All Chapters of 遅すぎた懺悔を、私は待たない: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

母は病床に静かに横たわっていて、まるで眠っているようだ。「お母さんは……どうだ?」声が聞こえ、私は振り返った。湊が、少し息を切らしながら後ろに立っている。その隣には知夏もいる。二人の手は、指を絡めるようにしっかりとつながれている。私は二人の握り合った手に目を落とし、ただ黙って見つめた。そこでようやく、湊は知夏の手を離した。整った眉を、わずかに不機嫌そうに寄せた。「彩良、そんな目で見るな。知夏はお母さんに会いたくて急いできたんだ。その途中で足をひねったから、支えてただけだ」そう言うと、湊はその場にしゃがみ込み、知夏の靴と靴下を脱がせ、足首の具合を見た。その手つきは、あまりにも優しかった。「腫れてなくてよかった。でも油断はできないな。あとで医者にちゃんと診てもらおう。きっと何か薬を使ったほうがいい」目の前の光景を見つめながら、私は指先を手のひらに食い込ませた。去年、私は浴室で滑って転び、すねの骨を折った。3か月も杖をついていたのに、湊は一度も「痛くないか」と聞いてくれなかった。私は、自分に言い聞かせていた。彼はただ、人を気遣うのが苦手なだけだと。けれど今になって分かった。人を気遣えないんじゃない。私を気遣う気がないだけだった。知夏は湊の肩に寄りかかり、かすかな声で言った。「私は大丈夫よ。お義母さんに、最後に会いに来たんじゃなかったの?」「ああ。知夏が言ってくれなかったら、危うく忘れるところだった」湊は焦る様子もなく知夏に靴と靴下を履かせ終えると、ゆっくり立ち上がった。それから私を見た。その声には、さっきまでの温もりなどもうない。「お母さんは?俺に会いたいって言ってたんじゃないのか?」母は病床に横たわっている。湊から、わずかな距離しかないのに、見えていないかのように口にした。そこに看護師が入ってきて、母の顔まで白い布をかぶせた。湊の眉がわずかに寄り、声も少しだけ和らいだ。「俺だって、できるだけ急いで来た」知夏が一歩前へ出た。「奥さん、湊さんを責めないでください。彼は……」「じゃあ、誰を責めればいい?あなたなの?」私に問い詰められ、知夏はうつむいたまま、もごもごと口を動かすだけで、何も言えなかった。湊は知夏を背中にかばうようにして、眉間にしわを寄せた。
Read more

第2話

母が病室から運び出されたとき、湊の横を通り過ぎた瞬間、突然風が吹いた。白い布がふわりとめくれ、知夏の目に母の顔が入った。「きゃっ」悲鳴を上げた知夏は、そのまま湊の胸へ身を縮めた。「湊さん、死んだ人って怖い……」湊は知夏の頭をそっと撫で、なだめるように言った。「大丈夫、俺がいるから」ぼんやりして、私は5年前に戻ったような気がした。家賃3万円の、エレベーターもないボロアパの最上階に住んでいた。飛び出してきたネズミに驚き、私は湊の胸へ逃げ込んだ。あのときも、湊はこうして私を抱きしめ、頭を優しく撫でながら言った。「大丈夫、俺がいるから」5年後、同じ仕草と同じ言葉。でも、その腕の中にいるのは、もう私じゃない。目の奥が、じわりと熱くなった。看護師が一枚の紙を私に差し出した。そこには、死亡診断書をもらうところから、火葬、納骨までの手続きが書かれている。「ご家族はあなただけですか?」私は湊を見て、思わず「夫もいます」と言いかけた。でも、彼と知夏が抱き合うように寄り添っている姿を見た瞬間、喉の奥からこみ上げた苦いものに、言葉を飲み込んだ。看護師は私を見て、ため息をついた。「これだけのことをお一人でやるのは、なかなか大変ですよ」少し間を置いて、そばにいる湊と知夏へ目を向けた。「このカップルはお友達でしょう?少し手伝ってもらったらどうですか?」私は訂正する気にもなれなかった。湊も何か言いかけて口を開き、そして閉じた。それが、黙って認めたということだ。看護師が母を乗せて病室を出ていくと、残されたのは私たち三人だけになった。静まり返った病室には、窓の外から吹く風の音まで聞こえる。「痛っ」知夏が小さく声を上げ、その場にしゃがみ込んだ。足首を押さえた目には、涙が滲んでいる。「また痛むのか?」湊もすぐにしゃがみ込み、心配そうに知夏を見た。「俺が医者に連れていく」知夏は首を横に振ったが、涙は今にもこぼれそうに揺れている。「我慢すれば平気だから。奥さんと一緒に、お義母さんのことを済ませてあげて」湊は顔を上げ、私を見た。少しの間を置き、口を開いた。「知夏の足首の捻挫は放っておけない。俺が付き添わないと心配なんだ。お母さんのことは、秘書に手伝わせる」知夏が足首
Read more

第3話

スマホがまた震えた。湊からメッセージが届いた。【あとでちゃんと話す】夜、家に帰ると、玄関の靴箱に見覚えのないレディーススニーカーが二足増えていた。私のスリッパは靴箱から押し出され、片方がもう片方に重なっている。知夏はソファに体を丸め、オレ様社長ものの恋愛ドラマを見ていて、湊は彼女の足首を揉んでいる。知夏がイチゴを一粒つまみ、湊の口元へ運んだ。「湊さん、すごく上手ね。もしかして習ったことがあるの?」――そう。湊は習ったことがある。3年前、大きな契約をまとめるため、私はハイヒールを履いたまま取引先と山を登った。契約は取れた。湊の会社もどうにか息を吹き返した。その代わり、私の足首は半月も腫れた。湊は目を真っ赤にして、わざわざ足を揉む方法を習ってくれた。毎晩、眠る前になると、私の足を自分の下腹に乗せ、足首を揉んで腫れをひかせ、硬くなった筋肉をほぐしてくれた。あの頃、私は冗談めかして言ったものだ。もし起業に失敗しても、湊ならマッサージ師になれるね、と。すると湊は頑固なほど真剣な顔で言った。「この揉み方は彩良のためだけに覚えたんだ。彩良にしかしてやらない」けれど今は目の前で、湊が夢中になって誰かの足を揉んでいる。彼の下腹に乗っている足は、もう私のものじゃない。ベランダから風がひと筋吹き込んできた。強い風ではない。服の裾すら揺らさないのに、妙に冷たかった。「風が吹いてきた。ブランケットを持ってくるから掛けておきな。風邪ひくぞ」湊が立ち上がり、私に気づいた瞬間、ぴたりと動きを止めた。けれどすぐに平静を取り戻し、顔を曇らせた。「いつ入ってきた?どうして歩く音がまったくしないんだ?」私は二人のすぐそばに、もう5分も立っていた。湊はこんな小さな風には気づくのに、そこにいる私には気づかなかった。私はまっすぐ書斎へ向かい、湊もあとを追うように入ってきた。その身から、クチナシの香りが漂ってきた。知夏の香水の匂いだ。私が尋ねるより先に、湊が口を開いた。「ホテルに泊まるより、やっぱり自分の家のほうが気楽だろ。だから、あの二人には何日かここに泊まってもらうことにした」「自分の家って?」湊は見下ろすように私を見て、まるで私が理不尽に文句をつけているかのような顔をした。「彩良、そうやって言
Read more

第4話

私は玄関へ向かって歩き出した。そのとき、床に落ちていた白いドレスが目に入り、足がその場に縫いつけられたように止まった。胸元のクローバーの刺繍は母が自分の手で縫ったものだ。私が見間違えるはずがない。結婚したとき、母が一針一針、心を込めて縫ってくれた挙式に着る衣装だった。それが今、床に投げ捨てられ、真紀子の吐しゃ物まみれになっている。私は歩み寄り、ドレスを拾い上げ、付着したものを振り落とした。そして湊を睨みつけ、震える声で言った。「これ、どういうこと?」湊は私を見つめ、困惑したような顔をした。「私です」知夏は体を小さく縮め、いかにも無実だと言わんばかりの顔をした。「母が床に吐いちゃったら、あとで掃除するのが大変だと思って、そこに敷くものを探したんです。ちょうど古い服があったから……こんなに古かったから、もう誰も使わないものだと思って……弁償できますから」「弁償するって、どうやって?」母はもういない。この白いドレスだけが、母が私に残してくれた最後の形見だった。――知夏は弁償すると言ったが、どうするつもりなのだろう。私は知夏に問いかけながら、自分自身にも問いかけている。知夏は振り返ってカバンを探り、戻ってくると、1万円札を何枚か私の手に押しつけ、いかにも傷ついた顔をした。「そんなに古くてボロボロなんだから、ホームレスにあげたって嫌がるくらいですよ。これだけあれば新しいのが何着も買えるでしょう?これでいいですよね?」頭に血が一気に上った。私はお札を知夏の顔へ叩き返した。「それは母が一針一針、心を込めて作ったものなの!嫌がられるようなボロじゃない!」知夏は頬を押さえ、涙をぽろぽろこぼし始めた。「もういい」湊は顔を強張らせた。「彩良、たかが古い服だろ。知夏はちゃんと弁償したんだ。それなのに、いつまでしつこく言い続けるつもりだ?」「言うよ!」私は湊を見つめ、一語ずつ言った。「聞いたでしょ。それは母が私に残してくれた形見なの。お金なんて買えられない。古い服なんかじゃない」湊は鼻で笑うように言った。「人はもう死んだんだ。形見だのなんだの――」パシン。湊のその先の言葉は、私の平手打ちで途切れた。手を出したのは私なのに、全身が震えている。真紀子が歯をむき出しにして、私
Read more

第5話

一方、その頃。T市では、湊がスマホに届いたメッセージを見つめたまま、呆然としている。ほんの少しでも駆けつけて謝れば、それで片がつくはずだったのに、彩良はそれを拒んだ。それどころか、離婚まで持ち出して意地を張っている。腹立たしさもある。それ以上に、心配だ。真紀子は、一筋縄ではいかない。医者が診ても大した怪我ではないと言っているのに、彩良に弁償させろ、刑務所に入れろと騒ぎ立てている。弁償くらいなら、どうにでもなる。真紀子が法外な額をふっかけてきたって、湊は怖くない。ただ、真紀子が意地になって、彩良を本当に刑務所へ入れようとしたら困る。それだけは絶対にだめだ。彩良の人生に、そんな汚点を残させるわけにはいかない。知夏が病室から出てきて、湊の服の裾をそっと引っ張った。「湊さん、母が中に来てって」次の瞬間、湊は知夏のあとについて病室へ入り、愛想笑いを浮かべて声をかけた。「真紀子さん」真紀子は、いつもの親しげな様子もなく、冷たい顔で言った。「あの子、謝りに来ないの?」湊は眉をひそめた。まさか、彩良が来ようとしないなんて、そのまま言えるはずもない。「そんなわけないでしょう。たぶん忙しくて、まだメッセージを見ていないと思います。あとで俺から電話します」「今すぐかけな」有無を言わせぬ真紀子の勢いに、湊は心の中でむっとした。それでも顔には出さなかった。ここで真紀子を怒らせても、事態が悪くなるだけだ。今の最善策は、彩良にここへ来てもらい、頭を下げて謝らせ、この場をやり過ごすこと。そのあとで、この疫病神をさっさと帰す。そうすれば、自分と彩良はまた以前のように、穏やかな日々に戻れる。「分かりました。すぐかけます」湊はもう一度病室を出た。何十回も電話をかけ、メッセージも何通も送った。けれど彩良は、一度も電話に出ず、メッセージにも返事をしなかった。待ちきれなくなった真紀子は、また知夏に湊を呼びに行かせた。真紀子は眉をひそめて尋ねた。「あの子、何て言ってたの?」湊はうつむき、スマホに並んだ不在着信と未読メッセージを見た。「たぶん、スマホを手元に置いていないと思います」真紀子は鼻を鳴らした。「スマホが手元にないんじゃない。泣きを見るまで分からないだけだと思うけどね」真
Read more

第6話

「真紀子さんがわざと転んで、彩良を陥れたって言っているわけじゃなくて、ただ……」湊はそこで言葉を切り、また真紀子を怒らせないよう、できるだけ穏やかな口調に変えた。「ただ、お年も召していますし、足元がおぼつかなかったとか、立っていてバランスを崩したとか、何かにつまずいて倒れた可能性もあるんじゃないかと」「そんなわけないでしょ!」真紀子は声を張り上げ、きっぱりと言い切った。「年寄りだけど、足腰はしっかりしてる。何かにつまずいたんでもない。あの子に押されたんだよ」真紀子は湊を睨みつけた。「なんでそんなに赤の他人の肩ばっかり持つの?」――彩良は赤の他人なんかじゃない。自分の戸籍上の妻だ。妻の味方をするのは当然だ。湊が黙っていると、真紀子はさらにまくし立てた。「あの日、病院で気づいたんだよ。湊くん、あの女と妙に親しいじゃないの?うちの知夏と結婚したんだから、外の女とこそこそ仲良くしてるようなことがあったら、この命を懸けてでもただじゃ済まさないからね」湊を叱りつけたあと、今度は知夏にまで怒鳴った。「自分の男さえまともに見張れないなんて、あんたに何の役が立つっていうの?」もう聞いていられなくなって、湊は口を開いた。「真紀子さん、俺は……」知夏が素早く湊の前に出て、言葉を遮った。「お母さん、湊さんに他の女なんていないよ」知夏は湊の腕に自分の腕を絡ませ、顔を上げて湊を見つめた。その目には、助けを求めるような色が浮かんでいる。知夏には高校生の弟がいる。成績が優れていて名門大学を志望しているが、家には学費を出す余裕がない。だから真紀子が知夏にお金持ちの嫁になってほしくて、その夫に弟の学費を出してもらおうと考えていたのだ。真紀子が「頭が痛い」と電話をかけてきたのも、実は知夏を呼び戻して、お見合いに行かせるための嘘だった。知夏は湊に、夫のふりをして助けてほしいと頼んだ。知夏が立派な社長と結婚したと真紀子が思えば、もう無理やりお見合いに行かせようとはしないはずだった。湊は一時の同情にほだされ、その頼みを引き受けた。そして今も、知夏の懇願するような目を見て、湊はまた心を動かされてしまった。「お母さん、もう夜の11時よ。弁護士だってとっくに休んでる。今から連絡したって、明日まで待つしかないでしょ
Read more

第7話

湊が車のドアを開けたところで、知夏が先に助手席へ入り込んだ。湊は知夏を降ろそうとしたが、ふと思い直した。――ちょうどいい。知夏を連れて帰って、彩良に全部きちんと説明しよう。車を走らせるあいだ、湊はただ黙々と運転している。聞こえるのは、二人の呼吸だけ。知夏があれこれ話題を変えても、湊はまったく興味を示さない。適当に相槌を打つことすら面倒だ。扉を開けて家の中へ入った。リビングは、湊が出ていったときとほとんど変わっていない。真紀子が吐いたものも、そのまま残っている。ただ、あの白いドレスだけがなくなっていた。白いドレスのことを思い出した瞬間、湊の胸がずきりと痛んだ。彩良が自分と結婚したとき、湊は一文無しだった。ウェディングドレスを買うどころか、借りるお金さえなかった。湊はあちこちからお金を借りて、ようやくドレスを借りる費用を工面した。けれど彩良は、そのお金を全部返させてしまった。そして、あの白いドレスを取り出して、うれしそうに言った。「ほら、これ。母が私のために、一針一針縫ってくれたよ」あのとき彩良は、ウェディングドレスを借りるお金すら用意できなかった湊を責めなかった。それどころか、こう言って慰めてくれた。「借りるドレスは、誰かが一度着たものだけど、このドレスは母が一針一針、手で縫ってくれたの。一針一針に、私たちへの祝福が込められてる。それに、これだけは世界に一つだけ。今まで誰も着てないし、これからも誰も着ない」彩良は幸せいっぱいの顔で、胸元に縫い込まれたクローバーを指差した。「湊、私、挙式のときはこのドレスを着るよ。私たち、誰よりも幸せになろうね。このクローバーが幸運を運んでくれますように」湊は覚えている。あの日、自分はぽろぽろと涙をこぼしながら言った。「これから俺、いっぱい稼いで、彩良に何不自由ない暮らしをさせる。彩良を幸せにする」今では、何億円もする豪邸に住み、彩良にも何不自由ない暮らしをさせている。それなのに、彩良は幸せだったのだろうか。今夜までなら、湊の答えは決まっていた。もちろん、幸せだと。けれど今は、分からない。あの白いドレスと一緒に、彩良までいなくなってしまったから。知夏は真紀子の吐しゃ物を片づけ終えると、湊に水を差し出した。「湊さ
Read more

第8話

【離婚協議書】【離婚届】そういう内容が、真っ先に湊の目に飛び込んできた。全身が凍りついた。彩良はただ意地を張って、離婚すると言っているだけだと思っていた。まさか、本当に離婚の書類まで用意していたなんて。しばらくして、湊は書類をめくった。署名が必要なところには、どこも彩良の名前が記されている。あとは自分が名前を書くだけで、彩良との結婚は完全に終わる。そう考えただけで、胸の奥を誰かに力いっぱい引き裂かれたようだ。息ができないほど、痛い。でも、離婚するなんて、湊は絶対に認めない。慌てて彩良に連絡しようとしたが、手からスマホが滑り落ちた。パリン。スマホが床に落ち、湊は拾おうとしたところで椅子の脚に足を取られた。よろめいた拍子に、そのままスマホを踏みつけた。画面が一瞬で粉々に砕けた。「そんな!」湊は絶叫した。そして砕けたスマホを掴み、そのまま家を飛び出した。けれど、今は午前2時。スマホ修理の店はどこも閉まっている。それでも気が急いて、とても待ってなんていられない。新しいスマホを買おうと、ようやく営業している店を一軒見つけた。ところが、支払いができない。現金は持っていない。画面の割れたスマホも使えず、決済できない。湊は拳を握りしめ、展示台を殴った。――なぜだ。どうして俺がこんな目に遭うんだ?あまりの力で叩いたせいで、展示台のガラスまで砕け散った。弁償すると言ったものの、払えるお金がない。店主が警察を呼び、湊は連れていかれた。半日が過ぎ、ようやく事情が片づき、湊は新しいスマホを手に入れた。ところが、電源を入れた瞬間、請求書が届いていることに気づいた。彩良を訴える裁判の費用だ。知夏と真紀子は彩良を訴えるだけでなく、その訴訟費用まで湊に払わせるつもりらしい。湊の怒りは一気に燃え上がり、病院へ駆け込み、真紀子に詰め寄った。「どうして、そこまで彩良を追い詰めるんですか?」真紀子は勢いよく体を起こし、あざけるように言った。「あの女とは何もないって言ってたよねえ。何もないなら、なんでそんなにムキになるの?」――自分の妻が訴えられているんだ。怒るのが当たり前じゃないか。湊は本当の関係を明かそうとした。けれど、喉元まで出かかった言葉を、結局飲み込んだ。
Read more

第9話

それを聞いた知夏は、慌てて湊のところへ駆け寄り、腕をつかんだ。「彩良さん、湊さんと離婚するの?」湊は、知夏が自分の話を嘘だと疑っているのだと思い、離婚届を知夏に叩きつけた。「自分で見ろ」知夏は離婚届をじっと見つめた。しばらくして、その目に光が宿った。「湊さん、これって、すごくいいことじゃない?湊さんが署名さえすれば、私たち結婚できる」次の瞬間、知夏は真紀子の前へ駆け寄り、嬉しそうに言った。「お母さん、私、嘘ついてなかったでしょう?湊さんはもうすぐ離婚するの。離婚したら私と結婚してくれるから、そしたら湊さんは私の夫よ。私がお金持ちの社長の妻になれば、弟の学費も、家や車を買うことだって、もう何も心配しなくていいの」知夏の狂ったような言葉を、湊は一言も聞いていられなかった。怒鳴るように遮った。「何を馬鹿なことを言ってる!俺が彩良と離婚するなんて、ありえない!いい加減、寝言を言うのはやめろ」知夏の顔色が一変した。「どうして離婚してくれないの?どうして?」湊は、知夏は話が通じないと思ったが、それでも答えた。「俺は彩良を愛してるからだ。自分のことより、彩良を大切に思ってる」知夏の瞳に、失望の色があふれた。「彩良さんを愛してるなら、私のことだって愛せるでしょう?私のどこが彼女に劣るの?私のほうが若いし、きれいだし、スタイルだっていい。それなのに、どうして私を愛せないの?」湊は知夏を冷たい目で見つめた。まるで突然、別人になったように感じた。以前はおとなしくて聞き分けがよく、何かを奪い合うこともなく、人の気持ちを汲める女だった。それが今は、道理の通じない駄々っ子のようだ。何より、彩良と比べる資格なんてない。湊はもう、この母娘を相手にしている気にはなれない。彩良を探しに行かなければならない。謝って、許してもらわなければ。「待って」湊が病室を出ようとした瞬間、知夏が鋭い声で呼び止めた。湊はゆっくり振り返り、ただ冷たい目で知夏を見つめた。まだ何を企んでいるのかと、警戒している。知夏は離婚届を掲げた。「この離婚届、湊さんは署名するしかないよ」湊は鼻で笑った。知夏の目に、剣呑な光が宿っている。「彩良さんを愛してるんでしょう?一番大切にしてるんでしょう?彩良さんに、少し
Read more

第10話

そう言って、湊は病室を出た。彩良のスマホには何度かけてもつながらず、メッセージを送っても返事がない。湊は友人や知人に頼り、あちこち聞き回りながら、半月かけてようやく北のB市の海辺で彩良を見つけた。彩良は海辺に座り、潮風に吹かれている。背後から声がした。「彩良」……私は声をかけられて振り返った。目の前にいる人物が誰なのか分かった瞬間、驚きを隠せなかった。――どうして湊が、ここを見つけられたの?湊は私の隣に腰を下ろし、何事もなかったかのような顔で言った。「一緒に帰ろう」私は少し横へずれ、湊との間にわずかな距離を空けた。「湊と離婚する。書類は机の上に置いてあるって、もう伝えたでしょ」海風が波を巻き上げ、岸へと吹きつける。「俺たち、うまくやってただろ。どうして離婚なんだ?」私は呆然と湊を見た。しばらくして、湊は声を和らげた。「知夏と母親のことで、俺たちの間が少しこじれたのは分かってる。でも夫婦なら、喧嘩したり、ぶつかったりすることくらいあるだろ。ちゃんと話せばいい。どうしても気が済まないなら、俺が謝る。そこまでして離婚する必要があるのか?」私は呆れて言葉も出なかった。未だに湊は、自分が一言謝りさえすれば私たちは元通りになれると思っている。私が黙っていると、湊はまた説明を続けた。あの母娘をT市へ連れてきたのも、知夏を放っておけず、助けてやりたかっただけだという。それに、もう知夏は会社を辞めさせた。これから先、二度と知夏と顔を合わせることもない、と。湊は私に許してくれと言った。けれど、私はもう許せない。すぐそばには、母が私のために縫ってくれた白いドレスが置いてある。真紀子の吐しゃ物がついたそれを、私は洗面台へ運び、蛇口をひねった。まず表面についた汚れを水で流し、それから洗剤をたっぷりかけ、力いっぱい擦り洗いをした。1時間擦り洗いを続けたあと、たらいに入れて1日つけ置きした。翌日、また擦り洗い、水で流した。それでも、吐しゃ物の跡は残っていた。また水で流し、擦り洗い、つけ置く。そんなことを10回も繰り返した。それでも、付着した汚れを完全に落とすことはできなかった。一見しただけでは分からない。でも、よく見れば跡が残っている。そのあと、私はクリーニング店に
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status