جميع فصول : الفصل -الفصل 10

11 فصول

第1話

がんと診断された日は、美咲が養子に迎えた悠斗の誕生日だった。誕生日パーティーが始まる直前、俺は血を吐いた。美咲は悠斗の誕生日に水を差したと俺を責め、病院へ連れていくどころか、地下室に閉じ込めた。美咲は冷たい目で俺を見下ろした。「律、よりによって悠斗の誕生日に血を吐くなんて。今日がどんな日か分かってるの?」湿った床に這いつくばっている。白いシャツの胸元は、吐いた血で濡れている。胃がひきつり、激しい痛みが走った。このままでは死ぬと思い、必死に病院へ連れていってくれと頼んだ。美咲の目に失望の色が一瞬よぎり、声が低くなる。「まだ嘘をつくの?医師にはとっくに確認してあるわ。早期のがんなら、転移することも、血を吐くこともないのよ!亮介への嫌がらせのために、悠斗の誕生日にこんな真似までして。よくそこまで考えつくわね!」深く息を吸い、声を振り絞ってすがった。「俺は美咲の夫だろ!頼む、美咲。病院へ連れていってくれ。もう二度と姿を見せないから」美咲は顔を険しくした。身をかがめて俺の首を締め上げ、冷たく言い放つ。「そうやって私の気を引こうとしても無駄よ。悠斗の誕生日が終わるまで、そこで大人しくしていなさい。そのあとで病院へ連れていく。病気が治れば、今までどおり水野家の婿でいられるわ」そう言って立ち上がり、出ていこうとした。青白い手で美咲の手首をつかんだ。青ざめた顔を上げ、もう一度懇願する。「病院へ連れていってくれ。頼む……」美咲は鼻で笑い、俺の手を乱暴に振りほどいた。そのまま肩を強く蹴りつけ、ためらいもなくドアに鍵をかける。ドアの向こうから、冷え切った声が聞こえた。「誠司、律を見張っていて。私の許可なしに、ここから出さないで」痛みに耐えきれず、俺は何度も悲鳴を上げた。美咲はその声をうるさがり、悠斗と亮介を連れて温泉ホテルへ誕生日を祝いに出かけた。美咲に肩を蹴りつけられ、俺は床へ倒れ込んだ。反射的に体を丸めた直後、喉の奥が熱くなり、また血を吐いた。真っ白なシャツの胸元に、赤い染みがじわじわと広がっていく。力を振り絞り、床に血の跡を残しながら、少しずつドアまで這った。拳で何度もドアを叩いた。「誠司!頼む、ここから出してくれ。痛くてたまらないんだ!」執事・黒田誠司(くろだ せいじ)はドアに耳を当
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第2話

「どれだけ俺を見下していても、目の前で俺が死んでも平気なのか?」その言葉に、誠司はようやく足を止めた。しばらくして、ドアの向こうから面倒そうな声が返ってきた。「今から美咲様に電話します。美咲様が許可なさらなければ、あとは私の責任ではありませんからね」慌ててうなずき、ドアの前にうつ伏せになったまま、誠司が電話をかけるのを待った。「美咲様、律様が何度も血を吐いているそうです。病院へお連れしたほうがよろしいでしょうか」美咲は料理を注文したばかりだった。誠司からの電話に顔をしかめ、冷たい声で叱りつけた。「誠司、もう仕事を辞めたいの?律をここから出さないようにと言ったでしょう。律の言うことをいちいち取り次がなくていいの!」叱られた誠司は顔をしかめ、地下室のドアをにらんだ。ふと、ドアの隙間から流れ出す血が目に入った。たちまち顔から血の気が引き、震える声で叫んだ。「血が……血が出ています!美咲様、律様の話、本当みたいです!本当に血を吐いています!ドアの隙間から、こんなに血が流れ出ています!」スマホを持つ美咲の手が止まった。しばらく黙り込み、ためらいがちに口を開く。「待ってて……」意識がぼんやりする中、スマホから聞こえた悠斗の幼い声が、美咲の言葉を遮った。わずかに残っていた俺の希望も、そこで消えた。「ママ、アイスが食べたい」美咲が振り返った。悠斗を抱いた亮介が、目を輝かせて美咲を見つめている。「美咲、律からか?今日は悠斗の誕生日だ。悠斗の誕生日を祝うのが気に入らなくて、何か理由をつけて美咲を帰らせようとしてるんじゃないか?この前、美咲が悠斗の保護者会へ行こうとしたときも、邪魔しただろ。全部、俺が悪いんだ。悠斗が子どもの頃の美咲にそっくりだったから、施設でつらい思いをさせたくなかった。だから、どうしても引き取りたいと言った。俺がそんなことを言わなければ、悠斗も保護者会で、ママのいない子だとからかわれることもなかったのに」つらそうに自分を責める亮介を見て、美咲の胸がわずかに痛んだ。悠斗は美咲へ駆け寄り、その胸に飛び込んだ。顔を上げ、甘えるような声で言う。「ママ、最後まで一緒にお祝いしてくれる?ママと誕生日を過ごすの、今日が初めてなんだ。今まではずっとパパと二人だった。みんなに、ママがいな
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第3話

美咲は保護者会へ行くことを、わざと俺に隠していた。だから、俺は何も知らなかった。あのときのうれしそうな美咲の姿は、今もはっきり覚えている。だがその一方で、俺が嘘をつき、子どもにまで嫉妬していると決めつけていた。「律様、律様!しっかりしてください!」誰かの大きな両手が、俺の体を強く揺さぶっている。頭の中はぐちゃぐちゃで、何も考えられない。どうにかゆっくりと目を開けた。目の前には誠司がいる。俺が目を開けると、誠司はほっと息をつき、胸元を軽くたたきながら言った。「意識が戻ってよかったです」続けて、不満そうにこぼした。「律様、驚かせないでください」目を落とすと、真っ赤な液体が辺りに広がっている。誠司も俺の視線を追い、何かに気づいたように鼻を押さえ、嫌そうに顔をしかめた。「律様、作業員が置いていったペンキ缶を倒したんですか?ひどい臭いです。仮にもこの家のご主人でしょう。それなのに、家を大事にする気なんて少しもないんですね。いつも私たちを困らせてばかりです!」はっとして隅を見ると、赤いペンキ缶が倒れている。俺の手が、うっかり当たったのだろう。地下室は暗い。誠司の体が、入口から差し込む光を遮っている。すると、誠司は何か思い当たったように声を上げた。「美咲様のおっしゃったとおりでした。ペンキ缶をわざと倒して、私に血だと思わせたんですね。それで美咲様に電話をかけさせ、帰ってきてもらおうとしたんでしょう!美咲様が騙されなくてよかったです!危うく、悠斗様たち3人で過ごす誕生日まで台無しになるところでした!」誠司を鋭くにらんだが、痛みのせいでほとんど声が出ない。俺の視線に一瞬ひるんだ誠司は、慌ててモップを取りに行き、地下室のドアを閉め忘れた。地下室から外へ続く階段は、何度も折れ曲がっている。けれど、考えている時間はない。このままではここで死んでしまう。自分で助けを求めるしかない。何度か深く息を吸い、震える手を壁につき、どうにか立ち上がった。一歩ずつ、外へ向かう。この階段が、こんなにも長く感じたのは初めてだ。胃がけいれんし、一歩進むたび、刃物で胃をえぐられるような痛みが走る。美咲にスマホを取り上げられている。家の外へ出て、誰かに助けを求めるしかない。大通りまでたどり着いたところで力尽き、その場
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第4話

雅人は目を見開いて俺の全身を見回し、戸惑いながら尋ねた。「これ、本当に赤いペンキなんですか?」美咲はきっぱりと答えた。「間違いありません。夫に代わってください。少し話があります」雅人はしゃがみ込み、気の毒そうに俺を見ながら、耳元へスマホを差し出した。美咲の声が聞こえてくる。「律、そんな芝居にはもううんざりよ。今日、本当に死ぬほど具合が悪いとしても、そんなことは関係ない。たとえ死ぬとしても、今日だけは我慢しなさい!自分の体のことも、周りがどれだけ心配するかも考えずに、勝手に薬を飲んだんでしょう。そんな律が、亮介と肩を並べられると思わないで。たとえ私と結婚していても、永遠に亮介より下よ。これで諦めがついた?今すぐ大人しく家に戻って。これ以上、外で恥をさらさないで!」美咲の一言一言が、刃物のように胸をえぐった。どれだけ尽くしても、俺は亮介には敵わないのだ。涙が頬の血と混じり、地面へ落ちた。「勝手に薬を飲んだ……?」かすれた声で問い返した。「美咲、ずっと俺のことをそんなふうに思ってたのか。俺たちが何年もかけて築いてきた絆も、結局はただの笑い話だったんだな」美咲は苛立たしげに部屋を歩き回り、スマホを握る手に少しずつ力を込めた。叱りつけようと口を開いた瞬間、かすかな声が耳に届く。「美咲、もう二度と会わない」……根の優しい雅人は美咲の言葉に従わず、救急車を断らずに俺を病院へ送ってくれた。冷たい薬液が体内へ流れ込むと痛みは和らいだが、胸の奥にはどうしようもない悲しみが込み上げてきた。卒業してから、ずっと美咲のそばにいた。会社を狙う親戚たちを追い出し、何の迷いもなく美咲を陰から支え続けた。子どもを産みたくないと言われたときは、美咲に黙ってパイプカットまで受けた。だが、亮介が悠斗を連れて俺たちの前に現れた途端、それまでの俺がまるで馬鹿みたいに思えた。温かな手が、ガーゼで俺の涙を拭っている。頭上から、松田修平(まつだ しゅうへい)先生の切迫した声が聞こえた。「患者の家族とは連絡が取れたか?容体が悪い。すぐに手術が必要だ!」そばにいた看護師の山口葵(やまぐち あおい)が答えた。「松田先生、先ほどまでは緊急連絡先につながったのですが、電話を切られました。その後は電源まで切られていて、連絡が
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第5話

「大丈夫よ、律。もう大丈夫だから。私がついてるよ」深夜、眠っていた美咲は、耳元で聞こえた泣き声にふいに目を覚ました。反射的に隣へ顔を向けると、悠斗はすぐそばでおとなしく眠っていて、泣いた様子はなかった。悠斗に布団をかけ直したが、理由もなく胸がざわつき、どうしても眠れない。スマホを確認しても、メッセージは1件も届いていなかった。昼間、知らない番号から何度もかかってきた電話を切ったことを思い出すと、胸の不安が一気に膨れ上がった。ふと律の顔が浮かび、水野家のかかりつけ医である小林和也(こばやし かずや)へ電話をかけた。「小林先生、夫の具合はどうですか?」「律さんですか?水野社長、律さんは救急車で病院へ運ばれたのではないんですか?私がご自宅に着いたとき、ちょうど救急車が出ていくところでした。てっきり、水野社長が救急車をお呼びになり、私が間に合わなかったのだとばかり思っていました」美咲は一瞬動きを止めたが、すぐに椅子から立ち上がり、顔を輝かせて尋ねた。「それなら、手術はもう終わって、病気も治ったということ?」美咲の弾んだ声を聞き、和也は言葉に詰まった。あのとき聞いた話とは、どうも違う気がした。しばらく言葉を選んでから、慎重に答えた。「水野社長、できるだけ早く第一総合病院へ、律さんのお見舞いに行かれたほうがよろしいかと思います」美咲は喜びを隠せず、何度も頷いた。車の鍵を手に出かけようとすると、亮介が悠斗の手を引き、ドアの前に立っていた。悠斗は眠そうに目をこすり、美咲へ両腕を伸ばす。「ママ、抱っこして。ママが一緒じゃないと、眠れないよ」亮介は上半身裸で、鍛え上げられた筋肉をあらわにしたまま歩み寄り、美咲の肩を抱いた。「美咲、さっきの電話が聞こえた。律が手術を受けたのか?律はずっと前から診察の予約を取っていたはずだろ。どうして急に今日、それもこんな時間になったんだ?もう遅いし、今から運転するのは危ない。それに、律はまだ麻酔が効いて眠ってるはずだ。休ませてやったほうがいい。今すぐ行かなくてもいいだろ」美咲はうつむいて少し考え、悠斗を抱き上げると、亮介へ顔を向けた。「それもそうね。たった数時間のことだもの。朝になってから行っても同じよ。律がどこかへ行くわけでもないもの。森川が病院の近くにいるから、先に何か買
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第6話

「つまり、千秋さんが律を連れていったのに、私には一言もなかったということ?」美咲は信じられない様子で、拓也に聞き返した。拓也はうつむいたまま、大粒の汗が目に入っても拭おうとせず、おそるおそる答えた。「はい。ボディーガードに止められました。藤原先生は何も言わず、そのまま車に乗ってしまいました」美咲は眉間にしわを寄せ、抱えていたチューリップを地面へたたきつけると、低い声で命じた。「防犯カメラを確認して、車のナンバーを調べて!1日以内に律を見つけなさい!」家へ連れ帰られた俺は、ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見つめていた。しばらく何も言えなかった。つい悪いほうへ考えてしまい、そばにいる兄・藤原圭介(ふじわら けいすけ)に尋ねた。「兄さん、俺はもう一生、ベッドから起き上がれないのかな?」治療が遅れたせいで、がんは急速に進行し、すでにほかの部位にも転移している。手術でも、腫瘍をすべて取り除くことはできなかった。圭介は一瞬動きを止め、俺の顔色をうかがいながら、静かに言った。「律、俺と海外へ行こう。一番腕のいい医者を探して、治してもらおう」俺は少し驚き、頷いた。美咲、もう耐えられない。今度こそ、二度とお前のもとへは戻らない。圭介は安心したように、小さく頷いた。そのとき、スマホが鳴った。千秋からの電話だった。「兄さん、美咲が知り合いに頼んで、二人の居場所を突き止めた。今、そっちへ車で向かってる」圭介は目を細め、鼻で笑った。「ちょうどいい。俺も美咲に会いに行こうと思ってた。あの女をどう迎えてやるか、考えないとな」そばで聞いていた俺は、圭介の立場では美咲と顔を合わせるのはまずいと思い、今にも出ていきそうな圭介を止めた。「兄さん、美咲には会わないでくれ。俺を捜しに来たんだ。俺が行く」圭介は納得できない様子で俺を見る。「律、まだ体調も戻ってないだろ」何を言っても圭介は首を縦に振らず、気まずい空気が流れた。そのとき、圭介の秘書・相沢七海(あいざわ ななみ)が目をくるりと動かし、横から口を挟んだ。「それなら、私が行きましょうか?」俺と圭介がそろって七海を見つめると、いつも冷静な彼女の頬が急に赤くなった。七海が計画を話し終えると、圭介はすっかり乗り気になった。興奮を隠せない様子で頷き、そのまま俺
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第7話

美咲は眉をひそめ、怒りを押し殺した声で言った。「ただの秘書が口を挟むことじゃないわ。律はどこ?早く出てきなさい。わざわざ迎えに来たのよ」美咲が家へ入ろうとすると、七海は手を伸ばして行く手を遮り、大声を上げた。「もう遅いです!水野社長、来るのが遅すぎました。もう二度と律さんには会えません!」突然怒鳴られ、美咲は目を見開いた。「頭がおかしいんじゃない?少し遅れただけでしょう。それだけで律に会わせないつもり?律にそう言われたの?律!出てきなさい!」七海は鼻で笑い、美咲を雨の中へ突き飛ばした。「律さんに会いたいんですよね?明日の午前9時、白峰霊園へ来てください。律さんに会える最後のチャンスです」そう言うと、七海は背を向け、その場を離れた。美咲は引き止めて事情を問いただそうとしたが、周囲から七、八人のボディーガードが集まり、美咲の前に立ちはだかった。雨の中で押され、よろめきながら車へ乗り込む美咲を見ても、圭介の怒りは収まらなかった。「これだけか?まだ全然足りない!」俺はやるせない思いで窓の外の闇を見つめ、拳を握りしめた。「あと少しで死ぬところだった。美咲は俺を裏切ったんだ。一生後悔したって足りない。夜も眠れないほど苦しみながら、残りの人生を過ごせばいい!このまま許せるわけがない!」……白峰霊園。空は黒い雲に覆われ、雨脚はますます強まり、弱まる気配がない。千秋と七海は黒い服を着て、霊園の入り口で美咲を待っている。午前9時前、美咲がやって来た。千秋を見つけると、不満そうに言う。「千秋さん、こんな大雨の中、どうしてここに呼び出したの?律は山の上にいるの?どうして下りてこないの?」千秋は一言も答えず、背を向けて山道を歩き始めた。美咲は納得できないまま千秋の後を追う。朝から胸のざわつきが消えず、雨が強まるにつれて不安も膨らんでいく。突然、千秋の腕をつかんだ。「千秋さん?どうして黒い服を着て、喪章までつけてるの?」美咲の顔からさっと血の気が引き、唇を震わせながら尋ねた。「誰が死んだの?」千秋は美咲を見つめ、唇を開きかけた。そのとき、張り詰めた空気を破るように、スマホの着信音が鳴った。「美咲、悠斗が熱を出したんだ。戻ってきて、病院へ連れていってくれないか?」美咲の目に
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第8話

「千秋さん、こっちはプライドを捨てて、わざわざ機嫌を取ってるのよ。それなのに、どうしてまだ私を殺したいみたいな顔をしてるの!悠斗との養子縁組を解消して、亮介も追い出して、二人が飢え死にするまで放っておくって約束しなきゃ、律は満足しないの?水野家の婿なら、もっと器の大きい男でいてもらわないと困るわ。もう気が済んだでしょう?」そう言うと、美咲は山の上へ向かって怒鳴った。「律!いい加減にして!今すぐ出てこないと、本当に怒るわよ!」その言葉を聞いても、心は少しも揺れなかった。俺は車椅子に座ったまま、少し離れたところに立つ美咲を静かに見つめている。千秋は美咲に背を向けた途端、うんざりしたように顔をしかめ、そのまま山道を上りながら冷たい声で言った。「誰が死んだのか聞いたでしょう?急いで。これ以上遅れたら、律の棺が埋められて、もう二度と会えなくなるわ」美咲はふらりとよろめき、握っていた傘を取り落とした。頭の中が真っ白になる。千秋さんは今、何て言った?誰が死んだ?死んだのは誰?全身から一気に力が抜け、美咲はしばらく呆然と立ち尽くした。やがて我に返ると、すでに遠くまで進んでいた千秋たちを追いかけた。「律?今の話は……嘘よね?千秋さんと律が、二人で私を騙してるんでしょう?そうなんでしょう?何か言ってよ!」それまで黙って歩いていた七海は、取り乱す美咲を見ると千秋の前へ出て、突然美咲の頬を平手打ちし、大声で怒鳴った。「水野社長!もっと近くまで行って、棺の中にいるのが誰か確かめてください!よく見てください!一昨日の夜、あなたが地下室に閉じ込めた人です!病院から何度も緊急の電話がかかってきたのに、全部切ったでしょう!」美咲が左を見ると、棺の中には見覚えのある人影が横たわっている。その体は血にまみれ、ひどい傷を負っている。膝から崩れ落ちた。あまりの衝撃に何も考えられず、こみ上げる悲しみに耐えきれず取り乱した。「嘘よね?嘘に決まってる……みんなで私を騙してるんでしょう……」美咲は立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。膝をついたまま棺へにじり寄り、中に横たわる人へ手を伸ばした。その指先が届く直前、千秋が美咲の手をつかみ、乱暴に引き離した。その姿を見ても、胸は少しも晴れなかった。それどころか、怒りで全身が熱くなる
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第9話

美咲は顔を上げ、すがるような目で千秋を見つめた。千秋は冷たい目を向け、淡々と言った。「律は、美咲を愛したことを後悔してるって。もし生まれ変わっても、美咲とは知り合いたくないし、二度と会いたくないって言ってたわ。でも姉として、美咲には一生、律のことを忘れないでいてほしい。これから先、毎晩思い出せばいい。幸せだった頃じゃなく、必死に助けを求めた律の声と、血まみれで棺に横たわる姿を。その記憶に一生苦しめばいいわ」「律!私が間違ってた!」美咲の泣き叫ぶ声が、山中に響き渡った。圭介が横から姿を現し、持っていた傘を俺の頭上へ差しかけた。車椅子を押してその場を離れながら、俺に視線を落とし、今後の段取りを詳しく話した。「こっちはボディーガードに任せてある。全部終わるまでは、あいつを押さえておく。午後の便で、ここを離れるぞ」俺は頷いた。美咲を一度も振り返らず、その場を離れた。美咲は、死ぬとしても今日だけは我慢しなさいと言った。そんな女が何事もなかったように残りの人生を送るなんて、許せるわけがない!絶対に許さない!そのために仕組んだのが、あの偽の葬儀だ。棺の中に横たわっていたのは俺ではなく、ただのダミー人形だった。……律が飛行機でこの街を離れた頃、美咲は猛スピードで家へ戻っていた。「誠司!誠司!」家には誰もおらず、玄関には血だまりだけが残っていた。美咲は目の前がくらみ、倒れないようドア枠にもたれた。血の跡をたどり、一歩ずつ奥へ進む。地下室の前で足を止めると、あの日、律を閉じ込めたときの光景がよみがえった。長くためらった末、震える手で地下室のドアを押し開けた。カチッと音がして、照明がついた。強烈な血の臭いが鼻をつく。室内はひどく荒れ、長い血の跡が伸びていた。美咲は息をのみ、一歩後ずさった。律が壁際から身を引きずり、ドアまで這っていく姿が頭に浮かぶ。おそるおそる中へ入り、ペンキ缶を手に取った。「乾いてる……」美咲の喉から、かすれた悲鳴が漏れた。自分は律を誤解していたのだ。あの夜、律が吐いたのはペンキではなく、本物の血だった。缶の中にペンキは残っておらず、内側に薄くこびりついた跡もとっくに乾いていた。地下室には、血の臭いしか残っていない。あの夜、律はどれほど苦しんだのだろう。それなのに
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第10話

亮介は事情も知らず、律がいなくなった今、この家は自分のものになったと思い込んでいた。美咲に呼ばれると、喜んで応じた。その先に、終わりのない苦しみが待っているとは知らなかった。……「姉さん、何かあったのか?」そのとき、俺は学校へ向かっている途中だった。海外での治療を終えたあと、好きなデザインを学んでいる。「律、美咲が逃げて、警察に追われてるの」足が止まった。あまりの衝撃に、その場から動けない。「律、ごめんね。最近の律が幸せそうだったから、向こうで起きたことを隠してたの」俺は首を横に振った。「姉さんを責めたりしない。俺のためだって分かってる」千秋は話を続けた。「少し前、美咲は知り合いに頼んで、病院に残っていた律の診療記録を手に入れようとしてたの。自分がどれだけひどいことをしたのか思い知らせたかったから、私は止めなかった。美咲は診療記録も防犯カメラの映像も、全部手に入れたわ。それを見たあと、病院でひと騒ぎ起こして、そのまま姿を消した。亮介も一緒に姿を消したの。1か月前、夜中に男の悲鳴が聞こえたと、美咲の家の近所の人が警察へ通報した。駆けつけた警察が見つけたのは、亮介の遺体だった」話を聞き終えた瞬間、周囲から音が消えた。頬をかすめる風だけを感じながら、俺は声を落として尋ねた。「美咲がやったのか?」「そうよ。兄さんが向こうに残したボディーガードから連絡があったの。前に作った偽の墓が掘り返されてたって。美咲が逃げる途中で、律の墓を見に行ったんだと思う。美咲はもう全部知ってる。律、警察に指名手配される前に、もう海外へ逃げていたかもしれない。兄さんにも、さっき話したわ。しばらく家から出ないで。美咲が律を見つけるかもしれない!」電話が切れたあと、俺は空を見上げた。遠くの空には、黒い雲がゆっくりと集まっている。どうしてこんなことになったのか、分からない。千秋に言われたとおり、タクシーを呼んで家へ戻ることにした。車が走り出してから、はっとした。考え事をしていたせいで、行き先を日本語で伝えてしまった。それなのに、運転手には通じていた。ゆっくりと顔を上げ、バックミラーへ目を向けた。マスクをつけた美咲が、鏡越しに俺を見ている。小さく笑い、優しい声で言った。「律、やっとまた会えたわね」……
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