身代わり花嫁の契約結婚

身代わり花嫁の契約結婚

last updateÚltima actualización : 2026-10-08
Por:  黒兎みかづきActualizado ahora
Idioma: Japanese
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「3年が来たら離婚する。その時、君を娶る」――夫の書斎の前で、身代わり妻の透子は冷酷な約束を耳にしてしまう。祖母の治療費のために東堂財閥の御曹司・弦也に嫁ぎ、冷たい態度に耐えながらも心を尽くした。いつしか心が通じて愛し合い、子供を授かったはずなのに、悪意の罠によって我が子は失われ、夫の心も離れてしまった。もう我慢する必要はない。3年目の冬、透子は夫の前から姿を消した。しかし弦也が離婚を選んだのは、彼女を解放するための歪んだ自責によるものだった。真実を知らないまま去った妻と、妻を失って地獄のような後悔に堕ちた夫。そして明かされる、死んだはずの我が子の行方とは――。

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Capítulo 1

1:私はただの身代わり

 それは結婚3年目の冬の夜のこと。

 東堂透子(とうどう・とうこ)は、夫である弦也(げんや)の書斎の前に立っていた。

 彼女の手には、1枚の油彩画がある。

 これは弦也の持ち物で、つい先ほど修復を終えたばかりのものだ。

 弦也は小さな油彩画を祖父から譲り受け、大事にしていた。

 けれど古いものは傷みやすい。

 経年劣化でワニスは黄変して黒ずみ、画面には無数の亀裂が走って絵の具が剥がれ落ち、無残な姿になっていた。

 透子は絵画修復師としての腕を振るい、絵画を見事に蘇らせた。

 ボロボロの状態からここまで直すのは苦労したが、夫への誕生日プレゼントだと思えば、つらいことはなかった。

(弦也さんは、この絵を思い出の品だと言っていた。きっと喜んでくれる)

 弦也の笑顔を想像しながらドアをノックしようとした、その時。

 部屋の中から弦也の声が聞こえた。

 他の人の声も聞こえる。電話をしているのだろう。

 けれど漏れ聞こえた相手の声に気づいて――透子は凍りついた。

 聞こえてくる声は、高く甘ったるい猫なで声。

 透子にとって敵とも言える、冷泉院(れいぜいいん)まどかの声だった。

 スピーカーにしている電話の声は、書斎の扉越しでもはっきりと聞こえる。

「ねえ弦也さん。いつまでお姉様と結婚しているの? そろそろ止め時じゃなぁい?」

 わずかに間を開けて、弦也が答える声がした。

「……そうだな。元より透子は冷泉院家が送り込んできた身代わりにすぎなかった。本来、俺に嫁ぐべきだったのは君だ」

 透子は小箱を握りしめた。無意識のうちに力が入り、指の関節が白くなる。

「あんなことがあった以上……3年の期限が来たら、俺は彼女と離婚するべきなのだろう」

 透子は息をするのすら忘れて、夫の言葉に聞き入る。

 扉の向こう、妹とは名ばかりの女と会話する夫は、こう続けた。

「その時、君を娶(めと)る」

 その宣言に、透子の全身が凍りついた。

 様々な問題を乗り越えて、透子は弦也と心を通じ合わせられたと思っていたのに。

 それなのに、離婚。別の女と結婚するのだという。

(身代わり。3年の期限……そうだった。私は――)

 弦也の言葉が頭の中でぐるぐると回る。

 透子は3年前、冷泉院家が自分を訪ねてきた時のことを思い出していた――。

◇

◇

 石油ストーブの微かな匂いと、乾いた絵の具や油の香りが混ざり合うアトリエは静けさが満ちていた。

 3年前の冬。

 すきま風が吹き込む冷え切った作業場で、透子は手袋を外したかじかむ指先を息で温めながら、古い油彩画の変色と向き合っていた。

 すぐ隣では祖母の志乃がイーゼルに向かい、絵画修復の作業をしている。長年染み付いた確かな手つきだった。

「透子、絵画は生きとる。冬の乾いた時期は特に焦って筆を重ねてもいかんし、溶剤を強くしすぎてもいけない。描いた画家の息遣いを伺いながら、色と呼吸を合わせるんだよ」

「うん、おばあちゃん」

 いつもと変わらない静かな午後。

 透子のお気に入りの時間だ。

 透子は絵画修復師として、祖母を尊敬している。透子が同じ道に進んだのも、祖母のような職人になりたいからだった。

 いつか祖母と並び立つほどの一流の職人になる。それが透子の夢だ。

 透子の両親は、子供の頃に事故で他界してしまった。

 それ以来、志乃が女手一つで透子を育ててくれたのだ。

 志乃は透子にとって大好きなおばあちゃんであり、育ての親であり、尊敬する師匠でもある。世界で一番大事な人だった。

 ――だが。不意に志乃の筆の動く気配が途切れた。

 ガタン、と鈍い音がして、志乃の身体が作業台に崩れ落ちる。

 手から滑り落ちた道具が床に転がり、音を立てた。

「おばあちゃん……!?」

 透子が振り返ると、志乃は胸元を掻きむしるようにして荒い息を吐き出していた。顔色は見る間に土気色へと変わっていく。

「おばあちゃん! しっかりして!」

 ただごとではない。

 駆け寄って肩を抱き起こす。志乃の唇は紫に変色し、透子の名を呼ぼうと微かに震えていたが、声にはならなかった。

 全身の力が抜けて、ぐったりと腕の中に沈み込んでいく。

(そんな、どうして! さっきまで元気だったのに! ……いいえそれよりも、救急車!!)

 透子は震える指でスマートフォンを掴み、119番のボタンを押した。

「救急車をお願いします! 祖母が、息が……早く来てください!」

 凍てつく寒空の下でサイレンの音が鳴り響く。

 透子は何が起きたのか理解できないまま、搬送先の地方病院の冷たい廊下で、凍えた手を握り締めて祈るしかなかった。

◇

◇

「……急性の大動脈解離と、それに伴う心不全です」

 案内された薄暗い面談室で、初老の主治医はレントゲン写真を掲げながら告げた。

「応急処置で一命は取り留めましたが、依然として極めて危険な状態です。いつ容態が急変してもおかしくありません」

「手術を……手術をすれば、助かるんですよね?」

 透子は身を乗り出して、すがるように医師を見つめた。

 だが医師は痛ましそうに首を横に振った。

「当院の設備や体制では、これ以上の外科的処置は不可能です。高齢ということもあり、リスクが高すぎる。志乃さんを助ける道があるとすれば――東京の大学病院にある高度先端医療センターへ転院させて、最先端の補助循環装置を用いた特殊な術式を受けるしかありません」

「なら、すぐに転院させてください。東京へ……」

「蒔田さん、現実的な話をしなければなりません」

 医師は言葉を切り、手元のカルテに視線を落とした。

「悪天候の中での医療用ヘリ搬送、集中治療室の維持、高度な診療を含めた専門チームの手術。すべて合わせれば、数千万円単位の費用がかかります。これらの治療の中には、健康保険適用外のものも少なくない。民間の高度医療保障に入っていなければ、全額が自己負担になります」

「数千、万……」

「手配を急がなければ手遅れになりますが、病院側としても費用の目途が立たない段階で受け入れを確定させることはできません。……工面は可能ですか?」

 息が詰まった。

 工房の預金通帳に残っている額は、せいぜい数百万円。日々の仕入れと志乃のわずかな貯金を合わせたものがすべてだった。家を売り払っても到底間に合わない。

(どうすればいいの……)

 考えても答えが出るはずもない。透子はきつく拳を握りしめた。

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1:私はただの身代わり
 それは結婚3年目の冬の夜のこと。 東堂透子(とうどう・とうこ)は、夫である弦也(げんや)の書斎の前に立っていた。 彼女の手には、1枚の油彩画がある。 これは弦也の持ち物で、つい先ほど修復を終えたばかりのものだ。 弦也は小さな油彩画を祖父から譲り受け、大事にしていた。 けれど古いものは傷みやすい。 経年劣化でワニスは黄変して黒ずみ、画面には無数の亀裂が走って絵の具が剥がれ落ち、無残な姿になっていた。 透子は絵画修復師としての腕を振るい、絵画を見事に蘇らせた。 ボロボロの状態からここまで直すのは苦労したが、夫への誕生日プレゼントだと思えば、つらいことはなかった。(弦也さんは、この絵を思い出の品だと言っていた。きっと喜んでくれる) 弦也の笑顔を想像しながらドアをノックしようとした、その時。 部屋の中から弦也の声が聞こえた。 他の人の声も聞こえる。電話をしているのだろう。 けれど漏れ聞こえた相手の声に気づいて――透子は凍りついた。 聞こえてくる声は、高く甘ったるい猫なで声。 透子にとって敵とも言える、冷泉院(れいぜいいん)まどかの声だった。 スピーカーにしている電話の声は、書斎の扉越しでもはっきりと聞こえる。「ねえ弦也さん。いつまでお姉様と結婚しているの? そろそろ止め時じゃなぁい?」 わずかに間を開けて、弦也が答える声がした。「……そうだな。元より透子は冷泉院家が送り込んできた身代わりにすぎなかった。本来、俺に嫁ぐべきだったのは君だ」 透子は小箱を握りしめた。無意識のうちに力が入り、指の関節が白くなる。「あんなことがあった以上……3年の期限が来たら、俺は彼女と離婚するべきなのだろう」 透子は息をするのすら忘れて、夫の言葉に聞き入る。 扉の向こう、妹とは名ばかりの女と会話する夫は、こう続けた。「その時、君を娶(めと)る」 その宣言に、透子の全身が凍りついた。 様々な問題を乗り越えて、透子は弦也と心を通じ合わせられたと思っていたのに。 それなのに、離婚。別の女と結婚するのだという。(身代わり。3年の期限……そうだった。私は――) 弦也の言葉が頭の中でぐるぐると回る。 透子は3年前、冷泉院家が自分を訪ねてきた時のことを思い出していた――。◇◇ 石油ストーブの微かな匂いと、乾いた絵の具や油の香りが混ざり合うアト
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2
(おばあちゃん……) 面談室を出た透子は、重たい足取りで集中治療室の前へ向かった。 ガラスの向こう、幾本もの管に繋がれた志乃が、微かな機械音に合わせて浅く胸を上下させている。 自分を育ててくれた唯一の家族。その命に、途方もない金額の値札がつけられていた。「お金なんて、どこにもない……どうすればいいの、おばあちゃん……」 透子は壁に背を預け、冷え切った床に崩れ落ちそうになった。◇◇「――お困りのようですね」 静まり返った待合廊下に、低く落ち着いた声が響いた。 透子が顔を上げると、上質な濃紺のウールコートを纏った若い男が立っていた。 彫りの深い端正な顔立ちと、無駄のない佇まい。地方の古びた病院には似合わない、洗練された空気を纏っている。傍らには、書類鞄を持った初老の随行員が控えていた。「……どなたですか」 透子が警戒をにじませて立ち上がると、男はわずかに顎を引いて名乗った。「冷泉院湊人(れいぜいいん・みなと)。君の兄だ」「え……?」 男とは初対面だ。そして透子に兄弟はいない。 意味が分からず固まる透子の前に、男――湊人は一通の封筒を差し出した。「DNA鑑定書だ。信じられないだろうが、22年前、産院の過誤によって君と冷泉院家の娘が取り違えられた。君の本当の生家は、京都に本邸を置く冷泉院家なのだよ」 突拍子もない言葉に、透子の思考が追いつかない。「取り違え……? 私が、あなたの妹……?」「そうだ。詳しい経緯は後で話す。本題はそこではない」 湊人は感情を交えず、淡々と視線を集中治療室の扉へと向けた。「志乃さんの容態はすでに把握している。東京の聖マリアン高度医療センターに連絡を入れ、専用の医療搬送チームと、国内最高峰の心臓血管外科チームを待機させてある。君が首を縦に振れば、今夜中に彼女を東京へ移送できる」「本当、ですか……?」「費用もすべて冷泉院家が負担する。数千万だろうと億を超えようと、彼女が快復するまでの治療費は全額保証しよう」(そんな……本当に? おばあちゃんを助けてもらえるの?) あまりにも都合の良い救いの手に、透子の背筋を冷たいものが走った。 ただの慈善や肉親の情で、これだけの条件を提示するはずがない。 透子は湊人の瞳をまっすぐに見据えた。「……条件は何ですか。私に何をさせたいの」 湊人の口元が、わずかに
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3:冷たい檻
 車の窓の外を淡い桜色の花びらが幾片も流れていく。 都心の喧騒を抜けた車は、手入れの行き届いた高い生垣に囲まれた住宅街へと入っていった。 冷泉院家から手配された黒塗りのセダンは、大きな鉄製の門の前で静かに減速する。「奥様、東堂邸に到着いたしました」 運転手がバックミラー越しに声をかけてきた。 まだ20代前半の若い運転手は、どこか気の毒そうな色を瞳の奥に見せている。 無理もない。今日この日、冷泉院家から東堂家へ送り込まれる花嫁の事情は、使用人たちの間でも公然の秘密となっていた。「ありがとうございます。お世話になりました」 透子は膝の上で揃えていた手を離し、軽く頭を下げた。 手元にあるのは、地方の古いアトリエから持ってきた年季の入った革のボストンバッグと、必要最低限の衣類を詰めたスーツケースがひとつだけだ。 身代わりとして豪奢なドレスや宝飾品が用意されていた。 けれど透子は、それらを冷泉院の屋敷にすべて置いてきた。 身代わり契約結婚の対価は、祖母・志乃の治療費である。(おばあちゃんを助けてもらうのだから、私はそれ以上何も望まない) ドレスも宝石も透子は自分に似合わないと思った。 彼女は職人。作業着とエプロンが透子の仕事着である。 不要の旨を申し出たら、兄だという湊人は軽く眉を寄せていたが、結局何も言われなかった。 そうして車を降りると、ひんやりとした春の風が頬を撫でた。 見上げる東堂の本邸は落ち着いた色調の石造りで、周囲の広大な敷地とも相まって威圧感を放っている。 車寄せの階段を上ると、すでに玄関の扉が開かれる。 初老の男性が姿勢を正して立っていた。「透子様、ようこそおいでいただきました。執事の相良と申します。さあ、中へどうぞ」「蒔田……いいえ、透子と申します。本日からよろしくお願いいたします」 思わず名乗り慣れた旧姓を口にしそうになり、透子は言葉を直した。 相良は表情を変えず、わずかに目元を和らげて一礼した。「お荷物をお預かりいたします。旦那様がお待ちですので、広間へご案内申し上げます」「恐れ入ります」 相良の案内に従い、磨き上げられた大理石の廊下を進む。 天井は高く、足音が静かに反響した。 壁には名画や抽象画が並んでいるが、どれも調度品としての統一感を優先して選ばれた印象で、生活の温もり配慮は見当たらない。
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「東堂グループの内部は現在、極めて不安定な状況にある。親族間の派閥争いが激化しており、俺の失脚を狙う連中が虎視眈々と隙を窺っている。俺には冷泉院の後ろ盾が必要だ。冷泉院もまた、俺を支援するだけのメリットが有る。だが冷泉院家は、その火の粉が自分たちの手元で育てた娘に降りかかるのを嫌い、君を身代わりとして寄越した。……違わないな?」「はい。伺っております」 透子は視線を逸らさず、穏やかに肯定した。 感情を荒らげることも、哀れみを乞うこともない。 その淡々とした態度に弦也はわずかに眉を寄せたが、すぐに冷ややかな表情を取り戻した。「結構だ。話が早くて助かる。だからこそ、君に明確な境界線を引いておく」 弦也はテーブルの上に置かれた書類を一瞥した。「この結婚は、両家の利害関係が一致したことによる形式的な契約にすぎない。君に東堂家の妻としての特権を与えるつもりはないし、俺の私生活に干渉することも許さない。もちろん、俺も君の生活に口を出すつもりはない。寝室も普段は分ける」 ここで弦也は小さく息を吐いた。「だが、君の最大の価値は『冷泉院家の血を引く』ことだ。だからこの結婚で、最低でも1人の子供を作らなければならない。これはこの契約の義務だ。生まれた子は東堂で引き取る手筈になっている」「……承知いたしました」 透子はさすがに目を伏せた。 愛していないどころかろくに知らない男と夜を共にして、義務として子を産む。これほど残酷な話はない。 しかも生まれた子を育てることすら叶わない。透子の手には何も残らない。 口を閉ざした透子に、弦也は淡々と『契約』の内容を続けた。「契約の期間は3年だ。3年が経過し俺の足場が固まった段階で、両家の合意のもと正式に離婚する。慰謝料と当面の生活費は相応の額を用立てる。それまでの間、東堂の看板に泥を塗らないよう、静かに暮らしてもらいたい」 一方的に告げられたのは、新婚の甘やかさとは無縁の条件だった。 子を生む契約と相まって、普通の女性であれば涙を見せてもおかしくない状況だ。 だが、透子の心は静まり返っていた。 東京の高度医療センターへ移送され、無事に最先端の手術を受けられた祖母の顔が浮かぶ。 数千万円を超える莫大な医療費をすべて負担してもらい、祖母の命を繋ぎ止めることができたのだ。 それに比べれば3年間の冷遇など、支払うべ
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 そんなある日の午後、透子のスマートフォンが鳴った。 画面には「聖マリアン高度医療センター」の文字が表示されている。(おばあちゃんの病院だ!) 透子は胸元を押さえ、通話ボタンを押した。「もしもし、東堂です」『東堂透子さんですね。志乃さんの主治医の神谷です』 電話口から聞こえる穏やかな声に、透子は耳を澄ませた。(大丈夫。大丈夫だから、落ち着かないと) 少し前の知らせでは、志乃の容態は安定していると聞いていた。だから悪い知らせではないと思っても、それでも緊張に手がこわばる。「はい、神谷先生。祖母の容態はいかがでしょうか」『ご安心ください。補助循環装置を無事に離脱できまして、心機能の数値も安定してきています。今日から一般病棟の個室へ移室となりました。まだ面会制限はありますが、短時間なら意識の清明な状態でお話しできる日も近いはずです』「……本当ですか。ありがとうございます、本当に……」 電話口で頭を下げながら、透子は思わず安堵のため息を漏らした。 胸の奥につかえていた重い塊が、すっと溶けていくような感覚がある。『冷泉院家からの手配と、東堂グループの手厚い支援のおかげで、国内最高峰の治療環境を維持できています。志乃さんも、透子さんのことを案じておられましたよ。自分は大丈夫だから、しっかりやりなさいと』「祖母らしいです。先生、引き続きよろしくお願いいたします」 通話を終えると、透子は窓の外に広がる青空を見上げた。(良かった……。おばあちゃんが助かったのなら、私もこの契約結婚の責任をしっかり果たさないと) 庭の木々には青々とした若葉が芽吹き始めている。 祖母は生きている。確実に回復へと向かっている。 それだけで、自分の選択は正しかったのだと確信できた。 たとえそれが、過酷な内容の契約であっても。「私も頑張るからね、おばあちゃん」 どんなに冷ややかな契約であっても、自分にはここで果たすべき務めがある。 今更逃げ出すわけにはいかない。 3年の年月と子を産む契約を果たして、この檻のような屋敷を出なければならない。(でも……) ふと、透子は思う。(おばあちゃんには、契約のことは言えないな……) 志乃は自分のために孫が苦しむと知れば、後悔するだろう。ましてやろくに知りもしない男の子を産むなど。「この話は、私が1人で墓場まで持って
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6:小さな一歩
 深夜の厨房は広大で、ステンレスの調理台が冷たい光を反射していた。 透子が照明をつけると、パントリーの奥から宿直の見回り係である初老の男性が顔を出した。「おや、奥様……? こんな夜更けにどうされましたか。お腹でも空かれましたか? 何か用意させましょうか」「こんばんは。起こしてしまってごめんなさい。いいえ、少し温かいものが欲しくて。自分で作りますので、厨房をお借りしてもよろしいですか?」「え、奥様がご自身で? 私どもが何かお持ちしますよ」「いえ、本当に簡単なものですから、お気遣いなく。道具の場所だけ教えていただければ十分です」 透子が柔らかく微笑んで頭を下げると、老人は恐縮しながらも冷蔵庫と出汁用の乾物が保管されている棚の場所を教えてくれた。 これが昼間であれば、透子の言葉は通らなかっただろう。この屋敷にはシェフがいて、料理を担っている。 深夜の今はシェフが不在で、相手は家事に不慣れな宿直の男性。 結果として、透子は厨房に立つことを許された。 宿直の男性が心配そうに言う。「何かございましたら、控え室におりますのでお呼びください」「ありがとうございます。すぐ片付けますね」 彼が下がった後、透子はエプロンを身につけて袖をまくり上げた。 棚を開けると最高級の日高昆布と、本かつお節が木箱に収められていた。(わ、すごい。さすが東堂家ね。これってどれも高級食材。緊張しちゃうわ) 料亭並みの食材が揃っていることに感心しながら、透子は手際よく準備を進める。 手早く、けれど丁寧に。昆布とかつお節で出汁を取る。 冷やご飯を一度水で洗って表面のぬめりを落としてから、出汁の半分を入れた別の小鍋へ移した。 弱火でコトコトと煮込み、米の粒がふっくらと出汁を吸っていくのを見守る。 仕上げに新鮮な卵をひとつボウルに割り入れて、手早く溶いた。 煮立った粥の表面に細く円を描くように卵液を流し込む。 火を止め、蓋をして数十秒。余熱でふんわりと火を通した。 残りの出汁には、ほんの数滴の薄口醤油と塩ひとつまみで味を調え、香りの良いお吸い物に仕立てた。 彩りに、冷蔵庫にあった三つ葉を小さく刻んで添える。「これでよし。うん、我ながら上出来ね」 出来上がった料理を、木製のお盆の上に並べた。 湯気を立てる卵粥と、澄んだ吸い物、白湯を満たした湯呑み。 いずれもた
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7
「…………」 弦也の動きが止まった。 口の中に広がったのは、素朴な出汁の旨みだった。 米の粒は芯まで柔らかく煮込まれており、ふんわりとした卵が全体を優しく包み込んでいる。 塩気は控えめだが、出汁の豊かな風味が舌の上にしっかりと残り、物足りなさを感じさせない。 専属シェフの作る華やかで濃厚な料理とは、根本から違っていた。 胃に染み渡るような、ただ体をいたわるためだけに作られた味だった。(優しい味だ。こんな味は食べたことがない……) 一口、また一口と、弦也は無言でスプーンを動かした。 痛みのために固く強張っていた肩の力が、湯気を吸い込むごとに少しずつ抜けていく。 続いて吸い物を口に含むと、三つ葉の清々しい香りと上品な出汁の温もりが、張り詰めていた神経をほどいていった。 透子はその様子を少し離れた場所から、静かに見守っていた。 弦也の青白かった頬に少しだけ血色が戻っていく。 5分もしないうちに、小鍋の粥も吸い物も綺麗に空になっていた。 弦也は器を置き、深く息を吐き出した。 額の脂汗は引き、荒かった呼吸はすっかり落ち着いている。「……悪くなかった。だが」 弦也は腕を組み、透子を見上げた。 彼の瞳には先ほどまでの冷たい敵意の代わりに、強い困惑が浮かんでいた。「やはり余計なことだ。料理はシェフに作らせればいい。今後は手出しをしないでくれ」「……そうですね。余計でした」 透子は頭を下げると、食器を載せたお盆に手を伸ばした。 そのまま部屋を出ようとする彼女に、弦也は思わず声をかけた。「待て。君はどうしてこんな手仕事ができる?」 声に出してから、弦也は内心で舌打ちをした。透子と必要以上に関わりを持つつもりはなかったのに。 胃に収めた料理が温かく、つい名残り惜しくなってしまったのだ。 自分自身の感情の動きに戸惑いながら、弦也は努めて冷たい表情を保つ。 透子は振り返り、穏やかに答えた。「地方の古い工房で、祖母と2人で暮らしていました。祖母は朝から晩まで修復の仕事をしていましたので、食事の支度や身の回りのことは、物心ついた頃から私の役目でした」「……修復?」「はい。祖母は古い絵画を修復する職人でした。私もその背中を見て育ち、技術を学んできました」「絵画修復師か……」 弦也は呟き、部屋の隅に視線を向けた。 そこには埃をかぶっ
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8:緑に埋もれた記憶
「これは……?」 透子は足元の茂みの中に、周囲の雑草とは違う色を見つけた。 しゃがみ込み、伸び放題の草を両手で優しくかき分ける。 そこには薄紫色の小さな花が、身を寄せ合うようにしてひっそりと咲いていた。 都忘れの花だ。 本来ならもっと陽の当たる場所で咲くはずの花が、雑草に日差しをさえぎられ、それでも懸命に花弁を開いている。「こんなところで咲いていたのね」 透子は指先でそっと花弁に触れた。 植物は正直だ。環境が悪ければ枯れてしまう。だが、この花は生きようとしていた。 このまま放っておけば、いずれは周囲の雑草に飲み込まれてしまうだろう。 ――余計なことはするな。 昨夜言われた弦也の言葉が、脳裏に蘇る。(これもきっと、余計なことになってしまうのでしょうね。でも懸命に生きている花を見捨てるのは、私にはできない) 透子は立ち上がり、屋敷へと引き返した。◇◇ あてがわれた自室に戻ると、クローゼットの奥にしまい込んでいた古いボストンバッグを引っ張り出した。 冷泉院家が用意した高級な衣服の横で、そのバッグはひどく場違いに見える。 ファスナーを開けると、微かに油と古い布の匂いがした。 中から取り出したのは、絵画修復の工房で長年愛用していた厚手のデニム地の作業着と、腰に巻く丈夫なキャンバス地のエプロンだった。(ふふっ。このエプロンも何だか久しぶりね) 膝のあたりは少し擦り切れ、エプロンのポケットには様々な色の油絵の具の小さな染みがついている。 これを見ると、職人としての日々が戻ってくるような気がした。 透子は迷わず高級なワンピースを脱ぐと、作業着に袖を通した。 髪を後ろで一つにまとめ、手ぬぐいを首に巻く。(さて。このまま玄関から堂々と出れば、また家政婦さんに見つかって止められてしまうかしら) 透子は廊下を慎重に進む。普段使われていない勝手口の鍵を開けて、こっそりと庭へ出た。 透子は改めて庭を進んでいく。高い生垣に囲まれているため外からの視線はないが、その分、広さの割に閉塞感がある。「もったいないな……」 ぽつりと呟いた。土は悪くない。陽当たりもいい。少し手を入れれば、見違えるような庭園になるはずだ。 祖母の志乃と暮らした地方の工房には、小さな裏庭があった。祖母は仕事の合間によく庭に出て、土をいじっていた。 修復の仕事は神経
last updateÚltima actualización : 2026-09-27
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 振り返ると、ミキという名の若いメイドが目を見開いて立っていた。手には洗濯物を入れたカゴを持っている。「こんにちは。少し庭の手入れをね」 透子が額の汗を手の甲で拭いながら答えると、ミキはカゴを置いて駆け寄ってきた。「そんな、泥だらけになって……! いけません、お怪我でもされたらどうするんですか。庭の手入れなら、業者を手配いたしますから」「いいのよ。私がやりたくてやっていることだから。心配しないで」「でも、相良さんや家政婦長に見つかったら、私たちが叱られます」 ミキは本当に困ったような顔をしている。  透子は手を止めて、穏やかな声で言った。「叱られるようなら、私が勝手にやったと言ってちょうだい。それに、業者を入れると手配や細々とした対応をしないといけないでしょう? 弦也さんは今、お仕事で大変そうだから、家のことで余計な負担をかけたくないの」 弦也自らが手配はしないにしても、金額の決済程度は必要になるだろう。 その言葉にミキは少し口ごもった。「それは……そうかもしれませんが。でも、奥様がご自身でなさるようなことでは」「私はもともと、こういう作業が好きなの。部屋でじっとしている方が体に悪いくらい。お願い、見逃してくれないかしら」 透子が微笑むと、ミキは困惑しながらもそれ以上は強く止めなかった。「……お怪我だけはなさらないでくださいね。何か必要な道具があれば、裏の倉庫に新しいものがありますから、お申し付けください」「ありがとう」 ミキが去った後、透子は再び作業に戻った。 手元では都忘れの可憐な花が、一生懸命に咲いていた。 ◇ ◇  それから数日間、透子は毎日庭に出た。 朝食を済ませると作業着に着替えて、夕方まで庭の手入れに没頭する。  初めは遠巻きに見ていた使用人たちも、透子の邪魔をすることはなかった。 時折、ミキが冷たい麦茶を持ってきてくれたり、使用人の若い青年が重い枝を運ぶのを手伝ってくれたりするようになった。「奥様、そこの枝は俺がやりますよ。危ないですから」「ありがとう。じゃあ、そっちの低い方を切ってくれる?」 そんな会話が、少しずつ交わされるようになっていた。  この屋敷に来てから感じていた見えない壁のようなものが、少しだけ薄らいだような気がした。 1週間が過ぎる頃には、庭は見違えるようになっていた。 伸び
last updateÚltima actualización : 2026-09-28
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10
 ふと、活けた都忘れの花に視線を落とす。雑草に陽の光をさえぎられながらも、懸命に咲いていた花を。(机の隅に、邪魔にならないように置いておきましょう。この花が部屋をそっと彩ってくれるように) ドアをノックし、返事がないことを確認してから静かに中へ入る。 書類が山積みになった重々しいデスクの端、邪魔にならないスペースに、都忘れとヤマボウシを活けた小さなグラスを置いた。 無機質な空間に、そこだけ柔らかな色が灯ったように見えた。「……よし」 透子が満足して振り返ると、入り口に執事の相良が立っている。 相良は少し驚いたような顔で、デスクの上の花と作業着姿のままの透子を交互に見た。「透子様……それは」「ごめんなさい、相良さん。勝手に入ってしまって。お掃除の邪魔でしたか?」 透子が慌てて謝ると、相良はゆっくりと首を横に振った。「いえ、そうではございません。ただ……少し、驚きまして」 相良は部屋の中まで進み入り、デスクの上の花を見つめた。 その眼差しは、いつも見せる隙のない執事のものではない。どこか懐かしむような、柔らかなものだった。「……まるで、先代のご当主夫婦が健在だった頃のようです」「先代の……弦也さんのお祖父様とお祖母様ですか?」「はい。大旦那様は、庭と緑を愛する方でございました。休みの日は自ら庭に出て、土をいじっておられました。奥様も花がお好きで、こうして屋敷のあちこちに、庭で咲いた花を飾っておられたのです」 相良は目を細めて、遠い過去を思い起こすように語った。「弦也様も幼い頃はよく大旦那様の後ろをついて歩き、泥だらけになって庭で遊んでおいででした。あの頃の弦也様は、花が咲くたびに大喜びされて……」 相良はそこで言葉を切り、小さくため息をついた。「大旦那様がお亡くなりになり、後継者争いが激しくなるに
last updateÚltima actualización : 2026-09-29
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