جميع فصول : الفصل -الفصل 20

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第10話 私の実家が、突然破産寸前になった

「お母さん?」 『由紀江……』 電話の向こうの母の声がおかしかった。いつもより低く、押し殺したような響き。 「どうしたの?」 『今、大丈夫?』 「うん」 『実は……』 母が言葉を詰まらせる。息を吸う音が、受話器越しに伝わってくる。 「何?」 『会社で問題が起きたの』 「会社?」 私の実家は、長く続く事業を営んでいる。全国に店舗や関連会社を持ち、従業員も多い。経営が安定していることは、子どもの頃から聞かされていた。リビングの窓から差し込む午後の光が、床に長い影を落としている。 「何があったの?」 『銀行から融資を止められた』 「……え?」 『今日、突然通知が来たの』 頭が真っ白になった。耳の奥で、母の声が遠く響く。 「どうして?」 『それが、まだわからないの』 「会社は大丈夫なの?」 『今すぐどうこうなるわけじゃない。でも……』 母の声が震える。 『かなり大きな金額が必要になる』 「いくら?」 少しの沈黙。時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。 『五十億近い損失が出る可能性があるって』 「……五十億?」 私は思わず立ち上がった。椅子が床を擦る音が響く。そんな金額。個人の家庭でどうにかできるものではない。胸の奥が、冷たく縮こまる。 『お父さんが今、銀行や取引先と話をしている』 「私も実家へ行く」 『駄目よ』 「どうして?」 『今は妊娠中でしょう』 「でも!」 『龍斗さんにも相談してみて』 その言葉に、私は黙った。龍斗さん。九条院家。あの家なら。五十億という金額でも、何とかできるかもしれない。窓の外では、秋の陽が静かに傾き始めている。 「……わかった」 電話を切った。私はスマートフォンを握ったまま、立ち尽くしていた。掌に、機器の熱が残る。すると。 「どうした?」 背後から声がした。振り返る。龍斗さんが立っていた。静かな足音で、いつの間にか近づいていた。 「実家で、大変なことが起きた
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第11話 「俺に頼ればいい」――逃げ道を失っていく私

実家の経営危機が発覚してから、二週間。 状況は、良くなるどころか悪化していた。銀行からの融資は止まったまま。取引先からも、次々と厳しい条件を突きつけられているらしい。父から電話が来るたびに、私は胸が締めつけられた。受話器を握る指が、白くなりかけている。『大丈夫だから』父はいつも、そう言う。でも。声を聞けばわかる。大丈夫ではない。疲れがにじみ、息が浅くなっている。会社には、私たち家族だけではなく、多くの人が働いている。従業員。その家族。長年取引を続けてきた会社。もし倒産すれば、たくさんの人の生活が変わってしまう。 「……どうしよう」 私はスマートフォンを握りしめた。画面の光が、掌を淡く照らす。そのとき。 「何を悩んでいる?」 後ろから龍斗さんの声がした。静かな足音で、いつの間にか近づいていた。 「……実家のことです」 「まだ心配しているのか」 「はい」 「だから、俺が何とかすると言っただろ」 「でも……」 私は振り返った。彼の顔を、まっすぐ見つめる。 「本当に、何とかなるんですか?」 「ああ」 龍斗さんは迷いなく答えた。 「九条院家が支援すれば、潰れることはない」 「本当に?」 「俺を信用できないのか?」 私は慌てて首を横に振った。 「そういう意味じゃありません」 「なら、任せろ」 「……はい」 龍斗さんは私の頭を軽く撫でた。温かい掌が、髪に触れる。 「お前は身体のことだけ考えろ」 その言葉に、私は少しだけ安心した。最近の龍斗さんは、以前より私の身体を気にしている。食事。睡眠。外出。妊娠中だからという理由で、何かにつけて心配する。少し過保護だと思うこともある。けれど。私とお腹の子を大切に思ってくれているのだとしたら。それは、悪いことではない。そう思っていた。窓の外では、秋の陽が静かに傾き始めている。      ◇ その日の夜。 龍斗さんが珍しく早く帰ってきた。玄関の扉が開く音が、いつもより早い時間に響く。 「今日は早いんですね」 「ああ」 「夕食、すぐに用意します」
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第12話 私の逃げ道を、夫は一つずつ奪っていった

実家からの電話を切ったあと。私はしばらく、スマートフォンを握ったまま動けなかった。掌に機器の熱が残り、指が微かに震えている。父の声が、耳に残っている。 ――このままでは、会社を維持できない。 あの会社には、たくさんの人が働いている。幼い頃から知っている社員もいる。父と一緒に会社を支えてきた人たち。その人たちの生活まで、今、危うくなっている。胸の奥が、冷たく締めつけられる。 「どうして……」 私は窓の外を見た。東京の街が、何事もなかったように動いている。秋の陽がビルの谷間を静かに流れ、遠くの雲がゆっくりと形を変えていく。何度考えてもわからない。なぜ突然、ここまで状況が悪化したのだろう。銀行。取引先。株価。すべてが同時に動いている。偶然とは思えない。そして昨夜。龍斗さんが電話で言っていた。――九条院家が手を差し伸べる前に、完全に追い込め。あの言葉が頭から離れない。耳の奥で、何度も繰り返される。 「……まさか」 私は小さく呟いた。でも。そんなことをする理由がない。龍斗さんは、私の実家を助けると言っていた。だから。私は信じるしかなかった。窓ガラスに映る自分の顔が、どこか青白く見えた。      ◇ その日の昼。 私は父へ何度も電話をかけた。けれど、繋がらない。母にも連絡がつかない。不安が膨らんでいく。画面を見つめるたびに、胸がざわつく。 「……実家へ行かなくちゃ」 私は立ち上がった。玄関へ向かい、靴を履く。革の音が、静かな廊下に響く。そのとき。「どこへ行く?」背後から声がした。振り返る。龍斗さんが立っていた。いつの間にか近づいていた気配が、背中を冷たくする。 「実家へ行きます」 「駄目だ」 「どうしてですか?」 「君は妊娠している」 「だからといって、家族を放っておけません」 「俺が何とかすると言っただろ」 「でも、父と連絡がつかないんです」 「だから?」 「心配なんです」 「心配する必要はない」 龍斗さんの声は、いつもより低かった。重く、押し殺した響き。 「俺が調べている」 「調べているって……」 「銀行との話もつける」
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第13話「俺だけが君を守れる」そう言った夫の手は、逃げ道を塞いでいた

翌朝。 目を覚ました瞬間から、胸の奥がざわついていた。嫌な予感がする。そんな曖昧な感覚だった。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ベッドの白いシーツを淡く照らしている。私はベッドから起き上がり、スマートフォンを手に取った。画面の光が、まだ眠気の残る目に痛い。 父から連絡が来ている。 昨夜のメッセージ。 《明日、どうしても話したい》 その続きが届いていた。 《会社のことで、九条院家から正式な提案が来た》 私は息を止めた。指が、画面の上で止まる。さらに、その下には。《一度、直接会って話したい》とある。 「……お父さん」 私はすぐに電話をかけた。 けれど。 『おかけになった電話は――』 繋がらない。母にもかける。同じだった。昨日まで繋がっていたのに。どうして?私はスマートフォンを握りしめた。掌に、機器の熱が残る。部屋の静けさが、急に重く感じられる。      ◇ 「朝から何をしている?」 背後から龍斗さんの声がした。振り返る。彼はすでにシャツを着て、ネクタイを緩めている。 「父に電話をしています」 「まだ寝ているんじゃないか」 「違います」 私は振り返った。視線を、まっすぐ彼に向ける。 「電話が繋がらないんです」 「そうか」 龍斗さんは淡々としている。表情に、ほとんど変化がない。 「会社が大変なんだろう。忙しいんじゃないか」 「でも、昨日は普通に話せました」 「なら、少し待て」 「……」 私は龍斗さんを見つめた。朝の光が、彼の横顔を冷たく照らしている。 「龍斗さん」 「何だ?」 「今日、実家へ行ってもいいですか?」 「駄目だ」 即答だった。間髪を入れず。 「どうしてですか?」 「君は妊娠中で大事な時期だ。フラフラ出歩くな」 「でも、父と直接話したいんです」 「俺が話をつける」 「私の父です」 「君の父親でも、今は俺が交渉している」 「……」 その言葉に、胸が冷えた。私の家のことな
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第14話 捨てられる恐怖

夕方。 龍斗さんが帰ってきた。玄関の扉が開く音が、静かなマンションに響く。外の冷たい空気が、一緒に流れ込んでくる。 「ただいま」 「……おかえりなさい」 私はリビングで待っていた。テーブルの上には、契約書を広げてある。白い紙が、夕方の光を受けて淡く輝いている。指先が、紙の端を微かに震わせていた。 「何だ?」 龍斗さんの目が書類へ向いた。その瞬間。顔から表情が消えた。血の気が、みるみる引いていく。 「これ、どういうことですか?」 「……」 「説明してください」 「どこで見つけた?」 「テーブルに置いてありました」 「勝手に見たのか」 「私の家族のことです」 「……」 「どうして、私との婚姻が条件になっているんですか?」 龍斗さんは黙った。視線が、書類から私の顔へ移る。空気が、重く張り詰める。 「答えてください」 「会社を救うためだ」 「それはわかっています」 「なら――」 「違います!」 私は声を震わせた。喉が熱く、声が裏返る。 「私が聞いているのは、どうして私が離婚できないような条件にしたのかです!」 龍斗さんが目を見開く。 「離婚?」 「はい」 「……」 「私が離婚したら、家族の会社はどうなるんですか?」 「契約が失効する」 「つまり」 私は唇を噛んだ。痛みが、現実を確かめるようだった。 「私が龍斗さんから離れたら、家族がまた破産する」 「……」 「そういうことですよね?」 龍斗さんは答えない。それが答えだった。沈黙が、部屋を埋め尽くす。 「どうして……」 私は涙を堪えた。目の奥が熱くなる。 「どうして、こんなことをしたんですか?」 「君を守るためだ」 「違う!」 思わず叫んだ。声が、広いリビングに反響する。 「これは守るんじゃありません!」 「由紀江」 「私の家族を人質にしているだけです!」 龍斗さんの顔が強張る。唇が、
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第15話 私は夫の秘密を知るために、家の外へ出た

翌朝。 目が覚めても、昨日の出来事が夢にはならなかった。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ベッドの白いシーツを淡く照らしている。テーブルの上に置かれた契約書。九条院家からの支援。そして。私との婚姻を継続することが条件になっていたこと。何より。龍斗さん自身が認めた。私の実家を追い詰めたのは、自分だと。私はベッドの中で、お腹に手を当てた。まだ小さな命。指先に、微かな温もりが伝わる。この子を守るためにも。私は、もう何も知らないままではいられない。 「……調べなくちゃ」 誰にも聞こえない声で呟いた。部屋の静けさが、決意を静かに受け止める。      ◇ 朝食の席。龍斗さんは、昨日のことなどなかったように新聞を読んでいた。紙をめくる音が、静かな食卓に規則正しく響く。コーヒーの湯気が、ゆっくりと立ち上っている。 「おはようございます」 「ああ」 私は席についた。椅子が床を擦る音が、小さく残る。 「今日は病院だろ」 「はい」 「俺が送る」 「大丈夫です」 「何?」 「病院へは一人で行けます」 龍斗さんが新聞から顔を上げた。視線が、鋭く私を捉える。 「一人で?」 「はい」 「駄目だ」 「どうしてですか?」 「妊娠中だから」 「病院へ行くだけです」 「俺が送る」 「……」 私は一度、息を吸った。朝の光が、テーブルの上の食器を淡く照らしている。 「龍斗さん」 「何だ?」 「私はあなたの妻です」 「そうだ」 「でも、あなたの所有物ではありません」 龍斗さんの表情が固まった。新聞を握る指が、わずかに強張る。 「昨日のことを忘れたわけじゃありません」 「……」 「家族を人質にして、私をここへ縛りつけるようなことは、二度としないでください」 「人質じゃない」 「私には同じです」 「由紀江」 「今日は一人で行きます」 私は立ち上がった。椅子が床を擦る音が、はっきりと響く。龍斗さんは何か言いかけた。唇が動く。けれど。結局、何も言わなかった。私は背を向けて、キッチンを出た。      ◇ 病院へ向かう車の中。私は窓の外を見ていた。街並みが流れていく。運転手は龍斗さんの専属だ。本当に一人で来たわけではない。けれど。龍斗さんが同行していないだけで、少しだけ呼吸がしやすかった。窓から差し込む光が、車内を柔らかく照らしている。
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第16話 夫の母親が、私に隠していたこと

あの電話が切れてから。私は一睡もできなかった。九条院家で以前働いていたという人物。そして。その人が口にした言葉。――龍斗様のことです。それだけなのに。頭から離れない。何を知っているのだろう。幼い頃の龍斗さんに、何があったのだろう。私は何度も寝返りを打った。シーツが擦れる音が、静かな寝室に小さく響く。隣では、龍斗さんが眠っている。規則正しい寝息。いつもなら安心するはずのその音が。今夜は、なぜか怖かった。胸の奥が、冷たくざわつく。私はそっとベッドを抜け出した。床の冷たさが、裸足に伝わる。リビングへ向かう。窓の外には、東京の夜景が広がっている。無数の灯りが、闇の中で静かに瞬いている。私はソファに座り、お腹へ手を当てた。小さな温もりが、指に伝わる。 「……大丈夫」 小さく呟く。 「お母さんが守るからね」 自分に言い聞かせるように。私はそう繰り返した。 ◇ 翌朝。龍斗さんは、いつも通り朝食の席についていた。新聞を広げ、コーヒーを飲み、いつもの朝の仕草を繰り返している。紙をめくる音が、静かな食卓に規則正しく響く。 「おはようございます」 「ああ」 昨日のことには触れない。私も触れなかった。けれど。いつもと違うことが一つだけあった。龍斗さんが、私のスマートフォンを見ている。視線が、テーブルの端に置かれた機器へ落ちる。 「……何ですか?」 「昨日の電話」 「はい」 「誰だった?」 「わかりません」 「嘘だろ」 「本当に知りません」 龍斗さんの手が止まる。新聞が畳まれ、テーブルに静かに置かれる。 「九条院家の人間だと言っていた?」 心臓が跳ねた。 「そうです」 「それだけ?」 「はい」 私は箸を置いた。木の音が、食卓に小さく残る。 「何をそんなに怖がっているんですか?」 龍斗さんの顔が強張る。目元に、薄い影が落ちる。 「怖がってなんかいない」 「でも、昨日からずっと変です」 「……」 「私に言えないことがあるんですか?」 龍斗さんは答えなかった。その沈黙を見ていると。やっぱり、何かある。そ
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第17話 またいなくなるのか

電話を切ったあと、私はしばらく動けなかった。ソファに座ったまま、窓の外の街並みをぼんやりと見つめる。龍斗さんの幼少期。母親に置いていかれたこと。使用人から「かわいそう」と言われ続けたこと。女に捨てられることを恐れ。女を侍らせるようになったこと。私は初めて。龍斗さんのことを少しだけ理解した。胸の奥が、微かに疼く。でも。理解したからといって。許せるわけではない。私の実家を壊したこと。私を閉じ込めようとしたこと。私の意思を無視したこと。それは別の問題だ。指先が、冷たくなっている。私はお腹へ手を当てた。小さな温もりが、掌に伝わる。 「あなたは悪くないからね」 小さく呟く。赤ちゃんには。龍斗さんの過去も。私たち夫婦の問題も。関係ない。ただ。私はもう一つ、気になっていた。義母が言っていた。 ――あなたが龍斗の母親になる必要はない。 その言葉。まるで。龍斗さんが私に「母親」を求めていることを知っているようだった。窓ガラスに映る自分の顔が、どこか遠くに見えた。      ◇ 夕方、龍斗さんが帰宅した。玄関の扉が開く音が、静かなマンションに響く。 「ただいま」 「おかえりなさい」 私はキッチンから出た。エプロンの紐を、無意識に握りしめている。 「今日、母に電話したか?」 「……はい」 龍斗さんの表情が変わる。目元に、薄い影が落ちる。空気が、急に張り詰める。 「何を聞いた?」 「あなたの幼い頃のことです」 「……」 「お母様から聞きました」 龍斗さんは何も言わない。視線が、私を捉えて離さない。 「どうして話してくれなかったんですか?」 「話す必要がない」 「私はあなたの妻です」 「だから?」 「あなたのことを知りたいと思うのは、おかしいですか?」 「……」 龍斗さんは目を逸らした。窓の外の夜景を、じっと見つめている。 「母から何を聞いた?」 「あなたが、母親に置いていかれたこと」 龍斗さんの顔が強張る。唇が、わずかに引き結ばれる。 「……」 「使用人に『かわいそうな坊ちゃん』と言われるのが嫌だったこと
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第18話 夫は、私の自由を「愛」だと思っていた

翌朝。 目を覚ますと、隣に龍斗さんはいなかった。シーツの温もりだけが、わずかに残っている。いつもなら、もう仕事へ出たのだと思う。けれど。枕元に一枚の紙が置かれていた。白い紙が、朝の光を受けている。 《今日は家にいてくれ》 短い文字。私はそれを見つめた。指先が、紙の端を微かに震わせる。 「……また」 胸の奥が重くなる。昨日。私ははっきり伝えた。私はあなたのお母様ではない。あなたの所有物でもない。自分の人生を生きたい。龍斗さんは「わかった」と言った。だから。少しは変わってくれると思った。けれど。朝からこれだ。私は紙を折りたたんだ。そして。自分で予定を決めることにした。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋を静かに照らしている。      ◇ 午前十時。 私は母へ電話をかけた。 『由紀江?』 「お母さん」 『どうしたの?』 「今日、会えないかな」 『え?』 「直接話したいの」 母は少し黙った。受話器越しに、息を吸う音が聞こえる。 『龍斗さんは?』 「仕事です」 『大丈夫なの?』 「……大丈夫」 本当は。大丈夫ではない。でも。母の顔が見たかった。喉が、熱く詰まる。 「少しだけでも会いたい」 『わかったわ』 母は、指定したホテルのラウンジで待っていると言った。私は外出の準備をした。バッグを持つ。コートを羽織る。玄関へ向かう。鍵をかける。金属の音が、静かな廊下に響く。 「どこへ行く?」 声がした。 「……!」 振り返る。龍斗さんがいた。いつの間にか近づいていた気配が、背中を冷たくする。 「仕事じゃなかったんですか?」 「予定が変わった」 「そうですか」 「質問に答えろ、ど
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第19話 「逃げるつもりはありません」それでも夫は私を疑った

 百貨店から帰る車の中。私は膝の上に置いた封筒を、何度も見つめていた。指先が封筒の角に触れ、紙のざらついた感触が掌に残る。中に詰まっているのは、実家の会社の財務資料。数字と赤字と、積み重なった負債の影。そして、その向こう側に、まだ消えない声が響いていた。 ――君の家を守りたいなら、俺を信じろ。  龍斗さんからの言葉。低く、静かに、しかし絶対的な響きを持っていた言葉。  けれど。 どうしても、信じられなかった。家族を助けると言いながら。その家族を追い詰めているのは、龍斗さん自身なのだから。矛盾が胸の奥で渦を巻き、息を吸うたびに苦しくなる。「奥様」  運転手がバックミラー越しに私を見る。ミラーに映る私の顔は、いつになく青白く、目の下に薄い影を落としていた。「はい?」「社長から、帰宅されたらすぐにお部屋で休むようにとのことです」「……わかりました」  私は窓の外へ目を向けた。夕暮れの街を歩く人たちは、誰も私の事情など知らない。普通に笑っている。買い物袋を揺らしながら足早に歩く人。子どもと手をつないで歩く母親。恋人同士で楽しそうに肩を寄せ合う男女。彼らの笑い声や、足音や、街灯の明かりが、ガラス越しにぼんやりと滲む。私はその光景を見ながら、静かに思った。私もあんなふうに、自分の人生を自分で決めたかった。誰かに許可を取ることなく。誰かの顔色をうかがうことなく。ただ、普通に生きたかった。      ◇  家に着くと、龍斗さんがリビングで待っていた。大きなソファに深く腰を下ろし、テーブルの上に置かれたグラスを指でなぞりながら、私の帰りをじっと見据えている。照明は控えめに落とされ、部屋の空気がどこか重い。「おかえり」「ただいま」「体調は?」「大丈夫です」「疲れてないか?」「少しだけ」「なら、座れ」  私はソファへ腰を下ろした。クッションが沈む感触とともに、龍斗さんが私の前に立つ。影が私を覆い、視界のほとんどが彼の体で埋まる。「今日は一人で出かけたな」「はい」「母親と会った」「はい」「そのあと百貨店へ行った」  私は顔を上げた。心臓が、ひとつ跳ねる。「……どうして知っているんですか?」「運転手から聞いた」「それだけですか?」「何が?」「私が百貨店で何をしていたかまで知っていましたよね」 龍斗さんは黙った。長い睫毛の下で、
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