All Chapters of 愛を知らない冷酷御曹司の妻になった私~身代わりで嫁いだ私を閉じ込めた夫は、すべてを失ってから愛に気づく~: Chapter 21 - Chapter 30

48 Chapters

第20話 守るという名の檻

雨が降っていた。  朝から空を覆っていた灰色の雲は、昼を過ぎても晴れる気配を見せない。重い鉛色の層が街全体を押し潰すように広がり、光をほとんど通さない。窓ガラスを伝う雨粒が、幾筋もの細い線になって落ちていく。一粒ずつが軌跡を描き、やがて合流して太い筋となり、下へと滑り落ちる。その単調な動きを、私はぼんやりと眺めていた。  ここ最近。外の景色を見る時間が増えた気がする。出かけられないからだ。この家の窓から見える景色だけが、私に許された「外」だった。 窓の向こうには、自由に歩いている人たちがいる。 傘を差して駅へ向かう人。 雨を嫌そうに空を見上げ、肩をすくめる人。 小さな子どもの手を引いて、ゆっくりと歩く母親。 その姿を見るたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。 息が浅くなり、指先が冷たくなる。  私は今。この広い街の中で、一番狭い場所にいるような気がしていた。豪華な調度品に囲まれた部屋でさえ、壁がゆっくりと迫ってくるように感じる。「……赤ちゃん」 私はそっとお腹に手を当てる。まだ目に見えるほど大きくなってはいない。掌の下に感じるのは、わずかな温もりと、自分の鼓動だけ。  それでも。私の中には、確かに小さな命がいる。この子だけは、何としても守りたい。その気持ちだけが、今の私を支えていた。暗く重い日々の中で、唯一の光のように。     ◇「奥様、お薬をお持ちしました」「ありがとうございます」  使用人が薬をテーブルへ置く。白い小瓶と、丁寧に折られた説明書。私は笑顔を作った。唇の端を上げるだけで、顔が引きつる。「すみません。いつも」「とんでもございません」  使用人が一礼して部屋を出ていく。扉が静かに閉まる音が、部屋の空気をさらに重くした。静かになったリビングで、私は薬を見つめた。妊娠してから、食事にも細かく気を配られるようになった。塩分を控え、栄養バランスを厳密に計算された献立。外出するときは運転手が付き添う。帰宅時間を確認される。誰と会ったのか聞かれる。電話の相手まで気にされる。 最初は、龍斗さんが心配してくれているのだと思っていた。優しい眼差しと、低い声で「無理をするな」と言ってくれる姿に、救われた気さえしていた。  けれど。  今は違う。これは心配ではない。監視だ。そう思うようになっていた。網の目のように張り巡らされた視
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第21話 守るという名の檻②

 その夜。  龍斗は書斎で一人、窓の外を眺めていた。雨はまだ降っている。暗い街灯の光が、雨粒に乱反射してぼんやりと揺れている。机の上には、いくつもの資料が広げられていた。由紀江の実家。銀行。取引先。そして。由紀江が頼ろうとしている人間の名前。 一条医師。 母親。 元婚約者。  龍斗は一枚の資料を手に取った。紙の端が、指の力でわずかに曲がる。そして、握りつぶした。カサリ、と小さな音がして、紙が丸まる。「……俺がいるのに」  由紀江は、他人を頼る。自分には相談しない。母親へ電話をする。一条医師へ相談する。家族のもとへ帰ろうとする。そのたびに、龍斗の胸の奥が、ざわつく。 捨てられる。 置いていかれる。 また一人になる。  幼い頃から何度も感じてきた恐怖が、由紀江を失うという現実と重なっていく。暗い部屋の中で、過去の影がゆっくりと立ち上がる。「……俺は、君を捨てない」  龍斗は呟いた。声は誰にも届かない。自分が捨てられることを恐れている。だから、今度は自分が先に、相手を逃げられなくすればいい。そうすれば......絶対に失わない。龍斗はそう信じていた。窓の外の雨が、ますます激しく降り続ける中で。     ◇  翌朝。 私は朝食の席で、龍斗さんから意外な言葉を聞いた。白いテーブルクロスの上に、湯気の立つコーヒーとトースト。いつもと変わらない風景なのに、空気が少しだけ違って感じる。「今日は、好きなところへ行っていい」「……え?」「外出していい」 私は目を瞬いた。言葉の意味が、すぐに頭に入ってこない。「本当に?」「ああ」「一人で?」「好きにしろ」  私は嬉しくなった。胸の奥が、ふわりと軽くなる。「ありがとうございます」「ただし」  龍斗さんが続ける。声に、わずかな影が差す。「運転手はつける」「……」「それくらいはいいだろ」「はい」  私は笑った。久しぶりに、自然な笑みが浮かぶ。「わかりました」  久しぶりに。自分で出かけることができる。私はその日の午後、祖父の病院へ行くことにした。一条先生に会うためではない。祖父の顔を見たかった。そして。自分の目で確かめたかった。家族が、まだ大丈夫なのか。     ◇  病院へ向かう車の中、私は窓の外を眺めていた。雨上がりの街が、濡れたアスファルトに光を反射して輝いている
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第22話「あなたを守る」その言葉が、私には怖かった

 朝の光が、薄いカーテン越しに差し込んでいた。目を覚ますと、隣のベッドは空いていた。龍斗さんは、もう仕事へ出たのだろう。私はしばらく天井を見つめていた。 昨日のことが、頭から離れない。 病院へ行った。祖父の顔を見た。一条先生と話をした。ほんの短い時間だったけれど、久しぶりに自分の意思で誰かと話せた気がした。それなのに、帰宅した私を待っていた龍斗さんの表情。そして。 「一条先生に相談した」 その言葉を聞いたときの、あの目。私は布団の中で、ぎゅっと指を握った。「……怖い」 口にしてしまってから、自分で驚いた。私は本当に......龍斗さんを怖いと思っている。でも同時に、どこかで彼をかわいそうだとも思っていた。 母親に置いていかれた幼い少年。誰にも弱音を吐けず。「かわいそうな坊ちゃん」と呼ばれることを嫌い。誰にも捨てられないように、女性を周囲へ集めるようになった。 そんな過去を知ってしまったから。だから。龍斗さんが私を失うことを恐れる気持ちだけは、わかってあげたいと思ってしまう。 けれど。私は彼の母親ではない。その傷を、私が埋めることはできない。そして、埋める必要もない。     ◇「奥様」 部屋の外から声がした。「はい」「朝食のご用意ができました」「今行きます」 私はゆっくりとベッドを降りた。最近は、身体が少しずつ重く感じるようになった。まだお腹は目立たない。けれど自分の身体の中に、確かな変化が起きている。私は鏡の前で、自分のお腹へそっと手を当てた。「おはよう」 まだ声が届くはずもない。それでも。「今日も元気でいてね」 そう囁いた。     ◇ リビングへ行くと、テーブルには朝食が並んでいた。いつもなら、龍斗さんが座っている席。けれど、今日は誰もいない。「……珍しい」 私は一人で席についた。しばらくすると、使用人が一枚の封筒を持ってきた。「奥様、こちらを」「私に?」「はい。社長からです」 受け取る。中には一枚の紙。《今日から病院への送迎は、九条院家の専属車を使うこと》 私は眉を寄せた。「……どうして?」 使用人に聞いても、当然答えは返ってこない。私は紙を折りたたんだ。 また。 私の行動が決められていく。     ◇ 昼前。龍斗さんから電話が来た。「もしもし」『今、何をしている?』「家にいます
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第23話 龍斗の葛藤

 午後。 私は祖父の病院から電話を受けた。『由紀江さん、突然すみません』「はい」『一条先生のことでお伝えしたいことが』「先生に何か?」『担当が変更になる可能性があります』「……え?」『病院側から正式な発表はまだありませんが』「どうしてですか?」『私どもにも詳しいことは……』 電話を切る。 私は呆然とした。「そんな……」 一条先生が......祖父の担当から外れる?昨日までは、そんな話などなかった。私はすぐに病院へ電話をかけ直そうとした。そのとき。玄関の扉が開いた。「ただいま」 龍斗さんだった。私は振り返る。「龍斗さん」「どうした?」「一条先生のことです」 龍斗さんの表情がわずかに変わる。「何?」「先生が担当を外れるかもしれないって」「そうか」 あまりにも落ち着いた返事。私は目を見開いた。「……知っていたんですか?」「知らない」「本当に?」「ああ」「でも」 私は一歩近づいた。「昨日、先生にはもう会うなと言いましたよね」「言った」「そして今日、担当変更の話が出た」「偶然だ」「本当に?」 龍斗さんは黙った。私はその沈黙を見て。胸の奥に、冷たいものが落ちていくのを感じた。「あなたが何かしたんですか?」「……」「答えてください」「君のためだ」「また……」 私は唇を噛んだ。「どうして、あなたは何でも『私のため』にするんですか?」「本当に君のためだからだ」「私が望んでいなくても?」「……」「私が嫌だと言っても?」「君はまだ、自分が何を望んでいるのかわかっていない」 その言葉を聞いた瞬間。胸の奥で、何かが切れた。「わかっています」 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。「私は、自由になりたい」「……」「自分の家族に会いたい」「……」「自分で病院を選びたい」「……」「自分で誰を信頼するか決めたい」 龍斗さんが黙っている。「それが、私の望みです」 私はまっすぐ彼を見つめた。「あなたが勝手に決めることじゃありません」     ◇ 龍斗さんはしばらく黙っていた。やがて。「……わかった」 低い声。「君の好きにすればいい」 私は驚いた。「本当に?」「ああ」「病院も?」「ああ」「家族に会うことも?」「ああ」 私は少しだけ安心した。でも、龍斗さん
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第24話 逃げるための小さな一歩

 朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。私は目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。昨日、母に言った言葉が頭から離れない。 ――私、龍斗さんから離れたい。 口にしてしまった。ずっと胸の奥で押し殺していた気持ちを、初めて誰かに伝えた。それなのに、不思議なくらい、心は静かだった。 怖い。 もちろん怖い。この先、何が起こるのかわからない。実家の会社は、今にも倒産しそうになっている。私が離婚すれば、九条院家からの支援が打ち切られる可能性もある。お腹には、まだ小さな赤ちゃんがいる。私一人なら、何もかも捨てて逃げることができたかもしれない。でも、今は違う。私には守らなければならない命がある。「……ごめんね」 私はお腹へ手を当てた。「お母さん、ちゃんと考えるから」 赤ちゃんが答えてくれるわけではない。それでも、こうして話しかけていると、ほんの少しだけ心が落ち着いた。     ◇ 朝食の時間になっても、龍斗さんは現れなかった。私は一人でテーブルについた。焼きたてのパンから、かすかに甘い香りが漂っている。以前なら。龍斗さんがどんな顔で食事をするのか。何を食べるのか。そんなことを考えながら、自然と会話をしていた。今は、同じテーブルに座ることさえ、緊張する。「奥様」 使用人が紅茶を注いでくれる。「ありがとうございます」「本日は、お出かけの予定はございますか?」「……ありません」 そう答えてから......私は少しだけ迷った。本当は、今日、母にもう一度会いたかった。けれど、昨日のことを龍斗さんに知られたら、何をされるかわからない。だから今はまだ、黙っておく。そのためにはまず、自分で準備をしなければならない。     ◇ 午前九時。龍斗さんがリビングへ入ってきた。「おはよう」「おはようございます」 龍斗さんは私の前の席に座った。「体調は?」「大丈夫です」「腹痛は?」「ありません」「気分は?」「普通です」「そうか」 龍斗さんは私をじっと見ている。「今日は?」「今日は?」「何か予定があるのか?」「ありません」 嘘ではない......今のところは。「そうか」 龍斗さんはコーヒーを口にした。 私はその横顔を見ながら、胸の中で小さく息を吐いた。まだ、気づかれていない。私はできるだけ自然に食事を続けた。「由紀江」
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第25話 逃げるための小さな一歩②

 夜。 龍斗さんが帰宅した。「ただいま」「おかえりなさい」 私は笑顔を作った。「今日はどうだった?」「普通です」「何かあった?」 私は一瞬迷った。「……グラスを割ってしまいました」「怪我は?」 龍斗さんの顔色が変わる。「ありません」「本当に?」「はい」 龍斗さんが近づいてくる。「手を見せろ」「大丈夫です」「いいから」 私は手を差し出した。龍斗さんは私の手を確認する。指。手のひら。傷がないことを確かめる。「……よかった」 その声は。本当に心配しているようだった。「ありがとうございます」「どうして割った?」「少し足を滑らせて」「転んだのか?」「転んではいません」「でも、滑ったんだろ?」「はい」 龍斗さんの表情が険しくなる。「明日から、家の中でも一人で歩くな」「……え?」「使用人をつける」「必要ありません」「必要だ」「でも」「君に何かあったらどうする?」 私は黙った。さっきの恐怖を思い出す。正直、私自身も少し怖かった。だから。強く反論できなかった。「……わかりました」「それでいい」 龍斗さんは、ほっとしたように息を吐いた。その顔を見て、私は胸が痛くなった。この人は、本当に私を心配している。だからこそ......余計に苦しい。     ◇ 夕食のあと。龍斗さんが珍しく、私の隣へ座った。「由紀江」「はい」「今日、怖かったか?」「……少し」「そうだろうな」 龍斗さんの手が、私のお腹へ伸びる。私は少しだけ身体を固くした。けれど、振り払うことはしなかった。龍斗さんの手が、そっとお腹に触れる。「ここにいるんだな」「はい」「俺たちの子ども」 その声は。今まで聞いたことがないほど穏やかだった。私は横顔を見る。「嬉しいですか?」「……ああ......女がいいな」「女の子......」「ああ」 龍斗さんは、後継ではない女の子を求めている。そして、お腹から手を離さない。「この子がいれば」 小さく呟く。「君は俺のそばにいてくれる」 私は息を止めた。やっぱり。龍斗さんにとって、この子は私を繋ぎ止める存在なのだ。「龍斗さん」「何だ?」「子どもが生まれたら」「……」「私は、この子のお母さんになります」「当然だ」「あなたの妻である前に」 私は静かに言った。「この子
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第26話 逃げ道を探す私、逃げ道を塞ぐ夫

 目を覚ますと、窓の外は薄曇りだった。夜の間に降った雨が、ベランダの手すりを濡らしている。灰色の空を眺めながら、私はゆっくりと身体を起こした。隣を見る。龍斗さんは、もういなかった。枕元には、昨日までなかった小さなメモが、また置かれている。《今日は外出しないでくれ》 私は紙を手に取ったまま、しばらく動けなかった。昨日までは、「好きなところへ行っていい」と言っていた。なのに、今日は、外出するな。その言葉の変化が、嫌な予感を呼び起こす。「……どうして」 呟いた声は、誰もいない部屋に吸い込まれた。私はメモを折りたたんだ。そして、ベッドから降りた。     ◇ リビングへ行くと、朝食が用意されていた。けれど龍斗さんの姿はない。「奥様」 使用人が声をかけてくる。「社長から、本日はご自宅でお過ごしくださいとのことです」「……そうですか」「体調を心配されているようです」 私は曖昧に笑った。「ありがとうございます」 使用人が去っていく。 私は椅子に腰を下ろした。 テーブルには、栄養のことまで考えられた食事が並んでいる。 緑黄色野菜の温かいスープ。 焼きたてのライ麦パン。 野菜と果物、鶏胸肉と豆のサラダ。 どれも、妊娠中の身体を気遣ったものなのだろう。龍斗さんは、私の身体を大切にしている。それは間違いない。けれど私の心は、大切にされていないような気がした。身体だけを守られて、意思だけが置き去りにされている。そんな感覚だった。     ◇ 食事を終え。私はスマートフォンを手に取った。昨日、母から送られてきた弁護士の連絡先。画面を開く。指先が少し震えた。電話をかけるだけ、それだけなのに胸が激しく鳴った。もし。この一歩を踏み出したら、本当に龍斗さんから離れることになる。それでも、私は電話番号を押した。「……」 呼び出し音。 一回。 二回。 三回。 そのとき。 スマートフォンが突然、切れた。「……え?」 画面を見る。 圏外。 私は眉を寄せた。窓際へ移動する。それでも圏外のまま。「おかしい……」 昨日までは普通に使えていた。私は一度、電源を切った。再び入れる。それでも圏外。嫌な予感がした。     ◇ 私はリビングを出て、玄関へ向かった。外へ出れば、電波が戻るかもしれない。靴を履く。ドアノブへ手をかける。 ――カチャ。
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第27話 逃げ道を探す私、逃げ道を塞ぐ夫②

 昼過ぎ。 私は部屋で本を読んでいた。けれど、文章はほとんど頭に入ってこない。何度も、何度も玄関のほうへ目を向けてしまう。 閉じ込められている。 その事実を意識すると、胸が苦しくなる。私は立ち上がった。窓を開ける。少し冷たい風が入ってくる。遠くから、車の走る音が聞こえた。街はいつも通り動いている。 なのに。私は、この部屋の中にいる。まるで、世界から切り離されたようだった。そのとき、ふと机の引き出しに目が留まった。私はそこから一枚の紙を取り出した。母から教えてもらった、弁護士の名前と連絡先。それを見つめる。「……諦めない」 小さく呟く。今日、外へ出られなくてもいつか必ず、この状況を変える。私は紙を手帳の奥へしまった。     ◇ 夕方。 玄関の扉が開いた。龍斗さんが帰ってきた。「ただいま」「おかえりなさい」 いつも通り、何もなかったように、龍斗さんは私の隣へ座った。「今日はどうだった?」「家にいました」「そうか」 龍斗さんは、ほっとしたように笑った。「体調は?」「大丈夫です」「赤ちゃんは?」「問題ありません」「そうか」 龍斗さんの手が、私のお腹へ伸びる。私は少し迷って、でも、その手を避けなかった。温かい手だった。「……ここにいる」 龍斗さんが呟く。「俺たちの子だ」「はい」「由紀江」「何ですか?」「この子が生まれたら」「はい」「もっと幸せにする」 私は黙った。「今よりずっと大きな家に住もう」「……」「海外にも好きなだけ行ける」「……」「欲しいものがあれば、何でも買う」 私は胸が痛くなった。またこの人は、物で未来を作ろうとしている。「龍斗さん」「何だ?」「私は」 私はゆっくり言った。「物が欲しいんじゃありません」「じゃあ、何が欲しい?」 私は答えた。「信じてほしい」 龍斗さんの表情が止まった。「私が自分の意思であなたのそばにいることを、信じてください」「……」「逃げ道をなくさなくても、私はここにいられるんです」 龍斗さんは黙った。やがて。「わかった」 そう言った。「信じる」 私は少しだけ笑った。「ありがとうございます」 けれどその夜、私は喉の渇きを覚え、キッチンへ向かった。廊下を歩いていると。書斎の扉が少しだけ開いていることに気づいた。中から。低い声が聞こえ
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第28話 母が教えてくれた、九条院家の秘密

 翌朝。 目を覚ました私は、しばらく布団の中で動けなかった。昨夜、偶然聞いてしまった龍斗さんの会話が、頭から離れない。 ――完全には潰すな。 ――俺が手を差し伸べれば、助かる程度にしておけ。 何度思い返しても、胸が苦しくなる。あれは聞き間違いではない。龍斗さんは、私の実家を助けているのではなかった。私が逃げられないように、家族という大切なものを私の首につないでいる。私はゆっくり起き上がり、お腹に手を当てた。「……ごめんね」 まだ小さな命に謝る。「こんなところに連れてきちゃって」 もちろん返事はない。それでも。掌の下にある温もりを感じていると、少しだけ勇気が湧いてくる。私はベッドから降りた。もう泣いている場合ではない。龍斗さんが何を考えているのか。九条院家が何をしているのか。そして。どうすれば、この子と一緒にここから出られるのか。知らなければならない。     ◇ 朝食の席には、龍斗さんがいた。「おはようございます」「ああ。おはよう」 いつもと変わらない。 昨日、私の家族を追い詰める話をしていた人と同じ人物とは思えないほど、穏やかな顔をしている。龍斗さんは新聞をたたんだ。「眠れたか?」「はい」「顔色が悪い」「少し寝不足なだけです」「今日は出かけるな」 まただ。けれど。私は反発しなかった。「わかりました」 龍斗さんが少し意外そうな顔をする。「素直だな」「……」「何かあったか?」「何もありません」「そうか」 龍斗さんは安心したように食事を続ける。私はその姿を見ながら。心の中で別のことを考えていた。 ――この人には、知られないようにしなければ。 昨日。書斎で聞いたことを。私はまだ何も知らないふりをする。今は、それしかできない。     ◇ 朝食を終えると。私は自室へ戻った。そして、母へ電話をかけた。『由紀江?』「お母さん」『どうしたの?』「聞きたいことがあるの」『何?』「九条院家のこと」 電話の向こうが静かになった。『……龍斗さんから何か聞いたの?』「ううん」 私は声を落とした。「私が自分で調べたいの」『何を?』「九条院家が、昔からどういう家なのか」 母はしばらく黙っていた。『どうして急に?』「昨日、九条院家の古い話を少し聞いたの」 本当は違う。でも。母には言えなかった。龍斗
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第29話 母が教えてくれた、九条院家の秘密②

 電話を切ったあと。私はしばらくベッドの端に座っていた。窓の外は晴れている。けれど、胸の中は、暗い雲が立ち込めていた。私は机の引き出しを開ける。昨日、書き写した弁護士の連絡先。母子手帳に挟んだ紙。 そして、もう一つ。これまで龍斗さんからもらった贈り物の一覧を書いた。 バッグ。 宝石。 時計。 旅行。 洋服。 どれも高価なものばかり。私は一つ一つを思い返した。以前は、「こんなに大切にしてくれている」と思おうとした。でも、今ならわかる。龍斗さんは私の心ではなく、私の機嫌を買おうとしていた。 謝る代わりに物を与える。 話し合う代わりに金を使う。 私が嫌だと言えば。 もっと高価なものを与える。 それが龍斗さんにとっての「愛し方」なのだ。私は小さく息を吐いた。「……愛って、こんなものじゃない」     ◇ 昼過ぎ。 突然、玄関のほうから慌ただしい声が聞こえた。「奥様!」「どうしました?」 使用人が駆け込んでくる。「申し訳ありません。お客様が……」「お客様?」「九条院家の古くからの取引先の方がいらしています」「私に?」「はい」 私は首を傾げた。 そんな予定は聞いていない。「どなたですか?」「以前、九条院家の顧問をされていた方だそうです」 胸がざわついた。「……私に会いたいと?」「はい」 私は少し迷った。けれど、会うことにした。     ◇ 応接室に入ると、六十代ほどの男性が一人、ソファに座っていた。白髪の混じった髪。仕立てのいいスーツ。けれど、どこか疲れたような目をしている。「初めまして」 男性が立ち上がった。「私は、九条院家と長く取引をしてきた者です」「由紀江です」「突然伺って申し訳ありません」「いえ」 私は向かいに座った。「どうして私に?」 男性は少し迷ってから。「あなたに、伝えておかなければならないことがあると思いまして」 胸がざわついた。「何でしょう?」「九条院龍斗という人間についてです」 また......その名前。「……はい」「あなたは、あの方がなぜ、そこまであなたを手放したがらないのか知っていますか?」 私は黙った。「少しだけ」「そうですか」 男性は目を伏せた。「では、これを」 一冊の古いファイルを差し出された。「これは?」「九条院家の過去の記録です
last updateLast Updated : 2026-08-28
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