All Chapters of 身代わりの妻が消えてから、夫は狂った: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

「水瀬先生から、大学を案内してほしいと頼まれたんです」理玖が朱莉の持つ画材を受け取ろうとしたが、朱莉はさりげなく避けた。「本当にありがとう。でも、用事があるなら気にしないでください。私一人でも大丈夫ですから」遠回しに厚意を断った。拒まれていることに気づきながら、理玖は結局、朱莉から画材を受け取った。「ちょうど実験が一区切りついたところです。次の段階はまだ急がなくていいので、大学を案内する時間くらいあります」親切にしてくれるのは、父から頼まれたためだと思った。「お父さんには何も言いませんよ。本当に用事があるなら、私のことは気にしなくていいですから」理玖は足を止め、朱莉を見た。「先生に頼まれたから、仕方なく付き合っていると思ってるんですか?僕が朱莉さんと一緒に歩きたいから、とは思わないんですか?」その言葉の真意を測りかね、朱莉は黙ってあとをついていった。理玖は油絵を学ぶ学生がよく利用する施設を丁寧に案内した。朱莉が疲れたと気づけば、カフェや芝生へ連れていき、休ませてくれた。「今日は本当にありがとう……」言い終える前に、理玖が叫んだ。「危ない!」この日はスケートボードサークルが活動しており、二人がいた場所はその練習場所に近かった。ボードに乗った学生が勢いよく、朱莉のほうへ突っ込んでくる。突然のことに、朱莉はその場で動けなくなった。理玖は朱莉を抱き寄せ、自分の背中で相手を受け止めた。スケートボードに乗っていた学生は、何度も頭を下げた。朱莉が理玖の様子を尋ねようとしたが、先に聞かれた。「大丈夫ですか?けがは?」その目には、本気の心配が浮かんでいた。なぜ自分の体を張ってまで守ってくれたのか、朱莉には分からなかった。「私は大丈夫です。神谷くんは?」無事だと聞いて安堵した理玖は一歩踏み出した途端、すねの痛みに息をのんだ。「どうしたんですか?けがをしたんですか?」先ほど柱の角にぶつけたらしく、理玖のすねが切れていた。さっきまで謝っていた学生は、いつの間にかいなくなっている。「保健センターへ行きましょう。かなり痛そうです」理玖は大丈夫だと断るつもりだったが、朱莉の心配そうな目を見ると、すぐにうなずいた。「お願いします」朱莉は理玖を大学の保健センターへ連れていっ
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第12話

佐久都に二度も怒鳴られ、絵里も腹を立てていた。しかし佐久都の目が真っ赤に充血しているのを見て、それ以上刺激するのはまずいと思い、バッグを手に足早に出ていった。佐久都は子どもの眠る白い棺を抱き、ソファに呆然と座っていた。ようやく、自分がどれほど朱莉を顧みていなかったかに気づいた。家の中から、少しずつ多くのものが消えていた。それなのに、何一つ気づかなかった。リビングに飾っていた二人の写真。二人で編んだソファのブランケット。二階の子ども部屋に置いていた、二人で作った木のおもちゃまで。家のどこにも、もう朱莉の痕跡は残っていなかった。「旦那様」呼び出された家政婦たちは、怯えた様子で立っていた。「家のものは、どうしてなくなった?」二人は顔を見合わせ、やがて意を決して答えた。「奥様が、いずれここには別の方が暮らすから、昔のものはもういらないと……」佐久都は手にしていたコップを床へ投げつけた。「なぜ俺に言わなかった」家政婦はためらいながら答えた。「旦那様は最近ほとんどお帰りにならなかったので、お話しする機会がありませんでした」言葉に詰まった佐久都は、別のことを問いただした。「朱莉ちゃんはいつ出ていった?なぜ止めなかった?」二人はひどく慌てた。「奥様は、いつも家に人がいるのをお好みになりませんでした。私どもは仕事が終われば帰るようにしておりました。今日は来なくていいとおっしゃったので、そのとおりに……」これ以上聞いても何も分からないと悟り、苛立たしげに手を振って下がらせた。なぜ、もっと朱莉の様子を気にかけなかったのか。悔やんでも悔やみきれなかった。今は一刻も早く、朱莉を見つけたかった。「朱莉ちゃんの行方を調べろ」秘書に命じた。だが数日捜しても、手がかり一つ見つからなかった。佐久都の焦りは募るばかりだった。ふと朱莉の父を思い出し、連絡先を開いた。発信ボタンへ指を置いたまま、長い間押すことができなかった。もともと安孝とは年の離れた友人だった。しかし朱莉と付き合い始めてから、安孝は海外へ移り住み、二人の交流も途絶えていた。安孝は最初から二人の交際に反対していた。朱莉が何度も頼み込んで、ようやく結婚を認めてもらったのだ。交際を許してもらうため、安孝と交わした約束を思い出した
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第13話

「佐久都、もう飲むな」佐久都は酒を何杯もあおり、胸に渦巻く焦りを一時でも紛らわせようとしていた。「どうして、朱莉ちゃんが俺から離れるんだ。あんなに俺を愛していたのに」友人たちは、変わり果てた佐久都をどう慰めればいいか分からず、絵里へ連絡した。「佐久都、もうやめて」駆けつけた絵里が、手からグラスを取り上げた。佐久都は一度だけ絵里を見て、またグラスを奪い返した。「放っておいてくれ」同席していた者たちは気を利かせて個室を出ていき、二人きりにした。絵里は佐久都の姿を見かね、テーブルのグラスをすべて床へ払い落とした。激しく割れる音に、佐久都の酔いが半分ほど醒めた。絵里には理解できなかった。朱莉はもう去った。自分を愛していると言い、たった一言頼めば朱莉を置き去りにして駆けつけてくれた佐久都が、なぜこれほど落ち込むのか。佐久都の隣へ座った。「佐久都、あなたがいちばん好きなのは私でしょう?」佐久都はうつむいたまま、何も言わなかった。「いつも私のことを心配してくれた。朱莉さんを残してでも、私のそばに来てくれた。久我グループに損害が出ても構わないと言って、結婚式から連れ出してくれたでしょう。佐久都、昔は私が悪かった。あなたを置いていくべきじゃなかった。でも私は戻ってきた。今もあなたが好きだし、あなたも私を好きでしょう?二人でやり直せばいいじゃない」そもそも佐久都が朱莉と結婚したのは、絵里への当てつけだった。今の状況は、かつて自分が最も望んでいたはずのものだ。それなのに、なぜ少しも嬉しくないのだろう。佐久都の表情がわずかに揺らいだのを見て、絵里はすぐに抱きついた。「勉強のためとはいえ、何も言わずに出ていった私が悪かった。佐久都、朱莉さんはもういない。今度こそ私と一緒にいて。ね?」酒に酔った佐久都は、何を考えているのか分からない目で絵里を見つめた。どうすればいいのか分からない。自分の気持ちさえ、はっきりしなかった。朱莉を愛しているのか。初めは確かに絵里への当てつけだった。だが長い時間を共に過ごし、朱莉は自分の子どもまで身ごもった。朱莉への思いが生まれていたことは、もう否定できない。では、絵里はどうなのか。かつて心から愛した初恋の相手を、今も愛しているのだろうか。佐久都
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第14話

佐久都は完全に酔っていたわけではない。絵里の問いかけも聞こえていた。ただ、どう答えればいいのか分からなかった。テーブルに置かれた小さな白い棺を見つめ、そっと抱き上げた。「ごめん。ごめんな……」その謝罪が子どもへ向けたものなのか、それとも朱莉へ向けたものなのか、佐久都自身にも分からなかった。絵里が佐久都の家を訪ねたとき、彼はまだ子どもを見つめたまま動かなかった。絵里は白い棺へ目を向けることさえできないまま、声をかけた。「佐久都、この子をきちんと見送ってあげない?」長い沈黙のあと、佐久都はようやくうなずいた。その後、子どもを火葬し、佐久都は東央市でも特に格式の高い霊園に区画を求め、小さな墓を用意した。誰にも任せず、自分の手で小さな骨壺を納めた。墓石に名前がない。刻まれていたのは、「久我佐久都・水瀬朱莉の子ここに眠る」という文字だけだった。埋葬を終えると、佐久都は墓前にひざまずき、朱莉の名前を指でなぞった。「ごめん……本当にごめん」少し離れた場所に立つ絵里の目には、嫌悪と苛立ちが浮かんでいた。だが佐久都が振り返った瞬間、悲しげな顔を作った。「かわいそうな赤ちゃん……」佐久都は相手にせず、そのまま通り過ぎた。絵里は慌ててあとを追った。「佐久都、待って。歩くのが速すぎる」追いかけながら、不意に小さな悲鳴を上げた。佐久都は不機嫌そうに振り返った。「ハイヒールで足が擦れたみたい。痛い……」以前の佐久都なら、すぐに絵里を背負って坂を下り、絆創膏とフラットシューズを買ってくれただろう。ところが今は、助けようともせず、黙って見ているだけだった。「佐久都、足が痛くて歩けないの。下まで背負ってくれない?」絵里はたまりかねて、自分から頼んだ。「俺は今日、君に来てほしいとは言っていない。それでも来たのなら、ここがどういう場所で、どんな靴を履くべきかくらい分かるだろう」絵里は信じられないように佐久都を見た。「佐久都、昔はそんな人じゃなかった!」非難されても、佐久都は眉一つ動かさなかった。「昔は昔だ。絵里。君が何も言わずに去ったとき、俺たちの関係も終わっていたんだ」絵里はたちまち動揺し、足の痛みも忘れて佐久都の前へ回り込んだ。「私を怒らせようとして、わざと言ってるんで
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第15話

この前、理玖が朱莉をかばってけがをして以来、安孝は折に触れて彼を自宅へ食事に招くようになった。安孝がさりげなく二人を近づけようとしたこともあり、朱莉と理玖は急速に親しくなっていった。「先生に、フルーツを持っていくよう頼まれた」理玖は、朱莉のイーゼルのそばにあるテーブルへ皿を置いた。朱莉はうなずいただけで、筆を止めようとはしなかった。理玖は隣の椅子へ腰を下ろし、黙って絵を描く姿を眺めた。作品を描き終え、朱莉が大きく伸びをすると、理玖がまだそばにいることに気づいた。「ずっとここにいたの?」理玖は立ち上がり、朱莉の後ろから絵を眺めた。「どう?きれいに描けてる?」「とてもきれい」朱莉は、やはりあのことが気になっていた。「私たち、前に会ったことがあるの?」どうしても知りたかった。安孝に尋ねても、いつも笑ってはぐらかされた。理玖に聞けば、「忘れたなら、それでいいです」と言われた。だがこの日は、いつもの答えを返さなかった。「明日、僕と食事に行ったら、教えるよ」理玖が自分に好意を抱いていることは、朱莉にも分かっていた。だが今は、恋愛を始めるつもりなどない。ちょうどいい機会だから、きちんと断ろうと思った。「分かった」翌日、理玖が選んだイタリアンレストランへ向かった。朱莉が着いたときには、すでに理玖が待っていた。スタッフに案内されて席へ着くと、美しく包まれたジャスミンの花束を渡された。朱莉は花へ顔を寄せ、香りを楽しんだ。「ありがとう。すごく好き」「花は、だよね。じゃあ、僕のことは?」不意に聞かれ、朱莉は言葉に詰まった。「神谷くん、私は……」「今すぐ断らなくてもいいよ。この店はおいしいから、まず食事をしよう」理玖は恋人候補として申し分のない人だった。大学では細やかに気遣い、話すときも朱莉の意思を尊重してくれる。不快に感じるような振る舞いは一度もなかった。それでも、朱莉の心は佐久都に傷つけ尽くされていた。すべてを捧げたのに、あれほど無残に踏みにじられた。佐久都のことを思い出すと気持ちが沈み、料理にはほとんど手をつけず、代わりに何杯も酒を飲んだ。次第に酔いが回っていく。理玖は朱莉のグラスを取り上げた。「もうやめたほうがいいよ。酔ってしまうぞ」朱莉は理
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第16話

前回、安孝と電話で話したとき、居場所を聞き出すことはできなかった。それでも朱莉が安孝と一緒にいることだけは確信した。大まかな手がかりがあれば、捜すのは難しくない。ほどなくして、佐久都は朱莉の居場所を突き止めた。二人の思い出がこもったものを持っていき、それをきっかけに朱莉を引き留めようとした。だが、すっかり物がなくなった家には何も残っていなかった。自分がどれほどひどいことをしてきたか、改めて思い知らされた。朱莉が多くのものを処分したことにさえ、気づかなかったのだ。しかも数年も夫婦として暮らしたのに、家の外へ持ち出せる二人の写真が一枚も見つからない。佐久都は朱莉が通う大学を調べた。この数日で、目に見えてやつれていた。花束を抱え、大学の前に立つ。朱莉と会ったら何を言うか、胸の中で何度も練習してから、ようやく中へ入った。「芸術学部の展覧会、もう会場設営は終わったの?」「生物学科の神谷理玖も手伝ってるらしいよ」「水瀬朱莉さんにアプローチしてるんでしょう?最近しょっちゅう芸術学部に来てるもの」急ぎ足で通り過ぎた学生二人の会話に、「水瀬朱莉」という名前が聞こえた。佐久都はすぐに方向を変え、二人を呼び止めた。「今、水瀬朱莉と言ったか?どこにいる?」切迫した様子を不審に思った学生たちは、相手にせず去っていった。佐久都は考える間もなく、そのあとを追った。芸術学部の建物には、多くの学生が集まっていた。人垣の中央を見ようとしても、なかなか前へ進めない。苦労して中へ入ると、そこにいたのは朱莉と理玖だった。理玖が朱莉の腰を支え、体勢を安定させている。朱莉は脚立に乗って壁へ絵を掛けており、理玖に触れられても嫌がる様子はなかった。腰へ添えられた手が、佐久都にはひどく目障りだった。花束を床へ投げ捨て、理玖の襟をつかむと、その顔へ拳を振り下ろした。突然のことに、周囲の誰もが息をのんだ。殴られた衝撃で脚立が揺れ、その上にいた朱莉が怯えた顔をする。理玖は佐久都に構わず、急いで朱莉を支え、床へ下ろした。朱莉が安全な場所へ降りると、今度は理玖が佐久都の顔を殴り返した。佐久都は理玖より年上で、ここ数日はろくに休んでもいなかった。一発で床へ倒れた。起き上がろうとする佐久都へ、口元の血を拭
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第17話

朱莉は理玖を自宅へ連れて帰り、救急箱を出して傷の手当てを始めた。理玖は何か言いたそうに朱莉を見ていた。朱莉は手を止めた。「聞きたいことがあるなら、聞いて」顔色がよくないため、理玖はしばらく迷い、結局、口を開かなかった。心配していることが分かり、朱莉のほうから話した。「あの人は久我佐久都」ため息をつき、続けた。「私の元夫よ」理玖はたちまち動揺し、どうすればいいか分からない様子だった。朱莉の過去を何も知らず、あの男が今もどれほど大きな存在なのかも分からなかった。その目が語るものを読み取り、朱莉は思わず笑った。「元夫だって言ったでしょう。もう気持ちは残ってないよ」理玖はほっとした。「それなら、離婚した理由を聞いてもいいか?」救急箱から脱脂綿を取り出していた朱莉の手が止まった。「答えたくなければ、いいんだよ。僕が立ち入りすぎた」朱莉は脱脂綿に消毒液を含ませ、そのまま理玖の口元の傷へ押し当てた。刺激が走り、理玖は痛みに顔をしかめた。「答えたくないからって、そんなに強くしなくてもいいだろう」拗ねたような口調だった。朱莉はため息をついた。「大した理由じゃない。もう愛せなくなっただけ」元気を失った様子に、理玖は胸を痛めた。「最低な男に当たることくらい、誰にでもあるよ。そんな男は捨てて、次を探せばいい」空気を変えようと、わざと冗談めかして尋ねた。「僕なんてどう?次の相手に向いていると思わない?」朱莉は理玖を見つめ、突然うなずいた。「いいよ」理玖はすぐには理解できず、ぽかんと朱莉を見た。やがて、つかえながら尋ねた。「そ、それって……僕の気持ちを受け入れてくれるってこと?」理玖は申し分のない人で、実際、とても大切にしてくれていた。これまで朱莉は、佐久都に傷つけられたことばかり考え、新しい恋を受け入れようとしなかった。だが今、その考えに自分が縛られていたのだと気づいた。失敗した結婚に囚われ、すでに多くのものを見落としている。理玖のまっすぐな目を見つめ、もう一度、自分に機会を与えてもいいと思った。新しく歩き始めるための機会を。「そう。嫌なの?私が一度結婚していることが気になる?」理玖は勢いよく首を横に振った。「違う。冗談じゃないかと不
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第18話

あの日以降、佐久都はさらに二度、朱莉を訪ねてきた。だが、そのたびに理玖が追い返した。ようやく諦めたのだろうと、朱莉が安堵しかけたころ、見知らぬ番号からメッセージが届いた。【水瀬朱莉。会って話がしたい】誰なのかも、なぜ自分の連絡先を知っているのかも分からない。朱莉はそのまま迷惑メッセージとして削除した。ところが翌日、同じ内容が届いた。【誰?】試しに尋ねると、短い返信が来た。【一条絵里】朱莉は眉を寄せ、その番号を着信拒否した。佐久都にも絵里にも、もう関わりたくない。自分から身を引いたのに、なぜ今さら追いかけてくるのだろう。「水瀬朱莉、話があるの」ある日、授業を終えた朱莉の前に、絵里が現れた。その日に限って理玖にも授業があり、迎えには来ていなかった。「話すことなんてない」横を通り過ぎようとしたが、手首をつかまれた。振りほどこうとしても、強く押さえつけられる。「近くにカフェがあるわ。そこで話しましょう」もう関わりたくはなかったが、わざわざ大学まで押しかけてきた相手から逃げるつもりもなかった。悪いことをしたのは朱莉ではない。怯える理由もない。カフェへ入ると、絵里の分のコーヒーまで注文した。目の前に置かれたカップを見て、絵里が冷たく笑った。なかなか話し始めないため、朱莉から口を開いた。「どうしたの?佐久都とうまくいってない?」その言葉は絵里の痛いところを突き、たちまち顔が険しくなった。「朱莉さんが何かしたんでしょう?佐久都が私にあんな態度を取るよう、仕向けたんじゃないの?」朱莉はコーヒーを一口飲み、笑みを含んだ目で絵里を見た。「やっぱり、順調じゃないみたいね」絵里は感情を抑えられず、朱莉の顔へコーヒーを浴びせようとした。朱莉は動きを見抜き、カップを持つ手を押さえた。もう一方の手で自分のカップを取り、残っていたコーヒーを絵里へ浴びせた。絵里は信じられないように朱莉を見た。朱莉は続けて、絵里の前にあったコーヒーも顔へかけた。「水瀬朱莉!」以前は弱々しく見えた朱莉が、こんなことをするとは思わなかったのだろう。「これが、あなたがあれほど望んで手に入れた結果でしょう?子どもは諦めた。佐久都とも離婚した。あなたたちを避けるために、国外にまで来た。そ
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第19話

絵里は、バーで泥酔している佐久都を見つけた。「佐久都、私と一緒になって、国へ帰りましょう?」隣へ座り、肩に手を置いて優しく語りかけた。佐久都は絵里を一度見ただけで、その手を振り払った。「触るな。俺は朱莉ちゃんに会いに行く」この日、絵里は朱莉からコーヒーを2杯も浴びせられ、散々皮肉を言われたばかりだった。佐久都の言葉を聞くと、もう感情を抑えられなかった。朱莉と理玖が一緒にいる写真をテーブルへ投げつけた。「佐久都、いい加減に目を覚まして。朱莉さんはもう別の男と付き合ってる。あなたなんていらないのよ。私と帰りましょう?昔みたいに、二人で一緒にいよう。ね?」佐久都は写真を手に取ると、ためらいなく引き裂き、すべてごみ箱へ捨てた。「これは、朱莉ちゃんが俺を嫉妬させるためにやっているだけだ。謝り続ければ、いつか許してくれる。朱莉ちゃんは俺を愛している。離れていけるはずがない」その姿に、絵里は怒りが込み上げた。「佐久都、あの人はあなたを捨てたの!何度言えば分かるの?あなたがこんなに酔いつぶれても、朱莉さんは一度も様子を見に来ない。あなたを本当に思って、今もそばに残っているのは私だけよ。だから、私を見て。昔あなたを置いていったことは謝る。後悔してる。私が悪かった。もう一度やり直しましょう」佐久都は絵里を見つめ、少し酔いが醒めたようだった。「君とやり直す?」期待に目を輝かせ、絵里はうなずいた。「そうよ。いちばん愛していたのは私でしょう?朱莉さんはもういない。今度こそ二人で――」佐久都の目が突然、凶暴な色を帯びた。恐ろしくなった絵里は身を引き、ソファの隅へ追い詰められた。「絵里。お前のせいだ。お前がいたから、朱莉ちゃんは俺から離れた!」佐久都は絵里の頬を平手で打った。頬を押さえた絵里の目に、たちまち涙がたまった。佐久都に手を上げられるなど、想像したこともなかった。怒りに任せて立ち上がり、佐久都の頬を打ち返した。佐久都は我を失い、絵里の首をつかんでソファへ押し倒した。「全部、お前のせいだ。どうして朱莉ちゃんに、あんなDMを送った?どうして、わざわざ朱莉ちゃんの前であんなことを言った?お前がいたから、俺は朱莉ちゃんを顧みなかった。お前のせいで、朱莉ちゃんは俺から離れた!」朱莉が突然
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第20話

佐久都は絵里の言葉を信じなかった。自分が朱莉を愛していないはずがない。結婚し、二人の間に子どもを授かり、いつも細やかに気遣ってきた。それを愛と呼ばず、何と呼ぶのか。朱莉が中絶を決意し、離婚したのは、すべて絵里のせいだ。佐久都は、あらゆる責任を絵里へ押しつけた。絵里さえ現れなければ、今も朱莉と一緒に暮らし、朱莉は自分の妻だったはずだ。ソファで意識を失った絵里を見下ろした。この女さえ消えれば、朱莉は戻ってくるのではないか。佐久都は狂気に囚われた。朱莉は必ず自分のもとへ戻る。絵里を人目につかない場所へ閉じ込め、執拗に痛めつけた。そして苦しむ姿を何枚も写真に撮った。これだけあれば、朱莉も自分を許してくれるはずだと思った。「朱莉ちゃん、朱莉ちゃん……」朱莉の行動を数日間見張り、一人になる機会を待った。ようやく朱莉が一人でいるところを見つけたとき、朱莉は理玖と電話をしていた。佐久都が近づいてくるのを見るなり、位置情報を理玖へ送りながら逃げ出した。「佐久都、何をするつもり?」走り続けられなくなった朱莉は、道端に落ちていた棒を拾い、両手で構えた。佐久都は絵里の写真を差し出した。「朱莉ちゃん、見てくれ。俺はもう絵里なんていらない。だから、戻ってきてくれ」朱莉は写真へ目も向けず、近づいてくる佐久都へ棒を突きつけた。「あなたと一条さんがどうなろうと、私には関係ない。私たちは離婚したの。今は理玖と付き合っている」佐久都はまるで聞こえていないかのように、棒を奪って投げ捨てた。「これ以上近づかないで。私たちはもう他人よ。つきまとい続けるなら、警察を呼ぶ」しかし佐久都は朱莉の言葉を聞き入れようとせず、壁際へ追い詰めていく。手を伸ばした瞬間、理玖に襟をつかまれた。壁際で怯える朱莉を見て、佐久都の腹を蹴りつけた。佐久都は勢いよく壁へ叩きつけられた。理玖はさらに殴りかかり、何度も拳を振り下ろした。佐久都の口から血が流れた。このままでは死んでしまうと思い、朱莉が理玖を止めた。「理玖、怖い……」その声に、理玖はようやく動きを止め、朱莉を抱き締めた。佐久都は力なく座り込み、抱き合う二人を見た。起き上がって引き離そうとしたが、体に力が入らない。「神谷理玖、朱莉ちゃんは俺のもの
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