声を失った少女を助けたら、冷徹CEOの契約妻になりました ~一年だけの偽装結婚なのに「君とこの子を、もう二度と手放さない

声を失った少女を助けたら、冷徹CEOの契約妻になりました ~一年だけの偽装結婚なのに「君とこの子を、もう二度と手放さない

last updateLast Updated : 2026-09-13
By:  常陸之介寛浩Updated just now
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
Not enough ratings
12Chapters
231views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

手話通訳士の相沢結衣は、雨の夜、ホテルの地下駐車場で声を失った六歳の少女エマを助ける。少女を迎えに現れたのは、世界的企業を率いる冷徹CEO・九条玲司だった。両親を亡くして以来、誰にも心を開かなかったエマがなぜか結衣にだけ懐いたことから、玲司は一年間の契約結婚を持ちかける。偽物の夫婦、偽物の家族として始まった三人の暮らし。しかし、ぶつかり合い、嫉妬し、傷つきながら重ねる日々は、やがて契約では縛れない本物の愛へ変わっていく。家族を失う痛みを抱えた三人が、過去の秘密と巨大な陰謀に向き合いながら、自分たちだけの家族を選び直していく、胸を焦がす溺愛と再生の現代恋愛大河。

View More

Chapter 1

第1話 雨の夜に出会った少女

第1話 雨の夜に出会った少女

 その日の雨は、傘を差していても意味がないほど激しかった。

 都心の高層ホテルを出た相沢結衣は、自動ドアの向こうを白く煙らせる雨を見ながら、思わず小さくため息をついた。仕事を終えたのは午後九時を少し回った頃で、いつもなら地下鉄の駅まで歩いて帰るところだったが、この降り方では駅に着く頃には靴の中まで水浸しになりそうだった。

「こういう日に限って替えの靴下も持ってないんだよね……」

 誰に聞かせるでもなく呟き、結衣はバッグの中を探った。折り畳み傘はある。スマートフォンもある。財布もある。しかし、雨の日に限って普段持っている小さなタオルが見当たらない。

 昔からそうだった。必要なときに限って、どうでもいいものばかり鞄の底から出てくる。

 今日も、弟が子供の頃にくれた古いキーホルダーや、期限の切れた割引券や、いつ入れたのかも覚えていないミントキャンディーまで出てきたのに、肝心のタオルだけがなかった。

「もういい。濡れたら帰って洗えばいいだけだし」

 結衣は諦めることにした。

 今日の仕事は、海外企業の役員を招いた福祉関連の国際フォーラムでの手話通訳だった。予定では夕方には終わるはずだったが、会議が長引き、さらに主催者側から追加の通訳を頼まれたため、こんな時間になってしまった。

 疲れていないと言えば嘘になる。

 肩は重いし、立ちっぱなしだったせいで足も痛かった。それでも、仕事そのものが嫌いなわけではなかった。むしろ結衣は、自分の手が誰かと誰かの言葉をつなぐ瞬間が好きだった。

 耳が聞こえる人と、聞こえない人。

 言葉を話せる人と、話せない人。

 それまで別々の場所に立っていた人たちが、自分の手を通して一瞬だけ同じ場所に立つ。

 その仕事を選んだ理由を尋ねられるたび、結衣は「昔から手話ができたから」と適当に答えていた。

 本当の理由まで説明すると、相手が困った顔をすることを知っていたからだ。

 亡くなった弟が聴覚障害者だったから。

 その一言を言った瞬間、たいていの人は「ごめんなさい」と謝る。

 何も悪いことをしていないのに。

 だから最近は話さなくなった。

 結衣はロビー脇のエレベーターへ向かい、地下駐車場行きのボタンを押した。今日はホテル側が契約しているタクシー乗り場まで地下から行けると聞いていたので、そこから車を拾うつもりだった。

 扉が閉まり、静かな音を立ててエレベーターが下りていく。

 鏡張りの壁に映った自分を見て、結衣は思わず顔をしかめた。

「ひどい顔」

 目の下に薄く疲れが出ている。

 まとめていた髪も少し崩れていた。

 二十七歳にもなって、仕事終わりに鏡を見てがっかりすることくらい、もう慣れているつもりだった。それでも今日の自分は、さすがに誰かと食事に行けるような顔ではない。

 もっとも、そんな予定もなかった。

 恋人はいない。

 しばらく作る予定もない。

 母からは電話のたびに「誰かいい人はいないの」と聞かれるが、結衣には誰かと付き合う余裕より、翌日の仕事の準備をして寝る時間のほうが大事だった。

 エレベーターが地下二階に着いた。

 扉が開く。

 途端に、ひんやりとした空気が流れ込んできた。

 ホテルの地下駐車場は、夜になると妙に広く感じられる。

 コンクリートの柱が規則正しく並び、ところどころに高級車が停まっていた。天井の蛍光灯は十分明るいはずなのに、地上とは違う閉塞感があった。

 結衣は案内表示を確認しながら歩き始めた。

「タクシー乗り場、あっちか……」

 ヒールの音が、乾いた駐車場の床に響く。

 数十メートルほど進んだところで、結衣は足を止めた。

 何かが聞こえた気がした。

 泣き声ではない。

 話し声でもない。

 靴が床を擦るような、小さな音だった。

 結衣は周囲を見回した。

 車の陰には誰もいない。

 気のせいかと思い、もう一度歩き出そうとしたときだった。

 柱の向こう側に、小さな白い靴が見えた。

「……え?」

 結衣は眉を寄せた。

 近づいてみる。

 そこには少女がいた。

 六歳くらいだろうか。

 淡いベージュ色のワンピースに紺色のカーディガンを羽織り、長い髪を一つにまとめている。服だけ見れば、どう考えても普通の家庭の子供ではない。ワンピースも靴も上質で、胸元には小さな金色のブローチまで付いていた。

 けれど、その少女は床にしゃがみ込み、膝を抱えて震えていた。

「どうしたの?」

 結衣は少し離れたところでしゃがんだ。

 急に近づけば怖がらせるかもしれない。

「お母さんか、お父さんと一緒じゃないの?」

 少女は顔を上げた。

 大きな灰色がかった瞳だった。

 外国の血が入っているのかもしれない。

 その目が、ひどく怯えていた。

「迷子かな。大丈夫、ホテルの人を呼ぶから……」

 結衣がスマートフォンを取り出そうとすると、少女の顔色が変わった。

 小さな体がさらに強張る。

「待って。電話、嫌なの?」

 少女は答えない。

 ただ首を振った。

 結衣はスマートフォンをバッグへ戻した。

「分かった。電話しない。少なくとも、今はしないから」

 少女は黙ったままだった。

 結衣は困った。

 迷子なら警備員かホテルスタッフへ連絡するのが正しい。しかし、少女の反応を見る限り、何か普通ではない事情がありそうだった。

「名前、教えてくれる?」

 返事はない。

「日本語、分からないのかな?」

 英語で同じことを尋ねてみる。

 少女はやはり答えなかった。

 けれど、こちらの言葉が分からないようには見えない。

 むしろ理解したうえで、答えることができないように見えた。

 結衣は少し考えた。

「声、出せない?」

 その瞬間だった。

 少女の右手が、ほんの少し動いた。

 結衣は息を止めた。

 人差し指と中指。

 手首の角度。

 ぎこちない。

 けれど見間違えるはずがない。

「手話……?」

 少女の瞳が大きくなった。

 結衣はすぐに声を出すのをやめ、ゆっくり手を動かした。

『私は結衣。あなたの名前は?』

 少女は固まった。

 信じられないものを見るように結衣を見ている。

『分かる?』

 しばらくして。

 少女の手が動いた。

『少し』

 結衣は思わず笑った。

『よかった。じゃあ、ゆっくり話そう』

 少女の肩から、ほんのわずかに力が抜けた。

『名前は?』

『エマ』

『エマちゃんね。何歳?』

『六歳』

『誰とここへ来たの?』

 そこでエマの手が止まった。

 表情が再び強張る。

 結衣は質問を変えた。

『怖い?』

 エマは頷いた。

『何が怖い?』

 少し迷ったあと、エマは手を動かした。

『知らない人』

 結衣の背中を、冷たいものが走った。

『知らない人がどうしたの?』

『追ってくる』

 さっきまでの疲れが一瞬で消えた。

 結衣は立ち上がり、周囲を見回した。

 車。

 柱。

 エレベーター。

 人影はない。

 だが、地下駐車場という場所が急に不気味に感じられた。

『一人で逃げてきたの?』

 エマは頷いた。

『お父さんとお母さんは?』

 その質問をした瞬間、エマの表情が変わった。

 悲しい。

 ただ、それだけではない。

 もっと深いところに触れてしまった。

 結衣はすぐに後悔した。

『ごめん。答えなくていいよ』

 エマは唇を強く噛んだ。

 それから結衣の袖を掴んだ。

 小さな指が震えている。

『ここにいたら、見つかる』

 結衣は迷った。

 この子の話をどこまで信用すべきなのか。

 本当に誰かに追われているのか。

 単に家族かホテルスタッフから逃げているだけなのか。

 警察へ連絡すべきだ。

 ホテルの警備員を呼ぶべきだ。

 大人として正しい判断はいくらでもある。

 けれど、目の前の少女が震えながら自分の服を掴んでいる。

 その手を振りほどくことだけはできなかった。

『エマちゃん』

 結衣は目線を合わせるため、もう一度しゃがんだ。

『今から私と一緒に、人がいるところまで行こう。そこで誰を呼ぶか、一緒に決めよう。勝手に誰かに渡したりしないから』

 エマは結衣の顔をじっと見た。

『約束?』

『約束する』

 結衣が小指を出すと、エマは意味が分からないような顔をした。

 そういえば、指切りという習慣を知らないのかもしれない。

「これはね……」

 思わず声で説明しかけ、結衣は苦笑した。それから手話を使った。

『日本では、約束するときにこうすることがあるの』

 エマは恐る恐る小指を絡めた。

 小さな指だった。

 冷たい。

 それだけで、結衣の中に妙な怒りが湧いた。

 誰なのか知らない。

 何があったのかも分からない。

 けれど、こんな小さな子を一人で震えさせるようなことをした人間がいるのなら、腹が立った。

『行こう』

 結衣が立ち上がると、エマも立った。

 手をつなぐ。

 二人でタクシー乗り場とは反対側の、ホテルスタッフがいるはずの通路へ向かう。

 しかし十歩ほど進んだところで、エマが突然立ち止まった。

「どうしたの?」

 結衣が振り返る。

 エマの顔から血の気が引いていた。

 視線は、結衣の肩越しへ向いている。

 そして震える手が動いた。

『来た』

 結衣はゆっくり振り返った。

 駐車場の奥。

 黒いスーツを着た男が二人、こちらへ歩いてきていた。

 さらにその後ろから、もう一人。

 三人ともホテルの客には見えない。

 歩き方が妙に速い。

 そして何より、その視線は明らかにエマへ向いていた。

「エマ」

 先頭の男が呼んだ。

 少女が結衣の背中へ隠れる。

 結衣の服を掴む指が、痛いほど強くなった。

「こちらへ来なさい。皆が心配しています」

 男は穏やかな声を出していた。

 しかし結衣は動かなかった。

「この子のお知り合いですか?」

「ええ。我々は迎えに来ただけです」

「お名前を伺っても?」

 男の眉がわずかに動いた。

「あなたには関係ありません」

「関係ない人間に、六歳の子供を渡すほど無責任ではないつもりです」

「その子はこちらの関係者です」

「なら、身分証を見せてください。それからホテルの警備員を呼びます」

 男の表情から笑みが消えた。

「面倒なことをしないでもらえますか」

「奇遇ですね。私も今、まったく同じことを考えていました。六歳の子供を地下駐車場で追いかけ回すなんて、ずいぶん面倒な真似をする人たちだなって」

 自分でも驚くほど強い言葉が出た。

 結衣は怖くないわけではなかった。

 相手は成人男性が三人。

 こちらはヒールを履いた二十七歳の女と、六歳の少女一人。

 喧嘩になれば勝ち目などない。

 それでも一歩下がれば、背中の後ろにいるエマまで下がる。

 そう思うと、足だけは動かなかった。

 男たちが近づいてくる。

「その子を渡してください」

「嫌です」

「我々が誰かも知らないでしょう」

「だから渡せないんです」

 男がさらに一歩近づいた。

 その瞬間。

 駐車場の別の方向から、複数の足音が響いた。

 今度は先ほどまでとは比較にならない数だった。

 黒い車が一台、滑り込むように停まり、後部座席のドアが開く。

 長身の男が降りてきた。

 黒いスーツ。

 雨に濡れた髪。

 整った顔立ち。

 しかし、結衣が最初に感じたのは容姿の良さではなかった。

 怖い人だ。

 そう思った。

 静かに立っているだけなのに、その場の空気が変わる。

 三人の男たちも足を止めた。

 長身の男は彼らを見ることすらせず、結衣の背後へ視線を向けた。

 そして初めて、表情を崩した。

「エマ」

 低い声だった。

 それまで震えていた少女の体が、大きく揺れた。

 結衣は反射的にエマを庇うように立つ。

 男の目が結衣へ向いた。

 冷たい。

 鋭い。

 値踏みするような目だった。

「その子から離れてくれ」

 命令することに慣れきった声音だった。

 結衣は眉を寄せた。

「嫌です」

 男の表情が初めて動いた。

「……何?」

「この子があなたを怖がっていないと分かるまでは、離れません」

 周囲にいた男たちが息を呑んだ。

 どうやら、言ってはいけない相手に言ってしまったらしい。

 けれど、そんなことを知ったところで今さら遅い。

 結衣はエマの手を握ったまま、目の前の男を睨んだ。

「あなたは、誰ですか?」

 男はしばらく答えなかった。

 その視線は結衣ではなく、結衣の後ろにいるエマへ向けられていた。

 やがて彼は低い声で言った。

「九条玲司だ」

 その名前を聞いても、結衣はすぐには意味が分からなかった。

 ただ、周囲の人間たちの空気が明らかに変わったことで、この男が普通の人間ではないことだけは分かった。

 そして結衣はまだ知らなかった。

 この雨の夜、地下駐車場で握った小さな手が、自分の人生を根こそぎ変えてしまうことを。

 恋人もいない。

 結婚するつもりもない。

 仕事だけは好きだった、平凡な二十七歳の手話通訳士が。

 まさか一年後には、世界中から注目される男の妻として、その隣に立つことになるなど。

 このときの結衣には、想像することすらできなかった。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
12 Chapters
第1話 雨の夜に出会った少女
第1話 雨の夜に出会った少女 その日の雨は、傘を差していても意味がないほど激しかった。 都心の高層ホテルを出た相沢結衣は、自動ドアの向こうを白く煙らせる雨を見ながら、思わず小さくため息をついた。仕事を終えたのは午後九時を少し回った頃で、いつもなら地下鉄の駅まで歩いて帰るところだったが、この降り方では駅に着く頃には靴の中まで水浸しになりそうだった。「こういう日に限って替えの靴下も持ってないんだよね……」 誰に聞かせるでもなく呟き、結衣はバッグの中を探った。折り畳み傘はある。スマートフォンもある。財布もある。しかし、雨の日に限って普段持っている小さなタオルが見当たらない。 昔からそうだった。必要なときに限って、どうでもいいものばかり鞄の底から出てくる。 今日も、弟が子供の頃にくれた古いキーホルダーや、期限の切れた割引券や、いつ入れたのかも覚えていないミントキャンディーまで出てきたのに、肝心のタオルだけがなかった。「もういい。濡れたら帰って洗えばいいだけだし」 結衣は諦めることにした。 今日の仕事は、海外企業の役員を招いた福祉関連の国際フォーラムでの手話通訳だった。予定では夕方には終わるはずだったが、会議が長引き、さらに主催者側から追加の通訳を頼まれたため、こんな時間になってしまった。 疲れていないと言えば嘘になる。 肩は重いし、立ちっぱなしだったせいで足も痛かった。それでも、仕事そのものが嫌いなわけではなかった。むしろ結衣は、自分の手が誰かと誰かの言葉をつなぐ瞬間が好きだった。 耳が聞こえる人と、聞こえない人。 言葉を話せる人と、話せない人。 それまで別々の場所に立っていた人たちが、自分の手を通して一瞬だけ同じ場所に立つ。 その仕事を選んだ理由を尋ねられるたび、結衣は「昔から手話ができたから」と適当に答えていた。 本当の理由まで説明すると、相手が困った顔をすることを知っていたからだ。 亡くなった弟が聴覚障害者だったから。 その一言を言った瞬間、たいていの人は「ごめんなさい」と謝る。 何も悪いことをしていないのに。 だから最近は話さなくなった。 結衣はロビー脇のエレベーターへ向かい、地下駐車場行きのボタンを押した。今日はホテル側が契約しているタクシー乗り場まで地下から行けると聞いていたので、そこから車を拾うつもりだった。 扉が
last updateLast Updated : 2026-09-04
Read more
第2話 この子は、あなたを待っていない
第2話 この子は、あなたを待っていない 九条玲司。 その名前を聞いて、結衣は数秒遅れて記憶の中に引っかかるものを見つけた。経済ニュースだったか、ホテルのロビーに置かれていた雑誌だったか、とにかく顔だけなら一度や二度は見たことがある。世界各国にホテルや不動産、医療関連企業まで抱える巨大企業グループの若い最高経営責任者で、三十代前半にして一族経営の頂点に立った男。冷静、合理的、妥協を知らないという評判ばかりが目立ち、華やかな社交界の記事より、企業買収や人員整理の記事で名前を見かけることのほうが多かった。 けれど、そんなことは今の結衣にはどうでもよかった。 目の前の男がどれほど有名で、どれほど金を持っていて、どれほど多くの人間に頭を下げさせる立場なのだとしても、エマが自分の後ろに隠れ、服の裾を握ったまま震えているという事実は変わらない。「九条玲司さん、ですね。お名前は分かりました。でも、それだけではこの子をあなたに渡せません」 結衣がそう言うと、玲司は目を細めた。怒鳴りもしなければ、威圧するように声を荒らげもしない。ただ、相手の言葉を一度頭の中で分解し、それが自分にとって必要か不要かを判断するような目だった。「彼女は俺の家族だ」「それを確認できるものはありますか?」「確認?」「身分証でも、写真でも、何でもいいです。私はこの子と知り合って十分も経っていませんけど、少なくともこの子は、知らない人に追われていると怯えていました。あなたが有名人かどうかなんて、この際どうでもいいんです」 玲司の後ろに立っていた男たちの一人が、わずかに眉を動かした。明らかに「どうでもいい」と言われ慣れている相手ではないのだろう。 玲司は結衣ではなく、彼女の背後にいるエマへ視線を移した。「エマ、こっちへ来い」 声は低かったが、先ほどより少しだけ柔らかかった。 しかしエマは動かなかった。 むしろ結衣の背中へさらに身を寄せた。 結衣はそれを感じ取り、ゆっくり振り返った。『知っている人?』 手話で尋ねる。 エマは小さく頷いた。『怖い人?』 今度はすぐには答えなかった。 少女の瞳は玲司を見ている。怯えているようにも見えるし、泣くのを我慢しているようにも見える。 やがてエマは、ためらいながら手を動かした。『おじさん』 結衣は玲司を見た。「叔父さん?」「そ
last updateLast Updated : 2026-09-04
Read more
第3話 あなたは、人の気持ちまで雇うつもりですか
第3話 あなたは、人の気持ちまで雇うつもりですか 翌朝、相沢結衣は目覚まし時計が鳴るより三十分も早く目を覚ました。 眠った気がしなかった。 昨夜、九条玲司の手配した車で自宅近くまで送られたあと、玄関の鍵を閉め、チェーンまで掛けてからベッドに入ったものの、目を閉じるたび地下駐車場で見た男たちの顔が浮かんだ。 あの三人は誰だったのか。 どうしてエマを追っていたのか。 そして、本当に自分まで顔を覚えられてしまったのか。 考えても答えは出ない。 それでも脳だけは律儀に同じ問いを何度も繰り返した。「まったく、何をやってるんだろう、私……」 ベッドの上で天井を見ながら呟き、結衣は額に手を当てた。 昨夜のことを母が知ったら、間違いなく怒られる。 知らない男たちに追われている子供を見つけ、その子を庇って三人の男と向き合ったなどと説明すれば、「昔からそういうところだけは直らない」と一時間は説教されるだろう。 結衣自身も、自分が無謀だったことくらい理解している。 それでも、もう一度同じ場面に出くわしたら、たぶん同じことをする。 そういう性格だから仕方がないと開き直るつもりはないが、泣いている子供を見て「危ないから関わらない」という判断ができるほど器用ではなかった。 ベッドから起き上がったところで、スマートフォンが震えた。 画面には見覚えのない番号が表示されている。 一瞬、昨夜のことが頭をよぎった。 出るべきか迷っているうちに一度切れた。 ところが、すぐにもう一度かかってくる。 結衣は警戒しながら通話ボタンを押した。「もしもし」『おはようございます、相沢様。昨夜お目にかかりました、九条玲司様の秘書を務めております篠崎です。朝早くから申し訳ありません』 穏やかな声を聞いて、結衣は力が抜けた。「ああ、篠崎さん。びっくりしました。知らない番号だったので」『失礼いたしました。昨夜の件もございますので、警戒なさるのは当然です』「何か分かったんですか、あの人たちのこと」 問いかけると、電話の向こうでわずかな間があった。『現在も確認中です。ただ、ホテルの防犯映像から三名の顔は把握できました。警察にも映像を提出しております』「そうですか……。エマちゃんは?」『その件で、実はお電話いたしました』 篠崎の声がほんの少し困ったものになった。『
last updateLast Updated : 2026-09-04
Read more
第4話 家族の食卓を知らない人
第4話 家族の食卓を知らない人 結衣の言葉を聞いた玲司は、すぐには何も返さなかった。 怒ったのかと思ったが、そうではないらしい。眉間にはわずかに皺が寄っているものの、結衣を睨んでいるわけではなく、むしろ自分の中にある何かを確かめるように黙り込んでいる。 エマは二人の間に立ち、不安そうに玲司を見上げていた。 結衣は少しだけ後悔した。 言っている内容自体は間違っていないと思う。それでも、他人の家庭に踏み込んでいいことと悪いことがある。しかも自分は昨日知り合ったばかりの人間だ。玲司がどんな事情を抱えているのかも、エマとどんな三年間を過ごしてきたのかも、本当のところは何も知らない。「すみません。ちょっと言い過ぎました」 結衣が先に口を開くと、玲司は意外そうに顔を上げた。「君でも謝るのか」「失礼ですね。私だって、言い過ぎたと思えば謝ります」「俺には謝罪という機能が搭載されていないと思っていた人間とは思えない発言だな」「まだ根に持ってるんですか」「今朝言われたばかりだ」 結衣は思わず口元を緩めた。 この男は無表情で冗談を言うから分かりにくい。 もしかすると冗談ですらないのかもしれないが、昨日よりは少し会話が成立するようになってきた気がした。「ただ」 玲司の声が低くなる。「君の言ったことは、考えてみる」「……怒らないんですか?」「腹は立っている」「やっぱり」「だが、腹が立つことと、間違っていることは同じじゃない」 その返事は、結衣が想像していたものよりずっとまともだった。 金持ちで、命令に慣れていて、人の事情を自分の基準で片づけるところがある。それでも、自分に都合の悪い意
last updateLast Updated : 2026-09-05
Read more
第5話 九条玲司という男
第5話 九条玲司という男 翌朝、相沢結衣が職場へ着いたときには、すでに受付の女性が妙な顔でこちらを見ていた。 何か言いたそうなのに言わない。視線だけが、結衣の顔と手元のスマートフォンを何度も往復している。「おはようございます。どうかしました?」「結衣さん、昨日の夜……どこにいました?」「昨日?」「仕事が終わってからです」 質問の意味が分からず、結衣は鞄を肩から下ろしながら首を傾げた。「ちょっと知り合いの家に寄ってましたけど」「知り合い」「その言い方、何ですか」「いや、知り合いっていうか……これ」 差し出されたスマートフォンを見て、結衣は足を止めた。 画面には、昨夜九条邸を出るところを撮影したらしい写真が載っていた。 正確には、自分の顔はほとんど見えていない。黒い車へ乗り込む横顔と、九条家の門、そして玄関付近に立つ長身の男の姿が小さく写り込んでいるだけだった。 記事の見出しには、やたらと大げさな文字が並んでいた。『九条グローバルCEO・九条玲司、謎の女性を本邸へ招く』「……早くないですか」 思わず本音が漏れた。「そこ?」「いや、だって昨日の夜ですよ。誰がこんなの撮ってるんですか」「結衣さん、九条玲司と知り合いなんですか?」「知り合いというほどでも……昨日会ったばかりです」「昨日会ったばかりの相手の家に行ったんですか?」「そう言うとものすごく誤解を招きますね」 結衣は額を押さえた。 まさか、エマに会いに行っただけでこんな記事になると
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more
第6話 その男は、あなたに何なんですか
第6話 その男は、あなたに何なんですか 結衣が笑っていた。 ただそれだけの光景なのに、九条玲司はなぜか目を逸らすことができなかった。 勤務先の建物前、夕方の柔らかな光の中で、結衣は一人の男と話している。男は背が高く、年齢は結衣と同じくらいか、少し上に見えた。濃紺のシャツにジャケットを羽織り、首から職員証を下げている。医療関係者なのかもしれない。 問題は、そんなことではなかった。 二人の距離が近い。 妙に近い。 先ほどなど男が結衣の髪に触れていた。 それを結衣は嫌がるどころか、軽く肩を叩いて笑っている。「篠崎」「はい」「普通、あれくらい近いものなのか」 玲司は窓の外を見たまま尋ねた。 助手席に座っていた篠崎は、すぐには答えなかった。「何がでしょう」「あの二人だ」「親しいご友人でしたら、あれくらいの距離になることもあるのではないでしょうか」「友人」「あるいは、恋人かもしれません」 玲司の視線が篠崎へ向いた。「なぜ恋人になる」「可能性の話でございます」「根拠がない」「親しい男女を見て恋人かもしれないと考えることは、さほど不自然ではないかと」「仕事仲間かもしれないだろう」「もちろん、その可能性もございます」 篠崎の声はいつもどおりだった。 ただし、玲司には分かる。 明らかに楽しんでいる。「おまえ、何か言いたいことがあるのか」「ございません」「その顔で言っても説得力がない」「長年お仕えしておりますが、玲司様
last updateLast Updated : 2026-09-07
Read more
第7話 今夜だけ、ここにいてください
第7話 今夜だけ、ここにいてください 黒い車のドアが閉まった途端、外の雑踏が嘘のように遠ざかった。 結衣は後部座席へ深く腰掛けることもできず、膝の上に置いたバッグを両手で握っていた。隣には玲司がいる。助手席には篠崎。運転席には、以前にも見た九条家の運転手が座っている。 誰も余計なことを言わない。 車内が静かなぶん、自分の心臓の音だけが妙に大きく聞こえた。「今日、尾行されていたって……本当に私なんですか?」 しばらく我慢していたが、結衣はとうとう尋ねた。「ああ」 玲司の返事は短かった。「でも、どうして分かったんです?」「昨夜エマを追っていた男の周辺を調べている。その関係者が使っていた端末から、今日撮影された君の写真が見つかった」「写真って、どんな……」 玲司は一瞬黙った。 見せるべきか迷ったのだろう。 だが、結衣がじっと見ていると、スマートフォンを取り出して一枚の画像を表示した。 結衣は息を呑んだ。 昼間、勤務先から出てくる自分。 コンビニへ入る自分。 横断歩道で信号を待つ自分。 そして悠真と話している自分。 どれも、自分では撮影されていることなどまったく気づかなかった。「……気持ち悪い」 素直な感想が漏れた。 玲司はすぐにスマートフォンを伏せた。「見せないほうがよかったな」「いいえ。知らないままよりいいです」 結衣は窓の外を見る。 夕方から夜へ変わりつつある東京の街が流れていく。 いつもなら見慣れている景色な
last updateLast Updated : 2026-09-08
Read more
第8話 朝になっても、あなたがいる
第8話 朝になっても、あなたがいる 結衣が目を覚ましたとき、最初に感じたのは、自分の部屋とは違う匂いだった。 洗いたてのシーツと、どこか甘い石鹸の香り。それから、腕のあたりに妙な重みがある。 まだ完全に覚醒していない頭で横を見ると、エマが結衣の腕を抱くようにして眠っていた。「あ……そうだった」 昨夜、自分は家へ帰らなかった。 尾行されていた可能性があると聞かされ、安全が確認されるまでという条件で九条邸へ泊まった。そしてエマが自分の部屋へ来て、そのまま眠ってしまったのだ。 時計を見る。 午前六時二十分。 いつもなら、そろそろ起きなければならない時間だった。 結衣はエマを起こさないように、そっと腕を抜こうとした。 しかし、ほんの少し動いただけで、小さな指が服を掴んだ。 エマの目が開く。 次の瞬間、その顔に明らかな不安が浮かんだ。『帰る?』 寝起きにもかかわらず、エマの手がすぐに動いた。『今すぐ帰るわけじゃないよ。お仕事に行く準備をしようと思っただけ』 それでもエマは服を離さなかった。『起きたら、いないと思った』 結衣は胸の奥が少し痛んだ。『ちゃんといるよ』『朝になっても?』『ほら、いるでしょう』 結衣は笑いながら両手を広げて見せた。 エマは数秒じっと見てから、ようやく少し安心したようだった。 けれど、その直後に結衣へ抱きついてきた。 何も言わない。 ただ、細い腕で抱きしめてくる。 結衣はその背中を撫でた。 この子にとって、「眠って起きても、大切
last updateLast Updated : 2026-09-09
Read more
第9話 その人を、この家から出しなさい
第9話 その人を、この家から出しなさい エマの指が、結衣の服を強く握っていた。 その震えを背中越しに感じた瞬間、結衣の中にあった眠気も、朝から続いていたぼんやりとした不安も、すべて消えた。 目の前にいる九条美佐子という女性が、昨夜から玲司たちが調べていた事件に関係しているのかどうかは分からない。証拠もない。けれど、エマがこれほど露骨に身を縮める相手を前にして、ただ黙って見ていることはできなかった。 玲司も同じことを考えたらしい。「叔母さん。もう一度聞く。ホテル地下駐車場でエマを追っていた三人について、何か知っているか」 玲司の声は低く、感情がほとんど表に出ていなかった。 美佐子はそんな甥を真正面から見返した。「朝一番に呼びつけるどころか、到着してすぐ犯罪者扱いとはね。ずいぶん歓迎してくれるじゃない」「呼んでいない。勝手に来たのは叔母さんだ」「相変わらず可愛げのない子」「昔からだろう」「ええ。そこだけは兄さんにそっくり」 兄さん。 恐らく玲司の父親のことだろう。 その一言だけで、二人の間には結衣には分からない長い年月があるのだと感じた。 美佐子は視線を玲司から結衣へ移した。「それで、この女性は?」「相沢結衣さんです」 結衣は自分で名乗った。「初めまして」「そう。あなたが例の記事の女性なのね」 美佐子は結衣の挨拶には答えず、まるで商品の品質でも確認するように見た。 結衣はこういう視線が苦手だった。 露骨に馬鹿にされるより面倒だ。 何も言われていないのに、自分の服装や仕事、育った家まで全部値段をつけられているような気になる。 ただ、ここで目を逸
last updateLast Updated : 2026-09-10
Read more
第10話 帰らないで、と言えなかった少女
第10話 帰らないで、と言えなかった少女 美佐子が九条邸を出てからも、食堂にはしばらく重たい空気が残っていた。 誰もすぐには口を開かなかった。テーブルの上には食べかけの朝食が残り、少し前まで三人で他愛のない会話をしていたことが嘘のように思える。 玲司をエマの後見人から外そうとする動きがある。 その理由として、玲司の仕事中心の生活や、エマがホテルから一人で逃げ出したことまで持ち出される可能性がある。 さらに、結衣自身も調査対象になるかもしれない。 昨日までは、九条家の争いなど遠い世界の話だった。 それが今では、自分の名前まで当事者として扱われようとしている。「……すごい家ですね」 結衣が思わず漏らすと、玲司が顔を上げた。「どういう意味だ」「そのままの意味です。家族の問題なのに、会社みたいに書類が出てきて、弁護士が動いて、誰が子供を育てるかまで争いになるんだなって」「資産が絡むと、そうなる」「エマちゃんは資産じゃないでしょう」「ああ」 玲司の返事はすぐだった。「だが、そう思わない人間がいる」 その声には怒りがあった。 結衣はエマを見る。 少女は大人たちの会話をすべて理解しているわけではないのだろう。それでも、自分について何か良くないことが起きていることは察しているらしい。 結衣の袖を握ったまま、ずっと離さない。『大丈夫?』 エマが手話で尋ねた。 結衣は一瞬迷った。 大丈夫。 その一言なら簡単だ。 しかし、確実でもないことを子供に約束したくなかった。『心配なことはあるよ』
last updateLast Updated : 2026-09-11
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status