All Chapters of 娘が「ママ」と呼ぶ女を、私は知らない: Chapter 11 - Chapter 20

104 Chapters

第11話 ヒステリックな妻

「声を大きくしないでくれ」 悠人は静かに真帆を制した。その顔には怒りではなく、どこか落胆したような色が浮かんでいた。「七海が聞いてるだろ」「答えてよ! なんで秘密にしなきゃいけなかったの!」「だから、サプライズのつもりだったんだよ」 悠人は両手をテーブルの上で組み、真帆の興奮を宥めるようにゆっくりと語りかけた。「沙耶さんはプロの造形作家だ。七海の八歳の誕生日に、三人で大きなキャンバスに手形を押した記念の作品を作ろうって計画してたんだ。真帆を喜ばせたくてね。七海には『ママに言ったら驚きがなくなっちゃうから、内緒にしておこうね』って言ったんだよ。『悲しむから』なんて言い方はしていない。七海が勝手にそう解釈しちゃったんだろ」「そんなの……」「真帆、君はいつもそうだ」 悠人がふっと、悲しそうに目を伏せた。「僕が家族のためにやっていることを、全部悪い方に取ってしまう。君が最近仕事でイライラして、余裕がないのは分かってるよ。でもね、そうやって僕の言うことを何でも疑って、ヒステリックに攻め立てられたら、僕もどうしていいか分からないよ」「私が……ヒステリック……?」「そうだよ。ほら、自分の声の大きさに気づいてる?」 言われて、真帆はハッと息を呑んだ。 確かに、自分は叫ぶように声を張り上げていた。それに対して悠人は、終始穏やかで、冷静で、常識的なトーンを保っている。 外から見れば、理不尽に怒りをぶちまけているのは自分の方だった。「パパ……ママ……?」 廊下の影から、七海が不安そうに顔を覗かせていた。 抱きしめているクマのぬいぐるみを、ぎゅうぎゅうと力任せに握りしめている。「お喧嘩……しないで……」「七海」 悠人がすぐに立ち上がり、膝をついて七海に目線を合わせた。「ごめんね、喧嘩じゃないよ。ママがちょっとお仕事で疲れてて、パパと
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第12話 会わせない方がいい

 暗い寝室で、真帆はベッドの中に横たわっていた。 シーツの冷たさが肌に刺さる。 頭が重く、こめかみが痛んだ。 本当に、自分が考えすぎなのだろうか。悠人の言う通り、サプライズの計画を子どもが誤解して、自分が過剰に反応してしまっただけなのだろうか。 仕事の残業が増えていたのは事実だ。七海と過ごす時間が減り、どこかで母親としての罪悪感があったから、余計に「知らない女」の存在に過敏になっているのかもしれない。 暗闇の中でスマートフォンが小さく震えた。 画面を点灯させると、LINEの通知が表示されていた。 差出人は、妹の長谷川菜月(はせがわ・なつき)だった。『お姉ちゃん、最近どう? 元気にしてる? 来週あたり久々にランチでも行かない?』 菜月からの何気ないメッセージ。 真帆は画面を見つめたまま、フリック入力の画面を開いた。「実はね、悠人が……」 そう打ちかけて、指が止まる。 なんて書けばいいのだろう。「夫が娘を謎の女性に会わせていて、二人で秘密にされていた」 そんなことを送ったら、菜月はなんて返してくるだろう。「それって不倫じゃないの?」と騒ぎ立てるか、あるいは「お姉ちゃん、疲れてるんじゃない?」と心配されるか。 もし、本当に悠人の言う通りただの勘違いで、自分がヒステリックになっているだけだとしたら。妹にまで無用な心配をかけ、悠人を悪者にしてしまうことになる。 証拠は何もないのだ。 青い髪留めも、絵本も、付箋も、すべて悠人の「良かれと思ってやった説明」で上書きできてしまう程度のものだ。 真帆は打ちかけた文字をすべて消去した。『連絡ありがとう! 元気だよ。ちょっと最近仕事が立て込んでてバタバタしてるんだ。また落ち着いたらこっちから連絡するね』 送信ボタンを押すと、画面はすぐに暗転した。 頼れるはずの肉親にすら、本当のことが言えない。 自分で自分を追い詰めているような感覚に胸が苦しくなり、真帆はスマートフォンをナイトテーブルの上に置いた。 リビ
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第13話 学童へ

 週が明けた月曜日の朝。カーテンの隙間から差し込む朝日が、ダイニングテーブルの上に落ちた水滴の跡を白く浮き上がらせていた。  悠人はいつも通りの手つきでネクタイを締め、鏡の前で襟元を整えていた。革靴の底が廊下を叩く軽い音が響き、玄関の方から「行ってくるね」と爽やかな声が聞こえる。七海が「パパ、いってらっしゃい!」と元気に声を返し、重い玄関ドアが静かに閉まった。  カチャン、とラッチが噛み合う金属音が、やけに重く耳に残った。  真帆は自分の両手を見つめた。金曜日の夜、暗闇の中で見たスマートフォンの画面。ペールブルーの光の中に浮かんでいた、短いメッセージ。 『今日は会わせない方がいい』  あの通知を見た瞬間から、真帆の頭の中ではずっと同じ問いが渦巻いていた。  なぜ、あの女が会わせるかどうかを判断しているのか。なぜ、悠人はそれを当然のように受け取っているのか。 「ママ、今日のおやつ何?」  ランドセルの黄色いカバーをパタパタと揺らしながら、七海が玄関へ向かおうとしていた。真帆はハッと意識を現実に戻し、膝をついて娘のブラウスのボタンを一番上まで留め直した。 「今日はね、七海の好きな焼き芋だよ。学童から帰ってきたら食べようね」 「わーい! じゃあ、行ってきます!」 「気をつけてね。車に気をつけるのよ」  七海の背中が見えなくなると、家の中は再びしんと静まり返った。  真帆はパソコンを開き、在宅勤務の業務画面を立ち上げた。画面に並ぶ売上データやメールの件名を追うものの、集中力はあちこちに散らばってしまう。キーボードを叩く指が、時折理由もなく止まった。  悠人は「ただの工作教室の先生」と言った。七海が勝手に「沙耶ママ」と呼び始めただけで、自分はそれを強く注意しなかっただけだと。  だが、金曜日の夜に見たメッセージは、そんな軽やかな言い訳とは明らかに矛盾していた。  真帆は画面の隅に表示されている時計を見た。午前十一時四十五分。  真帆は意を決してノートパソコンを閉じ、スマートフォンの画面をスワイプした。通話履歴からではなく、検索エンジンに地名と「放課後児童クラブ」の文字を打ち込む。七海が放課後に毎日通っている、小学校敷地内にある学童保育所の番号が表示された。  受話器を耳にあてる指が、わずかに汗ばんでいた。◇ 午後二時過ぎ。真帆は小学校の
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第14話 家族同然の人

 吉岡は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに事務所の奥から厚みのあるバインダーを持ってきた。「児童個人カード」と背表紙に書かれたファイルだ。「年度初めに書いていただいたものですね。お母様、お仕事が立て込んでらっしゃるとお聞きしていたので、何か変更でもありましたか?」「ええ、少し整理しておきたくて」 吉岡がページをめくり、七海の名前が書かれた欄を開いた。そこには、真帆が見慣れた悠人の丁寧なペン字で、住所や緊急連絡先、家族構成が几帳面に記入されていた。 真帆の視線は、ページの下部にある「保護者以外のお迎え許可者・緊急引き取り人」の欄へ一直線に向かった。 そこには、真帆の知らない名前がくっきりと並んでいた。『水城 沙耶』 続柄の欄は空白だった。だが、備考欄のスペースに、悠人の筆跡でこう添えられていた。『昔からの家族同然の知人。両親ともに仕事で急応できない場合、緊急時の引き取り対応可』 呼吸が一瞬、止まった。 紙の上の黒いインクが、じわじわと真帆の視界を蝕んでいくようだった。 悠人の署名。悠人の捺印。その下に添えられた、あまりにもスムーズな「家族同然」という説明。「……あの、吉岡先生」 真帆は声を絞り出した。自分の声が遠くから聞こえるようだった。「この水城さんという方……実際に、七海を迎えに来られたことはありますか?」 吉岡は手元の書類と真帆の顔を交互に見比べ、小さく頷いた。「ええ、何度かお見えになっていますよ。主にお父様と一緒にいらっしゃることが多かったかしら。お父様が『仕事の都合でどうしても手が離せない時、代わりに来てもらうことがあるかもしれない』とおっしゃって、こちらの登録手続きをされたんです」「お父さんと……一緒に?」「はい。すごく落ち着いた感じの、きれいな女性ですよね。七海ちゃんもとても懐いていらっしゃって。お父様からは『昔から我が家をよく知ってくれている親戚のような方で、子育ても手伝ってもらっている』とお聞きしていたので、私どももすっかり“
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第15話 忘れてた

 外に出ると、午後の強い日差しが真帆の目を射抜いた。 アスファルトから立ち上る熱気が、足元を少し揺らしているように感じられる。 真帆は校門の横にある小さな公園のベンチに倒れ込むように腰掛けた。 手元のスマートフォンを取り出し、画面を開く。悠人の連絡先を表示させるが、発信ボタンを押す指が固まったまま動かない。 電話をかけて、なんと問えばいいのだろう。「どうして学童のお迎えにあの女を登録しているの?」と詰問すれば、悠人はまたあの穏やかな声で答えるに決まっている。『真帆が仕事で忙しいから、万が一の時に七海が一人にならないよう配慮したんだよ』『君に余計な心配をかけたくなかったから、手続きは僕が済ませておいたんだ』『家族のためにやったことなのに、どうしてそんなに怒るの?』 想像するだけで、悠人の声が耳の奥で再生される。 彼の言動には、常に「家族を守るため」「真帆を助けるため」という完璧な大義名分が用意されている。それを「おかしい」と拒絶する真帆の方が、感謝を知らない、ヒステリックで冷酷な妻であるかのように追い込まれていくのだ。 真帆は膝の上で固く拳を握りしめた。 書類一枚。 たった一枚の紙に「緊急時対応可」と書かれただけで、自分の知らない女が、公の場で七海の「家族」として扱われている。 もし、真帆が怪我をしたり、事故に遭ったりして連絡が取れなくなったら。学童は迷わず、悠人と、そしてあの水城沙耶という女に七海を引き渡すのだ。 真帆が積み上げてきた母親としての時間が、外側から少しずつ、薄紙を剥がすように書き換えられていく。 足元で、風に吹かれた枯れ葉がカサリと音を立てた。 真帆は立ち上がり、ゆっくりと自宅への道を歩き始めた。◇「ただいま」 夜の八時過ぎ。玄関のドアが開き、悠人が帰ってきた。 リビングでは、七海が真帆の隣で静かに絵本をめくっていた。真帆は夕飯の食器を片付け終え、テーブルの端でノートパソコンを開いていたが、作業は全く進んでいなかった。「おかえり、パパ!」 七海が立ち上がり、玄関へ駆け
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第16話 手続き上の便宜

「うん。ほら、先月真帆の出張が決まった時期があっただろ? あの時、僕も急な現場が入るかもしれなくてさ。二人とも動けなくなった時に、七海が学童にぽつんと取り残されるのがかわいそうだと思ったんだ」  悠人は真帆の手元に視線を落とし、トーンを落とした優しい声で続けた。 「沙耶さんは個人で教室をやってるから、時間の融通が利くんだよ。だから『もしもの時だけ、名前を借りてもいいですか』ってお願いして、念のために登録しておいたんだ。もちろん、本当に緊急の時以外は頼むつもりはなかったよ」 「でも……『家族同然』って書いてあったよ」  真帆の声が固くなる。 「続柄は空欄なのに、備考欄に『昔からの家族同然の知人』って。学童の先生も、沙耶さんのことを家族に近い人だって思ってた」 「そう書かないと、学童側が受け付けてくれないんだよ」  悠人はごく自然な動作で真帆の手に自分の手を重ねた。温かく、少しカサついた皮膚の感触。 「今の学童って、身元がはっきりしない第三者のお迎えにはすごく厳しいだろう? 『ただの知り合い』じゃ許可が下りないんだよ。だから、言葉のうえで少し大げさに書いただけさ。社会的な手続き上の便宜だよ、真帆」  手続き上の、便宜。  悠人の口から出ると、すべての異常な行動が「仕方のない現実的な判断」へと姿を変えていく。 「それにね」  悠人は真帆の手を優しく握り直した。 「君に相談したら、また『自分でなんとかする』って無理して残業を調整したり、仕事を犠牲にしたりするだろ? 僕は君にこれ以上負担をかけたくなかったんだ。君の仕事を応援したいからこそ、僕の方でできる手を打っておきたかった。それの何がいけないの?」  まっすぐな目だった。  その顔には、嘘をついているという後ろめたさが見えない。少なくとも真帆には、自分の判断を正しいと疑っていないように見えた。  その圧倒的な正しさに押され、真帆の口から次の言葉が出なくなっていった。 「……でも、私に黙って登録するのはおかしいよ。私、母親なのに、何も知らなかったんだよ?」 「ごめんね、事前に言わなかったのは僕の落ち度だ」  悠人は素直に頭を下げた。 「悪かったよ。次からは必ず君に一言かけるから。ね? だから、そんなに哀しそうな顔をしないでくれ」  完璧な夫。完璧な父親。  謝罪すら惜しまない姿勢を
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第17話 白い傘の女

 アスファルトを叩く雨音が、校門の鉄柵に小さく弾けて跳ねていた。 六月の湿った空気が、レインコートの生地を通して肌にまとわりつく。真帆はビニール傘の柄を握り直し、少しだけ濡れた靴底を踏み替えた。 下校時刻を迎えた小学校の正門前は、迎えに来た保護者の傘と、黄色い帽子をかぶった児童たちの熱気で溢れ返っていた。水たまりをわざと踏みつける子どもの歓声、注意する母親の声、雨粒がナイロンの生地を弾くパシャパシャという濁った音。 真帆は人混みから一歩引き、校門から出てくる子どもたちの列に視線を凝らした。 昨日、学童のお迎えカードで見た「水城沙耶」の名前。夫の口から出た「手続き上の便宜」という滑らかな言い訳。言葉でどれほど上書きされようと、書類に残された黒いインクの感触は、真帆の頭から離れてくれなかった。「ママ!」 黄色い傘の合間から、小さな手が振られた。ランドセルを揺らしながら走ってきた七海が、真帆のレインコートの裾を掴む。「七海。走ったら危ないよ、水たまりがあるから」「あのね、今日ね、図工の時間に折り紙でカエル作ったの」「そう、見せてね、家についたら」 真帆は微笑み、七海の小さな手を握ろうと屈みかけた。 その時だった。七海の視線が、真帆の肩越し――道路の反対側に広がる歩道へ向けて、すっと固定された。 握っていた小さな手に、きゅっと力がこもる。「七海?」 真帆が振り向くより早く、七海は掲げた黄色い傘を少しだけ傾け、小さく手を振った。指先をちょこちょこと動かす、親しい相手に見せる独特の仕草だった。 真帆は立ち上がり、七海の視線の先を辿った。 横断歩道の向こう、街路樹の濡れた幹のそばに、一人の女性が立っていた。 色とりどりのビニール傘や折りたたみ傘がひしめく中で、その人が差しているものだけが異質だった。骨組みのしっかりした、真っ白な布地の長傘。雨を吸って少し重そうに落ちる濡れた布地の下に、女性の輪郭が浮かび上がっていた。 アイボリー色の薄手のトレンチコート。膝下まで伸びたスカートの裾が、雨で濡れた舗装路の反射を受けてかすかに光っている。肩にかかる程度の黒髪は几帳面に
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第18話 校門の向こう

「七海、ここにいて」 真帆は七海の手を離し、足早に横断歩道へと踏み出した。「ママ? どこ行くの?」 背後で七海の驚いた声がしたが、振り返る余裕はなかった。信号は赤だったが、車通りが切れた隙を突き、横断歩道を渡る。濡れた靴底が水たまりを跳ね飛ばした。 街路樹の脇へ駆け寄る。 だが、白い傘は、すでにそこにはなかった。 雨の降る歩道には、駅からやってくる通勤客や、買い物袋を下げた主婦たちの傘が重なり合っていた。白い傘を探して視線を泳がせる。 十数メートル先、角を曲がろうとする白い布地の端が一瞬だけ見えた。「待ってください!」 叫び声は雨音にかき消された。真帆は傘を傾け、人混みを押し分けるようにして角へ走った。曲がり角を過ぎると、そこは住宅街へと続く狭い裏道だった。 濡れたアスファルトが静かに光っているだけだった。 左右を見渡すが、白い傘を持った女性の姿はどこにもない。住宅の塀の陰や、コインパーキングの隙間にも、人影はなかった。まるで最初から雨の風景の中に溶け込んでいたかのように、痕跡ごと消え去っていた。 真帆は肩で息をしながら、濡れた舗装路を見つめた。 吐き出した息が、六月の蒸し暑い空気に重く溶けていくような気がした。 見間違いではない。間違いなく、あの女は七海を見て微笑み、そして真帆の顔をじっと見つめていた。「ママ……」 追ってきた七海が、不安そうに黄色い傘の下から真帆を見上げていた。濡れた長靴を揃え、真帆の服の端をギュッと掴んで離さない。 真帆はしゃがみ込み、七海の濡れた前髪を払った。手が震えているのを隠すために、必死で指先に力を込める。「七海……さっきの人、誰?」 七海は下唇を小さく噛み、真帆の顔色を伺うように視線を泳がせた。大人が警戒している気配を敏感に感じ取っている。「……言ったら、怒る?」「怒らないよ。教えなさい」 真帆の声に、押し殺しきれない鋭さが混じった。七海がビクッと肩を跳ねさせる。 息を詰める
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第19話 風邪ひかないでね

 自宅に戻り、七海に乾いた服を着せ、温かい麦茶を飲ませた。 真帆はキッチンのカウンターに寄りかかり、濡れた傘を玄関のたたきに立てかけたまま、じっと動けずにいた。 手元のスマートフォンが静かに振動した。 画面を見ると、悠人からのLINEだった。『雨すごいね。七海の迎え、大丈夫だった? 今日は少し早く帰れそうだから、夕飯何か買っていこうか?』 相変わらずの、気遣いに満ちた文章。 真帆は画面を見つめたまま、返信を入力しようとして指を止めた。「校門の前に、水城沙耶がいたよ」 そう打ち込んで、消した。 悠人に言えば、またきっと「僕が呼んだわけじゃない」「彼女も近くを通っただけじゃないか」と、筋の通った言葉で処理されてしまう。そして真帆は「また過剰反応している」と位置づけられるだけだ。 あの女が自発的にここへ来ているのか。それとも、悠人が来させているのか。 真帆の頭の中で、二人の姿が重なっては離れていった。 真帆は息を深く吐き出し、スマートフォンの電源ボタンを押して画面を暗転させた。 夕方になり、雨が少し弱まった頃、真帆は七海の夕食の準備を始めた。 トントン、と包丁がまな板を叩く規則的な音が、静かなキッチンに響く。七海はリビングのテーブルでクレヨンを握り、お絵かき帳に集中していた。「ママ、郵便見てくるね」 七海が突然立ち上がり、玄関へ向かって走っていった。「あ、七海、濡れてるから気をつけて――」 声をかける間もなく、パタパタという足音が戻ってきた。七海の手には、新聞と一緒に何枚かのダイレクトメールが握られていた。「はがき、届いてたよ」「ありがとう、七海」 真帆は包丁を置き、手を拭いて七海から郵便物を受け取った。 水道局からの知らせ、不動産のチラシ、真帆宛てのクレカの明細。 その束の間に、異質なものが混ざっていた。 長方形の、小さなピンク色の封筒だった。 表面には宛名が書かれていない。切手も消印もなかった。郵送されたものではなく、誰かが直接、我が家の郵便受けに投函
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第20話 誰の字?

「七海、これ……」  真帆はカードを握りしめ、リビングの椅子に座る七海の横にしゃがみ込んだ。  カードを見せないようにしながら、表のシールだけを指差す。 「これ、ポストに入ってたんだけど、見覚えある?」  七海はクレヨンを動かす手を止め、封筒のシールをじっと見つめた。 「あ、それ、キャラメルについてるシールだ」 「これ……沙耶ママが持ってきたのかな?」  真帆が探るように尋ねると、七海は少し首を傾げ、カードの端から覗く文字に目をやった。  七海は小学校に上がってから、ひらがなや簡単な漢字を少しずつ読めるようになっていた。小さな指先が、カードに書かれた『風邪ひかないでね』の文字をなぞる。 真帆は七海の顔をじっと見つめた。  子どもが「沙耶ママがくれた」と認めれば、それが決定的な証拠になる。悠人に突きつけるための、逃げられない現実になるはずだった。 だが。  七海は文字をじっと見つめたまま、ふっと不思議そうに眉を寄せた。「……これ、ちがうよ」 「え?」  真帆は耳を疑った。 「何が違うの?」  七海はカードを指差し、首を小さく横に振った。「これ、沙耶ママの字じゃないよ」 静まり返ったリビングで、七海の声だけが小さく響いた。  真帆は言葉を失った。  テーブルの上では、七海が置いたクレヨンが一本、ゆっくりと転がっていき、画用紙の端に当たって止まった。冷蔵庫の低い駆動音と、窓を叩く雨だけが妙にはっきり聞こえる。  七海は自分がどれほど重大なことを言ったのか分かっていないらしく、真帆の顔とカードを交互に見ていた。その無邪気な視線の前で、真帆はすぐに次の言葉を出せなかった。 「……え? どういうこと? 連絡帳の付箋と同じ字だよ? 絵本にも書いてあったでしょう?」 「ううん」  七海は譲らなかった。クレヨンを持ったまま、きっぱりとした目で真帆を見つめ返す。 「沙耶ママの字はね、もっとこう……丸くて、おっきいの。これ、なんかちがう。細くて、ちっちゃい」  細くて、小さい字。  真帆の頭の中が、真っ白に染まった。  七海の小さな指が指し示している文字を、もう一度見つめ直す。  丸みのある、整った細い文字。女性らしく見える、ペールピンクのカードに書かれた丁寧な筆跡。  これが、沙耶の字ではない……?  真帆はカードを照明の
last updateLast Updated : 2026-09-02
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