All Chapters of 声を失った少女を助けたら、冷徹CEOの契約妻になりました ~一年だけの偽装結婚なのに「君とこの子を、もう二度と手放さない: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話 雨の夜に出会った少女

第1話 雨の夜に出会った少女 その日の雨は、傘を差していても意味がないほど激しかった。 都心の高層ホテルを出た相沢結衣は、自動ドアの向こうを白く煙らせる雨を見ながら、思わず小さくため息をついた。仕事を終えたのは午後九時を少し回った頃で、いつもなら地下鉄の駅まで歩いて帰るところだったが、この降り方では駅に着く頃には靴の中まで水浸しになりそうだった。「こういう日に限って替えの靴下も持ってないんだよね……」 誰に聞かせるでもなく呟き、結衣はバッグの中を探った。折り畳み傘はある。スマートフォンもある。財布もある。しかし、雨の日に限って普段持っている小さなタオルが見当たらない。 昔からそうだった。必要なときに限って、どうでもいいものばかり鞄の底から出てくる。 今日も、弟が子供の頃にくれた古いキーホルダーや、期限の切れた割引券や、いつ入れたのかも覚えていないミントキャンディーまで出てきたのに、肝心のタオルだけがなかった。「もういい。濡れたら帰って洗えばいいだけだし」 結衣は諦めることにした。 今日の仕事は、海外企業の役員を招いた福祉関連の国際フォーラムでの手話通訳だった。予定では夕方には終わるはずだったが、会議が長引き、さらに主催者側から追加の通訳を頼まれたため、こんな時間になってしまった。 疲れていないと言えば嘘になる。 肩は重いし、立ちっぱなしだったせいで足も痛かった。それでも、仕事そのものが嫌いなわけではなかった。むしろ結衣は、自分の手が誰かと誰かの言葉をつなぐ瞬間が好きだった。 耳が聞こえる人と、聞こえない人。 言葉を話せる人と、話せない人。 それまで別々の場所に立っていた人たちが、自分の手を通して一瞬だけ同じ場所に立つ。 その仕事を選んだ理由を尋ねられるたび、結衣は「昔から手話ができたから」と適当に答えていた。 本当の理由まで説明すると、相手が困った顔をすることを知っていたからだ。 亡くなった弟が聴覚障害者だったから。 その一言を言った瞬間、たいていの人は「ごめんなさい」と謝る。 何も悪いことをしていないのに。 だから最近は話さなくなった。 結衣はロビー脇のエレベーターへ向かい、地下駐車場行きのボタンを押した。今日はホテル側が契約しているタクシー乗り場まで地下から行けると聞いていたので、そこから車を拾うつもりだった。 扉が
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第2話 この子は、あなたを待っていない

第2話 この子は、あなたを待っていない 九条玲司。 その名前を聞いて、結衣は数秒遅れて記憶の中に引っかかるものを見つけた。経済ニュースだったか、ホテルのロビーに置かれていた雑誌だったか、とにかく顔だけなら一度や二度は見たことがある。世界各国にホテルや不動産、医療関連企業まで抱える巨大企業グループの若い最高経営責任者で、三十代前半にして一族経営の頂点に立った男。冷静、合理的、妥協を知らないという評判ばかりが目立ち、華やかな社交界の記事より、企業買収や人員整理の記事で名前を見かけることのほうが多かった。 けれど、そんなことは今の結衣にはどうでもよかった。 目の前の男がどれほど有名で、どれほど金を持っていて、どれほど多くの人間に頭を下げさせる立場なのだとしても、エマが自分の後ろに隠れ、服の裾を握ったまま震えているという事実は変わらない。「九条玲司さん、ですね。お名前は分かりました。でも、それだけではこの子をあなたに渡せません」 結衣がそう言うと、玲司は目を細めた。怒鳴りもしなければ、威圧するように声を荒らげもしない。ただ、相手の言葉を一度頭の中で分解し、それが自分にとって必要か不要かを判断するような目だった。「彼女は俺の家族だ」「それを確認できるものはありますか?」「確認?」「身分証でも、写真でも、何でもいいです。私はこの子と知り合って十分も経っていませんけど、少なくともこの子は、知らない人に追われていると怯えていました。あなたが有名人かどうかなんて、この際どうでもいいんです」 玲司の後ろに立っていた男たちの一人が、わずかに眉を動かした。明らかに「どうでもいい」と言われ慣れている相手ではないのだろう。 玲司は結衣ではなく、彼女の背後にいるエマへ視線を移した。「エマ、こっちへ来い」 声は低かったが、先ほどより少しだけ柔らかかった。 しかしエマは動かなかった。 むしろ結衣の背中へさらに身を寄せた。 結衣はそれを感じ取り、ゆっくり振り返った。『知っている人?』 手話で尋ねる。 エマは小さく頷いた。『怖い人?』 今度はすぐには答えなかった。 少女の瞳は玲司を見ている。怯えているようにも見えるし、泣くのを我慢しているようにも見える。 やがてエマは、ためらいながら手を動かした。『おじさん』 結衣は玲司を見た。「叔父さん?」「そ
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第3話 あなたは、人の気持ちまで雇うつもりですか

第3話 あなたは、人の気持ちまで雇うつもりですか 翌朝、相沢結衣は目覚まし時計が鳴るより三十分も早く目を覚ました。 眠った気がしなかった。 昨夜、九条玲司の手配した車で自宅近くまで送られたあと、玄関の鍵を閉め、チェーンまで掛けてからベッドに入ったものの、目を閉じるたび地下駐車場で見た男たちの顔が浮かんだ。 あの三人は誰だったのか。 どうしてエマを追っていたのか。 そして、本当に自分まで顔を覚えられてしまったのか。 考えても答えは出ない。 それでも脳だけは律儀に同じ問いを何度も繰り返した。「まったく、何をやってるんだろう、私……」 ベッドの上で天井を見ながら呟き、結衣は額に手を当てた。 昨夜のことを母が知ったら、間違いなく怒られる。 知らない男たちに追われている子供を見つけ、その子を庇って三人の男と向き合ったなどと説明すれば、「昔からそういうところだけは直らない」と一時間は説教されるだろう。 結衣自身も、自分が無謀だったことくらい理解している。 それでも、もう一度同じ場面に出くわしたら、たぶん同じことをする。 そういう性格だから仕方がないと開き直るつもりはないが、泣いている子供を見て「危ないから関わらない」という判断ができるほど器用ではなかった。 ベッドから起き上がったところで、スマートフォンが震えた。 画面には見覚えのない番号が表示されている。 一瞬、昨夜のことが頭をよぎった。 出るべきか迷っているうちに一度切れた。 ところが、すぐにもう一度かかってくる。 結衣は警戒しながら通話ボタンを押した。「もしもし」『おはようございます、相沢様。昨夜お目にかかりました、九条玲司様の秘書を務めております篠崎です。朝早くから申し訳ありません』 穏やかな声を聞いて、結衣は力が抜けた。「ああ、篠崎さん。びっくりしました。知らない番号だったので」『失礼いたしました。昨夜の件もございますので、警戒なさるのは当然です』「何か分かったんですか、あの人たちのこと」 問いかけると、電話の向こうでわずかな間があった。『現在も確認中です。ただ、ホテルの防犯映像から三名の顔は把握できました。警察にも映像を提出しております』「そうですか……。エマちゃんは?」『その件で、実はお電話いたしました』 篠崎の声がほんの少し困ったものになった。『
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第4話 家族の食卓を知らない人

第4話 家族の食卓を知らない人 結衣の言葉を聞いた玲司は、すぐには何も返さなかった。 怒ったのかと思ったが、そうではないらしい。眉間にはわずかに皺が寄っているものの、結衣を睨んでいるわけではなく、むしろ自分の中にある何かを確かめるように黙り込んでいる。 エマは二人の間に立ち、不安そうに玲司を見上げていた。 結衣は少しだけ後悔した。 言っている内容自体は間違っていないと思う。それでも、他人の家庭に踏み込んでいいことと悪いことがある。しかも自分は昨日知り合ったばかりの人間だ。玲司がどんな事情を抱えているのかも、エマとどんな三年間を過ごしてきたのかも、本当のところは何も知らない。「すみません。ちょっと言い過ぎました」 結衣が先に口を開くと、玲司は意外そうに顔を上げた。「君でも謝るのか」「失礼ですね。私だって、言い過ぎたと思えば謝ります」「俺には謝罪という機能が搭載されていないと思っていた人間とは思えない発言だな」「まだ根に持ってるんですか」「今朝言われたばかりだ」 結衣は思わず口元を緩めた。 この男は無表情で冗談を言うから分かりにくい。 もしかすると冗談ですらないのかもしれないが、昨日よりは少し会話が成立するようになってきた気がした。「ただ」 玲司の声が低くなる。「君の言ったことは、考えてみる」「……怒らないんですか?」「腹は立っている」「やっぱり」「だが、腹が立つことと、間違っていることは同じじゃない」 その返事は、結衣が想像していたものよりずっとまともだった。 金持ちで、命令に慣れていて、人の事情を自分の基準で片づけるところがある。それでも、自分に都合の悪い意
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第5話 九条玲司という男

第5話 九条玲司という男 翌朝、相沢結衣が職場へ着いたときには、すでに受付の女性が妙な顔でこちらを見ていた。 何か言いたそうなのに言わない。視線だけが、結衣の顔と手元のスマートフォンを何度も往復している。「おはようございます。どうかしました?」「結衣さん、昨日の夜……どこにいました?」「昨日?」「仕事が終わってからです」 質問の意味が分からず、結衣は鞄を肩から下ろしながら首を傾げた。「ちょっと知り合いの家に寄ってましたけど」「知り合い」「その言い方、何ですか」「いや、知り合いっていうか……これ」 差し出されたスマートフォンを見て、結衣は足を止めた。 画面には、昨夜九条邸を出るところを撮影したらしい写真が載っていた。 正確には、自分の顔はほとんど見えていない。黒い車へ乗り込む横顔と、九条家の門、そして玄関付近に立つ長身の男の姿が小さく写り込んでいるだけだった。 記事の見出しには、やたらと大げさな文字が並んでいた。『九条グローバルCEO・九条玲司、謎の女性を本邸へ招く』「……早くないですか」 思わず本音が漏れた。「そこ?」「いや、だって昨日の夜ですよ。誰がこんなの撮ってるんですか」「結衣さん、九条玲司と知り合いなんですか?」「知り合いというほどでも……昨日会ったばかりです」「昨日会ったばかりの相手の家に行ったんですか?」「そう言うとものすごく誤解を招きますね」 結衣は額を押さえた。 まさか、エマに会いに行っただけでこんな記事になると
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第6話 その男は、あなたに何なんですか

第6話 その男は、あなたに何なんですか 結衣が笑っていた。 ただそれだけの光景なのに、九条玲司はなぜか目を逸らすことができなかった。 勤務先の建物前、夕方の柔らかな光の中で、結衣は一人の男と話している。男は背が高く、年齢は結衣と同じくらいか、少し上に見えた。濃紺のシャツにジャケットを羽織り、首から職員証を下げている。医療関係者なのかもしれない。 問題は、そんなことではなかった。 二人の距離が近い。 妙に近い。 先ほどなど男が結衣の髪に触れていた。 それを結衣は嫌がるどころか、軽く肩を叩いて笑っている。「篠崎」「はい」「普通、あれくらい近いものなのか」 玲司は窓の外を見たまま尋ねた。 助手席に座っていた篠崎は、すぐには答えなかった。「何がでしょう」「あの二人だ」「親しいご友人でしたら、あれくらいの距離になることもあるのではないでしょうか」「友人」「あるいは、恋人かもしれません」 玲司の視線が篠崎へ向いた。「なぜ恋人になる」「可能性の話でございます」「根拠がない」「親しい男女を見て恋人かもしれないと考えることは、さほど不自然ではないかと」「仕事仲間かもしれないだろう」「もちろん、その可能性もございます」 篠崎の声はいつもどおりだった。 ただし、玲司には分かる。 明らかに楽しんでいる。「おまえ、何か言いたいことがあるのか」「ございません」「その顔で言っても説得力がない」「長年お仕えしておりますが、玲司様
last updateLast Updated : 2026-09-07
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第7話 今夜だけ、ここにいてください

第7話 今夜だけ、ここにいてください 黒い車のドアが閉まった途端、外の雑踏が嘘のように遠ざかった。 結衣は後部座席へ深く腰掛けることもできず、膝の上に置いたバッグを両手で握っていた。隣には玲司がいる。助手席には篠崎。運転席には、以前にも見た九条家の運転手が座っている。 誰も余計なことを言わない。 車内が静かなぶん、自分の心臓の音だけが妙に大きく聞こえた。「今日、尾行されていたって……本当に私なんですか?」 しばらく我慢していたが、結衣はとうとう尋ねた。「ああ」 玲司の返事は短かった。「でも、どうして分かったんです?」「昨夜エマを追っていた男の周辺を調べている。その関係者が使っていた端末から、今日撮影された君の写真が見つかった」「写真って、どんな……」 玲司は一瞬黙った。 見せるべきか迷ったのだろう。 だが、結衣がじっと見ていると、スマートフォンを取り出して一枚の画像を表示した。 結衣は息を呑んだ。 昼間、勤務先から出てくる自分。 コンビニへ入る自分。 横断歩道で信号を待つ自分。 そして悠真と話している自分。 どれも、自分では撮影されていることなどまったく気づかなかった。「……気持ち悪い」 素直な感想が漏れた。 玲司はすぐにスマートフォンを伏せた。「見せないほうがよかったな」「いいえ。知らないままよりいいです」 結衣は窓の外を見る。 夕方から夜へ変わりつつある東京の街が流れていく。 いつもなら見慣れている景色な
last updateLast Updated : 2026-09-08
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第8話 朝になっても、あなたがいる

第8話 朝になっても、あなたがいる 結衣が目を覚ましたとき、最初に感じたのは、自分の部屋とは違う匂いだった。 洗いたてのシーツと、どこか甘い石鹸の香り。それから、腕のあたりに妙な重みがある。 まだ完全に覚醒していない頭で横を見ると、エマが結衣の腕を抱くようにして眠っていた。「あ……そうだった」 昨夜、自分は家へ帰らなかった。 尾行されていた可能性があると聞かされ、安全が確認されるまでという条件で九条邸へ泊まった。そしてエマが自分の部屋へ来て、そのまま眠ってしまったのだ。 時計を見る。 午前六時二十分。 いつもなら、そろそろ起きなければならない時間だった。 結衣はエマを起こさないように、そっと腕を抜こうとした。 しかし、ほんの少し動いただけで、小さな指が服を掴んだ。 エマの目が開く。 次の瞬間、その顔に明らかな不安が浮かんだ。『帰る?』 寝起きにもかかわらず、エマの手がすぐに動いた。『今すぐ帰るわけじゃないよ。お仕事に行く準備をしようと思っただけ』 それでもエマは服を離さなかった。『起きたら、いないと思った』 結衣は胸の奥が少し痛んだ。『ちゃんといるよ』『朝になっても?』『ほら、いるでしょう』 結衣は笑いながら両手を広げて見せた。 エマは数秒じっと見てから、ようやく少し安心したようだった。 けれど、その直後に結衣へ抱きついてきた。 何も言わない。 ただ、細い腕で抱きしめてくる。 結衣はその背中を撫でた。 この子にとって、「眠って起きても、大切
last updateLast Updated : 2026-09-09
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第9話 その人を、この家から出しなさい

第9話 その人を、この家から出しなさい エマの指が、結衣の服を強く握っていた。 その震えを背中越しに感じた瞬間、結衣の中にあった眠気も、朝から続いていたぼんやりとした不安も、すべて消えた。 目の前にいる九条美佐子という女性が、昨夜から玲司たちが調べていた事件に関係しているのかどうかは分からない。証拠もない。けれど、エマがこれほど露骨に身を縮める相手を前にして、ただ黙って見ていることはできなかった。 玲司も同じことを考えたらしい。「叔母さん。もう一度聞く。ホテル地下駐車場でエマを追っていた三人について、何か知っているか」 玲司の声は低く、感情がほとんど表に出ていなかった。 美佐子はそんな甥を真正面から見返した。「朝一番に呼びつけるどころか、到着してすぐ犯罪者扱いとはね。ずいぶん歓迎してくれるじゃない」「呼んでいない。勝手に来たのは叔母さんだ」「相変わらず可愛げのない子」「昔からだろう」「ええ。そこだけは兄さんにそっくり」 兄さん。 恐らく玲司の父親のことだろう。 その一言だけで、二人の間には結衣には分からない長い年月があるのだと感じた。 美佐子は視線を玲司から結衣へ移した。「それで、この女性は?」「相沢結衣さんです」 結衣は自分で名乗った。「初めまして」「そう。あなたが例の記事の女性なのね」 美佐子は結衣の挨拶には答えず、まるで商品の品質でも確認するように見た。 結衣はこういう視線が苦手だった。 露骨に馬鹿にされるより面倒だ。 何も言われていないのに、自分の服装や仕事、育った家まで全部値段をつけられているような気になる。 ただ、ここで目を逸
last updateLast Updated : 2026-09-10
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第10話 帰らないで、と言えなかった少女

第10話 帰らないで、と言えなかった少女 美佐子が九条邸を出てからも、食堂にはしばらく重たい空気が残っていた。 誰もすぐには口を開かなかった。テーブルの上には食べかけの朝食が残り、少し前まで三人で他愛のない会話をしていたことが嘘のように思える。 玲司をエマの後見人から外そうとする動きがある。 その理由として、玲司の仕事中心の生活や、エマがホテルから一人で逃げ出したことまで持ち出される可能性がある。 さらに、結衣自身も調査対象になるかもしれない。 昨日までは、九条家の争いなど遠い世界の話だった。 それが今では、自分の名前まで当事者として扱われようとしている。「……すごい家ですね」 結衣が思わず漏らすと、玲司が顔を上げた。「どういう意味だ」「そのままの意味です。家族の問題なのに、会社みたいに書類が出てきて、弁護士が動いて、誰が子供を育てるかまで争いになるんだなって」「資産が絡むと、そうなる」「エマちゃんは資産じゃないでしょう」「ああ」 玲司の返事はすぐだった。「だが、そう思わない人間がいる」 その声には怒りがあった。 結衣はエマを見る。 少女は大人たちの会話をすべて理解しているわけではないのだろう。それでも、自分について何か良くないことが起きていることは察しているらしい。 結衣の袖を握ったまま、ずっと離さない。『大丈夫?』 エマが手話で尋ねた。 結衣は一瞬迷った。 大丈夫。 その一言なら簡単だ。 しかし、確実でもないことを子供に約束したくなかった。『心配なことはあるよ』
last updateLast Updated : 2026-09-11
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