LOGIN俺・水野律(みずの りつ)ががんと診断された日は、妻・水野美咲(みずの みさき)が養子に迎えた水野悠斗(みずの ゆうと)の誕生日だった。誕生日パーティーが始まる直前、俺は血を吐いた。美咲は、悠斗の誕生日に水を差したと俺を責め、病院へ連れていくどころか、地下室に閉じ込めた。 床に倒れ、シャツを血で汚した俺を見下ろし、美咲は冷たく言い放った。 「律、よりによって悠斗の誕生日に血を吐くなんて。今日がどんな日か分かってるの?」 病院へ連れていってくれと頼んだ。だが、美咲は医師にも確認したと言い、早期のがんなら吐血するはずがないと譲らなかった。安西亮介(あんざい りょうすけ)に嫌がらせをするため、わざと吐血したふりをしていると決めつけていた。 俺は声を振り絞ってすがった。「俺は美咲の夫だろ!頼む、美咲。病院へ連れていってくれ。もう二度と姿を見せないから」 美咲は表情を険しくし、俺の首を締め上げた。「そうやって私の気を引こうとしても無駄よ。悠斗の誕生日が終わるまで、そこで大人しくしていなさい。そのあとで病院へ連れていく。病気が治れば、今までどおり水野家の婿でいられるわ」 激痛に耐えきれず、俺は何度も悲鳴を上げた。美咲はその声を嫌がり、悠斗と亮介を連れてホテルで誕生日パーティーを続けた。 その後、俺のことを思い出した美咲は、手術が無事に終わったかと秘書・森川拓也(もりかわ たくや)に尋ねた。拓也は青ざめ、震える声で答えた。「律さんは……もう、病院にはいらっしゃいません」
View More「律を捜すために、わざわざここまで来たの。私がしたことは全部、律のためよ。律の代わりに、亮介に仕返ししたの!あの人さえいなければ、律を疑うことも、律が私から離れていくこともなかったでしょう!」美咲の話を聞くうちに全身が冷え、俺は一歩ずつ後ずさった。美咲は俺の腕をつかみ、しおらしい態度を装って話を続けた。「安心して。会社の資産は全部処分したし、身分も変えたわ。この国には、私たちを知ってる人は誰もいない。前みたいに二人で暮らせるの」喉元までせり上がる吐き気をこらえ、嫌悪感を必死に抑えて美咲に言った。「もう戻れない、美咲。美咲が俺に隠れて亮介を水野家へ連れ戻し、悠斗を養子に迎えたときから、俺たちの関係にはひびが入ってたんだ!全部、亮介のせいにするのか?美咲は何も悪くなかったとでも思ってるのか?俺を信じず、地下室に閉じ込めたのは美咲だ!どうして俺が、また昔に戻りたいと思うんだ!」俺の言葉を聞いた美咲は目を赤くし、その場にひざまずいて、すがるように言った。「律、お願い。今回だけは許して。私が悪かった。これからは律を大切にする。一生かけて償うから。律がいなくなってから、ずっと眠れなかった。深い闇の中でもがいてるみたいだった。頭に浮かぶのは、傷だらけになった律の姿ばかりだった。どうしても忘れられないの。愛してる、律」俺は首を横に振りながら、さらに後ずさった。「でも、俺はもう美咲を愛してない。許すこともできない」美咲は絶望したような目で俺を見つめ、立ち上がって近づいてきた。突然、風を切る音がした。美咲はとっさに俺の前へ出た。次の瞬間、銃弾がその肩を貫いた。振り返ると、圭介が何人かを連れて現れた。美咲は自分の傷にも構わず、俺の全身を見回し、焦った声で尋ねた。「律、けがはない?」答える前に、背後から圭介の声がした。「俺の弟は無事に決まってる。お前が急に動かなければ、あの弾はお前の頭を撃ち抜いてた」美咲は俺と圭介を交互に見た。何か言おうとした瞬間、もう一発の銃弾が美咲の膝を貫いた。美咲はその場に崩れ落ちた。圭介は俺を自分の後ろへ引き寄せてかばい、美咲の頭に銃口を突きつけた。「律が二度と会わないと言ったのに、まるで聞く耳を持たなかったようだな。逃げ道はいくらでもあったのに、わ
亮介は事情も知らず、律がいなくなった今、この家は自分のものになったと思い込んでいた。美咲に呼ばれると、喜んで応じた。その先に、終わりのない苦しみが待っているとは知らなかった。……「姉さん、何かあったのか?」そのとき、俺は学校へ向かっている途中だった。海外での治療を終えたあと、好きなデザインを学んでいる。「律、美咲が逃げて、警察に追われてるの」足が止まった。あまりの衝撃に、その場から動けない。「律、ごめんね。最近の律が幸せそうだったから、向こうで起きたことを隠してたの」俺は首を横に振った。「姉さんを責めたりしない。俺のためだって分かってる」千秋は話を続けた。「少し前、美咲は知り合いに頼んで、病院に残っていた律の診療記録を手に入れようとしてたの。自分がどれだけひどいことをしたのか思い知らせたかったから、私は止めなかった。美咲は診療記録も防犯カメラの映像も、全部手に入れたわ。それを見たあと、病院でひと騒ぎ起こして、そのまま姿を消した。亮介も一緒に姿を消したの。1か月前、夜中に男の悲鳴が聞こえたと、美咲の家の近所の人が警察へ通報した。駆けつけた警察が見つけたのは、亮介の遺体だった」話を聞き終えた瞬間、周囲から音が消えた。頬をかすめる風だけを感じながら、俺は声を落として尋ねた。「美咲がやったのか?」「そうよ。兄さんが向こうに残したボディーガードから連絡があったの。前に作った偽の墓が掘り返されてたって。美咲が逃げる途中で、律の墓を見に行ったんだと思う。美咲はもう全部知ってる。律、警察に指名手配される前に、もう海外へ逃げていたかもしれない。兄さんにも、さっき話したわ。しばらく家から出ないで。美咲が律を見つけるかもしれない!」電話が切れたあと、俺は空を見上げた。遠くの空には、黒い雲がゆっくりと集まっている。どうしてこんなことになったのか、分からない。千秋に言われたとおり、タクシーを呼んで家へ戻ることにした。車が走り出してから、はっとした。考え事をしていたせいで、行き先を日本語で伝えてしまった。それなのに、運転手には通じていた。ゆっくりと顔を上げ、バックミラーへ目を向けた。マスクをつけた美咲が、鏡越しに俺を見ている。小さく笑い、優しい声で言った。「律、やっとまた会えたわね」……
美咲は顔を上げ、すがるような目で千秋を見つめた。千秋は冷たい目を向け、淡々と言った。「律は、美咲を愛したことを後悔してるって。もし生まれ変わっても、美咲とは知り合いたくないし、二度と会いたくないって言ってたわ。でも姉として、美咲には一生、律のことを忘れないでいてほしい。これから先、毎晩思い出せばいい。幸せだった頃じゃなく、必死に助けを求めた律の声と、血まみれで棺に横たわる姿を。その記憶に一生苦しめばいいわ」「律!私が間違ってた!」美咲の泣き叫ぶ声が、山中に響き渡った。圭介が横から姿を現し、持っていた傘を俺の頭上へ差しかけた。車椅子を押してその場を離れながら、俺に視線を落とし、今後の段取りを詳しく話した。「こっちはボディーガードに任せてある。全部終わるまでは、あいつを押さえておく。午後の便で、ここを離れるぞ」俺は頷いた。美咲を一度も振り返らず、その場を離れた。美咲は、死ぬとしても今日だけは我慢しなさいと言った。そんな女が何事もなかったように残りの人生を送るなんて、許せるわけがない!絶対に許さない!そのために仕組んだのが、あの偽の葬儀だ。棺の中に横たわっていたのは俺ではなく、ただのダミー人形だった。……律が飛行機でこの街を離れた頃、美咲は猛スピードで家へ戻っていた。「誠司!誠司!」家には誰もおらず、玄関には血だまりだけが残っていた。美咲は目の前がくらみ、倒れないようドア枠にもたれた。血の跡をたどり、一歩ずつ奥へ進む。地下室の前で足を止めると、あの日、律を閉じ込めたときの光景がよみがえった。長くためらった末、震える手で地下室のドアを押し開けた。カチッと音がして、照明がついた。強烈な血の臭いが鼻をつく。室内はひどく荒れ、長い血の跡が伸びていた。美咲は息をのみ、一歩後ずさった。律が壁際から身を引きずり、ドアまで這っていく姿が頭に浮かぶ。おそるおそる中へ入り、ペンキ缶を手に取った。「乾いてる……」美咲の喉から、かすれた悲鳴が漏れた。自分は律を誤解していたのだ。あの夜、律が吐いたのはペンキではなく、本物の血だった。缶の中にペンキは残っておらず、内側に薄くこびりついた跡もとっくに乾いていた。地下室には、血の臭いしか残っていない。あの夜、律はどれほど苦しんだのだろう。それなのに
「千秋さん、こっちはプライドを捨てて、わざわざ機嫌を取ってるのよ。それなのに、どうしてまだ私を殺したいみたいな顔をしてるの!悠斗との養子縁組を解消して、亮介も追い出して、二人が飢え死にするまで放っておくって約束しなきゃ、律は満足しないの?水野家の婿なら、もっと器の大きい男でいてもらわないと困るわ。もう気が済んだでしょう?」そう言うと、美咲は山の上へ向かって怒鳴った。「律!いい加減にして!今すぐ出てこないと、本当に怒るわよ!」その言葉を聞いても、心は少しも揺れなかった。俺は車椅子に座ったまま、少し離れたところに立つ美咲を静かに見つめている。千秋は美咲に背を向けた途端、うんざりしたように顔をしかめ、そのまま山道を上りながら冷たい声で言った。「誰が死んだのか聞いたでしょう?急いで。これ以上遅れたら、律の棺が埋められて、もう二度と会えなくなるわ」美咲はふらりとよろめき、握っていた傘を取り落とした。頭の中が真っ白になる。千秋さんは今、何て言った?誰が死んだ?死んだのは誰?全身から一気に力が抜け、美咲はしばらく呆然と立ち尽くした。やがて我に返ると、すでに遠くまで進んでいた千秋たちを追いかけた。「律?今の話は……嘘よね?千秋さんと律が、二人で私を騙してるんでしょう?そうなんでしょう?何か言ってよ!」それまで黙って歩いていた七海は、取り乱す美咲を見ると千秋の前へ出て、突然美咲の頬を平手打ちし、大声で怒鳴った。「水野社長!もっと近くまで行って、棺の中にいるのが誰か確かめてください!よく見てください!一昨日の夜、あなたが地下室に閉じ込めた人です!病院から何度も緊急の電話がかかってきたのに、全部切ったでしょう!」美咲が左を見ると、棺の中には見覚えのある人影が横たわっている。その体は血にまみれ、ひどい傷を負っている。膝から崩れ落ちた。あまりの衝撃に何も考えられず、こみ上げる悲しみに耐えきれず取り乱した。「嘘よね?嘘に決まってる……みんなで私を騙してるんでしょう……」美咲は立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。膝をついたまま棺へにじり寄り、中に横たわる人へ手を伸ばした。その指先が届く直前、千秋が美咲の手をつかみ、乱暴に引き離した。その姿を見ても、胸は少しも晴れなかった。それどころか、怒りで全身が熱くなる