「由紀江。俺は、お前を愛してる」その言葉が耳に届いた瞬間、私の胃が激しく収縮した。喉の奥から酸っぱいものが込み上げ、吐き気が全身を駆け巡る。病室の白い天井は、蛍光灯の冷たい光を反射してひどく明るく、目が痛いくらいだった。 「だから、もう一度やり直そう」 龍斗さんは泣いていた。目尻を真っ赤に腫らし、鼻をすすり上げながら、私の手を握ろうと必死に指を伸ばしている。病室の空気は消毒液の匂いと、古い空調の乾いた風が混じって、妙に冷え冷えとしていた。 「……」 「お前が逃げたいと思わないように、俺が全部変える」 その言葉に、私の身体が小さく強張った。指先が微かに震え、シーツを握りしめる。この人は、まだ何もわかっていない。私は「逃げたい」のだ。あなたから。あなたのいる、あの暗い家から。あなたの妻として生きてきた、息の詰まるような人生から。 「由紀江、だから帰ってきてくれ」 「......龍斗さん......私たちはもう終わったんです」 コンコンコン その時、病室の戸をノックする音が響いた。 ――これは、私が龍斗さんを捨てるまでの物語。 そして。 私が、愛されることよりも、自分の人生を選ぶまでの物語だ。 すべての始まりは――私が、「身代わりの花嫁」になった日だった。
Last Updated : 2026-08-23 Read more