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「由紀江。俺は、お前を愛してる」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の胃が激しく収縮した。喉の奥から酸っぱいものが込み上げ、吐き気が全身を駆け巡る。病室の白い天井は、蛍光灯の冷たい光を反射してひどく明るく、目が痛いくらいだった。
それから、数か月が経った。 季節は、ゆっくりと変わっていた。 私は実家の自分の部屋にいた。 窓を開けると、春の風がカーテンを揺らす。 柔らかな日差しが、床に落ちていた。「……暖かい」 私は窓辺に立った。 ここへ戻ってきたばかりの頃は、何をしていても胸が苦しかった。 朝起きても。 夜眠っても。 ふとした瞬間に思い出してしまう。 病院の白い天井。 点滴の滴。 あの日の痛み。 そして。 守れなかった小さな命。 何度も自分を責めた。 もっと早く逃げていれば。 もっと強く拒んでいれば。 もっと早く助けを求めていれば。 けれど。 一条先生は、何度も言ってくれた。 ――あなたのせいではありません。 その言葉を聞くたびに、少しずつ息ができるようになった。 私は窓の外を見つめる。「……ごめんね」 小さく呟いた。「守ってあげられなくて」 胸に手を当てる。 もう、そこに命はいない。 それでも。 あの子がいた時間を、私は忘れない。 短い時間だったけれど。 確かに、私の中にいた。 私が愛した、大切な子だった。 ◇ 離婚が成立したのは、それからしばらくしてからだった。 九条院家は、私の実家に対して起きた融資問題についても動いた。 龍斗さんが裏で手を回していたことが明らかになり、関係先との交渉が進められた。 父の会社も、すぐに元通りとはいかなかった。 失った信用を取り戻すには時間が必要だった。 けれど。 家族は、誰一人私を責めなかった。「お前が悪いんじゃない」 父は何度もそう言った。「帰ってきてくれただけでいい」 母は、私を抱きしめてくれた。 妹も。 弟も。 何も聞かずに、ただそばにいてくれた。 私は、その温かさの中で少しずつ自分を取り戻していった。 そして。 ある日。 私は離婚届を見つめていた。 署名をする。 ペン先が、紙の上を滑る。 最後に印鑑を押した。 それだけだった。 長かった。 でも。 終わるときは、驚くほど静かだった。「……終わった」 私は小さく呟いた。 もう私は。 九条院龍斗の妻ではない。 誰かに決められた人生を歩く必要もない。 私は私だ。 ◇ その日の午後。 私は病院を訪れていた。 あの日以来、一条先生には何度も支えてもら
病室に、重い沈黙が落ちた。 龍斗さんの手には、まだケリーバッグが握られている。 けれど、もう私に差し出されることはなかった。 一条先生が、ゆっくりと私たちの間に立った。「九条院さん」「……なんだ」「先ほど、警察に連絡しました」 龍斗さんの顔が上がる。「……警察?」「はい」 一条先生は淡々と答えた。「奥様から聞いていたこれまでの状況と、今日のことを伝えています」「余計なことを……」「余計なことではありません」 一条先生の声は静かだった。「患者さんの安全を守るためです」「俺は何もしていない」「救急車を呼ぼうとした奥様からスマートフォンを取り上げた」「……」「病院でも、診察を受けようとする奥様を止めようとした」「俺は……」「そして先ほど、私を突き飛ばしました」 龍斗さんの顔が強張った。 一条先生は続ける。「警察が来ます」「……待ってくれ」「何を待つんです?」「由紀江と話をさせてくれ」「もう十分です」「頼む」 龍斗さんは私を見る。 その顔には、今まで見たことのない焦りが浮かんでいた。「由紀江」 私は何も答えなかった。「俺が悪かった」「…………」「本当に悪かった」 龍斗さんが一歩近づく。 一条先生が制止しようとする。 けれど。「頼む……」 龍斗さんは私のベッドの前で立ち止まった。 そして。 突然、床に膝をついた。「……龍斗さん?」 次の瞬間。 龍斗さんは、深く頭を下げた。 床に額をつける。「すまなかった」 私は黙って見つめた。「由紀江……許してくれ」「…………」「俺が間違っていた」 声が震えている。「君を閉じ込めたことも、監視したことも……全部、俺が悪かった」「…………」「もうしない」 龍斗さんは顔を上げた。 必死な目だった。「だから、帰ってきてくれ」 私は何も言わない。「俺を捨てないでくれ」 その言葉に。 胸の奥が、ほんの少しだけ動いた。 ――昔の私なら。 きっと、そうだった。 龍斗さんが苦しそうな顔をすれば。 謝ってくれれば。 もう一度だけ信じてみようと思ったかもしれない。 けれど。 今は違う。 私は静かに龍斗さんを見た。「……何を許してほしいんですか?」「全部だ」「全部?」「ああ」「私を閉じ込めたこと?」「……ああ
目を覚ますと、白い天井が見えた。「…………」 ぼんやりと瞬きをする。 身体が重い。 腕には点滴の針が刺さっていた。 透明な液体が、点滴の管を通っている。 ポタ。 ポタ。 一定の間隔で、滴が落ちていく。 その音だけが、静かな病室に響いていた。「……ここは……」 声を出すと、自分の声がひどく掠れていた。「病院ですよ」 隣から声がした。 看護師さんだった。「気がつきましたか?」「……はい」 看護師さんが私の手を取る。 手首に指を当て、脈を測っている。「気分はどうですか?」「……身体が、重いです」「無理に動かなくて大丈夫ですよ」 看護師さんの顔を見つめる。 何かがおかしい。 胸の奥がざわざわする。 私はお腹へ手を伸ばした。 いつもなら。 そこに、小さな命がいると思えた。 けれど。 今は――。「赤ちゃんは?」 看護師さんの手が止まった。「…………」「赤ちゃんは……?」 もう一度聞いた。 看護師さんは私を見つめた。 その目が、悲しそうに揺れる。「……」 そして。 ゆっくりと。 首を左右に振った。「…………え?」 意味がわからなかった。「どういう……ことですか?」 看護師さんは答えない。 ただ、辛そうに目を伏せる。 その瞬間。 胸の奥が大きく揺れた。「……嘘」 声が震える。「違いますよね?」 看護師さんが小さく首を振る。「……ごめんなさい」 その言葉で。 すべてわかった。「……いや」 涙が込み上げてきた。「嫌……」 私はお腹を押さえた。「この子……」 声にならない。 昨日まで。 ここにいた。 私の大切な子。 私が守ると決めた。「……ごめんね」 涙が頬を伝う。「ごめんね……」 何度も謝った。 自分がもっと早く逃げていれば。 もっと早く一条先生に助けを求めていれば。 もっと強く抵抗していれば。 そんな後悔ばかりが頭の中を駆け巡る。 ――私が守れなかった。 その思いが、胸を締め付けた。 看護師さんが私の肩にそっと手を置く。「今は、泣いていいんですよ」「……はい」 涙は止まらなかった。 ◇ しばらくして。 病室の外が騒がしくなった。「お待ちください!」 聞き覚えのある声。 私は顔を上げた。 ガチャッ。 扉が
朝、目が覚めたとき。 最初に感じたのは、下腹部の重い痛みだった。「……痛い」 まだ眠気の残る頭で、私はお腹を押さえた。 昨日までとは違う。 鈍く、重い痛みが下腹に広がっている。 私はゆっくり身体を起こした。 その瞬間。 嫌な感覚がした。 私は慌てて布団をめくった。「……え?」 下着に、ほんの少しだけ赤いものがついていた。 血。 わずかだった。 けれど、妊娠中の今。 それが意味することを考えると、身体中から血の気が引いていく。「赤ちゃん……」 私はお腹に手を当てた。 怖い。 どうしよう。 病院に行かなければ。 すぐにでも診てもらわなければ。 私はベッドから立ち上がった。 下腹部の痛みは、まだ我慢できる程度だった。 私はスマートフォンを手に取った。 そして、一条先生のいる病院へ電話をしようとした。 けれど。 その前に、部屋の扉が開いた。「由紀江?」 龍斗さんだった。「どうした?」 私は反射的にスマートフォンを握りしめた。「……病院へ行きたいです」「病院?」「お腹が痛くて……」 龍斗さんの顔が変わった。「どのくらい?」「わかりません。でも……」 私は言葉を止めた。「少し、出血もあります」 龍斗さんの眉が動いた。「出血?」「はい」「見せて」「……嫌です」 身体を引く。 龍斗さんは一瞬黙った。「由紀江」「病院へ行かせてください」「わかった」 そう言ってくれるのかと思った。 けれど。 龍斗さんの視線が、私の手元へ向いた。「スマートフォンを貸して」「どうして?」「俺が病院に連絡する」「私がします」「由紀江」「自分で電話できます」 私はスマートフォンを握ったまま、一歩下がった。 すると龍斗さんが手を伸ばした。「貸せ」「嫌です」「病院へ行くんだろう?」「はい」「なら、俺が連絡する」「一条先生に診てもらいたいんです」 その名前を口にした瞬間。 龍斗さんの顔から表情が消えた。「……一条?」「はい」「また、あの医者か」 嫌な予感がした。「一条先生なら、私のことを診てくれます」「俺が連れていく」「救急車を呼んでください」「必要ない」「でも……」 痛みが強くなってきた。 私はお腹を押さえた。「っ……」「由紀江?」 額に汗が滲む。
部屋の扉を閉めたあとも、私はしばらく動けなかった。 床に座り込んだまま、両手でお腹を包む。「赤ちゃん……」 小さく呟く。 幸い、今のところ痛みはない。 それでも、さっき床に倒れた感覚が何度も蘇ってくる。 ――怖い。 龍斗さんが怖い。 そして何より、この子を守れないことが怖かった。 私はゆっくり立ち上がり、ベッドへ腰を下ろした。 そのとき。 コンコン。 扉が二度、軽く叩かれた。 身体が強張る。「由紀江」 龍斗さんの声だった。 私は返事をしなかった。「……さっきは悪かった」 意外な言葉に、胸がざわつく。「でも、君があんなことをするからだ」 ――やっぱり。 謝っているようで、謝っていない。 原因は自分ではなく、私にあると言っている。「もう、勝手に外へ出ないでくれ」「…………」「君を守るためだから」 私は唇を噛んだ。 守る。 その言葉を聞くたび、胸が苦しくなる。 私が欲しいのは、閉じ込められることじゃない。 監視されることでもない。 自分の足で歩いて、自分で行き先を決めること。 そして、この子を安心して産める場所へ帰ること。「明日から、警備を増やす」「……え?」「今までより厳しくする。玄関だけじゃない。マンションの出入口は全部だ」 心臓が跳ねた。「どうして……」「今日みたいなことが二度と起きないようにする」「龍斗さん……」「それから、君一人で外へ出るのは禁止だ」 私は扉を見つめた。 その向こうにいる龍斗さんの顔は見えない。 でも、声だけでわかる。 本気なのだ。「病院へ行くときも、俺が付き添う」「…………」「買い物も、家族に会うときも、俺が一緒に行く」「家族に……?」「ああ」 龍斗さんは淡々と続けた。「しばらく、実家にも行かなくていい」「どうしてですか?」「今の君は不安定だから」「それは……」「俺が決める」 胸の奥が冷たくなった。 ――まただ。 私の気持ちではなく、龍斗さんが決める。 私の人生なのに。「……嫌です」 初めて、はっきりと言った。 扉の向こうが静かになる。「何?」「実家に帰りたいです」「駄目だ」「どうして?」「君が帰りたいと言ったら、そのまま帰ってしまいそうだから」「帰りたいんです」「由紀江」「私は……家に帰りたい」 声
その日は。 朝から落ち着かなかった。 何度も時計を見てしまう。 午前十時。 十時十五分。 十時二十五分。 そして。 十時半。 搬入口へ続く廊下から、車の音が聞こえた。 納品業者が来た。いつもとは違う時間、ベビーベッドが運び込まれる。 私はリビングにいた。 龍斗さんは書斎にいる。 美和さんはキッチン。 警備員は玄関側。 昨日、私は覚えた。 人の動き。 警備員の交代。 搬入口の扉が開く時間。 そして。 業者が荷物を運び込むとき、一瞬だけ人の出入りが重なることも。 今日。 ここから出る。 私は朝から何度も自分へ言い聞かせていた。 怖い。 もちろん怖い。 でも。 ここに居続けるほうが。 もっと怖かった。 私はお腹へ手を当てた。「大丈夫」 小さく呟く。「お母さんが守るから」 ◇ 十時三十分。 キッチンから、美和さんの声が聞こえた。「ありがとうございます。こちらへお願いします」 業者が来た。 扉が開く。 閉まる。 また開く。 人の声が重なる。 私は立ち上がった。「奥様?」 美和さんが振り返った。「少し、部屋へ戻ります」「はい」 私は廊下へ出た。 心臓が激しく鳴っている。 けれど。 歩く。 搬入口のほうへ。 一歩。 また一歩。 警備員がこちらを見る。「奥様」「……はい」「どちらへ?」「少し外の空気を吸いたくて」「申し訳ありません」 警備員が立ち塞がる。「社長から、外へ出さないように指示されています」「……」 私は足を止めた。 やっぱり。 でも。 ここで諦めるわけにはいかない。「搬入口へ行くだけです、ベビーベッドが早く見たくて」「それもお控えください」「どうして?」「社長の指示です」 私は唇を噛んだ。 そのとき。 搬入口の扉が開いた。 業者の男性が荷物を運び込んでいる。 警備員の視線が、一瞬そちらへ向いた。 今。 私は走った。「奥様!」 後ろから声がする。 私は搬入口へ向かった。 扉の向こう。 外が見える。 ほんの数メートル。 あと少し。 あと少しで。 外へ出られる。 私は手を伸ばした。 けれど。 腕を掴まれた。「お待ちください!」「離して!」 私は必死に振りほどこうとした。「離してくださ







