All Chapters of 身代わりの妻が消えてから、夫は狂った: Chapter 1 - Chapter 10

26 Chapters

第1話

真実を知った朱莉は、二つのことをした。一つ目は、妊娠5か月で中期中絶を受けることだった。お腹の子は、もう胎動を感じるほどに育っていた。処置の最中も歯を食いしばって泣かなかったが、看護師から「お子さんと面会されますか」と尋ねられた途端、泣き崩れながら首を横に振った。二つ目は、離婚届と財産分与に関する合意書を用意することだった。それから、佐久都に電話をかけた。以前なら、佐久都はすぐに電話に出て、優しい声で「朱莉、どうした?」と聞いてくれた。だがこの日は、何度かけてもつながらず、ようやく応答があったのは23回目だった。電話の向こうは騒がしく、続いて友人たちのからかう声が聞こえてきた。「初恋ってのは恐ろしいよな。絵里が帰ってきた途端、佐久都は妊娠5か月の奥さんを家に置き去りだ」「仕方ないだろ。あの子は絵里の身代わりなんだから。佐久都が昔どれだけ絵里を愛していたか、お前も知ってるだろ。別れたときは酒で命を落としかけたし、今まで一度も忘れられなかった。それで、よく似た若い子を口説いて身代わりにしたんだ」「奥さん本人は、まだ何も知らないんだろ。毎日、佐久都にべったりでさ。この前、二人がキスしてるところを見かけたけど、あんなふうに甘えられたら、見てるこっちまで骨抜きになりそうだった。俺なら、あんなかわいくて甘え上手な子が家にいたら、絵里のことなんてとっくに忘れてるよ」「佐久都は冷たそうに見えて、一途だからな。一生、絵里しか愛せないんだろ。さっきも絵里がハイヒールで足が痛いとこぼしただけで、抱き上げてフラットシューズを買いに行ったぞ……」スマホを握ったまま、朱莉は声もなく涙を流した。そのとき、向こうが急に静かになった。「誰だ、俺の電話に出たのは?」佐久都の声だった。「え?知らない。何かの拍子に触ったんじゃないか……」足音が遠ざかり、やがて周囲の物音が消えた。次に聞こえてきたのは、朱莉をいつも夢中にさせていた佐久都の優しい声だった。「朱莉ちゃん、どうした?雷が怖くて眠れないのか?今夜は付き合いがあるんだ。遅くなるけど、帰ったら朱莉と赤ちゃんのそばにいるからな」朱莉は深く息を吸った。「離婚の書類にサインしてほしくて――」言い終える前に、女の声が割り込んだ。「佐久都、足が痛い……」佐久都はしばら
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第2話

その晩、朱莉は長い夢を見た。佐久都と初めて出会った日の夢だった。18歳だった朱莉は、父に連れられて久我家のパーティーを訪れた。佐久都は仕立てのいい黒いスーツをまとい、シャンパンを手にピアノのそばに立っていた。朱莉は一目で恋に落ちた。やがて勇気を振り絞って彼の唇を盗むと、佐久都は驚いたあと、低く笑った。「キスは、そんなふうにするものじゃない」そして朱莉の後頭部に手を添え、本当のキスを教えた。息もできなくなるほど長い口づけだった。今思い返しても、幻のように美しい夢にしか思えない。目を覚ますと、枕は涙で濡れていた。夜が明けてからもしばらく動けずにいた朱莉は、ようやくスマホを手に取り、父へ電話をかけた。「お父さん、私、離婚することにしたの。手続きが全部終わったら、そっちへ行く」声はひどくかすれていた。「佐久都に何かされたのか?」安孝の声がたちまち険しくなった。「違うよ」朱莉は、少しずつ明るくなる空を眺めた。「もう、愛していないだけ」本当は、佐久都が朱莉を愛していなかった。そして朱莉も、二度と佐久都を愛さない。その言葉は口にできなかった。砕けたガラスを飲み込み、胸の内側を切り裂かれるに任せているようだった。電話を切ると、SNSに見知らぬアカウントからフォローリクエストが届いた。朱莉は引き寄せられるように承認した。すぐに動画が送られてきた。画面の中で、佐久都はソファに浅く腰かけたまま眠っていた。眉を寄せ、ある名前をつぶやいている。「絵里……」続いて、長いDMが届いた。【一条絵里よ。佐久都の初恋の相手。何年も経って、もう結婚までしているのに、まだ私を忘れていなかったなんて思わなかった。今日帰ってきて気づいたんだけど、手首の内側には今も私の名前のタトゥーが残っているし、二人の写真も、昔の日記も全部大切に取ってあった。眠りながら私の名前を呼んでいるでしょう?きっと昔の夢を見ているのね。佐久都にとって、一生忘れられない初恋だから】長い文章を読み終えたころには、胸の痛みさえ麻痺していた。朱莉は一言だけ返した。【何がしたいの?】ずいぶん経ってから、返信が来た。【別に。ただ、もともと私のものだった人を取り戻したいだけ。佐久都はもうすぐ起きるわ。私が悪い夢を見たと
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第3話

佐久都が出ていった直後、インターホンが鳴った。朱莉がドアを開けると、上品な菓子箱を提げた女性が立っていた。「初めまして。一条絵里よ。あなたにDMを送ったは私」絵里は柔らかく微笑んだ。その目には、隠しきれない挑発の色が浮かんでいた。「このところ佐久都にいろいろ助けてもらったから、お礼にお菓子を作ってきたの。せっかく来たんだもの。まさか追い返したりしないわよね?」朱莉が答えるより先に、絵里は勝手に中へ入り、家の中を見て回り始めた。庭を通りかかったところで、絵里が足を止めた。「このバラ、どれも私がいちばん好きな品種なの。佐久都、まだ育てていたのね」朱莉の指先が震えた。佐久都は毎朝、誰にも任せず、自分の手でこの花を世話していた。朱莉は、それが彼なりの趣味なのだと思っていた。池のほとりでは、数匹の亀がのんびりと日向ぼっこをしていた。「まだ生きてたんだ!」絵里は嬉しそうに声を上げた。「子どものころに私が飼っていたの。海外へ行ってから置いていったきりだったから、とっくに死んだと思ってた」雨の日も欠かさず、佐久都が毎日餌をやっていた姿を思い出し、朱莉は胸が詰まった。リビングに入ると、絵里は飾り棚の人形へ目を向けた。「これも全部、私が好きで集めていたものよ」室内を見回し、さらに続けた。「家具も、私が好きな北欧のミニマルスタイルのままなのね」絵里のあとを歩くたび、朱莉は刃の上を踏んでいるような痛みを覚えた。2年間暮らしてきた家が、突然見知らぬ場所に変わっていく。寝室では、絵里がクローゼットのスーツやネクタイを撫でた。「どれも私が贈ったもの。こんなにきれいに取ってあったんだ」佐久都は毎日、それらを丁寧にアイロンがけしていた。彼が触れさせなかったのは潔癖だからではない。そこに絵里との思い出が残っていたからだった。最後に、絵里は二人のウエディングフォトの前で立ち止まった。「偶然ね」小首をかしげて笑う。「昔、佐久都と三つのテーマで写真を撮ろうって話していたの。砂漠と海と森。あなたたちも同じ三つを選んだのね」朱莉の顔から血の気が引いた。撮影のとき、この三つにすると言い張ったのは佐久都だった。自然を舞台にしたロマンチックな写真が好きなのだと信じていた。「どうして君がここにいる
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第4話

朱莉はとっさに、ベッド脇のコップを倒した。割れる音に佐久都が振り向いた。医師の話もそこそこに、心配そうな顔でベッドへ駆け寄った。「朱莉ちゃん、目が覚めたのか?どこか痛む?」朱莉は小さく首を横に振った。佐久都の肩越しに、言いよどんでいる医師が見えた。安堵した佐久都は、改めて医師へ目を向けた。「先生、さっき何と?よく聞こえなかったんですが」何か大切なことを聞き逃した気がしてならない。医師が口を開きかけると、朱莉は気づかれないほど小さく首を振った。意図を察した医師はため息をつき、「今はゆっくり休ませてあげてください」とだけ告げて病室を出た。特別個室には、朱莉と佐久都だけが残された。佐久都が痛ましげに頬へ手を伸ばしたが、朱莉は顔を背けた。何かに気づいたらしく、佐久都はすぐに謝った。「ごめん、朱莉ちゃん。俺が悪かった。朱莉ちゃんまで階段から落ちたことに気づかなくて、俺は……でも、朱莉ちゃんも赤ちゃんも無事で本当によかった。もし何かあったら、一生自分を許せなかった。二度とこんなことは起こさない。だから、もう怒らないでくれ。な?」その目には、心から怯え、悔やんでいるような色があった。朱莉はたまらなく滑稽に思えた。口にする言葉は、どれも耳に心地いい。けれど、そのうちどれが本当で、どれが嘘なのだろう。「疲れたの」朱莉は手を引き、目を閉じた。こんなくだらない芝居に付き合うつもりはなかった。入院中、佐久都は片時も朱莉のそばを離れなかった。自ら作ったスープを一口ずつ飲ませ、毎日検査に付き添い、医師の指示を一つ残らず書き留めた。夜中に朱莉が少し動くだけで目を覚まし、何か必要かと尋ねた。看護師でさえ、これほど献身的な夫は見たことがないと言った。それでも朱莉はほとんど口をきかず、窓の外を眺めていることが多かった。佐久都は妊娠による気分の落ち込みだと思い、いっそう慎重に世話をした。退院の日、佐久都は大がかりなサプライズを用意していた。高級レストランのワンフロアを貸し切り、静かに食事ができるようにした。食後は高級ブランド店を回り、朱莉が少しでも目を留めたものをすべて買った。夜になると川辺の空に色鮮やかな花火が上がり、「愛してる」という文字を描いた。「気に入った?」佐久都は背後から朱莉を抱き
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第5話

佐久都の指に力が入り、関節が白く浮いた。だがすぐにいつもの表情へ戻り、優しく笑った。「とっくに吹っ切れている。別れてから連絡も取っていないし、これから会うこともない」朱莉の口の中に苦みが広がった。眉一つ動かさず、あまりにも自然に嘘をつく。佐久都が頬に触れようとしたため、朱莉は反射的に顔を背けた。佐久都はわずかに眉を寄せた。朱莉に触れることを拒まれたのは、これでもう何度目か分からない。「誰からそんな話を聞いた?最近ずっと元気がなかったのは、そのせいか?」声が急に厳しくなった。朱莉が答えようとしたところで、鋭い着信音が響いた。佐久都は画面を見つめ、しばらく黙った末に電話へ出た。すぐに、絵里の泣き声が聞こえてきた。「佐久都、怖い……知らない男たちがずっとついてくるの……」佐久都の顔色が変わった。「居場所を送れ」上着をつかんで立ち上がり、朱莉を見ようともせず告げた。「会社で急ぎの問題が起きた。朱莉ちゃんはタクシーで帰ってくれ」朱莉は帰らなかった。自分でも理由が分からないままタクシーを止め、佐久都の車を追った。薄暗い路地で、佐久都は絵里を背後にかばい、棒を手にした数人の男と一人で向き合っていた。普段の冷静な姿からは想像もできないほど容赦なく、相手を次々となぎ倒した。頭から血を流した男が突然ナイフを取り出し、絵里に向かって突き出した。「絵里!」佐久都はためらうことなく飛び込み、自分の体で絵里をかばった。刃が胸へ沈み、白いシャツがたちまち赤く染まった。「佐久都!」絵里は倒れた佐久都を抱き締め、激しく泣き叫んだ。「怖がるな……」絵里の腕の中で、佐久都は弱々しくも優しい声で言った。「一生守ると約束した……俺は約束を破らない……」路地の入口に立つ朱莉の胸に、心臓の一部をえぐり取られたような痛みが走った。手術室の前で、絵里は涙を流しながら語り続けた。「昔からこうだったの。私のために危険なレースに出て、死にかけたこともある。私が事故に遭ったときは、輸血をして自分まで倒れて……」朱莉は壁にもたれ、黙って聞いていた。落ち着いた大人の男である佐久都にも、命を顧みないほど激しく誰かを愛した時期があった。だが、朱莉がそこまで激しく愛されたことは一度もなかった。「
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第6話

家へ戻った朱莉は、財産関係の書類を淡々と整理した。佐久都名義の家族カード、宝石、不動産の権利証を一つずつテーブルへ並べていく。まるで、ばかげた夢の後始末をしているようだった。3日後、佐久都は退院した。玄関に現れた彼は、傷口を隠すように隙なくスーツを着こなし、ネクタイもきちんと締めていた。つい先日、重傷を負って生死の境をさまよった人間には見えない。「朱莉ちゃん、最近は仕事が忙しくて、なかなか一緒にいられなかった」けがも入院も隠したまま、抱き締めようと近づいてきた。体には、かすかに消毒液の匂いが残っていた。怪しまれても説明できないため、無理をして退院したのだろう。だが佐久都は知らない。朱莉がすべてを見ていたことを。別の女を愛するために、彼がどのように命を懸けたのかも。「赤ちゃんは元気か?」佐久都は朱莉の下腹部へ目を向けた。「薬はきちんと飲んでる?前よりお腹が小さくなったように見えるけど」触れようとする手から、朱莉は反射的に一歩退いた。「気分が悪いの。触らないで」冷たい声だった。佐久都は眉を寄せ、すぐに家政婦を呼んで最近の様子を尋ねた。産婦人科から処方された薬を一度も飲んでいないと知ると顔色を変え、佐久都は薬と水を持ってきた。「朱莉ちゃん、きちんと飲んで。体調を整えるために必要な薬だ」朱莉が錠剤を見つめ――断る理由を探していると、インターホンが鳴った。佐久都の友人たちが、慌てた様子で訪ねてきた。佐久都は朱莉に休むよう言い、彼らを書斎へ連れていった。足音が遠ざかると、朱莉はすぐに薬を流しへ捨てた。寝室へ戻ろうとしたとき、書斎から激しい話し声が聞こえてきた。「佐久都、絵里が家同士の決めた結婚を強要されている。拒んだら家から出られないようにされて、あさってには式を挙げさせられるそうだ」何かが床へ落ち、割れる音がした。しばらくして、佐久都の冷えきった声が聞こえた。「分かった」「分かったって、どうするつもりだ?」「絵里を、愛してもいない男と結婚させるつもりはない」佐久都は一語一語、噛みしめるように言った。書斎が騒然となった。「式へ乗り込むつもりか?」「落ち着け、佐久都。お前には妻がいるし、数か月後には子どもも生まれるんだぞ」「結婚式から絵里を連れ出した
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第7話

それから数日、佐久都は異様なほど忙しくしていた。朝早く出て夜遅く帰り、スマホを片時も手放さない。書斎の明かりは、しばしば深夜までついていた。絵里を結婚式から連れ出すため、念入りに準備しているのだと朱莉には分かっていた。離婚届の証人欄は弁護士が手配し、必要な署名もすべてそろっていた。届出が受理された朝、朱莉は早くに家を出て、弁護士から離婚届受理証明書を受け取った。財産分与もすでに済ませていた。自分の私物以外は何一つ持っていかないつもりだった。家に戻ると、佐久都が姿見の前でネクタイを締めていた。新品らしい濃紺のスーツを着て、朝の光を受けたカフリンクスが冷たく光っていた。見たことのない服だった。今日のために用意したに違いない。「散歩から戻ったのか?」鏡越しに朱莉を見つけ、優しく笑った。「今日は出かける用事がある。家でゆっくり休んで、薬も忘れずに飲むんだぞ」振り返ると、長い指で下腹部をそっと撫で、低い声で語りかけた。「今日はママを困らせるなよ。ママを苦しませたら、パパが怒るからな」目に浮かぶ優しさが、ひどく皮肉だった。絵里のためなら命さえ投げ出せるのに、自分の子どもがすでにいないことにも気づいていない。朱莉は離婚届受理証明書を握り締めた。「話したいことがあるの」佐久都は一瞬動きを止めた。「朱莉ちゃん、もう出ないと」「そんなに急いでるの?5分も私にくれない?」佐久都は腕時計を見て、結局首を横に振った。「話なら今夜、帰ってから聞く。それでいいだろ?」「それほど大事なことなの?」「大事だ」ためらうことなく答えた。その目は執着と言えるほど強かった。「俺の命よりも大事だ」朱莉は笑った。冬の終わりに舞う最後の雪のように、淡く、すぐに消える笑みだった。「行って。遅れないようにね」佐久都は何か言いたそうにしたが、最後には朱莉の額へ軽く口づけ、慌ただしく出ていった。車の音が遠ざかるのを聞きながら、朱莉は安置ケースの前へ向かった。冷気の中から小さな白い棺を取り出し、リビングのローテーブルへ静かに置いた。朱莉はそっと目を閉じ、その隣へ新しい離婚届受理証明書を置いた。スーツケースを引いて玄関を出たとき、振り返らなかった。空港のターミナルは多くの人で行き交っていた。
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第8話

「本当にやるつもりなのか?」友人はまだ納得できずにいた。「朱莉さんに、どう説明するんだ?」佐久都はうつむき、しばらくして答えた。「朱莉ちゃんなら分かってくれる。それより、今は絵里を助けるほうが先だ」なおも何か言おうとする友人たちに、苛立った声を向けた。「一緒に行く気がないなら、どけ。朱莉ちゃんのことは俺が何とかする」皆は口をつぐむしかなかった。式場へ向かう車の中で、佐久都はなぜか胸騒ぎを覚えていた。家を出る前の朱莉の言葉が気にかかる。何か大切なものを見落としたような、朱莉がこのまま自分から去ってしまうような気がした。すぐに首を振り、不安を押し込めた。長い間一緒に暮らしてきた。あれほど自分を愛している朱莉が、離れていくはずはない。友人の言葉を思い出すと、さすがに罪悪感が湧いた。佐久都は朱莉へメッセージを送った。【朱莉ちゃん、帰ったら二人で旅行に行こう】以前なら、朱莉はすぐに返事をくれた。だが、どれほど画面を見つめても、この日は返信がなかった。押さえ込んだはずの不安が、再び胸に広がった。電話をかけようとしたところで、車が止まった。「佐久都、着いたぞ」友人の声に、佐久都はスマホを置いた。朱莉にはあとで説明すればいい。今は絵里のほうが大切だ。ホテルのスタッフは佐久都を見るなり、止めることもできずに尋ねた。「久我社長、一条様の結婚式にご出席でしょうか?」「結婚式」という言葉に、佐久都の目が暗く沈んだ。「案内しろ」それ以上何も聞けず、スタッフは急いで披露宴会場へ案内した。新婦控室で、絵里は鏡に映るウエディングドレス姿を眺めていた。その目に、無理やり結婚させられる者の不安はなかった。「絵里、本当にうまくいくのか?」まだ何の動きもないことに、父の一条隆之(いちじょう たかゆき)は不安を覚えていた。そのとき、スタッフが絵里の耳元で何かを囁いた。絵里は勝利を確信したように笑った。「大丈夫よ、お父さん。もうすぐ佐久都と一緒になれるから」隆之は安堵してうなずいた。「それでは、新婦の入場です!」司会者の声が響くと、絵里はたちまち悲しげな表情を作り、目に涙をためた。その瞬間、会場の扉が開いた。「この結婚は認めない!」佐久都の声が響き渡った。絵里
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第9話

以前なら、朱莉はいつもソファで佐久都の帰りを待っていた。玄関の音を聞けば、すぐに駆け寄って迎えてくれた。だが今、家の中には物音一つなく、照明さえついていなかった。胸に嫌な予感が広がった。佐久都はケーキを置き、家中の明かりをつけると、一部屋ずつ朱莉を捜した。「朱莉ちゃん、どこにいる?頼むから出てきてくれ。今日のことは俺が悪かった。本当に大事な用だったんだ。きちんと説明するから、出てきてくれ」声だけが、空っぽの家に響いた。佐久都は慌ててスマホを取り出し、朱莉に電話をかけた。「おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、かかりません。しばらくたってからおかけ直しください」何度かけても、結果は同じだった。リビングへ戻ると、テーブルの上に小さな白い棺があることに気づいた。急いで近寄った佐久都は、白い棺のそばに置かれた離婚届受理証明書を見つけた。震える手で手に取り、記載された名前を確かめると、そこには自分と朱莉の名前があった。どういうことだ。いつ離婚届を出された?最近の出来事を必死に思い返す。あの書類だ。中身も見ず、慌ただしく署名した書類。佐久都はたちまち動揺した。朱莉がなぜ離婚を望んだのか、理解できなかった。隣の白い棺へ目が吸い寄せられた。これは朱莉のいたずらで、自分を驚かせるためのプレゼントなのではないか。そんな考えにすがりながら、棺の蓋を開けた。中を見た瞬間、目が大きく見開かれ、頭の中が真っ白になった。佐久都は立っていられず、その場に膝をついた。自分の子どもだった。朱莉との子どもだ。感情を抑えきれず、小さな棺を抱えて泣き崩れた。妊娠を知らされた日の光景が、昨日のことのようによみがえった。「佐久都、いい知らせがあるの」朱莉は背伸びをして、後ろから佐久都の目を覆った。「何を見せてくれるんだ?ずいぶん秘密めかしてるな」佐久都は調子を合わせ、ゆっくりリビングへ向かった。「じゃーん。赤ちゃんができたの」朱莉はエコー写真を差し出した。佐久都は喜びに満ちて朱莉を抱き締めた。「俺たちの子どもか。俺が父親になるんだな」ガラス越しに、子どもへ手を伸ばした。あのときの喜びは嘘ではない。生まれてくる日を心待ちにしていた気持ち
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第10話

朱莉が佐久都と付き合い始めたときから、父の水瀬安孝(みなせ やすたか)は反対していた。佐久都は朱莉より8歳年上だ。それだけ経験もあり、人の心を読むことにも長けている。安孝は、朱莉が傷つけられるのではないかと、ずっと心配していた。先日の電話を受けてからは、なおさらだった。「朱莉!」空港から出てきた娘を見つけ、安孝はすぐに手を振った。「お父さん!」もう気持ちを整理できたと思っていた。だが父の姿を見た途端、これまで耐えてきたつらさが、すべて涙となってあふれた。「つらい思いをしたんだな」安孝は泣きじゃくる朱莉を抱き締めた。「もうあの男には会わなくていい。これからはお父さんのそばにいればいいんだ。朱莉はこんなにいい子なんだから、佐久都と別れたって、もっといい人に出会える」愛おしそうに涙を拭ってくれた。車へ乗ろうとした朱莉は、助手席にもう一人いることに気づき、驚いて足を止めた。「朱莉、紹介しよう。お父さんの教え子で、神谷理玖君だ」朱莉は少し身構えながら車へ乗った。「初めまして。水瀬朱莉です」緊張を察した神谷理玖(かみや りく)が、自分から話しかけた。「初めまして。水瀬先生から、よく話を聞いていましたよ。実際に会うと、先生のスマホの写真よりもきれいですね」安孝は海外で暮らしながらも娘を気にかけ、スマホの待ち受けにも朱莉の写真を使っていた。褒められた朱莉は、少し恥ずかしくなった。「ありがとう」一度言葉を切り、ぎこちなく付け加えた。「神谷くんも、かっこいいですね」無理に返した褒め言葉がおかしくて、理玖は笑った。二人がそれなりに会話を続けているのを見て、安孝は邪魔をせず運転に集中した。理玖は話題が豊富だった。学問の話から最近SNSで流行っていることまで、朱莉が何を口にしても会話をつなげてくれた。「うちで食事をしていかないか?」安孝はこの教え子をかわいがっていた。留学生活の苦労も知っているため、よく自宅へ食事に招いていた。「今日はやめておきます。大学の実験が少し残っていますし、デュヴァル教授のところにも寄らないといけないので」理玖は車を降りると、二人へ丁寧に挨拶をして去った。安孝は後部座席の朱莉へ、探るように尋ねた。「理玖君をどう思う?朱莉より2歳年下だが、落ち着い
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