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第4話 最後のチャンス

Author: 星宮 凪
怜司を信じるのは、今日で最後にしよう。

そう決めた。

期待していたわけではない。

ただ、自分の心にまだ迷いが残っているのか、確かめたかった。

朝、母が仙台から東京へ来た。

異動に必要な書類と、季節の変わり目に着る服を届けるためだった。

その日は、社員と家族を招いた上場記念の懇親会が開かれる予定だった。

母は朝四時に起き、手土産のずんだ餅まで用意していた。

「挨拶だけしたら、すぐ帰るからね」

母は何度もそう言った。

LUMINO本社が入る表参道のビルに着くと、懇親会の受付で止められた。

「恐れ入ります。招待者名簿にお名前がございません」

母は困ったように私を見る。

「私は神谷さんの……」

その先を言えず、口を閉じた。

五年付き合っていても、婚約はしていない。

母は怜司にとって、ただの恋人の母親でしかなかった。

そのとき、品のいいスーツを着た女性が近づいてきた。

沙耶の母親だった。

受付スタッフはすぐに笑顔を向け、沙耶の母にゲストパスを手渡した。

「橘様、お待ちしておりました。ご家族席へご案内いたします」

沙耶の母は、母が抱えた紙袋を眺めた。

「差し入れですか?」

「相沢紬の母です」

「ああ、こんにちは」

沙耶の母は薄く笑った。

「怜司さんのお母様から伺っています。娘さん、寂しがり屋さんなんですってね」

母の指が、紙袋の持ち手を強く握った。

私は母の肩を抱き、帰ろうとした。

ちょうどエレベーターが開き、怜司が降りてきた。

「どうして上がってこないんだ?」

私は受付の名簿を指した。

「どうして沙耶さんのお母さんは家族席で、私の母は名簿にもないの?」

受付スタッフが戸惑ったように端末を見る。

「橘部長から、ご家族として事前登録をいただいております」

沙耶が怜司の後ろから現れた。

「私が登録したの。母には創業した頃から手伝ってもらってきたから。紬さんのお母様が来るなんて、聞いていなかったわ」

怜司は母から紙袋を受け取った。

「名簿の手違いだろ。こんなところで騒ぐのはやめよう」

母が慌てて首を振る。

「いいんです。私が急に来たのが悪いんですから」

母が自分を責めるほど、胸が痛んだ。

昼は、三人で食事をするはずだった。

料理が運ばれて間もなく、沙耶から怜司へ電話が入る。

上場後初となる経済情報番組の収録直前に、過呼吸を起こしたらしい。

怜司は椅子から立ち上がった。

「行ってくる」

「母の新幹線は三時間後だよ」

「分かってる」

「東京駅まで送るって約束したよね」

「今日の収録は、今後の資金調達にも関わる」

「広報チームには、ほかにも人がいるでしょう」

「でも、沙耶は僕がいないと落ち着かない」

私は怜司を見上げた。

「もし今日、東京を離れるのが私だったら、それでも行く?」

彼は顔をしかめた。

「どうして何でも、どちらかを選ぶ話にするんだ」

「だって、あなたはいつも選んでいるから」

声は、自分でも驚くほど静かだった。

「けど一度も、私を選ばなかった」

怜司はしばらく黙り、やがて声を和らげた。

「一時間で戻る。収録が終わったら、必ずお母さんを駅まで送るから」

彼は、母が作ったずんだ餅の紙袋まで持って出ていった。

その二時間後、沙耶がInstagramのストーリーズを更新した。

過呼吸を起こしたとは思えないほど完璧なメイクで、彼女はスタジオに座っていた。その横には、母が持ってきた紙袋が置かれていた。

『背中を預けられる人がいる。それだけで、私は強くなれる』

怜司の公式アカウントから、すぐに「いいね」がついた。

結局、彼は戻らなかった。

母と二人で東京駅へ向かった。

改札前のベンチで、母が東京新店の店長候補の通知書を取り出した。

「紬。東京で幸せになれないなら、行かなくていいんだよ」

母の指が、私の名前をそっとなぞる。

「離れて暮らすことより、自分を見失ってしまうことのほうが、母さんは怖い」

涙が、紙の上に落ちた。

この三年間、誰もが怜司は大変なのだと言った。

会社をここまで大きくしたのだから、理解してあげて。

今だけだから、我慢してあげて。

けれど、待ち続ける私も傷つくのだと、母だけは分かってくれた。

スマートフォンにメッセージが届く。

『収録は無事に終わった』

『今夜はマンションへ戻って。沙耶はホテルに移るから、これでいいだろ?』

本来、私のために空けておくはずだった場所を、怜司は喧嘩の埋め合わせでもするように差し出した。

人事部の回答フォームを開くと、「回答期限を過ぎています」と表示された。

その画面を閉じたあと、東日本エリアの統括部長へ電話をかけた。

「金沢新店の立ち上げ責任者は、まだ決まっていませんか」

電話の向こうで、驚いた声がした。

「まだだけど……相沢さん、東京の方を希望していたでしょう?」

ホームの向こうに、東京の夕暮れが広がっていた。

私はその景色を見つめながら、静かに告げた。

「希望を変更します」

「金沢には知り合いもいないんじゃない?本当にいいの?」

怜司と一緒に買ったペアリングを見つめた。

「はい。金沢へ行かせてください」

電話を切ったあと、指輪を外し、小さな封筒へ入れた。

怜司の部屋の鍵と一緒に、駅の宅配カウンターから彼の会社へ送った。

ちょうどそのとき、怜司からまたメッセージが届いた。

『今週が終わったら、ちゃんと会って話そう』

私は返信しなかった。

三人のLINEも、彼とのトークも、すべて非表示にした。

新幹線がゆっくりと東京を離れる。

怜司はまだ知らない。

私が断ったのは、東京への異動だけではない。

いつか彼の隣に用意されると信じていた、私の居場所そのものだった。
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