第1話 雨の夜に出会った少女 その日の雨は、傘を差していても意味がないほど激しかった。 都心の高層ホテルを出た相沢結衣は、自動ドアの向こうを白く煙らせる雨を見ながら、思わず小さくため息をついた。仕事を終えたのは午後九時を少し回った頃で、いつもなら地下鉄の駅まで歩いて帰るところだったが、この降り方では駅に着く頃には靴の中まで水浸しになりそうだった。「こういう日に限って替えの靴下も持ってないんだよね……」 誰に聞かせるでもなく呟き、結衣はバッグの中を探った。折り畳み傘はある。スマートフォンもある。財布もある。しかし、雨の日に限って普段持っている小さなタオルが見当たらない。 昔からそうだった。必要なときに限って、どうでもいいものばかり鞄の底から出てくる。 今日も、弟が子供の頃にくれた古いキーホルダーや、期限の切れた割引券や、いつ入れたのかも覚えていないミントキャンディーまで出てきたのに、肝心のタオルだけがなかった。「もういい。濡れたら帰って洗えばいいだけだし」 結衣は諦めることにした。 今日の仕事は、海外企業の役員を招いた福祉関連の国際フォーラムでの手話通訳だった。予定では夕方には終わるはずだったが、会議が長引き、さらに主催者側から追加の通訳を頼まれたため、こんな時間になってしまった。 疲れていないと言えば嘘になる。 肩は重いし、立ちっぱなしだったせいで足も痛かった。それでも、仕事そのものが嫌いなわけではなかった。むしろ結衣は、自分の手が誰かと誰かの言葉をつなぐ瞬間が好きだった。 耳が聞こえる人と、聞こえない人。 言葉を話せる人と、話せない人。 それまで別々の場所に立っていた人たちが、自分の手を通して一瞬だけ同じ場所に立つ。 その仕事を選んだ理由を尋ねられるたび、結衣は「昔から手話ができたから」と適当に答えていた。 本当の理由まで説明すると、相手が困った顔をすることを知っていたからだ。 亡くなった弟が聴覚障害者だったから。 その一言を言った瞬間、たいていの人は「ごめんなさい」と謝る。 何も悪いことをしていないのに。 だから最近は話さなくなった。 結衣はロビー脇のエレベーターへ向かい、地下駐車場行きのボタンを押した。今日はホテル側が契約しているタクシー乗り場まで地下から行けると聞いていたので、そこから車を拾うつもりだった。 扉が
Last Updated : 2026-09-04 Read more