LOGIN馬車が辺境伯領に入ったその瞬間、リーゼロッテは初めて悟った。自分はもう完全に「侯爵家四女」という身分の庇護から離れてしまったのだと――もっとも、その庇護など、とうに名ばかりのものでしかなかったが。
窓の外の景色は、王都の石畳から、次第に荒涼とした丘陵と疎らな針葉樹林へと変わっていく。彼女を護送する黒騎士団の兵士たちは皆寡黙で、誰一人として余計な好奇心も敵意も向けてこない。まるで彼女が、ついでに運ばれる荷物の一つであるかのように。
その「無視されている」という感覚が、かえって彼女の肩の力を抜かせた。
王都の、礼儀の裏に潜む悪意に比べれば、こうした率直な無関心のほうが、まだ耐えやすかった。
馬車が停まった時には、辺りはすっかり暗くなっていた。辺境伯邸には、王都貴族の屋敷にあるような凝った装飾はなく、全体が重厚な灰色の石造りで、窓から漏れる灯りも疎らで控えめだった。遠くには連なる軍営の輪郭がぼんやりと見える――ここはまず要塞であり、「家」であるのはその次だった。
「ついてこい」
エルフリーデの声が背後から響いた。相変わらず余計な温度はないが、婚礼の場で見せたあの見定めるような鋭さも、今はなかった。
リーゼロッテは彼女について幾つかの廊下を抜け、やがてさほど広くない一室の前で足を止めた。部屋の設えは簡素で、暖炉にはすでに火が入り、寝台は整えられ、窓辺には机が一つ。その上には、意外にも一式の医療道具が並んでいた――銀の針、見覚えのないいくつかの琉璃瓶、そして表紙に辺境伯家の紋章が刻まれた、使い込まれた手記。
「これは……」
「今日から夜はここで眠れ」エルフリーデはまっすぐ机に歩み寄り、彼女の言いかけた問いなど聞こえなかったかのように続けた。「上着を脱いで、寝台の縁に座れ」
リーゼロッテの身体が瞬時に強張った。
辺境伯家に嫁いでから直面するであろう境遇は、当然いくつも想定していた――冷遇されることも、利用されることも、もっと悪い可能性も、心の中で何度も演じてみた。だが、相手が最初に口にする命令が、こんなにも前置きなく、ほとんど無遠慮なほど直截なものだとは、想像していなかった。
「辺境伯……閣下」最後の体面を保ちながら、彼女は小さく、しかし退かない声で言った。「婚礼が終わったばかりです。せめて……」
「お前の身体を診ているだけだ」エルフリーデが振り返る。灰色の瞳には何の波もない。「お前が思っているようなことではない」
彼女は一拍置き、その説明さえ余計だと感じたのか、淡々と付け加えた。声にはわずかに、投げやりとも取れる響きが混じっていた。
「本当に何かを望むなら、こんな面倒な手段は使わない」
なぜか、その半ば失礼とも取れる一言が、リーゼロッテの中で張り詰めていた糸を、いくらか緩めた。
彼女はしばし黙り込んだ後、ゆっくりと上着のボタンを外し、薄手の肌着だけを残して、言われた通り寝台の縁に腰を下ろした。蝋燭の灯りが、彼女の異様に蒼白な腕をほとんど透けるほどに照らし出す。長年の「投薬」で残った手首の針痕が、この近さでは隠しようもなかった。
エルフリーデの視線がその痕に落ち、数秒、沈黙が流れた。
「いつからだ」声が、わずかに低くなった。
「……物心ついた時には、もう」
「毎月、何回打たれていた」
リーゼロッテは一瞬戸惑った。相手がここまで具体的に尋ねてくるとは思っていなかった。それでも正直に答えた。「月に二回です。お抱えの医師が言うには……体内の乱れた魔力を抑えるためだと。そうしなければ、発作を起こして死に至ると」
「死に至る、か」エルフリーデはその言葉を繰り返した。声にはごくわずかな嘲りが滲んでいたが、それはリーゼロッテに向けたものではなかった。「本当にそれで死ぬのなら、お前を十九歳まで生かしてはおくまい――『いつ暴走するか分からない不良品』など、もっと早くに処理しているはずだ」
その一言は、針のように正確に、リーゼロッテが今まで深く考えたことのない疑問を突き刺した。
そうだ。もし自分の体内にあるものが本当にただの、危険しかもたらさない乱れた魔力なのだとしたら、実家はなぜ、さっさと彼女を切り捨てずに、何年も「薬」を費やしてまで、成人するまで彼女を"生かし"続け、しかもちょうど縁談の"捨て駒"が必要になったこの年に、彼女を嫁に出したのか。
「お前」エルフリーデが不意に手を伸ばし、同意を求めることなく、まっすぐ彼女の手首を掴んだ。指先が正確に、いくつかの脈所を押さえる。「感じてみろ。抗うな、怖がるな」
見知らぬ、冷たさを帯びた力が接触点から体内へと染み込んでいく。まるで、何かを極めて慎重に梳き整えているかのように。リーゼロッテは反射的に振り払おうとした――長年の躾によって、身体を無遠慮に触れられることへの本能的な抵抗があった――が、その力に悪意はなく、むしろ奇妙なほど辛抱強い導きのようなもので、普段暴れ回り経脈を蝕んでいた躁動を、少しずつ鎮めていった。
彼女は呆然と自分の手首を見つめ、呼吸がわずかに止まった。
もう何年も、こんなに「静か」だったことはなかった。
「お前の中にある魔力は、乱れているのではない。無理やり抑え込まれ、流れを歪められた『逆脈』だ」エルフリーデの声は集中しており、軍人らしい冷静な分析の響きを帯びていた。「本来なら海へと注ぐはずの川が、堰き止められて行き場を失っているようなものだ。行き場のない水は、周囲の堤を蝕むしかない――お前が毎月起こす『体調不良』は、病ではない。水位が限界まで達した、溢れ出しだ」
「では……あの薬は……」
「病を治す薬などではない」エルフリーデの視線が、初めて本当の意味で彼女の目の奥を見据えた。灰色の瞳には憐れみはなく、ただ冷徹なまでの明晰さがあった。「堰を固めるための石だ。お前の実家は、十九年もの間、その川に堰を積み増し続けてきた――流れを通そうとしたのではなく」
静まり返った部屋に、暖炉の火の粉が時折はぜる音だけが響く。
リーゼロッテは、十九年生きてきて、とうに見抜いたと思っていた自分の身体に関する真実が、この「冷酷で人を殺めることも厭わない」と噂される女の、幾つかの平静な分析によって、音を立てて亀裂を見せ始めているのを、初めて感じていた。
「……どうして」声がわずかに震えた。「どうしてあなたには、こんなことが分かるのですか。どうして、お抱えの医師が十九年も語らなかったことを、あなたは一目見ただけで……」
「見たことがあるからだ」エルフリーデは手首を離し、口調を普段の疎遠さに戻した。この話題にこれ以上留まるつもりはないようだった。「辺境では常に戦が絶えない。禁呪で抑え込まれ、歪められた才を持つ兵や敵を、私は何度も見てきた。お前のような状態は珍しくはない――珍しいのは、十九年もの歳月をかけて、『とうに使い潰しているはずの道具』を、ちょうど使い頃になる日まで丁寧に保存しておいたことだ」
彼女は窓辺へと歩み寄り、この息の詰まる話題をこれ以上続けるつもりはないというように、ただ、独り言のようでいて、どこか厳粛な宣告のような一言だけを残した。
「これからは、私自らお前の逆脈を整えてやる。憐れみからでも、お前にあるかもしれない『使い道』のためでもない」
窓から差し込む月光が、振り返った彼女の横顔をちょうど照らし出した。
「私のものに、これほど拙い細工をされたままにしておくのが――気に入らないだけだ」
リーゼロッテは寝台の縁に座ったまま、月光を背にして立つその後ろ姿を見つめていた。今、胸の奥でせり上がってくるものが、長年の秘密を見抜かれた恐怖なのか、それとも、これまで一度も味わったことのない、誰かに真剣に「見られた」ことへの、見知らぬ胸の高鳴りなのか――彼女自身にも、判別がつかなかった。
母が待つという駅舎までは、馬車で二日かかった。イザベラは後続の馬車に乗り、カスパーが護衛についた。先頭の馬車には、リーゼロッテとエルフリーデの二人だけが残された。二日目の昼過ぎから雨になった。幌を叩く雨音が単調に続き、車輪が泥を跳ねる音がそれに混じった。「寒くないか」「少しだけ」エルフリーデは膝掛けを広げ、リーゼロッテの膝にかけた。端を整えるとき、指が一度だけ彼女の手首に触れて、すぐに離れた。それきり、会話は途切れた。リーゼロッテは窓の外を流れる灰色の景色を眺めていたが、いつの間にか瞼が重くなり、揺れに合わせて頭が傾いた。気がついたときには、エルフリーデの肩に額を預けていた。慌てて身を起こそうとして、動けなかった。「そのままでいい」エルフリーデは前を向いたまま言った。「揺れが強くなってきた」嘘だとリーゼロッテは思った。道は先ほどまでと変わらず、ただ緩やかに揺れているだけだった。それでも何も言わず、もう一度、肩に頭を戻した。どれくらい経ったのか、目を覚ましたとき、雨はまだ降っていた。エルフリーデは同じ姿勢のまま座っていて、右腕がわずかに強張っているのが、袖の皺から分かった。「腕、痺れていませんか」「いや」「痺れていますよね」「……少しな」リーゼロッテは小さく笑って身を離し、彼女の右腕をそっと揉んだ。袖越しにも、筋肉が固くなっているのが分かった。エルフリーデは何か言いかけて口を閉じ、窓の外へ視線を逸らした。耳の縁が、うっすら赤くなっていた。「何も言わなくていいです」リーゼロッテは手を動かしたまま言った。「勝手にやっているだけなので」馬車の中には、それからしばらく、雨音と、袖の布が擦れる音だけがあった。その夜は、街道沿いの駐屯軍の宿舎に泊まった。部屋は二つ取れた。リーゼロッテが奥、エルフリーデが手前で、あいだを隔てるのは板一枚の薄い壁だった。寝台に入って灯りを消しても、リーゼロッテは眠れなかった。母のこと、楡の木のこと、記憶のこと。考えるほどに、輪郭がぼやけていく。壁の向こうで、寝返りを打つ気配がした。しばらくして、小さく壁を叩く音がした。二度。リーゼロッテは起き上がり、壁に近づいて、同じように二度、指の背で叩き返した。「起きていたのか」壁越しの声は、思ったよりずっと近かった。「そちらこそ」「眠れない」「私もです」
国王が護衛を増員して三日目、流刑の一団が通る北の街道から、一通の手紙が辺境伯邸に届いた。封筒はひどく古く、端が毛羽立っていた。封蝋にはアーレンス家の紋章が押されていたが、慌てて押したのか、図柄がはっきりしない。使者によれば、侯爵夫人が通りがかりの商隊に託したもので、辿り着くまでに半月近くかかったという。リーゼロッテは手紙を持ったまま、回廊に立ち尽くし、しばらく封を切れずにいた。「先に私が見ようか」エルフリーデが傍らで尋ねた。「いいえ」リーゼロッテは封蝋を剥がした。「母からの手紙です。せめてこれくらいは、自分で開けたい」便箋は一枚きりで、文字は小さく詰まっていた。紙が足りなくなるのを恐れているかのようだった。流刑の道中で病に伏したが、今は少し良くなった、と書かれていた。侯爵はこのところ口数が減り、夜は一人で朝まで座っていることが多い、とも。娘に一目会いたい。十九年間胸に溜めてきた話があり、今言わなければ、もう機会がないかもしれない。手紙の最後の数行には、ささやかな出来事が綴られていた。「あなたが三つの時、裏庭の楡の木の下に、木彫りの小鳥を埋めたことがありました。大きくなるまで待つのだと言って。私はずっとそれを覚えていて、あなたに聞きたいと思っていました。あのあと、掘り返しに行ったかどうか」そこまで読んだところで、リーゼロッテの指が止まった。「どうした」「覚えていません」彼女は便箋を裏返し、また表に戻した。裏に答えが書いてあるとでも思っているかのように。「裏庭に楡の木があったかどうかも、定かではないんです。離れのあたりには、井戸が一つあったことしか」エルフリーデは手紙を受け取ると、最初から最後まで目を通し、紙の端に鼻を寄せて匂いを確かめた。「インクは新しい。紙は古い」彼女は言った。「侯爵家で使っていた種類の紙だが、書かれたのは、ここ数日のことだ」「偽物だと思いますか」「本物かもしれないし、本物が誰かに使われているのかもしれない」エルフリーデは手紙を彼女の手に戻した。「首領は、今回は心を打つと言っていた。母親が娘に会いたがるというのは、これ以上ない題材だ」リーゼロッテは反論しなかった。回廊の柱にもたれて腰を下ろし、便箋を膝の上に押さえたまま、木の小鳥の一行を、指の腹で何度もなぞった。「母の顔も、よく覚えていないんです」長い沈黙の後、彼女は
王都に戻った翌日、宰相がイザベラの持ち帰った手がかりを整理するため、御書房に全員を召集した。地下の石室から書き写してきたあの刻文の巻物が、丁寧に広げられ、机の中央に置かれた。幾人かの学者がそれを囲み、表情を険しくしていた。「『記憶』と『意志』、この二つの条件について、いくつか手がかりが見えてきました」年配の学者が口を開いた。「古い文献の断片によれば――いわゆる『記憶』の条件とは、ある人物が、かつて完全な形で『血盟の共鳴』を経験し、その経験を、自らの血脈の本源に刻み込んでいることを指すそうです」リーゼロッテの胸が締めつけられた。「血盟の共鳴……私とエルフリーデが、あの坑道でしたことですね」「その通りです」学者は頷いた。「そして『意志』の条件は、さらに抽象的なものです――誰かが、大きな代償を払う可能性を承知の上で、それでもなお、犠牲に頼らず、共鳴と守護を成し遂げることを、自ら選び続けること。アリの時、南境の老漁師の時、そして雷脈のあの青年の時――あなたが下してきた一つ一つの選択が、知らぬ間に、この条件を積み重ねていたのかもしれません」広間がしばし静まり返った。「つまり」エルフリーデが低く口を開いた。「お前自身が、すでにその二つの条件の双方を、満たしつつあるということか」学者は重々しく頷いた。「辺境伯の仰る通りです。正確には、まだ『完全に満たした』とまでは言えませんが……両方の条件に、最も近い位置にいらっしゃるのは、間違いなく、リーゼロッテ様です」リーゼロッテは、その言葉を、すぐには呑み込めなかった。「それでは、私自身が、七脈の最後の鍵になるということですか」「その可能性は、否定できません」宰相が静かに言った。「もしそうなら、荊眸が本当に欲しているのは、あなたの血脈だけではなく――あなたという人間が、これまで積み重ねてきた『経験』と『選択』そのもの、ということになります」殿内の空気が、ますます重くなった。「つまり、お前は」エルフリーデの声に、抑えきれない緊張が滲んだ。「もう一つの意味でも、荊眸の標的になっているということか」「おそらく」学者が答えた。「ですが、幸いなことがあります。『記憶』と『意志』は、血脈のように、力ずくで奪い取れるものではありません。これらは、本人の経験そのものに根差しており、外から引き剥がすことは、極めて困難とされています」
廃墟から王都へ戻る道中、荒れた古い駅舎で一夜を過ごすことになった。部屋は相変わらず足りず、カスパーとイザベラが一室、リーゼロッテとエルフリーデは、またしても一室だけが残された。室内には狭い寝台が一つと、隅に錆の浮いた銅の盥が置かれているだけだった。身を清め終えたリーゼロッテが寝台の縁に座っていると、エルフリーデが外套の一番上のボタンを外し、鎖骨のあたりに残る古い戦傷の浅い痕が覗いた。「何を見ている」エルフリーデがその視線に気づいた。「あなたの傷を」リーゼロッテは目を逸らさなかった。「これは、いつの傷ですか」「ずいぶん前だ」エルフリーデは近づき、彼女の傍らに腰を下ろした。「よく見たいのか」その言葉には、隠す気もない揶揄が滲んでいた。リーゼロッテは引かず、むしろ手を伸ばし、指先でそっとその傷に触れた。「痛みますか」「今はもう痛まない」エルフリーデの声がいくらか低くなった。「お前がそうやって触れると、少し痛む気がする――傷のせいじゃなく」リーゼロッテの指が止まった。顔を上げると、逸らそうとしないその瞳と目が合った。「どういう意味ですか」「自分で考えろ」エルフリーデはそれ以上語らず、ただ手を伸ばして、鎖骨のあたりに触れたままの彼女の手を握り、ゆっくりと下へと導き、自分の胸の上に重ねた。「聞こえるか」心臓は速く、重く打っていた。薄い衣越しに、その鼓動が、はっきりと掌に伝わってきた。「今日、廃墟の中で、あなたは私に、一人で何かを抱え込むなと言いました」リーゼロッテの声も低くなった。「では、あなたも、今夜は、私をもう少し近くまで寄せてくれますか」エルフリーデは答えず、ただ俯いて、その唇の端に口づけた。今回は、これまでのどの時よりも深く、長かった――浅い探り合いではなく、一日中積み重なってきた不安の後、互いがまだ、ここに完全な形で在ることを確かめたいという、ほとんど貪るような確認だった。リーゼロッテの手は、その胸元から首筋へと滑り、彼女をより近くへと引き寄せた。二人の間に、これまで慎重に保たれていたあの距離は、完全に消え去っていた。エルフリーデの手が、彼女の腰のあたりを滑るように撫でた。動きはごく軽かったが、隠しようのない愛おしさが込められていた。まるで、この身体の一つ一つの輪郭を、改めて覚え直そうとするかのように。「エルフリーデ」リーゼロッテは
首領は言い終えると、その姿を地下通路のさらに奥の闇へと消し、それ以上留まることはなかった。石室には三人と、沈黙したままの壁の刻文だけが残された。松明の灯りが揺れ、イザベラの影を長く伸ばしていた。彼女の手にある、まだ書き写し終えていない紙は、端が皺になるほど強く握りしめられていた。「私は、何に気づいていないんでしょうか」リーゼロッテは首領の言葉を小さく繰り返した。その一言から、何か別の意味を噛み砕こうとしたが、どうしても呑み込めなかった。エルフリーデはすぐには答えなかった。まず身を屈め、イザベラの手から松明を受け取り、石壁の窪みに差し込むと、両手を自由にした。「先に出よう」彼女は言った。「ここに長くいるのは、体に良くない」三人は来た道を通り、地上へと戻り始めた。階段は長く、狭かった。先頭をイザベラが、その後ろをリーゼロッテが、最後尾をエルフリーデが歩いた。石の段差に足を取られそうになったリーゼロッテの肘を、エルフリーデがさりげなく支えた。「大丈夫か」「大丈夫です」リーゼロッテは答えたが、声にはまだ、先ほどの首領の言葉の余韻が残っていた。階段を上りきり、崩れた礼拝堂に出ると、外の光が目に沁みた。すでに日は沈みかけ、廃墟の石壁を、茜色に染めていた。イザベラが先に外へ出て、馬のところへと向かった。二人きりになった礼拝堂の跡で、エルフリーデはようやく足を止め、リーゼロッテの方を向いた。「さっきの言葉を、気にしているのか」「気にするなと言われても、無理です」リーゼロッテは俯いた。「あの人は、私が何かに気づいていないと言いました。それが何なのか、見当もつかなくて」エルフリーデは手を伸ばし、彼女の頬にかかった髪を、そっと払った。指先が、頬に軽く触れた。「分からないことを、一人で抱え込むな」彼女は言った。「考えるなら、私と一緒に考えろ」リーゼロッテは顔を上げた。夕陽の光が、エルフリーデの横顔を照らしていた。「あなたは、怖くないんですか」彼女は尋ねた。「あの二つが、私自身に関わっているかもしれないのに」エルフリーデはしばらく黙り、それから、手を伸ばして彼女の手を取った。指を絡め、しっかりと握った。「怖い」彼女は認めた。「だが、お前が一人で何かを背負い込もうとする時のほうが、もっと怖い」その手の温かさが、冷え込んでいた胸にゆっくりと染み込んでいった
修道院の跡地に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。崩れかけた石壁が、蔦に覆われたまま静かに佇んでいた。かつて礼拝堂だったとおぼしき建物の屋根は半ば崩落し、割れたステンドグラスの破片が、地面に散らばったまま苔むしていた。「イザベラ!」リーゼロッテは声を上げたが、返ってきたのは、風が廃墟を抜ける音だけだった。「手がかりを探そう」エルフリーデが言った。「彼女がここに来たなら、何か残しているはずだ」二人は手分けして、崩れた建物の中を調べ始めた。祭壇の跡、崩れた書架、埃をかぶった石碑――どれも長い年月、人の手が入っていない様子だった。礼拝堂の奥、半ば崩れた祭壇の裏で、リーゼロッテは小さな足跡を見つけた。新しいもののようだった。「こっちです」足跡をたどると、地下へと続く階段が現れた。かつては隠されていたのだろう、入り口を塞いでいた石が、最近動かされた形跡があった。「イザベラが開けたのか」エルフリーデが呟いた。「彼女一人で、ここまで……」リーゼロッテの声に、心配と、同時にわずかな誇らしさが混じった。地下への階段は長く、冷たい空気が、下へ進むほど濃くなっていった。やがて、開けた空間に出ると、そこには、古い石の祭壇と、壁一面に刻まれた文字が広がっていた。「イザベラ!」奥の壁際に、彼女の姿があった。無事だった。彼女は壁に刻まれた文字を、ランプの明かりで照らしながら、夢中で書き写していた。「お姉様!」イザベラは振り返り、安堵の表情を浮かべた。「来てくれたんですね」「心配したのよ」リーゼロッテは駆け寄り、彼女の無事を確かめた。「一人で、こんな場所に」「ごめんなさい」イザベラは言った。「でも、確かめずにはいられなかったんです。あの密書に書かれていたこと――ここに来て、ようやく分かりました」「何が分かったの」イザベラは壁を指し示した。そこには、七つの紋様が刻まれていたが、そのうち二つは、他の五つとは明らかに違う形をしていた。血脈を示す紋様ではなく、もっと抽象的な――概念そのものを表すような図形だった。「この二つは、血脈じゃないんです」イザベラは言った。「一つは『記憶』、もう一つは『意志』――人そのものが持つ、力とは呼べないはずのものが、七脈の中に組み込まれている」リーゼロッテは、その紋様を見つめた。「どういうこと……」「つまり」エルフリーデが低く言った