山の麓の救護室で傷の手当てを終えた頃には、湊はもういなくなっていた。今回の親睦会を担当している総務の人が、薬の入った袋を私に差し出す。「社長から預かってます。手当てが終わったら、タクシーで一人で会社に戻るように、とのことです」私は小さな声で尋ねる。「社長は……?」「前田さんが低血糖を起こしたので、社長が病院まで付き添っています」腫れて熱を持った足首を見下ろす。胸の奥に残っていた最後の期待が、静かに消えていく。会社に戻り、机の端に手をついてようやく腰を下ろす。その直後、夏海が社内グループにメッセージを投稿する。【社長が検査に付き添ってくれたおかげで、もう大丈夫よ。今夜の食事会、みなさん忘れずに参加してくださいね】すぐに同僚たちが盛り上がる。【社長がわざわざ病院まで付き添うなんて、羨ましいな】【山登りで置いていかれる人もいれば、具合が悪くても山頂まで頑張る人もいる。やっぱり違うよね】私はグループチャットを閉じる。すると、今度はアシスタントが大量の書類を抱えてやってくる。「白川さん、社長から、今夜中に青嵐(せいらん)プロジェクトの初稿を修正しておくように言われている」「今夜って、食事会じゃないの?」「午後、仕事を中断した分を取り戻してもらうそうです」その言葉が終わるのとほぼ同時に、廊下の突き当たりにある役員専用エレベーターが音を立てて開く。湊が夏海を支えながら出てくる。夏海が羽織っているのは、湊のジャケット。そして手にしているのは、深い藍色の陶器のカップ。それは、私たちが付き合い始めて初めてのデートで、一緒に焼いたカップだった。カップの底には、少しいびつな葉っぱの模様が刻まれている。湊が自分の手で刻んだものだ。昨夜、湊に家まで送ってもらったとき、私は車を降りる際に、うっかりそれを助手席のドリンクホルダーに置き忘れてしまった。夏海が私の視線に気づく。そして、笑顔でカップを掲げた。「湊ったら、病院から帰ったばかりで胃がつらいかもしれないからって、わざわざお湯を入れてくれたの。このカップ、けっこう可愛いね」私は机に手をつき、立ち上がる。「それ、私のよ」周囲が、一瞬で静まり返る。湊が私を見る。その目には、わずかな警告の色が浮かんでいる。「陶芸店でもらった、ただのカップだ
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