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奪われる程度の愛なら、願い下げ

奪われる程度の愛なら、願い下げ

By:  桜池千春Completed
Language: Japanese
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挙式前のファーストルックを控えた私・清宮茜(きよみや あかね)は、花嫁専用のブライズルームで、友人たちにウォークインクローゼットへと押し込まれた。 「いい子にして、ここに隠れてて。もうすぐ新郎が来るから、そのときに花嫁が見つからないっていうドッキリを仕掛けるの。きっと驚くよ」 言われるままクローゼットの隅にうずくまった。けれど、待てど暮らせど、誰も迎えに来ない。 足は痺れ、ベールにはシワがついた。それでも、誰一人として姿を見せなかった。 待ちかねて扉を押して出ようとしたが、なんと外から鍵がかけられている。 夢中で扉を叩き続け、両手が血まみれになって、ようやく鍵を壊すことができた。 会場へ駆け込むと、そこには私がお色直しで着るはずだったカラードレスを身にまとった双子の妹・清宮葵(きよみや あおい)がいた。 葵は私の婚約者・寺島洸(てらしま こう)の腕に寄り添っている。二人はちょうどテーブルラウンドをしているところだ。 葵は恥じらうように洸の胸に寄りかかり、小さな声で尋ねる。 「本当に、こんなことしていいの?お姉ちゃん、怒らないかな……」 親友だったはずの小林穂香(こばやし ほのか)が鼻で笑った。 「何を怖がってるの?もともと洸のことを先に好きになったのは葵じゃない。茜が横取りしたんだから、葵が代わりにこの披露宴を最後までやったって、何が悪いの? それに、あいつは今ごろクローゼットに閉じ込められて、泣き喚いてるはずだからね」 洸はうなずき、葵の腰に腕を回して引き寄せた。 「本来なら、俺と葵が結婚するはずだ。あいつがこんな目に遭うのも、自業自得だ」 少し離れたところでは、父・清宮昭二(きよみや しょうじ)と母・清宮和子(きよみや かずこ)が、二人の姿を眺めながら、感慨深げに言う。 「やっぱり、葵と洸のほうがお似合いね」 「茜がしつこく付きまとわなければ、この結婚式は最初から葵のものだったんだ」 その言葉を聞いた瞬間、全身から血の気が引いていく。 誰もがこの茶番劇に加担し、私だけが蚊帳の外だったのか。 だったら、こんな偽りの結婚も、偽りの愛も、もういらない。

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Chapter 1

第1話

きびすを返し、披露宴会場を後にする。

背後から、洸の優しく甘い声が聞こえてくる。

「無理しなくていいからな。疲れたら、俺に言えよ」

葵が甘ったるい声で応じる。

「うん。洸が一緒なら、大丈夫……」

振り返ることはしなかった。

ホテルのエントランスを抜けると、冷たい風がドレスの襟元から入り込んできた。

タクシーを拾い、後部座席に乗り込むと、運転手がバックミラー越しに私を見て、驚いたように目を見開く。

「お客さん……今日は結婚式だったのではないですか?随分と、痛々しいお姿ですが……大丈夫ですか?」

俯いて自分の姿を確認する。両手は血で汚れ、ネイルチップごと爪が2本、割れていた。

クローゼットの鍵を壊したときについた傷だ。

「ええ。でも、もう終わらせました」

声はかすれ、言葉にできないほどの痛みが喉の奥に込み上げている。

運転手は黙ってティッシュを差し出し、控えめな口調で諭すように言う。

「差し出がましいようですが、どのようなご事情であれ、ご自分を傷つけるのはおやめになったほうがいい。お客さんのご両親だって、そんな姿を見たら胸を痛めるはずですよ」

ティッシュを受け取ろうとした手が止まる。

そうだ。親なら、自分の子どもが苦しむ姿なんて、見たくないはずだ。

ただ残念なことに、私の両親の目には、昔から葵のことしか映っていない。

家に帰ると、玄関の照明をつけた。

部屋の中には、結婚を控えて二人で選んだ家具や小物が並んでいる。

壁には、前撮り写真が飾られている。背の低い私には少し高い場所だったから、洸が私を抱き上げて、一緒に飾ったものだ。

寝室のベッドには、二人で週末を丸々使って選んだ新しいシーツがかかっている。

あの日、洸は私を抱き寄せながら笑っていた。

「これからは毎晩、ここで一緒に眠ろうな。二人で、幸せな家庭を作っていこう」

けれど今、その部屋でこれから暮らすのは私じゃない。洸と、葵だ。

突然、スマホが震えた。穂香からの電話だ。

「茜!今どこ!?

もう、洸ったら鈍すぎるんだから、ずっと茜のこと探してたのよ。

さっきクローゼットまで探しに行ったんだけど、茜がいなくて。だから、葵が代わりにテーブルラウンドをしてたの。

早く戻ってきて!みんな、花嫁の手紙を待ってるんだから!」

その声は、ひどく心配しているように聞こえる。

それはまるで、かつて学校でいじめられていた私を守るため、一人で何人もの相手に立ち向かってくれたあの頃と同じだ。

傷だらけになっても、一歩も引かずに私を庇ってくれた、世界で一番の親友だった。

なのに、先ほどの光景が脳裏に焼き付き、何度も繰り返し蘇ってくる。

穂香は葵たちと一緒になって、私を笑いものに仕立て上げた。

しばらく黙ってから、はっきりと言う。

「葵が私の代わりに披露宴に出るために……わざと私をクローゼットに閉じ込めたよね?」

電話の向こうで、息を呑む気配がした。

しばらくして、穂香の声が小さくなる。

「……全部、知ってたの?」

私は答えない。穂香は慌てたように言葉を継ぐ。

「茜、お願い。話を聞いて」

「言い訳は聞きたくない」

その時、電話の向こうから母の声が割り込んできた。

「もう放っておきなさい!勝手にさせておけばいいのよ!

戻ってこないなら好都合だわ。葵と洸の邪魔をしなくて済むもの」

その場に立ち尽くし、爪が手のひらに食い込む。

傷口が再び開き、ぽたぽたと血が純白のウェディングドレスを汚していく。

「お母さん……今日は私の結婚式だよ。花嫁は、私なのに」

「花嫁だから何なの?葵は昔から、あんたに何でも譲ってきたじゃない。たまには葵に譲ってあげられないの!?」

私の絶望や悲しみに、母は微塵も気づいていない。言葉の端々に私を責め立てるような圧を感じる。

いや、気づいている上で、どうでもいいと思っているかもしれない。

「たかが男一人くらいで、家族みんなを不愉快にさせなきゃ気が済まないの?

昔からそう。あんたって本当に自己中ね!」

言いたいことだけを言い終えると、母は容赦なく電話を切った。

ほどなくして、SNSの通知が鳴った。穂香の新しい投稿だ。

【この二人、お似合いすぎ!見てるだけで幸せな気分になる】

添えられた写真には、洸の腕に葵が寄り添い、笑顔でテーブルラウンドしている姿が写っている。

二人は満面の笑みを浮かべ、スポットライトを浴びるその姿は、確かに絵になる。

その投稿に、母が誰よりも早く「いいね」を押していた。拍手の絵文字が3つ並べられている。

さらに、洸の友人たちからも、次々とコメントが寄せられている。

【双子なのに、まるで別人だな。やっぱり葵ちゃんのほうが洸にはふさわしい】

【やっと面倒な女から解放されたな!葵ちゃんと幸せになれよ!】

洸はそれを訂正することもなく、ただ短く【ありがとう】とだけ返信している。

たったそれだけで、彼らが勝手な憶測をするには十分だ。

誰もが二人を祝福し、私のことを貶めている。

私は薄く笑った。そして、スマホを高く振り上げ、床に叩きつけた。

鈍い音とともに、画面にクモの巣状のひびが入った。

待ち受けにしていた、洸と私が寄り添って笑い合う写真も、無数のひびに覆われ、もう見る影もなかった。

それから、パソコンを開き、南ヶ浜市行きの航空券を予約する。

誰もが私の存在を疎ましく思っているのなら、いっそ彼らの前から完全に消えてしまおう。

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第1話
きびすを返し、披露宴会場を後にする。背後から、洸の優しく甘い声が聞こえてくる。「無理しなくていいからな。疲れたら、俺に言えよ」葵が甘ったるい声で応じる。「うん。洸が一緒なら、大丈夫……」振り返ることはしなかった。ホテルのエントランスを抜けると、冷たい風がドレスの襟元から入り込んできた。タクシーを拾い、後部座席に乗り込むと、運転手がバックミラー越しに私を見て、驚いたように目を見開く。「お客さん……今日は結婚式だったのではないですか?随分と、痛々しいお姿ですが……大丈夫ですか?」俯いて自分の姿を確認する。両手は血で汚れ、ネイルチップごと爪が2本、割れていた。クローゼットの鍵を壊したときについた傷だ。「ええ。でも、もう終わらせました」声はかすれ、言葉にできないほどの痛みが喉の奥に込み上げている。運転手は黙ってティッシュを差し出し、控えめな口調で諭すように言う。「差し出がましいようですが、どのようなご事情であれ、ご自分を傷つけるのはおやめになったほうがいい。お客さんのご両親だって、そんな姿を見たら胸を痛めるはずですよ」ティッシュを受け取ろうとした手が止まる。そうだ。親なら、自分の子どもが苦しむ姿なんて、見たくないはずだ。ただ残念なことに、私の両親の目には、昔から葵のことしか映っていない。家に帰ると、玄関の照明をつけた。部屋の中には、結婚を控えて二人で選んだ家具や小物が並んでいる。壁には、前撮り写真が飾られている。背の低い私には少し高い場所だったから、洸が私を抱き上げて、一緒に飾ったものだ。寝室のベッドには、二人で週末を丸々使って選んだ新しいシーツがかかっている。あの日、洸は私を抱き寄せながら笑っていた。「これからは毎晩、ここで一緒に眠ろうな。二人で、幸せな家庭を作っていこう」けれど今、その部屋でこれから暮らすのは私じゃない。洸と、葵だ。突然、スマホが震えた。穂香からの電話だ。「茜!今どこ!?もう、洸ったら鈍すぎるんだから、ずっと茜のこと探してたのよ。さっきクローゼットまで探しに行ったんだけど、茜がいなくて。だから、葵が代わりにテーブルラウンドをしてたの。早く戻ってきて!みんな、花嫁の手紙を待ってるんだから!」その声は、ひどく心配しているように聞こえる。
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第2話
その夜、私はほとんど眠れなかった。浅い眠りの中、これまでの出来事が、頭の中を何度も駆け巡っていた。葵が何かを欲しがれば、両親はいつも甘やかし、何でもすぐに買い与えていた。それなのに、私がやっと口にした願いは、破れて穴の開いた制服を新しいものに替えてほしいという、ささやかなものだった。それだけで母は、「わがままね。物を大切にして、節約することも覚えなさい」と私を責めた……まだ空が白み始める前、リビングから物音がして、私は目を覚ました。ドアを開けて廊下に出ると、思わず足が止まる。洸、穂香、葵、それに両親までもが、全員そこにそろっている。みんなでローテーブルを囲み、昨日カメラマンが撮った結婚式の写真を眺めながら、楽しそうに笑っている。葵は母の肩に寄りかかり、タブレットの画面を指差した。「この写真、いいね。お母さん、見て。私と洸、本当にお似合いだよね」母は満面の笑みを浮かべて頷いている。「葵は昔から可愛いものね。茜とは大違いよ。いつも不機嫌そうな顔をして、誰にそんな顔を見せてるのかしら」穂香もすぐに母に同調する。「茜って昔から暗いんだもん。葵のほうがずっと可愛げがあるよ」洸は画面に映る、葵が自分の腕に手を添えている写真を見つめ、満足げに口角を上げていた。私が廊下の手前に立っていることなど、誰一人として気づいていない。ローテーブルの前まで歩いていくと、ようやく笑い声が途切れた。一瞬、空気が凍りつく。私を見上げた母は眉をひそめ、冷笑交じりに言う。「よくもまあ抜け抜けと顔を出せたわね。昨日、葵があんたの代わりにテーブルラウンドをしてくれなかったら、清宮家の恥をさらすところだったわよ」鼻で笑い、即座にその嘘を突きつける。「最初から、全部仕組んでたよね?私を犠牲にして、葵を幸せにするために」両親の表情が、あからさまに強張った。私はぎゅっと拳を握りしめる。悔しさとやりきれなさが胸の奥で渦巻く。「葵にこの結婚を譲るつもりだったなら、どうして最初から私に言ってくれなかったの?言ってくれれば、自分から身を引くよ。こんなひどいやり方で、事実を思い知らされなくたってよかったじゃない!」誰からも愛されていないという事実を知らされずに済んだのに。言い終えるか終わらないかのうちに、葵が突
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第3話
家を飛び出し、近くの公園へと走った。袖で乱暴に顔をこすり、溢れる涙を拭う。背後から、突然、足音が近づいてくる。洸が追いかけてきた。目の前にしゃがみ込むと、そっと手を伸ばし、親指で私の目尻の涙を拭う。それは昔、私がいじめられた時にいつもしてくれたのと同じ仕草だ。あのころ、母に叱られ、父に叩かれた私は、一人でマンションの階段の踊り場に隠れて泣いていた。そんな私を見つけた洸も、今と同じようにしゃがみ込み、親指で涙を拭ってくれたのだ。「みんなが葵ばかり可愛がるなら、俺はこれからずっと茜だけを大事にする。足りなかった分まで、俺が倍にして埋め合わせてやるから!」ふと我に返る。洸の声は、あの頃と変わらず優しかった。「茜、もう泣くなよ」彼をじっと見つめ返す。一体、いつから変わってしまったのだろう。「どうして?」喉が詰まり、どうしても納得できない思いが声ににじむ。「どうして私を捨てて、他の人を好きになったの?」しかも、私からすべてを奪っていった、あの子を……洸は一瞬言葉を失い、しばらく俯いて沈黙したあと、ようやく口を開く。「葵は、お前とは違うから」そう言って、彼は顔を上げる。「お前は大人しくて、あまり自分から話さないだろ。でも葵は、太陽みたいに明るくて、俺のそばでいつも楽しそうに話してる」葵の話になると、洸の顔には自然と笑みが浮かぶ。「最初は、正直うるさいと思ってた。お前が葵のことで傷ついてきたのも知ってたから、わざと遠ざけてたんだ。でも、一緒にいるうちに、あいつの明るさにいつの間にか惹かれてしまった。その感覚が、すごく心地よくて……」そう言い終えると、彼は小さくため息をついた。まるで、愛する人を諦めて、責任のためにすべてを背負おうとしているかのような顔をする。「茜、安心しろ。お前がこれまで俺のためにしてくれたことは、全部覚えてる。だから、責任は必ず取る。昨日の結婚式は、葵の願いを叶えたと思ってくれ。これからは葵と距離を置いて、ちゃんとお前と夫婦としてやっていくから」その言葉を聞いて、思わず吹き出してしまう。けれど、笑えば笑うほど、涙が込み上げてくる。「夫婦として?さっき、みんなが私を責めていたとき、私たちが夫婦になることを少しでも考えてた?私がお母さん
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第4話
日が暮れてから、私はようやく家に戻った。荷物をまとめて、家を出る準備をするつもりだった。けれど、玄関に入った途端、誰かに突き飛ばされ、床に転がってしまった。父が私を指差し、怒鳴り声を上げる。「妹をあんな目に遭わせて何とも思わないのか!お前のせいで、葵は今日、死にかけたんだぞ!」顔を上げると、葵が洸の腕の中で泣いている。洸はずっとその背中をさすりながら、優しい声で慰めている。「葵のせいじゃない。もう自分を責めなくていい」そこへ母が歩み寄り、憎々しげに私の頭を指先で小突いた。「この恩知らず!葵はあんたに何でも譲ってきたじゃない。ただ代わりにテーブルラウンドをしただけなのに、どうしてそこまで追い詰めるの!今すぐ謝りなさい!それからね、あんたの仕事、もう辞めさせておいたから」母はバッグから退職届を取り出し、私の前に放った。「ちょうど葵も仕事を探してるところなのよ。あんたが席を空ければ、葵がそこに入れる。これまでの埋め合わせだと思いなさい。それに洸も同じ会社なんだから、葵の面倒を見てくれるしね」私は言葉を失った。退職の手続きには本人の署名が必要なはずだ。突き飛ばされたときの痛みも忘れ、震える声で問い詰める。「いつ、私の署名を手に入れたの?」洸が顔を上げ、私を見て静かに答える。その声はあまりにも穏やかで、まるでどうでもいいことを話しているようだ。「前に婚前契約書を書いてもらっただろ。その中に、退職届も一緒に挟んでおいたんだ」全身が凍りつき、血の気が一気に引いていく。結婚前に自分の財産まで私に渡して、私を安心させようとしてくれた人が、裏では葵のレールを敷くため、私のキャリアまで潰していた。「……私を騙してたの?」「どうせ茜は俺と結婚するし、仕事がなくても、俺が養ってやれる」洸が近づき、私の手を握ろうとしたが、私は身を引いてそれを避けた。「葵と仕事を取り合う必要なんてないだろ。あいつは卒業したばかりで、仕事を探すのも大変なんだから」乾いた笑みを浮かべる。けれど、涙が溢れそうになる。「私がこの3年間どれだけ死に物狂いでやってきたか知ってるじゃない!一番下から始めて、毎日遅くまで働いて、やっと今のポジションまで這い上がったのよ!それなのに……私が積み重ねてきたものを、
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第5話
茜が家を出てからというもの、家の中は妙なほど静かになった。最初のうちは、和子もせいせいしたと思っていた。もう茜が目の前をうろつくこともない。何かにつけて不満をぶつけられることもない。葵は当然のように、茜の部屋を自分のものにした。ドレッサーには、葵の化粧品が所狭しと並べられている。クローゼットには、新しく買った服がぎっしり詰め込まれた。ベッドのシーツまで、葵の好きなベビーピンクに替えられた。葵は洸の腕に手を絡め、リビングをどう改装するか話し合っている。壁に飾られている洸と茜の写真を捨てて、壁をベビーピンクに塗り替えたいと提案した。洸は葵の提案に同意した。しかし、内装業者が下見に来るたびに、彼は何かと理由をつけて工事を先延ばしにしてしまう。例の写真は、いつまでも壁に残ったままだ。葵にとって、写真の中で微笑む茜の顔はひどく目障りだ。やがて、和子も何かがおかしいと感じ始めた。家の中が、あまりにも静かすぎるのだ。キッチンで夕食の支度をしているとき、無意識に声を張り上げてしまう。「茜、茶碗取ってちょうだい」そう口にしてから、茜がもうこの家にいないことに気づく。返事をする者は誰もいない。食器棚には、茶碗がきれいに並んでいる。一人分だけ使われなくなっていた。和子は毎晩、つい茜の分までご飯を炊いてしまう。そして、よそったご飯が冷めていくのを眺めてから、生ゴミの袋へと捨てる。昭二も、会社から帰宅すると、習慣で茜の部屋のドアをノックする。「茜、電気代の明細はどこだ?」何度かノックしたところで、ようやく我に返る。ドアを開けると、そこにいたのは葵だ。葵は鏡に向かって口紅を塗りながら、振り返りもせずに言う。「明細なんて知らないよ。お姉ちゃんに聞けば?」昭二は何か言いかけたが、口をつぐんだ。そのまま背を向けて部屋を出ていく。その夜、昭二は家じゅうの引き出しを探り、茜の幼い頃から今までの写真を、次々と取り出していく。一枚ずつ、ゆっくり眺める。最後の一枚を見終えるころには、目が潤んでいた。洸の様子も、日に日におかしくなっていく。毎日仕事帰りに、コンシェルジュカウンターの前を通るたび、足を止める。そして、決まって同じことを尋ねる。「今日、清宮茜宛ての荷物はない
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第6話
葵は顔にパックを貼ったまま寝室から出てくると、気にも留めない様子で言う。「ブロックされたなら、それでいいじゃん。お姉ちゃん、私たちを脅かしてるだけだよ。どうせ何日かして手持ちのお金がなくなったら、自分から戻ってくるって」和子はいくら待っても既読のつかないトーク画面をじっと見つめていた。そのとき、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚を覚える。ふと、あの日の電話で茜から投げかけられた言葉が蘇る。「お母さん……今日は私の結婚式だよ。花嫁は、私なのに」あのとき、自分は何と言ったのだろうか。たかが男一人くらいで、家族みんなを不愉快にさせる気か、と責め立てた。自己中だ、と罵ったのだ。そう言って、茜の頬を思いきり叩いた。口元から血が滲むほどだった。それでも茜は、一滴も涙をこぼさなかった。ただじっと、まるで赤の他人でも見るかのような冷たい眼差しで、母親である自分を見つめ返していた。そう思うと和子は突然、息苦しさに襲われる。ソファの肘掛けに手をつき、ゆっくり腰を下ろす。手のひらには、じっとりと汗がにじんでいた。「探しに行くぞ」沈痛な面持ちで、昭二が口を開く。「同級生のところを当たってみろ。どこへ行ったのか、聞いてみるんだ」洸はすでに玄関まで駆けていた。靴を履こうと腰をかがめるが、手が震えて、靴紐さえうまく結べない。それでも、ドアノブに手をかけ、開けようとした。突然、葵が背後から駆け寄り、洸の腰にすがりついて強く抱きしめた。「今さら探しに行って、どうするの!お姉ちゃんが出て行ったんだから、それでいいじゃん!」洸の動きが止まる。葵は顔を洸の背中に押しつけ、焦ったような声で続ける。「お姉ちゃんと一緒にいるのは、責任を取るためだけだって言ったじゃない!自分から出て行ったんだから、もう放っておけばいいのよ!これで私たち、堂々と一緒になれるから」洸は何も答えない。玄関は水を打ったように静まり返っている。その静けさの中で、葵の激しい鼓動だけが伝わってくる。腕に力を込め、指先が服の上から肌に食い込むほど強く抱きついている。「洸は、とっくにお姉ちゃんのことなんて愛してないじゃん。はっきりそう言ったよね?忘れたの?お姉ちゃんは大人しくてつまらない。一緒にいても息が詰ま
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第7話
葵の表情が変わった。腕をほどき、一歩後ろへ下がると、洸を鋭く見据える。「洸、目を覚ましてよ!お姉ちゃんのことなんて、もう愛してないんじゃない!なのに、どうしてこれから先まであいつに縛られるのよ!」洸は言葉に詰まった。葵は冷ややかに笑う。「自分の胸に手を当ててよく考えてみてよ。この半年、お姉ちゃんと一緒にいて、一度でも楽しいと思ったことがあった?お姉ちゃんからメッセージが来るたびに、うっとうしそうな顔をして、電話がかかってきても、無視してきたじゃない。洸はただ我慢して、耐えていただけよ。お姉ちゃんを重荷だと思ってたくせに」一つ一つの言葉が、刃のように洸の胸へ突き刺さる。洸の呼吸が次第に荒くなる。「もう……やめろ」「だって、事実じゃない?あいつが出て行かなかったら、洸はいつまで経っても、もう愛してないって認められない。私があの厄介者をきれいに片付けてあげたんだから、むしろ感謝してほしいくらいだわ!」洸が勢いよく顔を上げ、目の前に立つ葵をまじまじと見つめる。その顔立ちは、茜と瓜二つだ。だがその瞳に宿るものはまるで違う。茜の目には、いつも相手の顔色を窺うような、怯えた色がにじんでいた。何か言い間違えたら、見捨てられてしまうのではないかと、いつも怯えているようだ。それに対して、葵の目には揺るぎない確信がある。自分が選ばれ、最後には必ず勝つという確信だ。洸は突然、息が詰まるような感覚に襲われる。「葵……どうして、お前はそんな……俺は茜を愛してる。あいつと一緒にいて、幸せだった。ただ気づくのが遅すぎただけだ。だから今度こそ、あいつを見捨てたりしない」そう言い残し、洸は玄関のドアを開ける。そのまま一度も振り返らず、外へ駆け出していった。葵は玄関に立ったまま、エレベーターの扉が閉まり、洸の姿が見えなくなるまで、ただ見つめていた。顔に浮かんでいた得意げな笑みが、少しずつ消えていく。やがて、その表情は底知れぬ陰うつなものへと変わった。ソファから立ち上がった和子が、おろおろしながら葵を見る。「葵……」「話しかけないで」葵は冷たい声で遮る。「洸が自分で選んだことよ。あれだけ言ったのに、それでもあいつを探しに行くんだから。だったら、行かせればいい。どん
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第8話
洸は、茜が行きそうな場所を片っ端から探し回った。大学時代の同級生、前の職場の同僚、かつてのルームシェアの相手……しかし、誰に聞いても茜の行方を知る者はいない。中には、洸を見るなり、ドアを閉める人もいる。「茜とはもうずっと連絡を取ってないわ。迷惑だから、もう来ないで」「最初からあんたなんて信用できないって言ったのに、あの子が聞かなかった」「見つからないってことは、会いたくないってことよ。もう諦めたら?」閉ざされたドアの前に立ち尽くし、洸はふと自嘲する。茜は家を出る前に、すべての逃げ道を自分で断ち切っていたのだ。未練など微塵も残さない、あまりにも鮮やかな幕引きだ。1か月が過ぎたころ、洸は茜を探すことを諦めた。探したくなくなったわけではない。会社から連絡が入り、洸は無断欠勤が重なったため、懲戒解雇になったと告げられたからだ。家に戻ると、リビングのソファに葵が座っている。ローテーブルの上には一枚の書類が置かれている。洸が近づいて書類に目を落とす。それは葵の本採用拒否の通知書だ。「お前も、解雇されたか」「業務遂行能力不足だって」葵は平静を装っているが、書類を握りしめる手は震えている。「あのポジション、私のために空けてくれるって言ったよね?私の経歴なら絶対に通用するって言ったじゃない?これがあんたの言ってた、私のために手配した仕事ってこと?」洸は口を開きかけたが、何も言えない。そのポジションは、茜が3年かけて必死に積み上げてきた結果だ。卑劣な手段を使って茜の退職届を偽造したというのに、肝心の葵はたった三か月の試用期間さえ乗り切れなかった。人から何かを奪っても、それは自分のものにはならないという現実を容赦なくつきつけられた。それから和子は、頻繁にSNSをチェックするようになった。茜が姿を見せるかもしれない場所を、血眼になって探す。昭二は口にこそ出さないものの、毎日仕事帰りにマンションの前で少しだけ足を止めるようになった。もしかすると、次の瞬間にも、スーツケースを引いた茜が角から現れるのではないか。そんな期待を、どこかで抱いていた。しかし毎回、その期待は虚しく裏切られた。そんなある日、昭二が偶然、スマホで経済ニュースの動画を目にした。動画の中では、きちんと仕立
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第9話
洸は帰らなかった。午後から日が暮れるまで、私の会社の前に立ち続けていた。警備員に何度も追い払われたが、それでも諦める気配はなく、どうしても私に会うのだと言い張っていたらしい。翌朝、オフィスのドアを開けると、入口の前に白いバラの花束が置かれていた。添えられたカードには、短い言葉が書かれている。【君が白いバラを好きだったこと、覚えているよ】洸の筆跡だ。その花束を拾い上げ、清掃員に処分を頼む。3日目には、十数杯のカフェラテが届いた。【ずっとこれが好きだったよな。会社のみんなの分も買っておいた】私は一切口をつけず、すべて受付に頼んで社員たちに配ってもらう。5日目。洸は会社の前で、大きなバラの花束を抱えて立っていた。通りすがりの人たちが、次々と好奇の視線を向けている。私が退勤してエレベーターを降りると、洸はすぐに駆け寄ってきた。「茜、少しだけ話を聞いてくれないか?」私は足を止め、まっすぐ彼を見つめる。「手短に」すると洸はまるで、まだ希望があると思ったかのように目を輝かせた。「自分がどれだけひどいことをしたか、分かってる。葵のことも……全部俺が悪かった。本当に後悔してる。毎晩眠れなくて、目を閉じると昔のことばかり思い出すんだ。覚えてるか?俺が40度近い熱を出したとき、お前は俺を背負って病院まで連れていってくれた。あのとき俺は、絶対に一生お前を大切にするって心の中で誓ったんだ。なのに、いつの間にか、それを忘れてしまって……」彼の声は次第に震えを帯びていった。「もう一度、俺にチャンスをくれないか?もう一度、お前とやり直したいんだ」彼の言葉を最後まで聞いてから、私は手を伸ばして彼が抱えていた花束を受け取る。その瞬間、洸の目に嬉しそうな色が浮かんだ。だが次の瞬間、私は手を離した。花束は地面に落ち、花びらが辺り一面に散らばる。大理石の上に散るバラは、ひどく目に焼きついた。洸の笑顔が、そのまま凍りついてしまう。私は顔を上げて彼を見つめ、ふっと微笑んだ。「じゃあ、私がクローゼットに閉じ込められたあの日のことは、覚えてる?ずっと待ってたわ。でも誰も助けに来なかった。私がそこにいることすら、誰も覚えてなかった。必死に鍵を壊して、手を傷だらけにしながら会場まで
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第10話
1か月後、母は人づてに私の新しい連絡先を手に入れた。電話がかかってきたとき、私はちょうど会議の最中だった。見覚えのある番号を見て、着信を無視した。それから何度もかけてきたが、一度も出なかった。しばらくして、メッセージが届く。【お母さんが悪かったわ。お願いだから帰ってきてちょうだい】【茜がいないと、家の中が空っぽになったみたいで……】【お父さんも最近体調を崩して、ずっと茜のことを気にかけてるのよ】【茜の大好きな肉じゃがを作ったの。帰ってきて一緒に食べようよ】返信することなく、そのままその番号をブロックした。さらに半月が過ぎると、今度は父が別の番号から電話をかけてきた。入院したから、一度帰ってきてほしいという。「入院してるなら、ちゃんと治療に専念して」それだけ言って通話を切り、父の番号もブロックした。洸はなかなか新しい仕事を見つけられずにいると、人づてに聞いた。毎日家に引きこもっては酒を飲み、酔い潰れて私の名前を呼ぶのだという。葵とは何度も言い争いになり、あるときは家中の物を壊すほどの騒ぎになった。止めに入った母は葵に突き飛ばされ、床に倒れて腰を痛めた。それから半月ほど、まともに動けなかったという。父も、業績悪化に伴う人員整理で解雇された。50代半ばを過ぎてからの再就職は思うようにいかず、どこへ行っても門前払いだ。結局、無職の大人たちが逃げ場のないあのマンションに押し込められ、毎日のように言い争いを繰り広げているらしい。そして葵はというと、試用期間終了時点で会社を解雇されて以来、まともな仕事に就けずにいた。彼女の履歴書に書かれていた「実績」は、そもそも私が築き上げた土台があってこそのものだ。私という後ろ盾を失えば、彼女には何も残らない。10数社の面接を受けても、すべて不採用だ。結局、小さな会社で事務員として働くことになった。給料は、かつて私がもらっていた額の3分の1にも届かない。そのストレスからか、彼女は家に帰るなり物を壊しては当たり散らしているそうだ。甲斐性がないと洸を罵り、自分のためにきちんとしたレールを敷いてくれなかったと両親を責め立てる。母は、そんな葵を前にして何も言えなかった。夜中にふと目を覚ましたとき、母は暗いリビングに一人ぽつんと座り
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