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第3話

Author: 九月の楓
スマホがまた震えた。湊からメッセージが届いた。

【あとでちゃんと話す】

夜、家に帰ると、玄関の靴箱に見覚えのないレディーススニーカーが二足増えていた。

私のスリッパは靴箱から押し出され、片方がもう片方に重なっている。

知夏はソファに体を丸め、オレ様社長ものの恋愛ドラマを見ていて、湊は彼女の足首を揉んでいる。

知夏がイチゴを一粒つまみ、湊の口元へ運んだ。

「湊さん、すごく上手ね。もしかして習ったことがあるの?」

――そう。湊は習ったことがある。

3年前、大きな契約をまとめるため、私はハイヒールを履いたまま取引先と山を登った。

契約は取れた。湊の会社もどうにか息を吹き返した。その代わり、私の足首は半月も腫れた。

湊は目を真っ赤にして、わざわざ足を揉む方法を習ってくれた。

毎晩、眠る前になると、私の足を自分の下腹に乗せ、足首を揉んで腫れをひかせ、硬くなった筋肉をほぐしてくれた。

あの頃、私は冗談めかして言ったものだ。

もし起業に失敗しても、湊ならマッサージ師になれるね、と。

すると湊は頑固なほど真剣な顔で言った。

「この揉み方は彩良のためだけに覚えたんだ。彩良にしかしてやらない」

けれど今は目の前で、湊が夢中になって誰かの足を揉んでいる。彼の下腹に乗っている足は、もう私のものじゃない。

ベランダから風がひと筋吹き込んできた。強い風ではない。服の裾すら揺らさないのに、妙に冷たかった。

「風が吹いてきた。ブランケットを持ってくるから掛けておきな。風邪ひくぞ」

湊が立ち上がり、私に気づいた瞬間、ぴたりと動きを止めた。

けれどすぐに平静を取り戻し、顔を曇らせた。

「いつ入ってきた?どうして歩く音がまったくしないんだ?」

私は二人のすぐそばに、もう5分も立っていた。湊はこんな小さな風には気づくのに、そこにいる私には気づかなかった。

私はまっすぐ書斎へ向かい、湊もあとを追うように入ってきた。その身から、クチナシの香りが漂ってきた。

知夏の香水の匂いだ。

私が尋ねるより先に、湊が口を開いた。

「ホテルに泊まるより、やっぱり自分の家のほうが気楽だろ。だから、あの二人には何日かここに泊まってもらうことにした」

「自分の家って?」

湊は見下ろすように私を見て、まるで私が理不尽に文句をつけているかのような顔をした。

「彩良、そうやって言葉尻ばかりとらえて、何がしたいんだ?」

――どうせ離婚する。今さらこんなことにこだわったって、意味なんてない。

「別に」

私がそう言うと、湊は私が納得したと思ったらしい。ほっと息をついた。

「お母さんのことは、どうなった?」

湊が知夏を抱えて病室を出てから、もう15時間が過ぎていた。ようやく母のことを思い出したらしい。

「明日は母の――」

「お母さん、どうしたの?」

書斎の扉は閉めていなかったため、廊下から知夏の声が流れ込んできた。

「明日は母のお通夜」

私は続けたが、返ってきたのは、プリンターが紙を吐き出す、さらさらという音だけだ。

真紀子に何かあったらしい。湊は私の言葉が終わるのも待たず、書斎から飛び出していった。

しばらくしてプリンターの音が止まり、離婚協議書の最後の一枚が吐き出された。

私はホチキスでまとめ、署名が必要なところを開いた。

ペン先を署名欄の上でしばらく止めたあと、それでも自分の名前を書き込んだ。

それから離婚届にも署名した。

書斎を出ると、真紀子が腰を折って、苦しそうに吐いているのが目に入った。

湊はタオルで、真紀子の口元についた吐しゃ物を拭いている。

胸の奥が、何かに引き裂かれるように痛んだ。

最後に母と一緒に食事をしたとき、病気のせいで母はうまく飲み込めず、流動食が誤って口元からこぼれた。

湊は何も言わなかったが、嫌悪を滲ませたあの目つきは、思い出すたびに胸を刺し、私はいたたまれなくなる。

「うっ……」

真紀子はまた吐き出した。湊はよけきれず、手にもかなりかかってしまった。

それでも怒ることも嫌な顔をすることもなく、優しく声をかけた。

「お腹が冷えたんでしょう。吐いたら少し楽になりますから」

なんて心を打つ光景なんだろう。湊が私の夫じゃなければ。

私は振り返って書斎を見た。

離婚協議書と離婚届が、机の上に静かに置かれている。

――もういい。あとは、署名をもらうだけなのだから。

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