「ねえママ。今日、もう一人のママは来ないの?」 七歳の娘――篠宮七海(しのみや・ななみ)が、何でもないことのように言った。テーブルの端で、自分のランチョンマットを端から丁寧に折りたたんでいる。 水道の蛇口を回そうとしていた夫・悠人(ゆうと)の手が、ほんの一瞬、止まったように見えた。 だが、流しの水音はすぐに勢いよく響き始め、スポンジに洗剤を泡立てる音が重なった。 真帆(まほ)は一瞬、娘が何を言っているのか理解できず、パタパタと動く小さな指先を見つめた。「……もう一人のママ?」「うん。木曜日は、いつも来るでしょう」 七海は何でもないことのように言った。学校ごっこか、それともアニメのキャラクターに自分を当てはめる最近のブームの延長だろうか。小学校に上がってから、ごっこ遊びの設定が急に複雑になり、架空のお姉さんや妹を作り出して話すことが増えていた。「お人形のこと? それとも、学童の先生?」「ちがうよ」 七海は折りたたんだ布を両手で挟み、ようやく顔を上げた。くりっとした大きな目が真帆をまっすぐに見つめる。「沙耶ママだよ」 さやママ。 見覚えのない、聞き覚えもない名前だった。真帆の親戚にも、悠人の親族にも「沙耶」という名の女性はいない。七海の通う小学校の担任は五十代の男性教師だし、習い事のピアノ教室の先生は古賀という苗字の年配の女性だ。「沙耶、ママ……?」 口の中でその音を繰り返した瞬間、胸の奥が冷たく冷えるような感覚があった。嫉妬とも不快感ともつかない、得体の知れない固まりが胃のあたりに落ちてくる。「七海、それ誰のこと? 学校のお友達のお母さん?」「ううん。パパと一緒のときに会うの。お稽古のあとに、ケーキ食べたり、紙粘土で鳥さん作ったりするの」「パパと……?」 真帆が振り返ると、悠人はちょうど水切りラックにグラスを並べているところだった。背中は伸び、手元の手つきもいつも通り滑らかだった。動揺しているようには見えない。「七海」 悠人がふっと振り返り、濡れた手をタオルで拭きながら、困ったような苦笑いを浮かべた。「パパ言ったでしょ。沙耶先生のことは、ママの前でそういう呼び方しちゃだめだよって」 七海がハッとしたように口を噤んだ。小さな両肩がびくっと跳ねる。「……あ」 娘の顔から、さっきまでの無邪気さが急速に消えていった。大人同士
Last Updated : 2026-08-27 Read more