮病を使ってるんだろうって。 私はこっそり病院へ行く。診断書には、こう書かれている。 ――重度の貧血、骨盤内炎症、胃潰瘍。 薬をもらうには五千円以上かかる。けれど、私にはそんなお金を出せない。 私は思う。まずは綾音のために膝サポーターを買えるだけのお金を貯めよう。自分の薬は、そのあとでいい。 けれど、大雨が降ったあの日、配達に遅れるのが怖くて、私は赤信号を無視して交差点へ飛び込む。そして、ダンプカーに撥ね飛ばされる。 雨の中に倒れた私は、手の中に買ったばかりの膝サポーターを握りしめている。けれど、もう二度と、自分の手で綾音に渡すことはできない。

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Chapter 1

第1話

再び目を開けたとき、私はもう宙に浮かんでいた。

ふと下を見ると、家の食卓には三品のおかずと味噌汁が並んでいる。

私は玄関のドアを開けようとする。

けれど、指先はそのまま防犯ドアをすり抜けてしまう。

私は呆然とする。

そこでようやく気づく。私は、もう死んでいる。

母はキッチンで忙しそうに料理をしている。

エプロンを外し、出来上がった豚の角煮を乗せた皿を持って出てくる。

湯気が立ち上っている。

母はそれをテーブルの真ん中に置く。

「愛理(あいり)は角煮が好きだから。今日はわざわざ作ったの」

私は母の顔を見つめる。

母がこんなに優しい声で私の名前を呼ぶのは、これが何年ぶりだろう。

最後にそう呼ばれたのは、13年前。

あの日、私は5歳だった。

市場は人でごった返していた。

私は母の手を振りほどき、道路の向こう側へ走り出す。

そのとき、一台のトラックが突っ込んでくる。

耳をつんざくようなブレーキ音。

綾音が後ろから飛び込んできて、私を思いきり突き飛ばす。

その代わり、綾音自身が車輪の下に倒れる。

病院の廊下は、ひどく冷たい。

母は処置室の前に跪き、声を上げて泣き続けている。

やがて医師が出てきて、静かに首を横に振る。

「両脚を残すのは難しいでしょう」

母は振り返り、私を睨みつける。

その目は真っ赤に充血している。

そして私の肩を力いっぱい掴む。爪が肉に食い込む。

「愛理。お姉ちゃんの人生は、あなたのせいでめちゃくちゃになったの。

忘れないで。

これから一生、あなたはお姉ちゃんに借りがあるんだから」

この言葉を、母は13年間、ずっと私に言い続けてきた。

そして13年後の今日、母の顔からは、あの憎しみが消えている。

母は壁に掛かった時計を見上げる。

そこへ父が箸を四膳持ってやってくる。

箸を並べながら、ため息をつく。

「愛理、このところずっとお腹が痛いって言ってるよな。

俺たち、本当にあの子が仮病だって決めつけるの、もうやめたほうがいいんじゃないか?」

母は椅子を引いて腰を下ろす。

「確かに、顔色が全然ないものね。

今日はわざわざスペアリブを買ってきたの。帰ってきたら、ちゃんと食べさせてあげよう」

二人は玄関を見つめ、私がドアを開けて帰ってくるのを待っている。

けれど、私はもう二度と帰ってこない。

私は食卓に置かれたスペアリブを見つめながら、半年前のことを思い出す。

あの日、私は名門大学の合格通知を手に、家へ帰った。

私だって、家族がこんなふうにご馳走を並べて、合格を祝ってくれると思っていた。

けれど、綾音は私の合格通知を見た途端、自分の部屋に閉じこもってしまう。

部屋の中からは泣き声と、物を叩きつける音が聞こえてくる。

「これからは、大学に受かった愛理ばっかり可愛がるんでしょ!」

母は綾音の部屋の前に立ち、目を真っ赤にしている。

そして振り返ると、私のところへ歩いてくる。

母は、私が手にしている合格通知をじっと見つめる。

そして手を伸ばし、ひったくる。

――ビリッ。

合格通知は、何度も何度も引き裂かれ、ばらばらに裂かれていく。

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第1話
再び目を開けたとき、私はもう宙に浮かんでいた。ふと下を見ると、家の食卓には三品のおかずと味噌汁が並んでいる。私は玄関のドアを開けようとする。けれど、指先はそのまま防犯ドアをすり抜けてしまう。私は呆然とする。そこでようやく気づく。私は、もう死んでいる。母はキッチンで忙しそうに料理をしている。エプロンを外し、出来上がった豚の角煮を乗せた皿を持って出てくる。湯気が立ち上っている。母はそれをテーブルの真ん中に置く。「愛理(あいり)は角煮が好きだから。今日はわざわざ作ったの」私は母の顔を見つめる。母がこんなに優しい声で私の名前を呼ぶのは、これが何年ぶりだろう。最後にそう呼ばれたのは、13年前。あの日、私は5歳だった。市場は人でごった返していた。私は母の手を振りほどき、道路の向こう側へ走り出す。そのとき、一台のトラックが突っ込んでくる。耳をつんざくようなブレーキ音。綾音が後ろから飛び込んできて、私を思いきり突き飛ばす。その代わり、綾音自身が車輪の下に倒れる。病院の廊下は、ひどく冷たい。母は処置室の前に跪き、声を上げて泣き続けている。やがて医師が出てきて、静かに首を横に振る。「両脚を残すのは難しいでしょう」母は振り返り、私を睨みつける。その目は真っ赤に充血している。そして私の肩を力いっぱい掴む。爪が肉に食い込む。「愛理。お姉ちゃんの人生は、あなたのせいでめちゃくちゃになったの。忘れないで。これから一生、あなたはお姉ちゃんに借りがあるんだから」この言葉を、母は13年間、ずっと私に言い続けてきた。そして13年後の今日、母の顔からは、あの憎しみが消えている。母は壁に掛かった時計を見上げる。そこへ父が箸を四膳持ってやってくる。箸を並べながら、ため息をつく。「愛理、このところずっとお腹が痛いって言ってるよな。俺たち、本当にあの子が仮病だって決めつけるの、もうやめたほうがいいんじゃないか?」母は椅子を引いて腰を下ろす。「確かに、顔色が全然ないものね。今日はわざわざスペアリブを買ってきたの。帰ってきたら、ちゃんと食べさせてあげよう」二人は玄関を見つめ、私がドアを開けて帰ってくるのを待っている。けれど、私はもう二度と帰ってこない。
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第2話
紙切れが、床にぱらぱらと落ちていく。「愛理。お姉ちゃんが歩けるようになってから、もう一度受験するってことでいいでしょう?」母は目を真っ赤にして、私に尋ねる。私は何も言わない。しゃがみ込み、床に散らばった紙切れを一枚ずつ拾い集める。泣かなかった。あの日から、私は二度と大学の話をしなくなる。リビングは静まり返っている。両親は廊下に背を向けている。「これからは、愛理にももう少し優しくしてあげよう」母が声を潜める。そのとき――ギィと、車椅子がフローリングの上を進む音が突然響く。両親が勢いよく振り返る。綾音が、いつの間にか部屋から車椅子を押して出てきている。二人の顔色が変わる。さっきの会話を綾音に聞かれて、また怒らせてしまったと思ったのだろう。母は慌てて立ち上がり、気まずそうに口を開く。「綾音、お母さんはそういう意味じゃ……」綾音は俯いたまま、何も言わない。怒ることもなく、自分で車椅子を動かしてテーブルのそばまで来る。そして、テーブルの上のスペアリブを見つめ、ふいに口を開く。「これからは、私のことばかり気にしなくていいよ」両親は呆然とする。綾音は顔を上げ、テーブルの上の料理を見つめる。「愛理は毎日、夜中まで配達してる。私なんかより、ずっと頑張ってる。これからは、もっとあの子のことを気にかけてあげて」父は眼鏡を外し、目元を揉む。そして、力強く頷く。母は背を向け、テーブルを見ないようにしながら、こっそり涙を拭う。私は部屋の入り口に立ち、綾音を見つめている。こんなに長い間、綾音が私のために口を開いてくれたのは、これが初めてだ。私は綾音のところへ行きたい。そして言いたい。――お姉ちゃん、私は全然つらくないよ。私は口を開く。けれど、声が出ない。ようやくこの家族が、私に優しくしようとしてくれている。でも私はもう、大雨の中で死んでしまった。綾音のリハビリ費用を貯めるため、私は配達の仕事を始める。毎日、16時間走り続ける。一円たりとも無駄に使いたくない。生理中でさえ、生理用品を買うのを惜しむ。安いトイレットペーパーを何重にも折りたたみ、下着に詰める。配達中、粗い紙が何度も擦れる。太ももの内側の皮膚は擦り切れてしまう。
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第3話
私は薬の受け取り窓口へ向かう。画面に金額が表示される――5500円。ポケットに手を入れる。すべてのポケットを探ってみても、入っているのは1050円だけ。私は列から抜ける。病院の隅まで歩いていく。診断書をきれいに折りたたみ、ズボンのポケットにしまう。そして病院を出る。冷たい風が頬を撫でる。私は、数日前に綾音が言っていたことを思い出す。冬になると、脚がひどく痛むらしい。綾音は、ヒーターが内蔵された輸入品の膝サポーターを欲しがっている。ずっとその話をしていた。私は自分に言い聞かせる。先に綾音の膝サポーターを買おう。それを買い終わったら、自分の薬を買えばいい。母はスマホを置く。父を見て、首を横に振る。「出ないわ」綾音が眉をひそめる。自分のスマホを操作しながら、ぽつりと呟く。「愛理、今日はまだ連絡してこない」声はひどく小さい。「いつもなら、配達に出たら写真を送ってくれるのに」リビングの空気が変わる。まるで突然、時間まで凍りついたようだ。テーブルの上では、スペアリブがまだ湯気を立てている。誰も箸をつけない。父はもう一度椅子に腰を下ろす。母はスマホの画面をじっと見つめている。綾音は車椅子の手すりを両手で強く握っている。私は食卓のそばに立っている。不安に曇った三人の顔を見つめる。私は手を伸ばし、母の髪に触れようとする。けれど、その手は何もない空気をすり抜ける。この半月、私は毎日お金を計算している。ヒーター付きの膝サポーターを買うために。朝は冷たいパンを二つだけ持って家を出る。昼は何も食べない。夜は帰宅して、カップ麺を一杯だけ食べる。毎日の食費を切り詰める。携帯代の支払いも先延ばしにする。冬を越すために持っていた唯一の厚手のゴム靴まで売る。それで数千円を手に入れる。そうして、持っているお金をすべてかき集める。それでも、膝サポーターの値段には少し足りない。私は診断書を取り出して、一度だけ目を通す。そして、またポケットにしまう。もう少しだ。膝サポーターを買ったら、薬をもらいに行こう。四日前の夜10時。私は仕事を終えて帰宅する。お腹が、まるで刃物で抉られているように痛む。腰を曲げ、
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第4話
外は真っ暗だ。薄暗い街灯と、雨が上がったばかりで濡れた路面だけが見える。それ以外には、何もない。綾音は唇が白くなるほど、きつく噛みしめている。そして自分の脚を見下ろす。「今日はずっと右脚が痛いの」声が少し震えている。「前に痛くなったときは、愛理がいつも早めに帰ってきてくれた。揉んでくれたのに……今日はまだ帰ってこない」リビングは、死んだような静寂に包まれている。三人とも、何も言わなくなる。聞こえるのは、壁に掛かった時計の針が刻む、カチ、カチという音だけ。私は食卓のそばに立っている。二度も冷めてしまったスペアリブを見つめる。私はそれを持ち上げようとする。綾音の前に置いてあげたい。そして言いたい。――お姉ちゃん、先に食べて。私のことなんて待たなくていいよ。けれど、その器に触れることすらできない。今日は台風が直撃し、市内は記録的な大雨に見舞われている。私は破れ目のあるレインコートを着て、配達の依頼を受けるために外へ出る。雨水が襟元からどんどん入り込んでくる。お腹がまた、激しく締めつけられるように痛み始める。私はバイクを路肩に停める。電柱にもたれながら、母に電話をかける。「お母さん、今日はお腹がすごく痛いの。腰を伸ばすのもつらいくらい。今日は少し配達を減らして、早めに帰って休んでもいい?」電話の向こうから、スプーンが器に当たる音が聞こえる。母は綾音のためにお粥を作っている。「綾音、ほら。熱いうちにお粥を食べなさい」それから、母は電話口に向かって言う。声は冷たい。「愛理、お姉ちゃんも今日は脚がひどく痛むのよ。もう言い訳はいいから、もう少し配達してきなさい。リハビリ器具のお金、あと二万円足りないんだから」私はスマホを握る手に力を込める。胃から酸っぱいものが込み上げてくる。少し黙ってから、私は答える。「分かった。もう少し走ってくる」私は電話を切る。そしてドアを開け、大雨の中へ戻っていく。雨粒が顔を叩きつけ、ひりひりと痛む。胃の激痛で、視界が少しずつぼやけていく。それでもバイクを走らせながら、頭の中で必死にお金を計算する。今夜、この三件を終わらせる。それに今まで貯めたお金を足せば――膝サポータ
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第5話
父の手が突然大きく震える。手に握っていたおたまが、音を立てずに滑り落ちる。カタンと乾いた音を立てて、角煮の入ったスープ鉢に落ちる。油のしずくが何滴か跳ねる。スマホも、彼の手から滑り落ちる。食卓の上に、重たい音を立ててぶつかる。父の顔色が、一瞬で真っ白になる。まるで、一瞬で十歳も歳を取ったかのようだ。母は、そのスマホをじっと見つめている。彼女の声は、かすれて宙を舞う。隠しきれない動揺と恐怖がにじみ出ている。「あなた……今……なんて?誰が……亡くなったの?」綾音は、車椅子のアームレストを握る指の関節が、真っ白になるほど力が入る。私は食卓の傍に立ち尽くしている。テーブルの上の、だんだん冷めていく角煮を見つめる。手を伸ばしてみるけど。何も掴めない。市立病院の廊下はとても長い。白い蛍光灯が、チカチカと明滅している。消毒薬の匂いが、空気の中に濃く漂う。父は、先頭を歩く。その歩みはどんどん遅くなる。革靴がタイルの上を踏みしめて、鈍い音を響かせる。彼は突然、立ち止まった。手を伸ばし、冷たい壁にすがりつく。両脚は、ひどく震えている。もう、歩けそうにない。母は、そんな父の背中を追い越して駆け抜ける。乱れた髪が頬に張り付き、ヒールの音が廊下に不揃いに響く。足元がもつれて、彼女は床に倒れてしまう。膝が固いタイルにぶつかり、鈍い音がする。母は痛みを訴えず、手足を使いながらすぐ立ち上がると、前へと駆け出していく。綾音は、いちばん後ろ。彼女は力いっぱい、車椅子の車輪を回す。車輪が床を滑るように進み、耳障りな軋み音を立てる。関節が真っ白になるほど、必死で動かしている。霊安室の扉は、鈍い鉄色。重く、閉ざされている。警察官がその前で待っていた。母は、彼に駆け寄り、制服の袖を掴む。彼女は口を大きく開けて、息を荒くしているのに、声がまったく出ない。警察官は静かに、深くため息をつく。重い鉄扉を押し開けると、冷たい空気が流れ込んでくる。私は、天井の辺りにふわふわと漂っている。みんなが冷たい部屋に入っていくのを、ぼんやりと見ている。部屋の中央には、ステンレス製のストレッチャーが一台ぽつんと置かれている。その上には、白い布がかけ
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第6話
父は震える両手を伸ばす。その証拠品袋を受け取る。袋は軽い。なのに、まるで千斤もの重さがあるように感じる。彼は震える手で封を破る。中から、血の付いたビニール袋を取り出す。ビニール袋は何重にも包まれている。厳重に、何重にも。父は震える手で、一枚ずつ包みをほどいていく。一番奥から出てきたのは、傷ひとつない紙箱だった。箱には外国語が印刷されている。箱はきれいなままで、雨水は一滴も付いていない。血も一滴たりとも付いていない。父が紙箱を開ける。中には、新品の輸入品の膝サポーターが入っている。中敷きには、発熱シートまで仕込まれている。その下には、くしゃくしゃになったレシートが一枚押し込まれている。レシートに記された金額は、二万円だった。綾音は、車椅子に座っている。その視線は、膝サポーターに釘付けになる。瞳孔が大きく収縮する。綾音には、それが何なのか分かる。半月ほど前、何気なく足が痛いとこぼしたときに、欲しいと言っていた、あの膝サポーターだ。あのとき綾音は、スマホの画面を見ながら、何気なく一言つぶやいただけだった。まさか私が聞いているなんて、思ってもいなかった。母は、床に座り込んでいる。彼女はその膝サポーターを見つめ、ぼうっとしている。そして、数時間前のことを思い出す。外は、記録的な大雨だった。私は電話越しに訴えていた。お腹が痛くて、早く帰りたいと。あのとき、母は私になんと言った?電話越しに、冷たい声で。「もう言い訳はいいから、もう少し配達してきなさい。リハビリ器具のお金、あと二万円足りないんだから」母の体が激しく震え始める。突然、彼女は膝サポーターへと飛びつく。そして、それを胸に強く抱きしめる。顔を膝サポーターに埋め、獣のような声を上げて泣き叫ぶ。「愛理……お母さんが悪かった……もうリハビリ器具なんていらない……起きてよ……起きて、お願いだから……お母さんを一度でいいから罵ってよ!」涙も鼻水も、新品の膝サポーターにこすりつけられていく。私はその頭上に浮かんでいる。そんな光景を、冷めた目で見つめている。心には、何の波も立たない。ただ、うるさい。母の泣き声が少し落ち着くのを待って、交通課の警察官がもう一
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第7話
彼は診断書を手に取り、一目見る。それからパソコンのキーボードを何度か叩く。「ああ、この子か」医師は眼鏡を押し上げる。その口調はいたって穏やかで、ただ事実を告げているだけだ。「よく覚えていますよ。半月ほど前に一度、ここへ来ています。この子は、体を酷使しすぎています。顔色なんて、まるで死人のようでした。そのときも、すぐに薬を飲まないといけない、これ以上放置したらダメだと伝えました」父は、机の端を指が白くなるほど強く握りしめる。「それで……あの子は、薬を受け取ったんですか?」医師は首を横に振る。そして、ため息をつく。「薬は処方しました。全部合わせても、5500円ぐらいです。ところが、彼女は処方箋を持ったまま、会計窓口の前にずっと立っていました。私は見ていました。彼女はポケットというポケットを全部ひっくり返していたんです。最後には、小銭をかき集めて、何度も数えていました。それでも、五千円すら出せなかったんです」医師はパソコンの画面を見ながら、話を続ける。「結局、支払いはしませんでした。処方箋を折りたたんでポケットにしまい、そのまま帰っていったんです。私も追いかけて、薬を受け取りに戻ってくるよう声をかけました。すると彼女は振り返って、『先にお姉ちゃんの膝サポーターを買うために、お金を貯めないといけないんです』と言いました。『膝サポーターを買い終わったら、薬を取りに来ます』と」医師は振り返り、父を見る。「それから、二度と診察には来ませんでした。どうしたんです?今になって病状が悪化したんですか?ご家族にも言っておきますが、子どもの体をここまで放っておくのは……」医師が言い終えるより先に、父が突然、手を振り上げる。バシン!凄まじい音が診察室に響く。父は、自分の頬を思いきり張っている。力の限り叩いた一発だった。半分の顔が一瞬で赤く腫れ上がる。口元から、血が一筋にじむ。医師は呆然とする。立ち上がり、どうしていいのか分からないまま父を見つめる。バシン!また、大きな音が響く。父は反対の手でもう一度、自分の頬を張る。両脚から力が抜け、その場に跪く。冷たい診察室の床に膝をついたまま、額を何度も床へ叩きつける。「俺は……人
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第8話
父は手探りで壁のスイッチを押す。頭上の薄暗い電球が二度ほど点滅し、ようやく明かりが灯る。光は弱い。部屋は狭く、身体の向きを変えるのもやっとだ。壁際には、硬い板張りのベッドが一台置かれている。その上には、すっかり硬くなった古い掛け布団が一枚敷かれている。衣類をしまうタンスもない。隅には、ぼろぼろの段ボール箱がいくつか積まれている。その上には、何度も洗濯して色あせた配達員の制服が二着、無造作に置かれている。ここが、私が十年以上暮らしてきた場所だ。この家で私は、まるで日の当たる場所に出ることすら許されない影のように生きている。母が、よろめきながら入ってくる。ベッドのそばまで歩く。そして、脚から力が抜け、その場に跪く。俯いた視線の先に、ベッドの下の暗がりが見える。母は手を伸ばし、ベッドの下を探る。そして、大きな黒いゴミ袋を引っ張り出す。袋の口は、固結びでぎゅっと縛られている。母は力任せに袋を破り開ける。中から出てきたのは、何本ものトイレットペーパー。一番安くて、粗末なばら売りの紙だ。包装すらされていない。紙は黄ばんでいて、触れると紙やすりのようにざらついている。すでに半分ほど使われたロールもある。それが袋の中に乱雑に積まれている。母の手が、ぴたりと止まる。使いかけのロールを、彼女は呆然と見つめる。震える指で、その血痕に触れる。そして、数時間前のことを思い出す。あの冷たい遺体安置室で。白い布をめくり、私の太腿の内側にある、血肉がむき出しになった傷を見た。そのときようやく、母はあの傷がどうしてできたのかを理解する。私は、生理用品を買うお金すら惜しんでいた。毎月、生理になるたびに、安いトイレットペーパーを当てて過ごしている。電動自転車に乗り、街中を十数時間も走り回る。血と汗が混ざる。紙との摩擦で皮膚が擦り切れる。私は道端に自転車を止め、歯を食いしばりながら袖で血を拭い、それでもまた配達へ戻っている。母は血の付いたトイレットペーパーを握りしめる。口を開く。喉の奥から掠れた息が漏れる。その紙を胸に強く押し当てる。涙が、埃まみれの床に次々と落ちていく。そこへ、綾音が一人で車椅子を押しながら入ってくる。車椅子の車輪
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第9話
綾音が最後の一行を読み終える。その声は完全に掠れている。彼女は勢いよく日記帳を閉じる。両手で顔を覆い、肩を激しく震わせる。母は床に跪いている。日記に綴られた内容を聞きながら、突然手を振り上げる。そして、自分の頬を力いっぱい叩く。「お母さん……愛理が仮病だなんて、言うべきじゃなかった……抱きしめてあげる……今すぐ抱きしめてあげるから……」母は何もない空間に向かって、両手をめちゃくちゃに伸ばす。何かを掴もうとするように。私は天井の下を漂っている。狂ったような彼女の姿を見つめる。何もない空間を抱きしめようとする、その仕草を見つめる。私は冷たい目でそれを見ている。生きている間は、私に一度だって目を向けようとしなかったくせに。死んでから、こんなに涙を流して何になるというのだろう。綾音は顔を覆っていた手を下ろす。そして日記帳を膝の上に置く。閉じようとした、そのとき。指がふと止まる。日記帳の裏表紙、その隙間に何か硬いものが挟まっている。少し厚みがある。彼女は隙間に指を入れ、ゆっくりとそれを引き抜く。それは透明なクリアファイルだった。中には一枚の厚紙が入っている。綾音はその厚紙を取り出す。薄暗い部屋の明かりが紙面を照らす。そこには光が反射している。何重にも貼り重ねられた、無数の透明テープ。そのテープの下には、無数の紙片がある。細かな紙片を、一つ一つ丁寧につなぎ合わせている。隙間など一つもない。引き裂かれた一つ一つの断面まで、きれいに合わせてある。赤い印章も、完全につながっている。太字の黒い文字も、きちんと読める。それは、あの名門校の合格通知書。私の合格通知書だ。三か月前。母は綾音の部屋の前に立っていた。そして私の手から、この合格通知書を乱暴に奪い取る。私の目の前で、何度も何度も引き裂いた。紙片が床一面に散らばる。そのあと私は床に跪く。散らばった紙片を、一枚ずつ拾い集める。そして、この窓のない部屋に閉じこもる。一晩かけて。一本の透明テープを使い、少しずつ、少しずつ元に戻していく。紙には、乾いた水滴の跡がいくつも残っている。私の涙が落ちて、テープの端にあった文字を滲ませた跡だ。綾音は、継ぎ
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第10話
「あなたたちは、愛理を道徳で縛った。私まで縛った!」綾音は、床に落ちている血のついたトイレットペーパーを指差す。「これが何なのか、ちゃんと見て!私たち家族は、愛理に寄生して、血を吸い続けていた化け物よ!私たちが……みんなで愛理を殺したのよ!私たちは全員、人殺しよ!」その言葉は。何度も何度も、両親の頭を叩き潰すような重い衝撃となって落ちる。父は二歩、後ずさる。背中がドア枠にぶつかる。唇が震えている。それでも、一言も声が出ない。父はずっと、綾音が私を憎んでいると思っていた。私を我慢させ、犠牲にするのは、綾音のためだと思っていた。けれど――違う。すべては、両親が自分たちを正当化するための、身勝手な言い訳だった。ただ、家の中に溜まった苦しみも重圧も、誰からも愛されていない私にぶつけることに慣れていただけだ。母は床に這いつくばっている。綾音が崩れ落ちる姿を見つめる。そして、何度も継ぎ合わせた大学の合格通知書を見る。その瞬間、母の心を守っていた最後の壁が、完全に崩れ落ちる。彼女は床に伏せたまま、何度もえずく。胸の奥に溜まった後悔を、全部吐き出そうとする。けれど、何も吐き出せない。突然。小さな振動音が、部屋を覆っていた死のような静寂を破る。ブー……ブー……音は、母のポケットから聞こえてくる。母はえずくのをぴたりと止める。震える手をポケットに入れ、スマホを取り出す。画面が光っている。新着メッセージの通知だ。母が画面を開く。そこには、未再生の留守番電話が一件。発信者は――私の携帯番号。時刻は、昨夜10時15分。ちょうど私が交差点でダンプカーに撥ね飛ばされる、一分前だ。母の手は、スマホを落としそうなほど激しく震えている。親指が画面の上で止まる。なかなか、再生ボタンを押せない。父と綾音も、画面を食い入るように見つめている。部屋の空気が、まるで凍りついたように動かない。母はごくりと唾を飲み込む。目を閉じる。そして、震える指で再生ボタンを強く押す。スマホのスピーカーから流れる音量は、かなり大きい。最初に聞こえてくるのは、耳を刺すようなノイズ。続いて、激しく吹き荒れる風雨の音。風があまりにも強く、マイクが「ゴ
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