Todos os capítulos de 身代わり花嫁の契約結婚: Capítulo 11 - Capítulo 20

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11

 弦也はデスクの前に立ち尽くしていた。 彼の視線は、端に置かれた小さなグラスに注がれている。 紫の都忘れと、白いヤマボウシ。 弦也の顔から、いつもの険しい表情が消えていた。 ぽつんと置かれたその花を見た瞬間、彼の脳裏に鮮やかな記憶が蘇っていたのだ。『弦也、見てごらん。都忘れが咲いたよ』 土で汚れた分厚い手。日焼けした祖父の笑顔が浮かんでくる。『きれいだね、おじいさま!』 遠い記憶の中で、幼い彼がはしゃいでいる。 書斎に飾られた花を見て、目を細める祖母の姿。 屋敷中が穏やかな空気と温もりに包まれていた、あの頃。 弦也は無意識に手を伸ばしてグラスに触れようとした。 しかし指先が触れる直前で、その手を引き戻した。(駄目だ。こんなものに惑わされてはいけない) 彼は唇を強く噛んだ。 周囲は敵ばかりだ。親族でさえ、いつ自分の寝首を掻くか分からない。 心を許せばそこから崩れ去る。つけ込まれる。(これは……あの女の仕業か?) 今まで屋敷に花を飾ろうとする者はいなかった。弦也が禁じたからだ。 冷泉院家が送り込んできた身代わりの妻。彼女がなぜこんなことをするのか。 打算か、それともただの気まぐれか。 どちらにせよ、自分には関係のないことだ。 弦也は無理やり心を硬く閉じて、鋭い声を出した。「誰がこんなものを置いた」 廊下に立っていた透子は、その声に肩をすくめた。 やはり怒らせてしまった。 透子はドアを押し開き、室内へ入る。「私です。勝手に入って申し訳ありません」 弦也は振り返り、冷ややかな視線を透子に向けた。「君の仕業か」「はい。お嫌でしたか」「俺の許可なく書斎に入るなと言ったはずだ。それに、こんなものを飾っても無駄だ。仕事の邪魔になるだけだ」 言葉は氷のように冷たかった。 先ほど花
last updateÚltima atualização : 2026-09-30
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12

 ドアを開けると、相良がお盆を持っていた。 温かい紅茶の香りがする。「少しお疲れのようですね。よろしければ、こちらをどうぞ」 相良はテーブルにカップを置いた。「相良さん……ありがとうございます」 透子が椅子に座ると、相良は向かいに立った。「弦也様の言葉、どうかお気になさらないでください」「聞いていらしたんですか」「ええ。お声が少し大きかったものですから。……弦也様は、昔からあのような方ではなかったのです。今置かれている過酷な状況が、あの方をあのようにしてしまったのです」 相良は少し悲しそうに目を伏せた。「弦也様も、本当は花がお嫌いなわけではないと思います。ただ素直に喜ぶことを、ご自身に禁じておられるのでしょう」「自分に、禁じている……?」「はい。弱みを見せれば、すぐに足元をすくわれる世界におられますから」 透子はカップの縁を指でなぞった。 胃痛で苦しんでいた時の弦也を思い出す。 あの時も、彼は強がって人を遠ざけようとしていた。「私には、彼の事情はよく分かりません。でも……」 透子は紅茶を一口飲んだ。温かさが胃の奥に染み渡る。「少しずつでも、このお屋敷が彼にとって安心できる場所になればいいなと思います。契約相手の私が言うことではありませんが」 自嘲気味に笑う透子に、相良は優しく微笑んだ。「透子様が来てくださってから、この屋敷の空気は確実に変わっています。どうか、ご自身のなさることを否定しないでください」「奥様!」 ふいに、キッチンの入り口からメイドのミキが顔を出した。 その後ろには、庭を手伝ってくれた青年や、他の若い使用人たちの姿もある。「あの、奥様が手入れしてくださったお庭、すごくきれいです!」 ミキが少し頬を染めながら言った。「今まで暗くて怖い庭だったのに
last updateÚltima atualização : 2026-10-01
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13:孤独な書斎

 東堂グループの本社ビル最上階、重役会議室の空気は、氷が張り詰めたかのように冷たかった。 東堂弦也は上座に座り、目の前に並ぶ役員たちを冷ややかに見つめていた。「今回の開発プロジェクトにおける資金流出の件、どう言い訳するつもりだ」 弦也の低い声が室内に響く。 名指しされた専務が額に汗を浮かべながら口を開いた。「それは、下請け企業の手違いでありまして、私としては……」「手違いで済む金額ではない。君が裏でダミー会社を通じて資金を横流ししようとしていた証拠は、すでにこちらで押さえている。親戚筋だからと大目に見てもらえると思っていたのなら、見当違いだ」 弦也は手元のファイルを机に投げ出した。バサリ、紙が乱雑に広がる。 専務は顔色を青くして、周囲の役員たちも押し黙る。 東堂家内部の派閥争いは泥沼化していた。 弦也を若造だと侮り、失脚させようと目論む親族は数え切れない。 今日の専務も、少し前までは弦也の支持派だと公言していた男だった。(たとえ血族であっても、誰も信じられない。隙を見せれば、すぐに足元をすくわれる) 会議を終えて、弦也は自室の社長室に戻った。 誰もいない室内の中、体をソファに沈ませるように座る。 連日の激務と、裏切りに対処する精神的疲労が重くのしかかっていた。◇◇ 深夜、東堂邸に帰宅した弦也は、誰とも言葉を交わさずに2階の書斎へ直行した。「弦也様……」 執事の相良が温かい茶を持ってこようとしたが、手で制して断った。今はただ、一人になりたかった。 書斎のドアを閉め、デスクの椅子に腰掛ける。 部屋の中は静まり返っている。 数日前にあの女――透子が飾った花は、とうの昔に片付けさせていた。余計なものは視界に入れたくもない。 それは小さな油彩画だった。 亡き祖父自身が筆を取り、描いた風景画だ。 弦也が幼い頃、祖父と
last updateÚltima atualização : 2026-10-01
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14

 弦也は自嘲するように笑った。「祖父は俺に、東堂を背負って立つ後継者としての強さだけを求めた。弱さを見せればこの絵のように見捨てられて、朽ち果てるだけだ。……そうおっしゃりたいのでしょう、おじいさま」 自分の現状が、このボロボロの絵に重なって見えた。 誰にも頼れず、ただ1人で耐え忍ぶしかない。 弦也は目を閉じ、ソファに体を預けた。(疲れた……) 極度の疲労が全身を包み込む。そのまま浅くて不快な眠りに落ちていった。◇◇ 同じ頃。 透子は自室で、一通の分厚い封筒を前にため息をついていた。 夕方、冷泉院家から書留で届いたものだ。 中には冷泉院と東堂両家の契約に関する細かい取り決めや、今後の資金援助のスケジュールなどが記された書類が入っていた。「これ、明日までに弦也さんのサインをもらって返送しないといけないのよね……」 冷泉院の使いからは、大至急の案件だと念を押されていた。 時計を見ると、すでに深夜1時を回っている。弦也が帰宅した気配は先ほど感じていた。「寝ていらっしゃるかもしれないわ。でも、明日では間に合わないし。様子を見に行くだけ行ってみよう」 なんとも気が重かったが、透子は書類を手に取って部屋を出た。 廊下は薄暗く、静まり返っている。 階段を降りようとしたところで、見回りをしていた相良と出くわした。「透子様、こんな時間にどうされましたか」「相良さん、こんばんは。あの、冷泉院家から急ぎの書類が届きまして、弦也さんのサインが必要なのです。書斎にいらっしゃいますよね?」 相良は少し困ったような顔をした。「はい。旦那様は先ほどお戻りになり、書斎に入られました。ただ、大変お疲れのご様子で……お声がけしてもよろしいものか」「そうですか。でも、明日の朝一番で返送しなければならない書類なので
last updateÚltima atualização : 2026-10-02
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15

(顔料が……浮いている) 透子は思わずしゃがみ込み、絵に顔を近づけた。 キャンバスの表面には無数の細かい亀裂が走り、絵の具の層が反り返って今にも剥がれ落ちそうになっている。 湿度の変化や乾燥によってキャンバスが収縮を繰り返し、顔料がそれに耐えきれずに剥離(はくり)を起こしているのだ。(このままにしておけば、少しの振動で絵の具が落ちてしまう。限界がきているわ) 修復師としての矜持と本能が、透子を突き動かした。 彼女は自分の立場も、弦也から「干渉するな」と警告されていたことも忘れ、絵画の状態をさらに詳しく観察しようと手を伸ばした。 キャンバスの裏側の木枠の張り具合を確かめようとした、その時。「……何をしている」 背後から低く冷たい声が響いた。 透子はハッと息をのみ、振り返る。 ソファで眠っていたはずの弦也が身を起こし、鋭い視線で透子を睨みつけていた。 人の気配に敏感になっている彼は、透子が部屋に入ってきた時にはすでに目を覚ましていたのだ。「弦也さん……申し訳ありません。お休みになっていたので、書類だけ置いていこうと思ったのですが」 透子が立ち上がって書類を示すと、弦也は不機嫌そうに顔をしかめた。「それなら用件は済んだはずだ。なぜ人の持ち物を勝手に漁っている」「漁っていたわけではありません。ただ、この絵の状態が……あまりにも危険だったので」 透子は絵画を指差した。「この絵、顔料の剥落が始まっています。今すぐ処置をしないと、表面の絵の具がすべて崩れ落ちてしまいます。そうなれば二度と元には戻せません」 弦也は立ち上がり、透子に近づいた。 薄暗い中、彼の瞳が苛立ちとも自嘲とも言えない奇妙な光を放っている。「それがどうした。君には関係のないことだ」「関係ないとは言えません。私は絵画修復師です。目の前で失われようとしている絵を、見過ごすこと
last updateÚltima atualização : 2026-10-02
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「出て行け」 弦也はドアの方を指差して、短く命じた。 透子は青ざめた顔で弦也と絵画に視線を遣っていたが、やがて目を伏せる。「……書類のサイン、明日の朝までにお願いいたします」 透子はそれだけを言い残し、書斎を後にした。◇◇ 自室に戻った透子は、ベッドの端に腰を下ろした。 弦也の冷たい言葉が耳の奥で何度も反響している。『いい妻を演じて俺に取り入るつもりか』『君の安い同情も、打算も、俺には通用しない』 透子は深く息を吐き出した。(そんなつもりじゃないのに) 悲しくないと言えば嘘になる。純粋に向けた思いを、あそこまで捻じ曲げて受け取られるのは辛かった。 けれど同時に理解もしていた。(彼は今、誰も信じられないほど追い詰められているんだわ) 透子自身、冷泉院の家で「都合のいい身代わり」として扱われた時、周囲の人間がすべて敵に見えたことがあった。 東堂という巨大な組織のトップに立ち、身内からの攻撃にさらされている弦也の孤独と重圧は、透子の想像を絶するものだろう。(だからといって、あの絵を見捨てることはできない) 絵は言葉を持たない。持ち主が直してくれなければ、ただ朽ち果てていくだけだ。 そこに込められた想いも歴史も、失われてしまえば取り戻せない。 それでも透子は、あの絵が助けてほしいと訴えているように感じられた。 あんなにボロボロになってさえ、持ち主の手元にある。 あの絵を描いた人と今の持ち主の弦也の心が、あの絵には残っている。あの絵はそれを分かっていて、助けを求めているのだと。 透子は立ち上がり、デスクに向かった。 引き出しからノートとペンを取り出す。 言葉で訴えても、彼には届かない。ならば職人としての『事実』で示すしかない。 透子は先ほど観察した絵画の状態を思い出し、詳細な修復計画をノートに書き出し始めた。『
last updateÚltima atualização : 2026-10-03
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 翌朝。 透子は弦也が会社へ出かけたのを見計らって、1階へ降りた。 ダイニングで朝食の片付けをしていたメイドのミキに声をかける。「ミキさん、おはようございます」「あ、奥様。おはようございます」 ミキは片付けの手を止めて、ぺこりと頭を下げる。「相良さんはいらっしゃるかしら?」「はい、玄関の方にいらっしゃいましたよ」 透子が玄関へ向かうと、相良が郵便物の整理をしていた。「相良さん、少しよろしいですか」「透子様。どうされましたか」「弦也さんの書斎に、これを置いてきたいのです。昨日いただいた書類と一緒に」 透子は手にしたノートを見せた。「それは……?」「昨夜、書斎で弦也さんの古い油彩画を見ました。とても傷んでいて、修復が必要な状態でした。私は修復師なので、どうすればあの絵を直せるか、具体的な手順をメモにまとめたのです。弦也さんに、読んでいただきたくて」 相良は少し驚いたように目を見開いた。「奥様があの絵を見たのですか。旦那様は、何と?」「怒られました。素人に何ができるって。でも私は諦めたくありません。このメモを読んでいただければ、私はただの素人ではなく、ただ取り入ろうとしているのではないと、分かっていただけるかもしれないと思って」 相良はしばらく透子の顔を見つめていたが、やがて静かに頷いた。「分かりました。私が同行いたします。書斎の掃除のついでということで」「ありがとうございます」 相良と共に書斎に入り、透子はデスクの上の書類の横にメモを置いた。「これで、少しでも伝わるといいのですが」「旦那様も本来は理を重んじる方です。透子様の誠意は、きっと届くはずです」「……ええ」 ふと見れば、冷泉院家から送られてきた書類には、きちんとサインがして置かれている。「相良さん、こちらを返送したいのですが」「冷泉院様
last updateÚltima atualização : 2026-10-03
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 透子が「絵画修復師」だと名乗った時、弦也はそれを令嬢の嗜み程度の趣味か何かだと思っていた。 冷泉院家が体裁を整えるために箔をつけただけの、中身のない肩書きだと。 しかしこのノートに書かれているのは、趣味の領域をはるかに超えたプロフェッショナルの知識だ。 弦也の視線が、ノートの最後の一文に止まった。『私には、この絵と向き合うための十分な時間があります。何ヶ月かかろうと、一層ずつ確実に定着させて汚れを落とすことをお約束します』 そこには、弦也に取り入ろうとする打算的な言葉は一切ない。 ただ絵を救いたいという、職人としての純粋な矜持だけが綴られていた。 弦也は顔を上げて、床に置かれた油彩画を見た。 見放され、朽ちていくのを待つだけだった絵を。(彼女はこれを見捨てないというのか。救ってみせるというのか) ふと、先日帰宅した時に見た、美しく整えられた庭の光景が脳裏に蘇った。 荒れ果てていた庭の雑草を抜き、花を活けた彼女の姿が。『恩を売るつもりも、取り入るつもりもありません』 彼女の澄んだ声が胸の奥で響く。 弦也の強張っていた心が、わずかな音を立てて揺らいだ。 誰も信じられない。すべてが敵に見えるこの屋敷の中で、彼女だけは別の基準で動いているように思えた。「…………」 弦也はメモを丁寧に折りたたみ、引き出しの奥にしまった。◇◇ 数日後のこと。 透子が昼下がりの廊下を歩いていると、向こうから弦也が歩いてきた。 休日の午後だが彼はスーツ姿で、これから出かける様子だった。手には紙袋を持っている。「弦也さん。お出かけですか」 透子が立ち止まって軽く頭を下げると、弦也も足を止めた。 2人の間に気まずい沈黙が流れる。 弦也は少し視線を逸らして、やがて低い声で言った。「……あのノートを読んだ」
last updateÚltima atualização : 2026-10-03
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19:幼馴染の影

 季節は初夏へと変わりつつある頃。柔らかな日差しが、東堂邸の庭の緑を鮮やかに照らし出していた。 透子は東堂邸の1階の東側にある使用頻度の低い客間を、当面の修復作業スペースとして借りる許しを得ていた。 家具には白い布が掛けられて、床には養生シートが敷き詰められている。 部屋の中央には、相良の手配で用意された大きくて平らな作業台が置かれていた。「奥様、こちらの箱はどこに置きましょうか」 メイドのミキが小包を抱えて部屋に入ってきた。「あ、ありがとう、ミキさん。それは絵の具や溶剤が入っているから、窓際の棚の上に置いておいてちょうだい。直射日光が当たらないように気をつけてね」 透子はかつて付き合いのあった業者を頼り、修復の仕事に必要な道具類を手に入れていた。「はい、承知いたしました。それにしても、奥様は本当に色々な道具をお持ちなんですね。筆だけでも、すごくたくさんあって……」 ミキは棚に箱を置きながら、興味深そうに中を覗き込む。「そうね。修復する絵の年代や状態によって、使う筆の毛の種類も太さも変えないといけないから。おばあちゃんから譲り受けたものも多いのよ」 透子は作業台の上で、薄い和紙を一定の大きさに切り揃えながら答えた。 フェイシングと呼ばれる、絵の表面を保護するための処置に使う和紙だ。「奥様のお祖母様も、修復のお仕事をされていたんですよね。すごいなあ。……あ、お茶をお持ちしますね。ずっと立ちっぱなしですから、少し休んでください」「ええ、ありがとう。ミキさんが淹れてくれる紅茶、いつも美味しいから楽しみだわ」 ミキが笑顔で部屋を出て行くのを見送って、透子は切り揃えた和紙を束ねた。 弦也から「好きにしろ」と絵を託されてから、数日が経過していた。 弦也の言葉は冷淡だったが、透子はその裏にわずかな歩み寄りを感じる。少しだけ前向きな気持ちになっていた。 彼が大切にしていた記憶の風景を取り戻す。それが彼への恩返しであり、絵画修復師としてのプライドであり
last updateÚltima atualização : 2026-10-04
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「どうしてって、あたしの勝手でしょう? 弦也さんに会いに来たの。休日はお屋敷にいらっしゃることが多いから」 まどかは無遠慮な足取りで部屋の中に入ってきた。 彼女の背後で、案内してきた相良が困惑した表情を浮かべている。「透子様、申し訳ございません。冷泉院様がどうしてもお会いになりたいと」「いいのよ、相良さん。ありがとう」 透子が答えると、まどかは相良を軽く手で払うような仕草をした。「相良、弦也さんに伝えて。あたしが来たって」「……かしこまりました。旦那様は、現在リビングでお休みになられております。ご案内いたします」 透子は少し迷った後、作業台から離れる。まどかの後を追うようにリビングへと向かった。 広いリビングでは、休日のラフなシャツ姿の弦也がソファに座り書類に目を通していた。「弦也さん!」 まどかが明るい声を上げると、弦也は顔を上げた。 その瞬間、透子は自分の目を疑った。 弦也の顔から、日頃の険しい警戒心が完全に消え去っていたのだ。「まどか。急に来たのか」 弦也の声は穏やかで、透子には決して見せない「優しい幼馴染の兄貴分」としての響きがあった。 弦也とまどかは幼馴染にして、長年の許嫁だった。 幼い頃から気心の知れた者同士、透子が入り込めない信頼の空気がある。「驚かせようと思って。迷惑だったかしら?」 まどかが小首を傾げると、弦也は微かに口元を緩めた。「いや、構わない。少し息抜きをしようと思っていたところだ」 弦也は書類をテーブルに置いて、相良に向かって指示を出す。「相良、まどかが来ている。いつものダージリンを用意してやってくれ」「かしこまりました」 相良が一礼して退出する。 弦也の視線が、リビングの入り口に立っている透子に向けられた。 その瞬間。先ほどまでの穏やかな表情が一瞬で硬くなり、いつもの冷ややかな当主の顔に戻る。「&he
last updateÚltima atualização : 2026-10-04
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