Home / 遠距離恋愛の賞味期限 / Chapter 1 - Chapter 10

All Chapters of 遠距離恋愛の賞味期限: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話  私の居場所を決める人

グループを抜けて三分後、怜司からメッセージが届いた。『グループに戻って』なぜ抜けたのかも、私が傷ついたかどうかも聞かない。続けて、もう一通。『取引先も社員もいるんだ。今日くらい、面倒を起こさないでくれ』私は会場となったホテルの車寄せに立っていた。時刻は午前零時を過ぎている。八月の東京は夜になっても蒸し暑く、降り始めた雨がガラス扉を白く曇らせていた。仙台の店を閉めたあと、残務を副店長に頼み、最終一本前の新幹線に飛び乗った。朝から、まともに何も口にしていない。それでも怜司の晴れ舞台を、この目で見たかった。せめて一言、「来てくれてありがとう」と言ってほしかった。スマートフォンが再び震える。『怜司、かなり飲んでるから私が送っていくね。紬さんは、どこか泊まれるところを探して』送信者は沙耶だった。まるで彼女が身内で、五年付き合った私は指示を待つだけの部外者だった。怜司に電話をかけた。長い呼び出し音のあと、ようやく低い声が返ってくる。「どうした?」背後で車のドアが閉まった。「怜司、ジャケット着て。車内、冷えてるから」沙耶の声が近い。キャリーケースの持ち手を握り直した。「上場したら、東京のマンションで一緒に暮らそうって言ったよね」二秒ほど沈黙があった。「沙耶は明日の記者対応もある。ここ二か月、残業で終電を逃すことが多かったから、ゲストルームを使わせている」「じゃあ、私は?」「急に来られても困る。今夜はホテルに泊まってくれ」あの部屋のソファも、カーテンも、ダイニングテーブルも、二人で選んだ。私が東京へ異動できたら、そこから結婚生活を始めようと怜司は言った。けれど、私より先に暮らし始めたのは沙耶だった。「ここは満室だって」私が言うと、沙耶がすぐに答えた。「今日は関係者が大勢来てるから、この辺りはどこも満室よ。先に私へ聞いてくれれば、押さえておいたのに」どうして恋人に会いに来るのに、彼女の許可が必要なのだろう。怜司が疲れたように息を吐いた。「ロビーで待っていて。車を手配する」「怜司は?」「沙耶が胃痛を訴えている。念のため病院に連れていく」――三か月前、私は閉店作業中に倒れ、仙台の夜間救急で一人、点滴を受けた。怜司に四度電話したが、出なかった。翌朝届いたのは、短い一文だけ。『緊急なら三人のLINEに入れて。
Read more

第2話 玄関にあった女の靴

朝八時半、怜司のマンションを訪ねた。暗証番号は、今も彼の誕生日だった。玄関には、見覚えのないベージュのパンプスがあった。去年、私が送ったルームシューズは消え、代わりに色違いのスリッパが二足、きれいに並んでいた。キッチンには、温められたままのオートミールが残っていた。冷蔵庫には、丸い文字の付箋が貼られている。『朝ごはん、毎日ちゃんと食べてね。沙耶』怜司が寝室から出てきた。白いシャツのボタンが、一つずれている。私を見るなり、彼は腕時計に目を落とした。「会社で待つように言ったはずだけど」「荷物を置きたかったの」「機密資料が増えている。今は置く場所がない」ゲストルームの扉が少し開いていた。ドレッサーには化粧水と香水。クローゼットには、沙耶のジャケットやワンピースが隙間なく掛かっている。私はゲストルームを指さした。「これはどういうこと?一時的に泊めているだけだって言ったよね」「……」「いつから?」「二か月前から」二か月前。新居は片づいたのか、写真を一枚だけでも見たいと私が頼んだ頃だ。怜司は忙しいと言って、返事さえくれなかった。洗面台には、同じブランドの歯ブラシが二本、ひとつのスタンドに並んでいた。「それまで確認するのか」怜司の声が低くなる。「僕と沙耶に何かあるなら、君との関係はとっくに終わっている」彼は、身体の関係さえなければ、どれほど自分の生活に入り込ませても、裏切りにはならないと思っているらしい。そのとき、玄関の電子錠が解除される音がした。沙耶が朝食の入った紙袋を提げて入ってきた。迷いもなくベージュのスリッパに履き替えた。「紬さんもいたの?ごめんなさい、朝食は二人分しか買ってないわ」怜司が袋を受け取る。中には、人気店のフレンチトーストと、アボカドとチキンのサンドイッチが入っていた。怜司はフレンチトーストを沙耶に差し出した。「紬は甘いものが苦手だから。沙耶は甘いもの、好きだろ?」一瞬、何を言われたのか分からなかった。私は甘いものが好きだ。書店の休憩室には、いつも小さな羊羹を置いている。甘いものを避けているのは、沙耶のほうだ。沙耶の表情が一瞬こわばった。けれど、すぐに小さく笑った。「昨日から働き通しだもの。怜司も混乱するわよね」午前中、怜司の両親が住む世田谷の家へ向かった。玄関が開くと、沙耶
Read more

第3話  彼は迷わず答えた

その翌日、怜司は部屋探しに付き合うと約束した。午前十時、吉祥寺の不動産会社で待っていた。十時半、取締役会が延びていると連絡が来た。十一時、もうすぐ終わると言った。正午、沙耶から一枚の写真が届いた。『資料を運んでいて足をひねっちゃった。大したことないのに、怜司が病院へ行こうって聞かなくて』写真の隅で、怜司は沙耶の前にしゃがみ、外れかけたパンプスのストラップを留めていた。スマートフォンを伏せ、一人で短期賃貸の契約をした。マンションへ戻ると、エントランスに古書買取業者のワゴンが停まっていた。箱には、私の名前が書かれている。「それ、私の荷物です」作業員は驚いて、手元の回収票を確かめた。「お部屋にいらした女性から、本と雑貨をまとめて買い取ってほしいと伺っています」箱の中には、母が編んでくれたカーディガンと、怜司と初めて旅行した日に買ったマグカップが入っていた。その下から、角の潰れた古い児童書が出てきた。幼い頃、父が毎晩読んでくれた絶版本だった。見返しには、父の字で私の名前が書いてある。値段などつけられるはずのない、私の一冊だった。帰宅した沙耶の前に、その本を置いた。「私の箱を、どうして勝手に買い取りに出したの?」「納戸を撮影用の衣装置き場にしたかったの。ずっと置いたままだったから、要らない物だと思って」「箱には私の名前が書いてあった」彼女は足首をさすりながら、軽く肩をすくめた。「見落としたのは謝るわ。でも、もう取り戻せたんでしょう?」「戻ってくればいいという問題じゃない。持ち主に確認もせず、父の形見を手放そうとしたことを言ってるの」「そんな事情、知らなかったのよ。結局、何もなくしていないじゃない」沙耶には、私がなぜ怒っているのか本当に分からないようだった。そこへ怜司が帰ってきた。事情を聞いた彼は、まず沙耶に足の具合を尋ねた。そのあとで、ようやく私を見る。「上場前から会社の荷物も大量に届いていた。沙耶だって、わざとやったわけじゃない」「わざとかどうかを聞いてるんじゃない」「もう戻ってきたんだから、いいだろ。仮に本当に無くしたとしても、こちらで同じ本を探すから」「そういう問題じゃない」怜司はうんざりしたように息を吐いた。「沙耶も謝ってる。これ以上、何を求めてる?」沙耶が目を伏せる。「私が出ていけばいいのよね」
Read more

第4話 最後のチャンス

怜司を信じるのは、今日で最後にしよう。そう決めた。期待していたわけではない。ただ、自分の心にまだ迷いが残っているのか、確かめたかった。朝、母が仙台から東京へ来た。異動に必要な書類と、季節の変わり目に着る服を届けるためだった。その日は、社員と家族を招いた上場記念の懇親会が開かれる予定だった。母は朝四時に起き、手土産のずんだ餅まで用意していた。「挨拶だけしたら、すぐ帰るからね」母は何度もそう言った。LUMINO本社が入る表参道のビルに着くと、懇親会の受付で止められた。「恐れ入ります。招待者名簿にお名前がございません」母は困ったように私を見る。「私は神谷さんの……」その先を言えず、口を閉じた。五年付き合っていても、婚約はしていない。母は怜司にとって、ただの恋人の母親でしかなかった。そのとき、品のいいスーツを着た女性が近づいてきた。沙耶の母親だった。受付スタッフはすぐに笑顔を向け、沙耶の母にゲストパスを手渡した。「橘様、お待ちしておりました。ご家族席へご案内いたします」沙耶の母は、母が抱えた紙袋を眺めた。「差し入れですか?」「相沢紬の母です」「ああ、こんにちは」沙耶の母は薄く笑った。「怜司さんのお母様から伺っています。娘さん、寂しがり屋さんなんですってね」母の指が、紙袋の持ち手を強く握った。私は母の肩を抱き、帰ろうとした。ちょうどエレベーターが開き、怜司が降りてきた。「どうして上がってこないんだ?」私は受付の名簿を指した。「どうして沙耶さんのお母さんは家族席で、私の母は名簿にもないの?」受付スタッフが戸惑ったように端末を見る。「橘部長から、ご家族として事前登録をいただいております」沙耶が怜司の後ろから現れた。「私が登録したの。母には創業した頃から手伝ってもらってきたから。紬さんのお母様が来るなんて、聞いていなかったわ」怜司は母から紙袋を受け取った。「名簿の手違いだろ。こんなところで騒ぐのはやめよう」母が慌てて首を振る。「いいんです。私が急に来たのが悪いんですから」母が自分を責めるほど、胸が痛んだ。昼は、三人で食事をするはずだった。料理が運ばれて間もなく、沙耶から怜司へ電話が入る。上場後初となる経済情報番組の収録直前に、過呼吸を起こしたらしい。怜司は椅子から立ち上がった。「行ってくる」
Read more

第5話 未読の向こう側

指輪と鍵を送った翌日、怜司は仙台の私の実家を訪ねた。後になって、母から聞いた話だ。母は、怜司を家に上げなかった。「紬はいません」「お母さん、紬はどこへ行ったんですか」「あなたには知らせたくないそうです」怜司の声がかすれた。「一度だけでいいんです。会って話をさせてください」母はしばらく怜司を見つめていた。「あの子があなたに会いたがっていたとき、あなたは会いに行きましたか?」返事を待たず、母は静かに扉を閉めた。そのあとのことは、金沢まで追ってきた怜司本人から聞いた。怜司がマンションへ戻ると、沙耶はすでに荷物の大半を運び出していた。怜司の姿を見ても、沙耶は気に留める様子もなく言った。「紬さんなら、数日もすれば怒りも収まるわ。今までだって、本気で離れたことなんてなかったでしょう?」怜司は答えなかった。キッチンへ入ると、薬の箱一つ一つに説明書きが貼られていることに気づいた。書斎の引き出しには、古い手帳も残っていた。遠距離になった最初の年、私が怜司のためにまとめた生活上の注意点だった。怜司はそのページを撮影して沙耶に送り、これからはこのとおりに声をかけてほしいと頼んでいた。やがて沙耶は、怜司の生活習慣を何もかも把握するようになった。そして怜司は、その習慣を最初に覚え、書き留めたのが誰だったのかを忘れた。怜司は、私とのトーク画面を開いた。千件を超える未読メッセージが、そこに残されていた。初めの頃、私は長い文章を送っていた。それが、やがて一言になった。最後には、体調や予定を気遣う短い連絡だけになった。最後に送った個人的なメッセージは、こうだった。『怜司、今日はつらいことがあったの。五分だけ、私の話を聞いてくれない?』返事はなかった。同じ時刻、怜司は三人のLINEで、沙耶が送った会議予定に返信していた。『了解。お疲れさま』怜司はその場に座り込み、午後から深夜まで、メッセージを一つずつ読み返した。母が病気になったこと。店で客と揉め事が起きたこと。昇進が決まったこと。私の喜びも、悔しさも、不安も、すべて未読のまま取り残されていた。そこへ、沙耶が扉を開けて入ってきた。「上場記念パーティーの振り返りを始めるわ。みんな待ってる」怜司は顔を上げた。「どうして、紬がこれほどメッセージを送っていたことを僕に知らせなかった?
Read more

第6話 消えていた境界線

怜司は東京へ戻らなかった。駅前のホテルからオンラインでLUMINOの会議に出席し、毎日決まった時間になると書店に現れた。朝食を欠かさず届け、雨の日には私の分の傘まで忘れずに持ってきた。搬入の人手が足りなければ段ボールを運び、作業が終わると黙って帰った。遠距離が長かったせいか、こうして毎日気にかけられることに、私は慣れていなかった。それでも私は、その優しさに意味を持たせないようにした。以前の私なら、彼の変化だけで心を動かされていただろう。今は、開店準備を手伝う一人として礼を言うだけだった。一週間後、バックヤードの入口で怜司を見つけた。壁に片手をつき、額には汗がにじんでいる。胃が痛むのだと、すぐに分かった。考えるより先に、身体が動いていた。救急箱から胃薬を取り出し、ぬるま湯と一緒に差し出す。「これ、飲んで」怜司は薬を受け取った。その目が、わずかに明るくなる。「まだ覚えてたんだな」「店で具合の悪い人がいたら、誰にでも同じことをする」その光は、すぐに消えた。「ありがとう」薬を飲み終えると、怜司は長居をせず、使ったコップを洗って元の場所に戻した。「昔は、君が体調を崩しても、次に埋め合わせればいいと思ってた」「でも今になって分かった。埋め合わせる機会は、いつまでも待ってくれるわけじゃないんだな」棚に触れていた私の指が、一瞬だけ止まった。それでも、何も答えなかった。その日の午後、沙耶が金沢へ来た。「満足した?」「怜司は私を仕事から外して、社内システムへのアクセス権も全部取り上げた」「それは私に言うことじゃない」「あなたがいなければ、こんなことにはならなかった」彼女は、スマートフォンの画面を差し出した。二年前、LUMINOの周年イベントで撮られた写真だった。酔ってソファで眠る怜司に、沙耶が口づけている。「これを見ても、私たちに何もなかったと思える?」胸の奥が冷えた。けれど、驚きはしなかった。「どうして今、見せるの?」「あなたさえ戻らなければ、最後に怜司の隣に残るのは私よ」彼女は笑っていたが、指先は震えていた。そこへ怜司が戻ってきた。沙耶の手からスマートフォンを取り上げた。「沙耶、もういい」「私、何か間違ったことを言った?」沙耶は目を赤くして怜司に詰め寄った。「私があなたをただの仲間として見ていないこと
Read more

第7話 彼女が書いた物語

騒ぎは、一本の記事から始まった。『上場企業の創業者、元恋人のために女性共同創業者を追放』匿名の投稿には、私が怜司との恋愛関係を利用し、LUMINOの女性共同創業者を追い出したと書かれていた。名前は伏せられていたが、仙台、金沢、新店責任者という情報が揃えば、特定は難しくない。開店前の書店には無言電話が続き、口コミ欄には星一つの評価が並んだ。店頭で動画を回す人まで現れた。本部から開業延期の可能性を告げられた。これは、私が金沢で初めて任された新店だった。二か月かけて準備し、スタッフ全員が開業の日を待っていた。沙耶はよく分かっていた。私を傷つける一番早い方法は、怜司を奪うことではない。私がようやく築き始めた新しい生活を、壊すことだ。怜司から電話がかかってきた。「一時間だけ時間をくれ」「あなたたちの問題で、店に迷惑をかけないで」「分かってる」一時間後、LUMINOがオンラインで記者会見を開いた。店の事務室で配信を開くと、会見場の壇上に怜司が立っていた。用意された原稿には目を落とさなかった。「記事で言及されている女性は、当社の人事にも元広報責任者の処遇にも一切関与していません」「橘沙耶を職務停止にしたのは、事実と異なる情報を無断で外部へ流し、会社の設備や情報を私的な目的で繰り返し利用したためです」記者が質問を重ねた。「橘氏は創業時からあなたを支えてきた方です。会社が成長した途端に切り捨てたという見方については?」怜司は会社の記録を画面に映した。「この三年間、給与も賞与も、職責に応じて支払っています」「上場は、誰か一人の功績ではありません。チーム全体の成果を、一個人の献身であるかのように見せてしまったのは、私の管理上の過失です」怜司は一度、言葉を切った。「最大の過ちは、相沢紬が私に向けてくれていた気遣いを、誰にでもできる些細なことのように扱ったことです」「彼女は、誰にも復讐していません」「ただ、私を見限っただけです」記者会見が終わると、世論の流れはすぐに変わった。店に押しかけていた人たちは、投稿した動画を削除した。中止寸前だった開業イベントも、予定どおり行われることになった。本部からは、私を引き続き金沢店の責任者とする正式な通知も届いた。麻衣たちからも、謝罪のメッセージが届いた。『沙耶の話ばかり信じてた』『紬にも事
Read more

第8話 雨音のあとで

新店の開業日は、朝から激しい雨だった。大雨の影響で在来線の一部が止まり、予定していた配送車も到着しない。エントランスに設置した看板の固定具まで風で外れかけ、スタッフの半分は足止めされていた。午前六時、搬入口に東京ナンバーのトラックが着いた。降りてきた運転手が、伝票を手に私の名前を確認した。「神谷様から個人名義で依頼を受け、御社の本部にも承認をいただいています。足止めされた便の代わりに、富山の中継倉庫から書籍を運んできました」怜司本人の姿はなかった。私は礼だけを伝え、棚へ本を運んだ。開店一時間前、風がさらに強くなった。私は入口で作業していた。突然、誰かに強く突き飛ばされた。その瞬間、固定具の外れた案内板がこちらへ倒れ込んできた。金属のぶつかる音と、短いうめき声。振り返ると、怜司が床に膝をついていた。右肩を押さえ、顔を歪めている。「どうしてここに……」「手配した便が間に合ったか、見るだけのつもりだった」病院で、右肩を骨折していると診断された。処置を待つ間も、怜司の顔は青ざめたままだった。「紬」「治療費はこっちで負担する。手伝っていてけがをしたんだから」「その話じゃない」怜司は、私が手にしていた会計票に目を落とした。「さっき、僕のことを心配してくれた?」「目の前で誰かがけがをしたら、誰だって心配するよ」怜司は目を伏せ、かすかに笑った。「そうだよな」私は運転手が到着するまで付き添い、席を立とうとした。そのとき、怜司は左手で薄いノートを差し出した。見開きには、日付と短い文章が並んでいた。四月十二日。紬から母親の検査結果について連絡。返信せず。五月三日。紬の父親の命日。電話せず。六月二十一日。東京異動の面接について連絡。未読のまま。私が待っていた日を、彼は一つずつ書き写していた。「忘れないため?」「忘れていたことを、忘れないため」怜司は苦く笑った。「書けば書くほど、謝るだけでは足りないと分かった」「昔は、君を取り戻すには、何か一つ大きなことをすればいいと思っていた」怜司の声は、とても静かだった。「でも、ようやく分かった。君が離れたのは、何か一つ大きな出来事があったからじゃない」「何気ない選択のたびに、僕が君を後回しにしてきたからだ」目の奥が熱くなった。それに気づいた怜司は、とっさに身を乗り出しか
Read more

第9話 割れたものの名前

それから半年、怜司から連絡はなかった。金沢店で始めた地域イベントが評判を呼び、私は北陸エリアの統括候補に選ばれた。母も仙台の家を整理し、金沢へ移ってきた。母は時折、怜司のことを尋ねた。「本当に、もう戻るつもりはないの?」私は笑って首を横に振った。「お母さん。未練があることと、一緒にいて幸せになれるかどうかは別だよ」二月の終わり、怜司の母が店を訪ねてきた。以前よりひと回り小さく見えた彼女は、私に深く頭を下げた。「あなたに支える役目を押しつけて、自分の息子が誰かを支えられる人間か、考えもしなかった。本当にごめんなさい」私は彼女を許すとも、許さないとも言わなかった。ただ、遠くから来た客として温かいお茶を出した。帰り際、彼女は怜司が入院したことを告げた。過労と胃潰瘍だった。「あなたには連絡しないでくれと、あの子に言われていたの。でも、このまま黙っていたら、私が後悔すると思って」迷った末、私は東京へ向かった。病室の怜司はひどく痩せていた。私を見ると驚き、それから困ったように笑った。「どうして来たの?」「お見舞い」「来なくてよかったのに」私は果物の詰め合わせをテーブルに置いた。怜司は弱音を吐くこともなく、ただ尋ねた。「お母さんは元気?」「元気だよ」「店は?」「順調」そこで、会話は終わったように思えた。私は立ち上がり、帰ろうとした。怜司は布団をめくり、見送ろうとした。「寝ていて」「エレベーターまででいい」廊下は長かった。怜司は私の隣をゆっくり歩いた。怜司の手が何度か私の手に触れそうになり、そのたびにそっと離れていった。エレベーターの扉が開く直前、怜司が尋ねた。「紬。もし、あのとき沙耶がいなかったら、僕たちは結婚していたと思う?」私は少し考えた。「していないと思う」怜司の表情がこわばった。「どうして?」「沙耶さんが、私たちが別れた原因じゃないから」「沙耶さんは、もともとあった問題を早く表に出しただけ」私は怜司を見た。「沙耶さんがいなくても、仕事や友人、家族がいた」「私が絶対に離れないと思っている限り、怜司はいつも私を後回しにした」エレベーターが到着した。扉の外に立つ怜司の目が、赤くなっていた。「これから先は?」「私を待たないで」「それでも、僕が待ちたいと言ったら?」「待つかどうかは怜司
Read more

第10話 最後の改札

一年後、私は京都へ転勤することになった。母は一足先に新居へ行き、荷ほどきを手伝ってくれていた。私は一人でキャリーケースを引き、金沢駅へ向かった。発車まで、あと二十分。背後から、名前を呼ばれた。人混みの中に、怜司が立っていた。少し痩せて、以前よりも穏やかな目をしていた。手には、小さな紙袋を提げていた。「これを返したくて」中には、紺色のマフラーだけが入っていた。沙耶の香水の匂いは、もうしなかった。きれいに洗われ、丁寧に畳まれていた。去年の冬、私が怜司のために編んだものだった。暗すぎると言って、一度も巻いてくれなかったマフラー。怜司が紙袋を差し出した。私は受け取った。「ありがとう」まもなく列車が発車するというアナウンスが流れた。怜司は、改札口まで一緒に歩いた。怜司は半歩だけ後ろを歩き、私との距離を詰めようとはしなかった。「京都エリアの六店舗を統括するんだって?」「うん」「おめでとう」「会社はどう?」「まあまあかな。無理な出店を控えるようになって、みんな前より余裕ができた」私たちは、長く会っていなかった友人同士のように、互いの近況を穏やかに話した。改札口を前にして、怜司が足を止めた。「紬。あの三人のグループ、僕も抜けた。沙耶にも退会してもらって、もう誰も残っていない」「そもそも、あんな連絡の仕方がおかしかった」私は少し笑った。「今になって、やっと分かったの?」「今さらだけど、ようやく分かった」怜司は私を見つめた。声が少しかすれていた。「会社が上場さえすれば、紬と過ごす時間を作れると思っていた」「この資金調達が終わったら、次のプロジェクトが片づいたら、すべてが落ち着いたらって……ずっと先延ばしにしてた」「紬との時間を、いつも『その先』に追いやってたんだ」「大事なのは、いつかじゃなくて、今日を一緒に過ごすことだったのに」アナウンスが、もう一度乗車を促した。私は軽く手を上げ、怜司に別れを告げた。怜司は、私を引き止めなかった。ただ、私が背を向ける直前に、一つだけ尋ねた。「紬。もう一度やり直してもいいと思ったことは、一度でもあった?」私は、遠くへ沈んでいく夕日を見つめた。「あったよ」怜司が息をのむ気配がした。「病院であなたを見たとき」「私を突き飛ばして、倒れてきた案内板からかばってくれたとき」
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status