All Chapters of 【百合】氷刃の公爵令嬢と身代わりの花嫁: Chapter 1 - Chapter 10

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第一章 捨て駒の花嫁

婚礼の鐘が鳴り響いた瞬間、リーゼロッテは初めて悟った。自分は「花嫁」という立場すら、他人から施されたものにすぎないのだと。赤い絨毯の先には、黒騎士団の軍旗が高々と掲げられている。深紅と漆黑が入り混じった紋章が、この茶番のような婚礼を見下ろしていた。彼女が纏う婚礼衣装は、急ごしらえのものだった――針目は粗く、屋敷で使用人の喪服を仕立てる裁縫師が徹夜で縫い上げたもので、襟元には抜き忘れた針が一本、まだ刺さったままだった。「……ちっ、哀れなこと」侍女たちの囁きが、帳の向こうから聞こえてくる。隠す気配すらない。「聞いた?本当に嫁ぐはずだったのはあちらのお嬢様なのに、急に病弱なお姉様が身代わりに立てられたそうよ。何でも……本物の婚約者を辺境の水に当てたくないとかで」「ふん、要するに、大事な娘をあの人殺しの辺境伯に嫁がせて、辺境で命を落とすのが怖いだけでしょう」「あの方……式が終わるまで持つのかしら。花嫁衣装より顔色が白いじゃない」笑い声は極力抑えられていたが、一言一句、リーゼロッテの耳に容赦なく突き刺さった。彼女は背筋を伸ばした姿勢を崩さず、爪を掌に深く食い込ませる――それが幼い頃から身につけた、人前で崩れ落ちないための唯一の術だった。体内の魔力が、また暴れ始めた。まるで無数の虫が経脈を這い上ってくるかのように。顔から一瞬で血の気が引き、呼吸が詰まる。今にも赤絨毯の上に崩れ落ちそうだった。「支えは要らないと言ったはずよ」駆け寄ろうとした従者を、彼女は掠れた声で制した。歯を食いしばる。この身体には、「人前で発作を起こす」という屈辱すら許されていない――倒れれば、それは周囲の嘲笑が正しかったと証明することになるのだから。やがて、オルガンの音がぴたりと止んだ。重い足音が、遠くから近づいてくる。リーゼロッテが顔を上げたその瞬間――ざわついていた貴族席が、一瞬だけ静まり返った。黒の軍礼服。肩章には辺境伯家の銀狼の紋章。エルフリーデ・フォン・シュヴァルツが大股で歩いてくる。腰の剣が歩みに合わせて微かに音を立て、灰色の瞳には温度の欠片もない。その視線が会場を一巡すると、先ほどまで忍び笑いを漏らしていた貴婦人たちですら、口をつぐんだ。跪いて命乞いする敵国の王子を、その手で処刑した――そう噂される女が、今、一歩また一歩と彼女に近づいてくる。リーゼロッテはほとん
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第二章 辺境の初夜

馬車が辺境伯領に入ったその瞬間、リーゼロッテは初めて悟った。自分はもう完全に「侯爵家四女」という身分の庇護から離れてしまったのだと――もっとも、その庇護など、とうに名ばかりのものでしかなかったが。窓の外の景色は、王都の石畳から、次第に荒涼とした丘陵と疎らな針葉樹林へと変わっていく。彼女を護送する黒騎士団の兵士たちは皆寡黙で、誰一人として余計な好奇心も敵意も向けてこない。まるで彼女が、ついでに運ばれる荷物の一つであるかのように。その「無視されている」という感覚が、かえって彼女の肩の力を抜かせた。王都の、礼儀の裏に潜む悪意に比べれば、こうした率直な無関心のほうが、まだ耐えやすかった。馬車が停まった時には、辺りはすっかり暗くなっていた。辺境伯邸には、王都貴族の屋敷にあるような凝った装飾はなく、全体が重厚な灰色の石造りで、窓から漏れる灯りも疎らで控えめだった。遠くには連なる軍営の輪郭がぼんやりと見える――ここはまず要塞であり、「家」であるのはその次だった。「ついてこい」エルフリーデの声が背後から響いた。相変わらず余計な温度はないが、婚礼の場で見せたあの見定めるような鋭さも、今はなかった。リーゼロッテは彼女について幾つかの廊下を抜け、やがてさほど広くない一室の前で足を止めた。部屋の設えは簡素で、暖炉にはすでに火が入り、寝台は整えられ、窓辺には机が一つ。その上には、意外にも一式の医療道具が並んでいた――銀の針、見覚えのないいくつかの琉璃瓶、そして表紙に辺境伯家の紋章が刻まれた、使い込まれた手記。「これは……」「今日から夜はここで眠れ」エルフリーデはまっすぐ机に歩み寄り、彼女の言いかけた問いなど聞こえなかったかのように続けた。「上着を脱いで、寝台の縁に座れ」リーゼロッテの身体が瞬時に強張った。辺境伯家に嫁いでから直面するであろう境遇は、当然いくつも想定していた――冷遇されることも、利用されることも、もっと悪い可能性も、心の中で何度も演じてみた。だが、相手が最初に口にする命令が、こんなにも前置きなく、ほとんど無遠慮なほど直截なものだとは、想像していなかった。「辺境伯……閣下」最後の体面を保ちながら、彼女は小さく、しかし退かない声で言った。「婚礼が終わったばかりです。せめて……」「お前の身体を診ているだけだ」エルフリーデが振り返る。灰色の瞳には何の波もない
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第三章 お抱え医師の沈黙と妹からの便り

侯爵邸、書斎。お抱え医師ホルトンは、侯爵アーレンスの前に立ちながら、掌に冷や汗をかいていた。「辺境伯邸から、まだ何も報せはないのか」侯爵は顔も上げず、銀細工の懐中時計を弄びながら言った。声からは感情が読み取れない。「はい、閣下。今のところは」ホルトンは頭を垂れ、言葉を選びながら口を開いた。「ですが……ここ数日、考えていたのですが。リーゼロッテ様が今回お持ちになった『薬』は、三ヶ月分しかございません。辺境伯邸に、心得のある医師でもいれば、もしや……」「もしや、何だ」「何か、勘づかれるやもしれません」ホルトンの声がわずかに低くなった。「あの方の体内にある力は、抑え込めば抑え込むほど……もし『生まれつきの病ではない』と外部に知れれば、もしや……」「どうなると言うのだ」侯爵はようやく目を上げた。声にはわずかな苛立ちが滲む。「嫁に出した捨て駒だ。生きようが死のうが、侯爵家には関わりのないこと。お前が案じるべきは、その『薬』の処方の出所が探られ、侯爵家に累が及ばぬようにすることだろう」ホルトンは口を開きかけたが、結局、言いかけた言葉を飲み込んだ。彼は医師として二十年、侯爵家のためにその「薬」を十九年間調合し続けてきた身だ。誰よりもよく分かっている――あれは断じて、「病を抑える」ためのありふれた処方などではない。師が臨終の際に幾度も念を押し、決して軽々しく人に明かしてはならぬと言い遺した**「鎖脈散」。生まれながらに「帰元血脈」**の体質を持つ者の力を、封じ込めるためだけの秘薬だ。そして「帰元血脈」という言葉は、王室の古い典籍において、あの伝説の「緋色の巫女」と、同じ血脈を指す別称に他ならなかった。十九年前、侯爵夫人がリーゼロッテを産み落としたあの夜、産室の外にまで血の匂いが立ち込め、生まれたばかりの赤子の身体には、うっすらと赤い紋様が浮かび上がった――それは吉兆などではなく、三百年前に王室が明令した、「発見次第、直ちに報告し、王室の裁定に委ねるべし」とされる異象そのものだった。侯爵は、報告しなかった。彼は、侯爵家の運命そのものを覆しかねないこの秘密を、生まれたばかりの娘もろとも、屋敷の最も奥深い密室に封じ込め、外にはただこう伝えた――夫人が産んだのは「病弱で早世の相を持つ」女児であり、恐らく一年と生きられぬだろう、と。生き延びたリーゼロッテは、それ以
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第四章 内なる疑念

カスパーが辺境伯邸に仕えて六年になる。その間、逃亡を図った兵士を大人が容赦なく処刑するところも、交渉の場でたった一枚の地図と引き換えに三百名の捕虜を取り戻すところも、この目で見てきた。軍の中では皆こう言う――大人の心には「人」など無く、あるのは「辺境」と「勝敗」だけだと。だからこそ、あの「一年と持たない」と噂されていた侯爵家の捨て娘が辺境伯夫人になったと聞いた時、黒騎士団の誰もが、ほぼ同じ反応を示した。不信。同情ではない。警戒だった。あの計算高いことで知られる侯爵家が、何の思惑もなくただの「病弱な娘」を差し出すはずがない。カスパーはそう確信していた。むしろこれは、丁寧に包装された駒――間者か、あるいは時限式の罠のようなものだろうと。それなのに大人は、その「駒」に自ら文字を教え、経脈まで整えてやり、この三ヶ月というもの「処置」という言葉すら口にしていない。カスパーは、何かをすべきだと思った。その日の夕方、彼は「たまたま」回廊を一人で歩いていたリーゼロッテを呼び止めた。「奥方様」拳を胸に当て、礼を尽くしながらも、声音は鉄のように硬かった。「一つ、正直にお答えいただきたいことがございます」リーゼロッテは足を止め、警戒した目で彼を見た。「カスパー副団長、どうぞ」「この三ヶ月、侯爵家から届いた書状や『薬』の類を、奥方様は密かに開封したり、隠し持ったりされたことはございますか」彼の視線は鋭く彼女の顔に張り付き、わずかな表情の変化も見逃すまいとしていた。「不躾ながらお尋ねします――こちらに嫁がれる前、侯爵家から何か言伝を託され、内々に情報を送り返すよう命じられたことは」その一言は、頭から冷水を浴びせられたようだった。リーゼロッテの顔から一気に血の気が引いた。この問いの意味は、彼女にもすぐに分かった。**間者。**辺境伯の傍らに送り込まれた、侯爵家の間者ではないか、という疑いだった。「カスパー副団長は……私を疑っておられるのですか」声はわずかに震えていたが、それでも彼女は退かなかった。「私は幼い頃から家族に疎まれてきました。もし本当に彼らの駒だというのなら、なぜ十九年もの間、本物の力を惜しげもなく抑え込んでまで、私という『使えるかどうかも分からない賭け』に賭けたりするでしょうか」「その言葉こそが、最も巧妙な擬装かもしれません」カスパーは動じなかった。
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第五章 発作

事は深夜に起きた。リーゼロッテは何の前触れもなく眠りから引き裂かれるように目を覚ました。五臓六腑が内側から無理やり引き裂かれているような感覚だった――それはいつもの「逆脈の暴れ」特有の鈍い痛みではない。今まで経験したことのない、焼けつくような激痛が、経脈を伝って四肢の隅々にまで走った。これは、違う。十九年間、自分の身体の「発作」と付き合ってきたはずなのに、今この瞬間の直感が、狂ったように警告していた――今度は、本当に死ぬ。人を呼ぼうとしたが、声を出す力すら残っていないことに気づいた。喉の奥に錆びた鉄のような味が込み上げ、俯くと、掌に咳き込んだのは、小さな暗紅色の血だまりだった。窓の外で夜番をしていた侍女が異変に気づき、扉を開けた瞬間、目の前の光景にその場で凍りついた――リーゼロッテは床に崩れ落ち、全身に細かく、異様な赤い紋様が浮かび上がっていた。まるで何かが、彼女の皮膚の下から、荒々しく突き破ろうとしているかのように。「誰か! 早く辺境伯様をお呼びして!」エルフリーデが駆けつけた時には、リーゼロッテの意識はすでに朦朧としていた。「持ちこたえろ」エルフリーデは彼女を床から抱き上げ、指先を極限まで乱れた脈に当てた瞬間、瞳孔が鋭く収縮した――これはもはや、ただの「逆脈の暴走」ではない。体内のあの力は、まるで自壊するかのような勢いで暴れ狂っている。何か外部の力が、この発作を強制的に触媒しているとしか思えなかった。「今夜、誰が彼女に何かを使った」エルフリーデの声が一気に鋭くなり、視線が部屋中の者たちを射抜いた。侍女は全身を震わせながら答えた。「夕餉の前に……侯爵家から使いの者が『安眠香』を届けて参りました。侯爵夫人様が特に、奥方様のご入眠のためにと……侯爵家からの品でしたので、言われた通り、香を焚いてしまい……」エルフリーデの顔色が一瞬で凍りついた。**安眠香。**内服の薬ではない。吸引式――「鎖脈散」よりもはるかに巧妙で、事後に証拠を辿ることも難しい手段だった。これまで検めてきたあらゆる書状や薬材は、すべて「内服」にしか警戒していなかった。この一手だけが、完全に見落とされていた。侯爵家は今回、本気で命を狙ってきた。「ホルトンを叩き起こせ!」ほとんど意識を失いかけたリーゼロッテを抱き上げ、大股で部屋を飛び出しながら叫んだ。「もし少しでも隠し立てす
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第六章 血盟

ホルトンの「唯一の方法は、力を完全に解き放つことです」という一言は、一見道を示しているようで、実際には何の道筋にもなっていなかった。エルフリーデはあの手記を三度読み返したが、見つかる記述はわずか数行、字は乱れ、「血盟を引きとする」という四文字だけが記されていて、その先は要領を得ない。問い詰めても、ホルトンはただ頭を振るばかりだった。これは失伝して久しい巫女の秘儀で、師の代でさえ実際にどう行うのか見た者はいない、どこから手をつければいいのかすら分からないのだと。誰も教えてくれない。前例もない。彼女は俯き、リーゼロッテを見た。顔色は恐ろしいほど白く、呼吸は一呼吸ごとに浅くなっていく。「もし、やり方を間違えたら」口にしてから、自分でもおかしいと思った。いつから自分は、動く前に「間違えたらどうなる」などと問うようになったのか。ホルトンの声はひどく震えていた。「共鳴を引き出せなければ、その力は逆に反噬し、お二人の経脈を蝕みます。軽ければ重傷、重ければ……お二人とも、そのまま……」エルフリーデの手は剣の柄の上で止まった。一瞬、すぐには抜かなかった。死が怖いわけではない。この十年、辺境で命を懸けて生きてきた身だ、今さらそれを恐れはしない。怖いのは、自分が手を下した結果、もし本当に間違っていたら――リーゼロッテを救えないばかりか、この手で死を早めることになるかもしれないということだった。それでは、この十年で身につけてきた果断さも決断力も、たった一度の「人を救う」ということにさえ、役に立たなかったことになる。それでも、目の前のその顔を見た。三ヶ月前まで、自分と目を合わせることすら怯えていた娘。今はもう、もがく力さえ残っておらず、ただ静かに、少しずつ沈んでいこうとしている。彼女は剣を抜き、自らの掌を切り裂いた。血がリーゼロッテの眉間に滴り落ちたその瞬間、息を止めて待った――来るかどうかも分からない、何かの応えを。何も起きなかった。赤い光も、異象も現れない。リーゼロッテの脈は、なおも弱まり続けていた。エルフリーデは、何の変化もないその顔を見つめながら、初めて、ほとんど滑稽なほどの無力感に襲われた。これまでずっと、代償さえ払う覚悟があれば、たいていのことは何とかなると思ってきた。だが今、ようやく分かった。世の中には、蛮勇だけではどうにもならないことがあるのだと。自分
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第七章 覚醒

踏み込んできたのは敵ではなかった。カスパーだった。肩には切り裂かれたばかりの傷があり、血が甲冑を伝って滴っている。その顔色は、リーゼロッテのそれとさほど変わらないほど悪かった。「辺境伯、外郭がもう保ちません」彼は息を切らしながら言った。「あの者たちは、ただの刺客ではありません。魔力の反応を抑え込む何らかの符を身につけているようで、我々の兵が近づくと、武器に付与した強化まで効かなくなります。あと持って、四半刻というところです」エルフリーデは振り返らず、なおも身を屈めたまま、リーゼロッテの手を握っていた。「四半刻」彼女はその言葉を繰り返した。声はごく小さく、カスパーにはほとんど聞き取れないほどだった。彼はふと気づいた。目の前のこの人が、今、何と言うか――途方に暮れているように見えることに。六年仕えてきて、エルフリーデの顔にこれほど「呆然」に近いものを見たのは初めてだった。「辺境伯?」「私にはできない」彼女は口を開いた。声には、ほとんど自嘲に近い率直さがあった。「どうすれば彼女を救えるのか、私には分からない、カスパー。できることは全部試した」カスパーは口を開きかけたが、何を言えばいいのか分からなかった。何千という敵を前にしても眉一つ動かさないエルフリーデを見てきたが、こうして「できない」と口にする姿は、見たことがなかった。「では……奥方様は……」「まだ生きている」エルフリーデが遮った。「だが、そう長くは持たない」書斎の外の戦闘の音が、次第に扉のすぐ外まで迫ってきていた。エルフリーデは俯き、自分の掌の傷を見つめ、それからリーゼロッテの眉間にある、すでに乾いてしまった血の痕へと視線を移した――共鳴もなく、反応もない。すべてが、ホルトンの言う「血盟」とは無縁のように見えた。もしかすると、この道筋そのものが、最初から間違っていたのかもしれない。ふと、彼女は思い出した。初めてリーゼロッテの逆脈を整えたあの夜、自分がこう言ったことを――お前の中にある魔力は、乱れているのではない。無理やり抑え込まれ、流れを歪められた「逆脈」だ。堰き止められた川が、「引き込む」だけでは動かないのなら、まず堰そのものを取り除くべきではないのか。彼女は再び手記を開き、これまで無関係だと思って読み流していた前の数ページ――「逆脈体質」がなぜ生まれるかについての記述に、急いで目
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第八章 尋問

夜が明けてから、黒騎士団は昨夜の戦果を確認した――黒装束の者十七名、生け捕りにできたのは三名のみ。残りは力尽きて死ぬか、符が効力を失った瞬間、まだ収まりきらないリーゼロッテの力の余波を受けて重傷を負い、夜明けまで持たなかった。牢に引き立てられた三名のうち、一人の身元がエルフリーデを驚かせた。ただの死士ではない。王室暗部の三級密偵の証を持っていた。ただし故意に摩耗させ、ただの刺客に見せかけようとした痕があった。尋問は午前中いっぱいかかったが、その男は最後まで口を割らなかった。エルフリーデが、昨夜リーゼロッテが覚醒した際に残った、まだ微かに赤い光沢を帯びた血の痕の標本を、男の前に置くまでは。「お前たちが確かめたかったのは、これだろう」彼女は淡々と言った。「もう確かめは済んだ。そろそろ話してもらおうか」男の顔色が一変し、ついに口を開いた――多くはないが、十分な内容だった。侯爵家が今回動かしたのは、自家の手勢だけではなかった。三ヶ月前、侯爵は密かに、「聖女制度」を司る大司祭と面会し、ある取引を交わしていた。侯爵は血脈が本当に覚醒する前にリーゼロッテを「処理」し、後顧の憂いを断つ。その見返りとして、王室は「乱を平定した功」として侯爵家を公爵家へと格上げする、というものだった。そして今回派遣された暗部の者たちは、表向きは侯爵の依頼を受けて動いていたが、実際には大司祭からもう一つ別の命令を受けていた――もし血脈が本当に覚醒していたなら、生かして連れ帰る必要はない。その場で消し去れ。「消し去る」リーゼロッテがこの言葉を耳にしたのは、書斎の外の回廊に座っていた時だった。身体に浮かんでいた赤い紋様は、すでに薄い痕を残すのみになっている。彼女は小さくその言葉を繰り返した。まるで、自分が聞き間違えていないか確かめるかのように。「連れ戻す」ではない。「消し去る」だ。彼女はふと思った。この十九年、家族に対して抱いてきたあらゆる恨みも、結局のところ、どこかで幼い期待を捨てきれずにいたのだと。家族が薄情であっても、根底では「身内」であるはずで、まさか本当に死へと追い詰めるようなことはしないだろう、という期待を。その程度の期待すら、贅沢だったのだ。ホルトンは離れの一室に一人で留め置かれていた。監禁というほどではないが、自由の身とも言えない。エルフリーデはすぐに彼を処分しようと
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第九章 冷めたスープと、答えのない夜

密書は黒騎士団が夜のうちに王都から持ち帰ったもので、中身は明確だった――侯爵と大司祭の間で交わされた密約が、はっきりと記されていた。厄介なことになる代物だった。エルフリーデは最後まで読み終えると、書状を置き、眉間を揉んだ。ここ数日、ろくに眠れていない。証拠の確認、捕虜の尋問、次々と片付けねばならないことが重なり、いつもより顔つきが疲れて見えた。リーゼロッテがスープを持って入ってきたことにも、しばらく気づかなかった。「いつ入ってきた」「ノックしたのですが、返事がなかったので」リーゼロッテはスープを彼女の手元に置いた。「カスパーが、昨日の午後からずっと、ろくに何も召し上がっていないと」エルフリーデはそのスープをちらりと見て、それから彼女を見たが、特に何も言わず、匙を取って口に運び始めた。「お前も、人の世話を焼くようになったな」しばらくして、思い出したように言った。「あなたに教わったんです」リーゼロッテは隣に座った。「字を教えてくれたあの時、私が食事を摂っていないことにも、気づいていましたよね」エルフリーデは何も答えず、俯いてスープを飲み続けた。蝋燭の灯りは少し暗く、部屋の中は静かで、匙が碗の縁に当たる小さな音だけが響いていた。「これからどうするおつもりですか」リーゼロッテは机の上のあの書状に目をやった。「この書状だけでは、そのまま表には出せない」エルフリーデは言った。「大司祭の後ろには聖女制度そのものがある。下手をすれば、これは偽造だと言われるか、あるいは、我々のほうがお前の血脈を利用して何か企んでいるのだと言われかねない」「では、何が足りないのですか」「お前自身が出ることだ」エルフリーデは彼女を見た。「お前の覚醒は、あの夜、黒騎士団の何人もが目にしている。事実には違いない。だが、それだけでは足りない。邪呪の仕業だと言われればそれまでだ。正式な場で、お前自身が姿を見せる必要がある」リーゼロッテはすぐには答えず、しばらくしてから、小さな声で言った。「王都に戻るということですね」「ああ」彼女はそれ以上何も言わず、ただ俯いて自分の手を見つめていた。部屋は再び静かになった。「あまり戻りたくないのです」彼女は独り言のように、ごく小さく言った。「あの人たちに会うのが怖いわけではなくて……自分があの場に立った時、どんな様子になるのか、それが分からな
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第十章 祭壇の陰で

密室には蝋燭が三本だけ灯り、芯はすでに短く燃え尽きかけていたが、誰も継ぎ足そうとしなかった。アーレンス侯爵は下座に跪き、背筋をまっすぐに保っていたが、額には汗がにじんでいた。「辺境伯はすでに入城しております」彼は声を落として言った。「あの密書のことが、もし本当に表沙汰になれば……」「表沙汰になったとして、それが何だ」大司祭は暗がりに座ったまま、年齢も感情も読み取れない声で言った。「聖女制度が三百年続いてきた理由が、何だと思っている」侯爵は答えられなかった。「誰も『真実とは何か』などと問わずに済むからだ。答えは問われるものではなく、宣告されるものだからな」大司祭は手を挙げ、侍従に古びた典籍を取り寄せさせ、机の上に広げさせた。指先がその一頁を示す。「三百年前の契約により、認証儀式の裁定権は教廷が握っている。王座にもない、どの貴族の家にもない。お前の娘の血脈がどれほど本物で、どれほど強かろうと、教廷が頷かぬ限り、あれは永遠に認証されぬただの異物に過ぎん」「しかし、もし彼女が本当に圧倒的な力を示せば……」「それこそ望むところだ」大司祭は言葉を遮った。声に初めて興味の色が滲んだ。「よく聞け。三日後の儀式、私はあの娘が来るのを止めはしない。むしろ全員の前で、その力を余すところなく見せつけてやればいい。圧倒的であればあるほど、恐ろしければ恐ろしいほど、その場にいる貴族も民も、こう信じるようになる――これは聖女にふさわしい力ではない、と」侯爵は息を呑んだ。「史書に記された聖女の力とは、穏やかなものだ。涸れた井戸に再び水を湧かせ、病に伏す子供の熱を一夜で下げる、そういう類のものだ」大司祭の声が低くなった。「だがあの娘のそれは、石壁を震わせ、符を焼き尽くすような代物だ。それが何に見える。戦場に見える。殺戮に見える。制御を失った獣に見える。人の心はいとも簡単に操れるものだ、侯爵。貴族どもに『邪祟憑き』の意味をいちいち説明する必要などない。恐怖を煽る光景を一つ見せてやれば、あとは奴らが勝手に、頭の中で説明を作り上げてくれる」「あとは儀式の最も適した瞬間に、私が軽く一押ししてやるだけでよい」「一押し、とは」「儀式当日、お前が人を手配し、彼女が力を示したその瞬間に、わざと『負傷』させるのだ」大司祭の口調は、まるで家事でも指示するかのように平然としていた。「本当に傷つけ
last updateLast Updated : 2026-09-02
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