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これより先、それぞれの幸せを

これより先、それぞれの幸せを

By:  森と島と夏Completed
Language: Japanese
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部署のみんなで、親睦を兼ねたハイキングに出かけることになった。 グループ分けのとき、私――白川琴葉(しらから ことは)は2年間ひそかに付き合っている佐伯湊(さえき みなと)を見る。 当然、彼は私を選ぶと思っていた。 けれど彼が目を向けたのは、帰国したばかりの幼なじみ――前田夏海(まえだ なつみ)だった。 「体力ないだろ。俺と同じグループに入れ。俺がついてるから」 夏海はごく自然な仕草で、彼の腕に手を絡める。 それを見た同僚たちは、たちまち囃し立てる。「やっぱり幼なじみって特別ですね。社長、まだ独身ですよね?二人、けっこうお似合いじゃないですか」 湊は、夏海の腕を振りほどこうともしない。ただ、淡々と答える。「うん。俺、彼女いないけど」 その場で、私は凍りつく。 昨夜まで、彼は私を抱きしめていた。「もうすぐ、みんなにちゃんと話すから」そう言っていたのに。 なのにグループ分けが終わるまで、彼は一度も私を見ない。 私はどのグループにも入らず、自由参加の組に回された。そして山を登っている途中、半ばまで来たところで足をひねる。 私は彼にメッセージを送る。【湊、もう歩けない】 既読はつく。けれど、返事はない。 40分待って、ようやく届いたのは、グループチャットに投稿された山頂での集合写真だった。 湊は夏海の肩を抱き、満面の笑みを浮かべている。 その下には、二人を面白がって盛り上がるコメントが次々と並んでいる。 そのうちの一人が私をメンションする。 【白川さん、置いていかれた?みんなの足引っ張らないでよ】 【前田さんはもう山頂に着いてるのに、まだなの?】 【歩けないなら、最初から来なきゃよかったのに】 その日、私はひとりで山を下りた。 山の麓では、湊が夏海のためにタクシーを呼んでいる。 そのとき、私が足を引きずりながら歩いてくるのが目に入って、彼はほんの少し眉をひそめただけだった。 「俺に個別で連絡するなって言っただろ。会社の人に見られたら、変な誤解をされる」 その瞬間、私はようやく理解する。「秘密の恋」なんて、結局は彼がいつでもなかったことにできる関係だったのだ。 湊。あなたが望んだとおり、あなたにはもう彼女はいない。

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Chapter 1

第1話

山の麓の救護室で傷の手当てを終えた頃には、湊はもういなくなっていた。

今回の親睦会を担当している総務の人が、薬の入った袋を私に差し出す。

「社長から預かってます。手当てが終わったら、タクシーで一人で会社に戻るように、とのことです」

私は小さな声で尋ねる。

「社長は……?」

「前田さんが低血糖を起こしたので、社長が病院まで付き添っています」

腫れて熱を持った足首を見下ろす。胸の奥に残っていた最後の期待が、静かに消えていく。

会社に戻り、机の端に手をついてようやく腰を下ろす。その直後、夏海が社内グループにメッセージを投稿する。

【社長が検査に付き添ってくれたおかげで、もう大丈夫よ。今夜の食事会、みなさん忘れずに参加してくださいね】

すぐに同僚たちが盛り上がる。

【社長がわざわざ病院まで付き添うなんて、羨ましいな】

【山登りで置いていかれる人もいれば、具合が悪くても山頂まで頑張る人もいる。やっぱり違うよね】

私はグループチャットを閉じる。すると、今度はアシスタントが大量の書類を抱えてやってくる。

「白川さん、社長から、今夜中に青嵐(せいらん)プロジェクトの初稿を修正しておくように言われている」

「今夜って、食事会じゃないの?」

「午後、仕事を中断した分を取り戻してもらうそうです」

その言葉が終わるのとほぼ同時に、廊下の突き当たりにある役員専用エレベーターが音を立てて開く。

湊が夏海を支えながら出てくる。

夏海が羽織っているのは、湊のジャケット。そして手にしているのは、深い藍色の陶器のカップ。

それは、私たちが付き合い始めて初めてのデートで、一緒に焼いたカップだった。

カップの底には、少しいびつな葉っぱの模様が刻まれている。湊が自分の手で刻んだものだ。

昨夜、湊に家まで送ってもらったとき、私は車を降りる際に、うっかりそれを助手席のドリンクホルダーに置き忘れてしまった。

夏海が私の視線に気づく。そして、笑顔でカップを掲げた。

「湊ったら、病院から帰ったばかりで胃がつらいかもしれないからって、わざわざお湯を入れてくれたの。このカップ、けっこう可愛いね」

私は机に手をつき、立ち上がる。

「それ、私のよ」

周囲が、一瞬で静まり返る。

湊が私を見る。その目には、わずかな警告の色が浮かんでいる。

「陶芸店でもらった、ただのカップだ。大したものじゃない」

夏海は彼の言葉に合わせるように、にこりと笑う。

「なんだ、もらい物だったんだ。白川さんが気に入ってるなら、どうぞ」

そう言って、カップを私の机の上に置く。

そして、指が離れ、カップが机の角にぶつかって、乾いた音を立てる。

亀裂がカップの縁から底まで、一気に走った。

「ごめんなさい……」夏海は手を押さえ、目を潤ませる。「わざとじゃないの」

湊は真っ先に彼女の手を取って、指先を確認する。

怪我がないと分かってから、ようやく淡々と言った。

「割れたなら捨てればいい。カップ一個だろ」

清掃員がやって来て、カップを破片ごとゴミ箱へ掃き入れる。

私は、そこに残った葉の模様が刻まれた破片を見つめる。ズキン、ズキンと足首が痛む。

同僚が急かすように声をかけてくる。

「白川さん、初稿はいつ終わりそう?個人的なことでチーム全体の仕事を遅らせないでよ」

私は席に戻る。

「12時までに」

みんなに囲まれるようにして、夏海がエレベーターへ向かっていく。けれど、湊だけはその場を動かない。

私の腫れ上がった足首に一度目をやると、書類の間に一枚のカードキーを滑り込ませる。

私たちがよく利用していたホテルのカードキーだ。

湊が低い声で言う。

「終わったら、俺のところに来い。意地を張るな」

私はカードキーを彼の前へ押し返す。

「社長には彼女がいないんだよね。今夜、二人きりで会うのはおかしいと思うけど」

湊が私の手首をつかむ。

「山でのことなら説明できる。夏海は体調が悪かった。あいつを置いていくわけにはいかなかった」

「私も、歩けなかった」

「でも、お前は下りてきただろ」

あまりにも当然のように言われる。まるで私が、一人で痛みに耐えながら山を下りてきたのは、最初から彼の助けなんて必要としていなかったからだと言わんばかりに。

そのとき、出入口のほうから夏海の声が聞こえる。

「湊、みんな待ってるよ。早く食事会に行こう」

湊は私の手首から手を離す。そして私の書類を取り上げ、修正が必要なページを開いて、机の上に置く。

「まずは仕事をしろ。話は夜にしよう」

そう言って、湊は夏海のもとへ向かう。そして、エレベーター前で待っていたみんなと合流し、そのまま一緒に去っていく。

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第1話
山の麓の救護室で傷の手当てを終えた頃には、湊はもういなくなっていた。今回の親睦会を担当している総務の人が、薬の入った袋を私に差し出す。「社長から預かってます。手当てが終わったら、タクシーで一人で会社に戻るように、とのことです」私は小さな声で尋ねる。「社長は……?」「前田さんが低血糖を起こしたので、社長が病院まで付き添っています」腫れて熱を持った足首を見下ろす。胸の奥に残っていた最後の期待が、静かに消えていく。会社に戻り、机の端に手をついてようやく腰を下ろす。その直後、夏海が社内グループにメッセージを投稿する。【社長が検査に付き添ってくれたおかげで、もう大丈夫よ。今夜の食事会、みなさん忘れずに参加してくださいね】すぐに同僚たちが盛り上がる。【社長がわざわざ病院まで付き添うなんて、羨ましいな】【山登りで置いていかれる人もいれば、具合が悪くても山頂まで頑張る人もいる。やっぱり違うよね】私はグループチャットを閉じる。すると、今度はアシスタントが大量の書類を抱えてやってくる。「白川さん、社長から、今夜中に青嵐(せいらん)プロジェクトの初稿を修正しておくように言われている」「今夜って、食事会じゃないの?」「午後、仕事を中断した分を取り戻してもらうそうです」その言葉が終わるのとほぼ同時に、廊下の突き当たりにある役員専用エレベーターが音を立てて開く。湊が夏海を支えながら出てくる。夏海が羽織っているのは、湊のジャケット。そして手にしているのは、深い藍色の陶器のカップ。それは、私たちが付き合い始めて初めてのデートで、一緒に焼いたカップだった。カップの底には、少しいびつな葉っぱの模様が刻まれている。湊が自分の手で刻んだものだ。昨夜、湊に家まで送ってもらったとき、私は車を降りる際に、うっかりそれを助手席のドリンクホルダーに置き忘れてしまった。夏海が私の視線に気づく。そして、笑顔でカップを掲げた。「湊ったら、病院から帰ったばかりで胃がつらいかもしれないからって、わざわざお湯を入れてくれたの。このカップ、けっこう可愛いね」私は机に手をつき、立ち上がる。「それ、私のよ」周囲が、一瞬で静まり返る。湊が私を見る。その目には、わずかな警告の色が浮かんでいる。「陶芸店でもらった、ただのカップだ
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第2話
深夜12時ちょうど。私は修正を終えた初稿を、社内のグループチャットに送る。湊からの返信はない。けれど、その一秒後、スマホに夏海から写真が届く。写真の中で、夏海は湊の肩に寄りかかり、今も彼のジャケットを羽織っている。湊は少し顔を傾けて、彼女の話に耳を傾けている。その表情には、私がもう長いこと見ていなかった優しさと忍耐が滲んでいる。続けて、夏海からメッセージが届く。【もう待たなくていいよ。今夜、湊はあなたのところには行かないから】その一文を見つめていると、机の上に置かれたホテルのカードキーが、急にひどく滑稽なものに思えてくる。翌日の会議で、湊が私の初稿を大画面に映し出す。「青嵐プロジェクトは前田が担当する。白川はサポートに回ってくれ」私は思わず顔を上げる。「この企画は、私が一人で作り上げたものです」湊の右隣に座っている夏海が、申し訳なさそうに微笑む。「私、帰国したばかりだから、まずは市場を知るためにも一つプロジェクトを任せてもらうことになったのです。安心して。実際の進行は、白川さんの意見を中心に進めますから」私は湊を見る。「クライアントとの打ち合わせから初稿まで、全部私が担当しています」「だから、お前にサポートを頼んでる」湊がテーブルを指先で軽く叩く。「前田が方向性を決めて、お前が実務を担当する。それで問題ないだろ」「じゃあ、署名は?」会議室に、何人かの小さな笑い声が響く。「たかが一つのプロジェクトだろ。まさか社長の前で手柄を取り合うつもり?」湊の表情がわずかに冷える。「白川。会社はお前が一番になるために競う場所じゃない」2年前。初めて私にプロジェクトを任せてくれた時、彼は言っていた――「俺は、お前のその野心が一番好きだ」今、夏海が社内で足場を築くための機会が必要になると、私の「野心」は、途端に「空気が読めない」に変わる。私はパソコンを閉じる。「企画を彼女に任せることには異論ありません。でも、私の名前まで消すのはやめてください」湊が私を見る。有無を言わせない口調だった。「もうクライアントにはそのメンバーで伝えてある。わがままを言うな」私はパソコンを抱えて、会議室を出ようとする。すると湊が私の手首をつかみ、強引に机のそばへ引き戻す。足首が椅子の脚にぶつか
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第3話
午後、青嵐のクライアントから、提案会には私を出席させてほしいと名指しで依頼が入る。夏海の笑顔が、少しだけ曇る。「クライアントが企画の担当者に会いたいなら、当然、私が行くべきでしょう」営業担当が困ったように口を開く。「先方は以前、白川さんが担当した案件をご覧になっていて、白川さん本人にプレゼンしてほしいと明確に希望されています」湊が私を見る。「じゃあ、二人で行けばいい」夏海は資料をめくりながら、静かな声で尋ねる。「私がプレゼンして、白川さんには質疑応答を担当してもらう。それでいい?」私が答えるより先に、湊が口を挟む。「そうしよう」提案会が始まり、夏海は私が作った資料を使って話し始める。けれど10分もしないうちに、肝心のデータを逆に説明してしまう。クライアントが、その場で話を遮った。「前田さん、このユーザーモデルを作ったのはどなたですか?」夏海の顔から血の気が引く。私はマイクを受け取り、モデルの内容を最初から説明し直す。クライアントの険しかった眉が、少しずつ緩んでいく。「なるほど、そういうことですか。こちらのほうが正しいですね。今後の打ち合わせは、白川さんと直接進めさせてください」帰りの車内、夏海はずっと黙ったままだ。先に口を開いたのは湊だった。「白川。さっき、あそこまで口を挟む必要はなかっただろ」「データを逆に説明してたから」「彼女に教えてあげればよかっただろ。みんなの前で恥をかかせる必要はない」私はバックミラーを見る。助手席の夏海は、絶妙なタイミングで目を赤くしている。「じゃあ、会社がこの案件を失うのを黙って見ていればよかったの?」「案件は失わない」湊の声が少し低くなる。「お前はただ、自分のほうが彼女より優秀だって証明したかっただけだろ」夏海が振り返る。「二人とも、もうやめて。全部私が悪いから。白川さん、私のことが嫌いなのは分かってる。でも、仕事は仕事でしょ。そこに私情を持ち込まなくてもいいんじゃない?」私は、ふと可笑しくなる。「私がどうしてあなたを嫌いだと思うの?」「湊から……じゃない?」何気ない口調で、夏海は言う。湊がすぐに遮る。「夏海」「違うの?」夏海は小さく笑う。「親睦会のときから、ずっと湊のことを目で追ってたじゃな
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第4話
私は彼女の手を振り払う。夏海は二、三歩よろめき、手を上げると、私の頬を思いきり平手打ちした。耳元で、キーンと音がする。彼女は声を落とす。「この一発は、忠告よ。自分のものじゃないものに執着しないで」私は反射的に、彼女の頬を叩き返す。そのとき、湊がドアを開けて入ってくる。ちょうど、夏海がロッカーの脇に倒れ込むところを目にする。湊は大股で歩み寄り、私の手首を強くつかむ。「お前、何やってる?」夏海は頬を押さえ、泣き出す。「白川さんを責めないで。湊が彼女のことを好きじゃないって言ったから……きっと、ショックだったのよ」湊の手に、さらに力がこもる。「謝れ」「先に手を出したのは彼女」「もういい」湊は私を突き放す。私は背中をロッカーの角に強くぶつけ、その場で痛みに耐えきれず体を折る。湊が反射的に手を伸ばしかける。けれど、同僚たちが次々と駆け込んでくるのを見て、その手を引っ込めた。誰かが夏海の頬に残った手形に気づき、すぐに総務へ連絡する。「白川さん、最近ちょっとやりすぎじゃない?プロジェクトを横取りして、人を突き飛ばして、そのうえ今度は暴力まで……」「まさか、本当に社長が原因?」「社長のマンションにも行ってたらしいし。前からちょっとおかしいと思ってた」夏海は泣きながら首を横に振る。「みんな、もう言わないで。白川さんは、たぶん私と社長の関係を誤解してるだけだから」総務の責任者が湊を見る。「社長、警察に連絡しますか?」「社内で処理する」湊は冷たい声で言う。「白川はすべての業務から外す。調査結果が出るまで自宅待機にしてくれ」私は痛みに耐えながら、なんとか体を起こす。「じゃあ……彼女に殴られたことは?」湊の視線が、私の頬に残る指の跡を捉える。その瞳が、一瞬だけ揺れる。けれど夏海が先に口を開いた。「私は殴ってない。証拠でもあるの?」着替え室の監視カメラは、先週から故障している。湊もそれを知っている。修理の申請書を、私が直接彼に渡していたから。私は湊を見つめる。「どっちを信じるの?」「夏海が先に手を出すはずがない」たったそれだけの言葉で。私が何を言っても、すべて無意味になった。その日の午後。突然、ネット上に匿名の記事が投稿される。そこには、私が長
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第5話
夏海が著作権登録証を手に取る。「そんなはずない。この企画は、私が帰国してから考えたものよ」担当者が資料をめくる。「こちらの核となるモデルは、半年前にはすでに登録されています。登録者は白川さんです。前田さんがクライアントに提出した企画は、登録内容との一致率が80%を超えています」会議室から、誰も声を発さなくなる。さっきまで私を責めていた人たちも、気まずそうにそっと目を伏せる。湊が書類を手に取り、最後のページまでめくる。そこには、企画が完成するまでの詳細な制作履歴が残っている。一番古い草稿が作られたのは、私が佐伯産業に入るよりも前だった。「どうして俺に言わなかった?」湊が尋ねる。「言ったでしょう。この企画は私のものだって」「著作権登録のことを聞いてる」「その頃、あなたは言ったじゃない。会社が資金調達を控えてるから、会社の核になる資産はすべて会社名義にするって」私は淡々と彼を見る。「だから、あなたには言えなかった」湊の顔から、少しずつ血の気が引いていく。夏海が慌てて弁解する。「湊、私、白川さんが登録してたなんて知らなかったの。共有フォルダに入ってたから、使っていいものだと思って……」担当者が尋ねる。「ご自身で一から作ったと言いましたよね。では、なぜ今になって共有フォルダにあったものだと?」夏海の口が、ぱくぱくと動く。けど、言葉が出てこない。湊が彼女の前に立つ。「この件については、会社が責任を負います」また、同じだ。夏海が何をしても、彼は真っ先に彼女を庇う。担当者はプロジェクトの関連資料をすべて保全したうえで、佐伯産業に対し、問題となっている企画の使用を一時停止するよう通告する。その直後、青嵐から契約解除の通知が届く。さらに損害賠償まで求められることになった。会議が終わると、湊がエレベーターまで追いかけてくる。「申告を取り下げてくれ」私は階数ボタンを押す。「理由は?」「この件が正式な調査に入れば、会社が進めている資金調達にも影響が出る。どうなるか、お前だって分かってるだろ」「私も、身に覚えのない盗用疑惑をかけられることが、どういうことなのか分かってる」「夏海には謹慎処分を受けさせる」私は湊の後ろを見る。夏海は相変わらず社員証を首から下げたまま、アシ
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第6話
「白川」湊が車の前に立ちはだかり、律の手にある雇用契約書へ視線を落とす。「京川へ行くのか?」律が車のドアを閉める。「佐伯社長。彼女はもう京川のクリエイティブ・パートナーです。呼び方には気をつけてください」湊は律を無視し、私だけを見つめる。「京川と佐伯産業が、雲海プロジェクトの案件を取り合っていることは分かってるだろ」「分かってる」「だったら、青嵐の件をわざと大事にして、そのまま京川へ移るつもりか?」それでも彼は、私がただ意地を張って会社を辞めたと思っている。それどころか、最初から計算ずくで仕返しをしたとまで。律が鼻で笑う。「佐伯社長。琴葉が御社でどんな扱いを受けていたか、調べようともせずに、まず機密情報を漏らしたと疑うんですか?」「これは俺と彼女の問題だ」「でも、二人は付き合ってなかったんですよね?」湊の顔色が、一瞬で変わる。私は車のドアを開ける。「律、行こう」湊が再び私の手をつかむ。「俺と一緒に戻ってくれ。役職も、プロジェクトも、名前も、全部お前に戻す」「それで?」「夏海のことも俺が処理する。それから、俺たちの関係も公表する」二年間、ずっと待っていた言葉。それが、ようやく彼の口から出る。なのに、湊の背後から、目を真っ赤にした夏海が駆けてくる。「湊!今、会社から責任を問う通知が来た。私を守ってくれるって言ったじゃない!」湊が反射的に振り返る。ほんの一瞬。そのためらいだけで、もう十分だった。私は手を引き抜く。「先に彼女のことを片づけて」「白川……」「待たせないであげて。佐伯社長は、彼女にだけは絶対に嫌な思いをさせたくないんでしょう?」私は車に乗り込む。すると夏海が車まで駆け寄り、窓に手をかける。「これで満足?プロジェクトはなくなった。会社まで調査されることになって、それなのに湊はあなたのために私の責任まで追及しようとしてる」律が運転手に合図する。ドアがロックされる。夏海は車の窓を叩く。「結局、湊があなたを好きなのをいいことに、調子に乗ってるだけでしょ?たとえ湊が2年間あなたと寝ていたとしても、最後に彼女として認めてもらえるのは私よ」「夏海、やめろ!」湊が鋭い声で制止する。「私、何か間違ったこと言った?」夏海はバッグからスマホを取り出す。そ
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第7話
雲海プロジェクトのチームは、その日のうちに緊急の審査会を開く。責任者が、スクリーンに写真を映し出す。「白川さん。佐伯産業との関係について、説明していただけますか?」私が口を開くより先に、会議室のドアが開く。湊が入ってくる。そして、京川のメンバーとクライアントが見ている前で、はっきりと言った。「写真に写っているマンションは、自分の部屋です」責任者が尋ねる。「では、白川さんがそこにいた理由は?」湊の喉が、ゆっくりと上下する。「彼女とは、恋人同士です」会議室が静まり返る。私は湊を見る。けれど、思っていたような痛快さは、もうどこにもなかった。責任者がさらに問いかける。「お二人は、どのくらい交際していたんですか?」「2年です」「それなら、通常の交際だったということですね。では、なぜ御社は、白川さんが長期間に一方的に会社の上層部につきまとっていたという声明を出したのでしょう?」湊の顔が険しくなる。「あの声明は、正式なものではありません」「ですが、会社側は一度も訂正していませんよね」その瞬間、湊もようやく理解したのだと思う。私たちの関係を、二人きりの場所で認めるだけでは、もう何の意味もない。律が一枚の資料をテーブルの上へ滑らせる。「こちらは、白川の過去2年間の勤務記録、プロジェクトへの貢献実績、それから著作権関連の資料です。白川は佐伯湊との関係を利用して、不正に利益を得た事実はありません。むしろ、三つのプロジェクトで意図的に名前を外されています」責任者が一枚ずつ資料をめくっていく。湊は、その三つのプロジェクトの記録をじっと見つめる。そして、低い声で呟く。「知らなかった」「当然でしょう」私は淡々と答える。「私が仕事の話をしようとするたびに、あなたは会社に私情を持ち込むなって言ってたから」湊の指が、強く握り込まれる。審査が終わる。雲海側は、京川が引き続きコンペに参加することを正式に認める。その後、湊が私の後を追って地下駐車場まで来る。「さっきの三つのプロジェクトについて、俺から改めて社内外に発表する」「必要ない」「琴葉。俺はもう、俺たちの関係を認めた」「だから?」湊が言葉に詰まる。以前なら、彼が「公表する」と言ってくれるだけで、私は嬉しくてたまらなかった。まさか彼も、い
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第8話
3日後、雲海プロジェクトの最終審査が行われる。夏海は佐伯産業側の代表として会場に姿を現す。どうやら、謹慎処分はもう終わったらしい。律が私に小声で告げる。「佐伯産業の取締役会は、担当者を替えたらコンペで不利になると判断したらしい。佐伯が彼女を庇ったんだ」私は驚かなかった。夏海は登壇する直前、わざわざ私のところまでやってくる。「湊があなたとの関係を公表したのは、会社への批判を収めるため。それだけよ。まさか、本気で湊があなたと結婚したいと思ってるわけじゃないでしょうね?」「前田さん。まずは自分のプレゼンの心配をしたら?」夏海は笑う。「あなたのモデルなら、もう私が修正したわ。たとえ著作権登録をしていても、私には何もできないでしょうね」佐伯産業のプレゼンが半分ほど進んだところで、クライアントが突然ストップをかける。「前田さん。この中核データですが、5年前の海外レポートが元になっていますよね。現在の国内市場には、もう適さないデータです」夏海の顔色がわずかに変わる。「この後に、新しい分析結果があります」「その新しい分析が、京川から提出されたモデルと非常によく似ています」夏海がすぐに私を見る。「白川が佐伯産業の資料を京川へ持ち出したんです」私はパソコンを開く。「京川の計算処理は、すべてクライアント指定の管理システム上で行っています。修正するたびに、日時もすべて記録されています」大画面に、完全な作業ログが映し出される。私たちのモデルはゼロから構築したもの。佐伯産業の資料は、一切使っていない。責任者が夏海へ向き直る。「では、御社のモデルを作成した際の元データと制作履歴を提出してください」夏海は言葉を濁す。「会社のシステムが、ちょうどメンテナンス中で……」すると、客席にいた湊が低い声で言う。「管理側からデータを出せ」技術担当者がすぐに調査し、結果を持ってくる。佐伯産業が提出した中核資料は、昨夜作成されたものだった。ところが、そのデータは一ヶ月前にはすでに、私の著作権の追加登録資料に残っている。夏海がマイクを強く握る。「白川が私を陥れたんです。退職する前に、わざと間違ったデータをシステムに残して、それから先回りして著作権登録したんです」湊が顔を上げる。「そのシステムの最上位権限を持ってるのは俺だ。彼女が
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第9話
湊が謹慎処分を受けてから、最初にしたことは、調査結果をすべて公表することだった。佐伯産業の公式サイトは、青嵐プロジェクトの中核となるアイデアが私のものだったと認め、私への処分を撤回したうえで、正式に謝罪した。これまで名前を外されていた三つのプロジェクトについても、改めて主要メンバーの名前が公表される。かつて私を男に取り入って出世した女と陰で罵っていた同僚たちから、次々とメッセージが届く。【ごめん。あのときは事情を知らずに誤解してた】【佐伯社長と本当に付き合ってたの?どうして社長はずっと公表しなかったの?】【前田はもう解雇されたよ。白川さんは会社に戻ってくる?】私は一通も返さない。謝罪声明が発表されたその日、夏海は会社に対し、湊が私情を挟んで権限を濫用したと告発する。恋人である私に、プロジェクトのリソースを優先的に回していたというのだ。どうやら、湊まで道連れにするつもりらしい。けれど調査担当者が、過去2年間の承認記録をすべて調べ上げる。私が担当したプロジェクトは、予算が最も少なく、チームの人数も最小限。同じ役職の社員と比べて、ボーナスまで三割少なかった。湊は、周囲に余計な疑いを持たれないように、私に一度も特別扱いをしなかった。それどころか、普通の社員より厳しく接していたほどだ。調査会で、誰かが湊に尋ねる。「では、白川さんと正式に交際していたのなら、なぜ意図的に彼女を冷遇していたんですか?」湊は長いテーブルの端に座ったまま、しばらく答えない。やがて、低い声で言う。「彼女なら、気にしないと思っていました」「白川さんは、一度も不満を口にしなかったんですか?」秘書が復元したメッセージ履歴を提出する。2年間、私は全部で7回、関係を公表してほしいと伝えていた。一度目、彼は「プロジェクトが終わってから」と言った。二度目、「会社の資金調達が終わってから」と言った。三度目、「今は取締役会の体制が変わる時期だから」と言った。その後の4回は、理由すら説明しなくなった。返ってくるのは、ただ一言。「わがまま言うな」そして、それ以上にたくさんのメッセージがある。既読のまま、永遠に返事が来なかったもの。【熱が出た。帰ってきてくれる?】【同僚から、あなたにつきまとうストーカーみたいな女だって言われた。
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第10話
湊は、日が暮れるまでビルの下で待っていた。私が仕事を終えて出てくる頃には、彼の足元に置かれた段ボール箱は、すっかり雨に濡れている。湊が歩み寄り、私の頭上へ傘を差し出す。「荷物は整理しておいた。中を確認して。いらないものは俺が捨てる」「全部捨てて」「カップも?」「いらない」湊は箱の中にある破片を見下ろす。「昔の俺は、家に帰れば、いつもお前がいると思ってた。怒ってても、別れたいって言ってても、何日かすればまた機嫌が直るって」私は何も答えない。「親睦会の日、お前が足を怪我してるのを見た」湊の声が掠れる。「一人で下りてこられると思ってた。あとでお前からメッセージが来たとき、俺は夏海の写真を撮ってた……同僚に見られるのが怖くて、返事をしなかった」「知ってる」「知ってたのか?」「だって、いつもそうだったから。あなたは毎回、私なら一人で耐えられるって思ってた」湊の目が赤くなる。「ごめん……もう一度だけ、俺にチャンスをくれないか?」私はしばらく黙ってから答える。「もう、戻らない」傘を握る湊の手が、かすかに震える。「あの秋山のせいか?」「違う」私は首を横に振る。「もう、誰かの秘密になるのは嫌なの」そのとき、律が会社から出てくる。彼は自然な動作で私のバッグを受け取る。何も急かさず、もう一本の傘を差して私の隣に立つ。湊が私たちの手にある指輪を見る。その顔から、完全に血の気が引いていく。「二人、結婚するのか?」律が答える。「来月、婚約する予定だ」湊が私を見る。「お前が、承諾したのか?」「うん」「知り合って、まだどれくらいだ?」律が淡々と答える。「僕たちは7年前から知り合いだよ。琴葉が佐伯産業に入る前から大学の同級生だった。卒業後、僕が海外へ行って、彼女はここに残ったんだ」湊が呆然とする。ずっと、私の世界には湊自分しかいないと思っていた。振り返りさえすれば、私はいつまでも同じ場所で待っていると思っていた。律が私の手を取る。「帰ろう」私は二歩ほど歩く。そのとき、湊が突然私を呼ぶ。「琴葉」その呼び方は、二人きりのときにしか使わなかった。私は振り返る。湊は段ボール箱から、あの深い藍色のカップを取り出す。金色で埋められた亀裂が、街灯の下でひどく目立っている。
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