All Chapters of 娘が「ママ」と呼ぶ女を、私は知らない: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話 もう一人のママ

「ねえママ。今日、もう一人のママは来ないの?」 七歳の娘――篠宮七海(しのみや・ななみ)が、何でもないことのように言った。テーブルの端で、自分のランチョンマットを端から丁寧に折りたたんでいる。 水道の蛇口を回そうとしていた夫・悠人(ゆうと)の手が、ほんの一瞬、止まったように見えた。 だが、流しの水音はすぐに勢いよく響き始め、スポンジに洗剤を泡立てる音が重なった。 真帆(まほ)は一瞬、娘が何を言っているのか理解できず、パタパタと動く小さな指先を見つめた。「……もう一人のママ?」「うん。木曜日は、いつも来るでしょう」 七海は何でもないことのように言った。学校ごっこか、それともアニメのキャラクターに自分を当てはめる最近のブームの延長だろうか。小学校に上がってから、ごっこ遊びの設定が急に複雑になり、架空のお姉さんや妹を作り出して話すことが増えていた。「お人形のこと? それとも、学童の先生?」「ちがうよ」 七海は折りたたんだ布を両手で挟み、ようやく顔を上げた。くりっとした大きな目が真帆をまっすぐに見つめる。「沙耶ママだよ」 さやママ。 見覚えのない、聞き覚えもない名前だった。真帆の親戚にも、悠人の親族にも「沙耶」という名の女性はいない。七海の通う小学校の担任は五十代の男性教師だし、習い事のピアノ教室の先生は古賀という苗字の年配の女性だ。「沙耶、ママ……?」 口の中でその音を繰り返した瞬間、胸の奥が冷たく冷えるような感覚があった。嫉妬とも不快感ともつかない、得体の知れない固まりが胃のあたりに落ちてくる。「七海、それ誰のこと? 学校のお友達のお母さん?」「ううん。パパと一緒のときに会うの。お稽古のあとに、ケーキ食べたり、紙粘土で鳥さん作ったりするの」「パパと……?」 真帆が振り返ると、悠人はちょうど水切りラックにグラスを並べているところだった。背中は伸び、手元の手つきもいつも通り滑らかだった。動揺しているようには見えない。「七海」 悠人がふっと振り返り、濡れた手をタオルで拭きながら、困ったような苦笑いを浮かべた。「パパ言ったでしょ。沙耶先生のことは、ママの前でそういう呼び方しちゃだめだよって」 七海がハッとしたように口を噤んだ。小さな両肩がびくっと跳ねる。「……あ」 娘の顔から、さっきまでの無邪気さが急速に消えていった。大人同士
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第2話 木曜日の女

 七海が自分の部屋へ行き、ドアが静かに閉まる音が聞こえてから、真帆はリビングの椅子に座り直した。 つい数分前まで、何の変哲もない夕食だった。みそ汁の湯気がおさまり、焼き魚の骨が白い皿の上に整然と残っている。「真帆、座ってていいよ。今日は僕が洗うから」と、悠人がいつものように皿を引き取った。それだけの夜だった。 三十八歳になる悠人は、どこへ出しても恥ずかしくない「気の利く父親」だ。不動産会社の営業管理職という忙しい立場にありながら、家事の分担を嫌がったことは一度もない。真帆の在宅勤務の日には昼食の心配をして連絡をくれ、週末になれば七海を連れて近所の公園や図書館へ出かけてくれる。 周りのママ友からは「悠人さんみたいな旦那さんでうらやましい」と何度も言われてきた。そのたびに真帆は、微笑みながら小さくうなずいてきた。夫に不満はない。少なくとも、今夜まではそう思っていた。時折胸の奥にすっと差し込む、微かな息苦しさのようなものを、自分自身の我儘だと言い聞かせて蓋をしてきただけだった。 テーブルの上には、七海が途中まで折ったランチョンマットが残されている。綿の布地についたシワを、真帆は無意識に指先で撫で伸ばした。「悠人」「ん?」 悠人は濡れたふきんでテーブルを拭き始めていた。真帆の目の前まで拭き進めると、ふっと手を止め、優しく真帆の顔を覗き込んでくる。「びっくりさせちゃったね。ごめんごめん」「さっきの話、どういうこと?」「ああ、沙耶さんのこと?」 悠人は何でもないことのように椅子を引き、真帆の隣に腰掛けた。距離が近い。爽やかな柑橘系の柔軟剤の匂いがふわっと漂う。「ほら、二ヶ月くらい前に、僕と七海で参加した地域のワークショップ覚えてる? 公民館でやった、子ども向けの工作教室」「……うん。日曜日に二人で行ってきたやつ?」「そうそう。あの時の講師をやっていたのが、水城沙耶(みずき・さや)さんっていう方なんだよ。児童向けの造形教室を個人で開いている先生でね」 悠人は膝の上に手を置き、丁寧に言葉を重ねていく。彼の説明はいつだって、聞いている間は筋が通っているように思える。「七海がすごくあの工作を気に入ってさ。先生にも懐いちゃってね。その後も、木曜日に時間が合う時だけ、近くのカフェまで来てもらって、少し工作を見てもらったことがあったんだ。七海がどうしてもまた
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第3話 ママの前では

 悠人は少しだけ困ったように眉をひそめ、ふっと息を漏らした。「沙耶さん、すごく子ども好きで優しい人なんだ。七海が甘えて『先生』じゃなくて『沙耶ママ』なんて冗談っぽく呼び始めちゃってさ。僕も最初は注意したんだけど、子どもって一度気に入った呼び方を始めるとなかなか直さないじゃない? まあ、七海が楽しんでいるなら無理に否定しなくてもいいかなって、放置しちゃってたんだ。僕の軽率だったよ。真帆が嫌な気持ちになるのは当然だよね。ごめん」「でも、さっき……『その呼び方はやめなさい』じゃなくて、『ママの前でそう呼ぶな』って言ったよね」 悠人の眉が、ごくわずかに動いた。「それは、真帆が聞いたら嫌な気持ちになると思ったからだよ。言い方が悪かった。ごめん」 完璧な謝罪だった。 言葉の端々にも、態度にも、妻を蔑ろにするような粗暴さは微塵もない。一つ一つ聞けば、説明はつく。少なくとも、聞いているその場では。これまでの真帆には、悠人はいつだって「家族のために良かれと思って」動く人に見えていた。 それでも、七海の「木曜日は、いつも来るでしょう」と、悠人の「ママの前でそういう呼び方しちゃだめ」という二つの言葉だけが、喉に刺さった小骨のように残った。「……本当に、ただの工作の先生なの?」「真帆」 悠人の声から、笑みが消えた。怒っているのではない。心配そうに、真帆の顔をじっと見つめている。「君、最近本当に疲れてるよ。仕事のストレスが溜まってるんじゃないか? 僕が浮気でもしてるんじゃないかって、そんな顔してる」「そんなこと……」「僕が真帆以外の女性に興味を持つわけないじゃないか。僕たちの家族が一番大事なんだよ。忘れたの?」 悠人の親指が、真帆の手の甲を優しく撫でた。 僕たちの家族。その言葉は、真帆を安心させるための言葉のはずだった。けれど、その指先が触れている皮膚の表面から、じわじわと体温が奪われていくような錯覚を覚える。「分かったならいいんだ。今度からは、何でもちゃんと君に相談するよ。七海にも、もうその呼び方はやめさせるからね」 悠人は立ち上がり、真帆の頭にぽんと軽く手を置いた。「さ、僕が出張の準備をしてる間に、お風呂入ってきなよ。ゆっくり温まったほうがいい」◇ 風呂から上がり、髪を乾かした真帆は、静まり返った廊下を歩いた。 悠人は書斎に入り、パソコンに向か
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第4話 ママのこと、知ってる

 そこには、丸みのある、だが大人らしく整った細い文字で、こう書かれていた。『今日も楽しかったね、七海ちゃん』 真帆の手から、ペンが滑り落ちそうになった。 真帆の字ではない。担任の男性教師の武骨な字でもない。 それは、学校や学童の連絡帳に保護者以外の第三者が勝手に書き込むはずのない、個人的で親密なメッセージだった。 付箋の端を指先でつまんで剥がしてみる。粘着剤が小さくシャリッと音を立てた。 どうして、子どもの連絡帳にこんなものが挟まっているのか。悠人は「地域のワークショップの講師」と言った。「木曜日に何度か、カフェで工作を見てもらっただけ」と言った。 それなのに、なぜこの女は、家庭と学校をつなぐ唯一の書類である連絡帳にまで、当然のような顔をして足跡を残しているのか。「真帆?」 背後から突然かかった声に、真帆は跳ね上がるように振り向いた。 いつの間にか書斎のドアが開き、悠人が廊下に立っていた。手に温かいハーブティーの入ったマグカップを持っている。「連絡帳、何か書いてあった?」 真帆は咄嗟に、付箋を握りしめて自分の手のひらの中に隠した。紙の角が皮膚に刺さり、微かな痛みが走る。「……ううん。明日の持ち物の連絡。体操服がいるって」「そっか。七海、もう寝たかな」「今から見に行こうと思ってたところ」「じゃあ、ハーブティーここに置いておくね。飲んでから寝なよ」 悠人はマグカップをテーブルに置くと、真帆に優しく微笑みかけ、自分の寝室へと戻っていった。その足音には何の迷いも、隠し事をする者の焦りもなかった。 真帆は握りしめていた手をゆっくりと開いた。 汗ばんだ手のひらの中で、小さなペールピンクの付箋がくしゃりと歪んでいた。◇ 七海の部屋は、廊下の突き当たりにあった。 ドアノブを静かに回して中に入ると、常夜灯の淡いオレンジ色の光が、小さなベッドを照らしていた。 掛け布団からはみ出た七海の足先を、真帆はそっと布団の中へ押し戻した。七海はすやすやと規則正しい寝息を立てている。枕元には、七海が幼い頃から気に入っているクマのぬいぐるみが転がっていた。 ベッドの脇にしゃがみ込み、真帆は娘の柔らかい頬にそっと触れた。 生まれた時のこと。初めて「ママ」と呼んでくれた日のこと。熱を出して一晩中抱きしめていた夜のこと。積み重ねてきた七年間の時間が、頭の中
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第5話 青い星

 トースターが跳ね上がる乾いた音で、真帆はびくっと肩を揺らした。 昨夜はほとんど眠れなかった。目を閉じても、淡いオレンジ色の常夜灯に照らされた娘の顔と、「ママのこと、知ってるよ」というかすれた声が、耳の奥にこびりついて離れなかった。朝の光がキッチンに差し込んでも、背筋に張り付いた薄ら寒い感覚は消えてくれない。 皿にのせたトーストにバターを塗り広げながら、真帆は小さく息を吐いた。考えすぎだ、と何度も自分に言い聞かせる。悠人の言う通り、単なる工作教室の先生が、子どもの歓心を買うために少し親しげに振る舞っているだけかもしれない。連絡帳の付箋だって、若い先生特有の距離感のバグだと思えば、あり得ない話ではない。 けれど、あの付箋を見た時の悠人の態度。付箋を隠すように握りしめた自分を、咎めるでもなく、ただ温かいお茶を置いて去っていった背中。 すべてが「いつも通り」で、それがひどく不自然に思えてならなかった。「ママ、かみ、むすんで」 パタパタという足音とともに、七海がダイニングにやってきた。ピンク色のパジャマから、真帆が週末にアイロンをかけた水色のブラウスに着替えている。 真帆は包丁を置き、手を洗ってからしゃがみ込んだ。「おはよう。今日は三つ編み? それともポニーテール?」「んー、ポニーテールがいい」 七海がくるりと背中を向けた。その小さな手の中に、見慣れないプラスチックの塊が握られているのに気がついた。「七海、それなぁに?」 真帆が指差すると、七海は少しだけ肩をすくめ、手のひらを開いた。 コロンとした、透明感のある青いプラスチックの髪留めだった。小さな星のモチーフがあしらわれている。安っぽくはないが、真帆が選ぶようなシンプルなデザインでもなかった。何より、真帆はこんなものを買った記憶が一切ない。「これにするの」 七海は髪留めを真帆に差し出した。「これ……どうしたの? おばあちゃんに買ってもらったっけ?」 真帆が受け取ろうとすると、七海の指先がわずかに抵抗するように固くなった。七海は下唇を少し噛み、うつむいたまま小さな声で言った。「沙耶ママにもらったの」 プラスチックの冷たい感触が、真帆の手のひらに落ちた。 また、あの名前だ。「……そう。沙耶先生に。いつ?」「ちょっとまえ」「どこで?」「……お教室で」 七海の言葉は短く、歯切れが
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第6話 たかが髪留め

「おはよう、二人とも。朝から何揉めてるの?」 洗面所の方から、悠人がひょっこりと顔を出した。 ネクタイを締めながら歩いてくる彼の顔には、微かなローションの匂いと、いつもの穏やかな笑顔が張り付いている。 真帆は立ち上がり、手の中の青い髪留めを悠人に向けて突き出した。「悠人、これ」「ん? ああ、それね」 悠人は足を止めず、ダイニングチェアにジャケットを掛けると、キッチンカウンターからコーヒーのマグカップを持ち上げた。その間、視線はわずかに髪留めを掠めただけで、すぐに七海へと向けられた。「七海、それつけるの? いい色だね」「これ、沙耶先生にもらったって言うんだけど」 真帆の声が少しだけ上ずる。 悠人は一口コーヒーを飲み、ゆっくりと息をついた。「言ったじゃないか、工作教室の先生だって。先月の終わり頃かな、教室で出された課題が早くできた子たちに、おまけで配ってたやつだよ。百均かどこかでまとめ買いしたんじゃない? ほら、よくあるだろう、ご褒美シールみたいなものだよ」 あまりにも滑らかな説明だった。「でも、こんなものまで貰って、私、何も聞いてない」「いちいち報告するようなものじゃないと思ったんだよ。真帆、たかが子どものおもちゃのヘアゴムじゃないか」 悠人はマグカップを置き、真帆のそばに歩み寄った。そして、真帆の肩にそっと手を置く。シャツ越しの彼の手は、ひどく温かかった。「君、昨日の夜から少しピリピリしすぎだよ。七海も、ママが怖い顔してるから言い出しにくかったんだと思う。ねえ、七海?」 悠人がしゃがみ込み、七海の頭を撫でる。 七海は真帆と悠人を交互に見比べ、小さくうなずいた。 七海の視線はすぐにテーブルへ落ちた。さっきまで嬉しそうに握っていた髪留めの話なのに、今は肩を縮め、叱られた子どもの顔になっている。その変化を見た瞬間、真帆の胸に、怒りとは別の鈍い痛みが走った。「……ごめんなさい、ママ」「ほら。七海も謝ってるし、もうその話は終わりにしよう」 悠人は立ち上がり、真帆の肩を軽くぽんと叩いた。「最近、本当に疲れてるんだよ。今日は在宅だろう? 仕事が一段落したら、少し昼寝でもしなよ。夕飯は僕が何か買ってくるからさ」 悠人は七海の頭に手を置き、もう一方の手でコーヒーを持ったまま、すでにいつもの朝の顔へ戻っていた。 七海も小さくうなずいて
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第7話 娘の引き出し

 玄関のドアが閉まり、悠人と七海が出かけていくと、家の中には耳鳴りがするほどの静寂が落ちた。 真帆はダイニングテーブルの片付けを済ませ、ノートパソコンを開いた。画面にはECサイトの売上データのスプレッドシートが表示されている。だが、数字の羅列を眺めていても、頭に入ってくるのは昨夜のピンク色の付箋と、先ほどの青い髪留めのことばかりだった。 悠人の言葉が脳内で反響する。 本当にそうだろうか。あんな、いかにも女の子が特別に選びそうなデザインの髪留めを、まとめて配るだろうか。 真帆はマウスから手を離し、ゆっくりと立ち上がった。 吸い寄せられるように、廊下の突き当たりにある七海の部屋へと向かっていた。 子ども部屋のドアを開けると、微かに甘い柔軟剤の香りがした。 ベッドのシーツは乱れたままで、床には昨夜遊んだのだろう、ブロックがいくつか転がっている。 真帆は部屋の中央に立ち、ぐるりと見渡した。 クローゼット、学習机、おもちゃ箱。 どれも真帆が買い与え、真帆が整理整頓してきた場所だ。この家は、真帆が守っている安全な場所のはずだった。 机の端には、昨夜真帆が削った鉛筆が三本、長さを揃えて筆立てに入っていた。月曜日の時間割を貼ったのも、体操服の袋に名前を書いたのも自分だ。だからこそ、その中に見覚えのないものが紛れ込んでいることが、ひどく落ち着かなかった。 真帆は学習机の脇に置かれた、三段のプラスチック製引き出しケースの前にしゃがみ込んだ。ここには七海のハンカチやティッシュ、こまごまとした私物が入っている。 一段目を引き出す。 綺麗に畳まれたハンカチが並んでいる。ウサギの柄、チェック柄、水玉模様。どれも一緒にスーパーやショッピングモールで選んだものだ。 真帆は指先でその布地を一枚ずつめくっていった。 奥の方に、見慣れない布の感触があった。 引っ張り出してみる。 それは、縁に繊細なレースがあしらわれた、薄いラベンダー色のハンカチだった。七歳児が日常的に使うには少し大人びている。もちろん、真帆は買ったことがない。 心拍数が少しだけ跳ね上がった。 真帆は二段目の引き出しを乱暴に開けた。 文房具やシールが入っている段。 散らばった折り紙の下から、キラキラと光るホログラムのシールシートが何枚も出てきた。動物や星のシールに混じって、一枚だけ、少し厚みの
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第8話 ずっと前から

 真帆は絵本を両手で持ち上げた。ずっしりとした重みがある。 背表紙は少し日焼けしていて、新品ではないように見えた。誰かの家から持ち出されたものだろうか。 表紙を開く。 見返しの白い厚紙に、文字が書かれていた。 丸みのある、整った細いペン字。 昨夜、連絡帳に貼られていたピンク色の付箋と、全く同じ筆跡だった。『八歳のお誕生日まで、あと少し』 真帆は息を呑んだ。 文字の周りには何も装飾がなく、ただその一行だけがぽつんと書かれている。 七海の誕生日までは、あと三週間ほどだ。 子どもの誕生日を祝うにしても、普通は「お誕生日おめでとう」か、せいぜい「もうすぐお誕生日だね」だろう。なぜ、わざわざ八歳という年齢を強調し、未来の節目を待ち望むような書き方をするのか。 ぞわりと、背筋を這うような寒気を感じた。 この女は、何を見据えているのだ。 単なる工作教室の先生が、生徒の誕生日をここまで意識するだろうか。それとも、もっと前から、七海の中に深く入り込んでいたのだろうか。 真帆は絵本を胸に抱きしめ、引き出しの奥を見つめた。 ハンカチ、シール、絵本、そして青い髪留め。 悠人は最近配られたおまけだと言ったが、これだけのものが一気に持ち込まれたとは考えにくい。少しずつ、少しずつ、真帆の気づかないところで、この部屋の中に知らない女の欠片が落とされ、増殖していたのだ。 真帆は部屋の隅から、自分という存在がじわじわと押し出されていくような錯覚に陥った。 自分が選んでいない物が、娘の生活に溶け込んでいる。 気がつけば、真帆の呼吸は浅く、荒くなっていた。絵本の表紙を握る指先が白く鬱血している。◇ 夕方。 インターホンの音が鳴り、学童から帰ってきた七海が玄関に飛び込んできた。「ただいまー!」「おかえり、七海」 真帆は努めて明るい声を作り、廊下に出た。 七海の髪には、朝結んでやった青い星の髪留めが、まだしっかりと収まっていた。 真帆は手を洗い、麦茶とクッキーをテーブルに並べた。七海はランドセルを放り出し、椅子に座って嬉しそうにクッキーに手を伸ばす。 向かい側に座り、真帆はコップの水滴を指で拭いながら、何気ない口調で切り出した。「ねえ、七海」「ん?」 七海が頬を膨らませたまま首をかしげる。「お部屋の片付けしてたら、机の中から絵本が出てきたんだけ
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第9話 秘密にする約束

 時計の秒針の音が、急に大きく部屋に響いた。  ずっと前。  それがどのくらいの時間を指すのか、七歳の子どもの感覚は分からない。しかし、悠人のたかが最近のおまけという言葉が、全くの嘘であることだけは確実だった。  真帆は、目の前でクッキーをかじる娘の姿が、急に遠くの知らない子どものように思えた。  自分の知らない時間が、この家の中に、すでに深く根を下ろしている。  真帆の膝の上で、きつく握りしめられた両手が微かに震えていた。  真帆は息を整え、両手を膝の上で固く握りしめた。七海を怖がらせてはいけない。声を荒げたり、問い詰めるような言い方をすれば、この子はすぐに口を閉ざしてしまう。 「……ずっと前からって、いつ頃から?」  できる限り柔らかい声を出そうとしたが、喉の奥が引き攣って、自分でも驚くほど擦れた音になった。  七海はコップのふちを小さな指でなぞりながら、視線をあちこちに泳がせた。 「うんとね……一年生になる前。幼稚園の年長さんになったころ」  一年生になる前。つまり、少なくとも一年以上前からだ。  真帆の頭の中で、過去の記憶がバラバラと音を立てて崩れていく。悠人は「二ヶ月ほど前に参加した単発のワークショップ」と言っていた。それが最初の嘘だったのだ。 「沙耶先生と、どんなことをしていたの?」 「工作したり、お絵かきしたり……あと、お外でケーキ食べたり」 「お外で?」 「うん。おっきいお魚がいるところとか。あかい列車に乗るところとか」  おっきいお魚。水族館だ。赤列車。真帆たちが二年前の秋に行こうとして、悠人の仕事が急に入ってキャンセルになった、あの郊外のテーマパークのことだろうか。  あの時、悠人は「急な現場トラブルが入った」と困り果てた顔で謝っていた。真帆は「仕事なら仕方ないよ」と笑って、家で七海と二人、ホットケーキを焼いて食べたはずだ。  あの裏で、二人はそこへ行っていたのか。  悠人と、七海と、あの女の三人で。  胸の奥が焼き切れるような熱さと、指先が急速に冷えていく冷たさが同時に襲ってきた。真帆は深く息を吸い込み、途切れそうになる意識を必死で
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第10話 三人で行った場所

 ガチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。「ただいまー」 靴を脱ぐ気配とともに、悠人の伸びやかな声が響く。「七海、パパ帰ったよ。今日ね、駅前のパン屋さんで、七海の好きなカスタードのパイが焼きたてだったから買ってきたよ」 紙袋の擦れる音。 真帆はダイニングテーブルに座ったまま、動かなかった。七海は自分の部屋へ逃げるように入っていき、ドアが小さく閉まった。 リビングに入ってきた悠人は、真帆の硬直した背中を見て、一瞬だけ足を止めた。だがすぐに表情を和らげ、手に持った紙袋をカウンターの上に置いた。「あれ、真帆、まだ起きてたんだ。仕事終わった?」「悠人」 真帆は振り返らず、固い声で呼びかけた。「立ち話じゃなくて、座って話したいんだけど」 悠人は少し首を傾げ、ジャケットを脱ぎながら微笑んだ。「どうしたの? そんな怖い顔して」「七海から聞いたよ」 悠人がジャケットをハンガーにかけようとする手が、空中でわずかに止まった。だが、それもほんの一瞬だった。彼はそのままスムーズに衣服を整え、真帆の向かい側の椅子を引き寄せて座った。「七海が何か言ったの?」「沙耶さんのこと。二年前から会ってたんでしょう? 水族館も、テーマパークも、三人で行ってたのね」 真帆は悠人の目をまっすぐに見つめた。彼の反応を、表情の微かな動き一つ見落とさないつもりだった。 しかし、悠人は慌てる様子も、焦る素振りも見せなかった。ただ、困ったように浅く息を吐き、目元を和らげた。「ああ……なんだ、その話か」「『なんだ』って何? 昨日は二ヶ月前にワークショップで知り合ったって言ったじゃない。全部嘘だったの?」「嘘じゃないよ、真帆」 悠人は落ち着いた口調で、諭すように言葉を紡ぎ始めた。「最初のきっかけは、確かに二年前のワークショップだよ。でも、その時はただ挨拶をした程度でね。本格的に工作を見てもらうようになったのは、七海が年長さんになってからなんだ。僕が言いたかったのは、定期的に会うようになったのがここ二ヶ月くらいって意味だった
last updateLast Updated : 2026-08-28
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