きびすを返し、披露宴会場を後にする。背後から、洸の優しく甘い声が聞こえてくる。「無理しなくていいからな。疲れたら、俺に言えよ」葵が甘ったるい声で応じる。「うん。洸が一緒なら、大丈夫……」振り返ることはしなかった。ホテルのエントランスを抜けると、冷たい風がドレスの襟元から入り込んできた。タクシーを拾い、後部座席に乗り込むと、運転手がバックミラー越しに私を見て、驚いたように目を見開く。「お客さん……今日は結婚式だったのではないですか?随分と、痛々しいお姿ですが……大丈夫ですか?」俯いて自分の姿を確認する。両手は血で汚れ、ネイルチップごと爪が2本、割れていた。クローゼットの鍵を壊したときについた傷だ。「ええ。でも、もう終わらせました」声はかすれ、言葉にできないほどの痛みが喉の奥に込み上げている。運転手は黙ってティッシュを差し出し、控えめな口調で諭すように言う。「差し出がましいようですが、どのようなご事情であれ、ご自分を傷つけるのはおやめになったほうがいい。お客さんのご両親だって、そんな姿を見たら胸を痛めるはずですよ」ティッシュを受け取ろうとした手が止まる。そうだ。親なら、自分の子どもが苦しむ姿なんて、見たくないはずだ。ただ残念なことに、私の両親の目には、昔から葵のことしか映っていない。家に帰ると、玄関の照明をつけた。部屋の中には、結婚を控えて二人で選んだ家具や小物が並んでいる。壁には、前撮り写真が飾られている。背の低い私には少し高い場所だったから、洸が私を抱き上げて、一緒に飾ったものだ。寝室のベッドには、二人で週末を丸々使って選んだ新しいシーツがかかっている。あの日、洸は私を抱き寄せながら笑っていた。「これからは毎晩、ここで一緒に眠ろうな。二人で、幸せな家庭を作っていこう」けれど今、その部屋でこれから暮らすのは私じゃない。洸と、葵だ。突然、スマホが震えた。穂香からの電話だ。「茜!今どこ!?もう、洸ったら鈍すぎるんだから、ずっと茜のこと探してたのよ。さっきクローゼットまで探しに行ったんだけど、茜がいなくて。だから、葵が代わりにテーブルラウンドをしてたの。早く戻ってきて!みんな、花嫁の手紙を待ってるんだから!」その声は、ひどく心配しているように聞こえる。
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