LOGIN母は息も絶え絶えになりながら、何度も瀬越湊(せごえ みなと)の名を口にしている。 母が湊の到着まで持ちこたえられないかもしれないと思い、私・瀬越彩良(せごえ さら)はビデオ通話をかけた。 「湊、母がもうだめかもしれない。話したがってるの」 けれど、画面に映ったのは湊の会社の新入社員、七井知夏(なない ちなつ)だ。 「奥さん、湊さんは今、車を走らせてN市からT市へ向かっています。運転中だから、電話に出られなくて」 私は一瞬、言葉を失った。 「N市?」 ――会社で手一杯になっているはずの湊が、どうして600キロも離れたN市に行ったの? 知夏の声には、隠しきれない得意げな響きがある。 「母が頭が痛いって電話してきたんです。それで湊さんが会議を全部キャンセルして、すぐ車を飛ばして、母をT市まで検査に連れてきてくれたんです」 私はスマホを握りしめたまま、指先まで震えている。 母が危篤なのに、たった6キロの距離ですら、湊は手が離せないと言って付き添ってくれなかった。 知夏の母親がひと言「頭が痛い」と言っただけで、湊はすべてを放り出し、600キロも走って迎えに行ったのだ。 受話口から湊の声が聞こえた。冷たい声だ。 「もうすぐ高速道路を降りるんだ。お母さんに、もう少しだけ頑張ってもらってくれ」 その返事の代わりに響いたのは、心電図モニターの耳をつんざくような警告音だ。 画面で跳ねていた心拍数が、完全に一本の冷たい線へと変わった。 私はその場に立ち尽くしたまま、スマホが手から滑り落ちた。 母は逝った。 そして、湊との結婚生活も、もう無理して続ける気はない。
View Moreそう言って、湊は病室を出た。彩良のスマホには何度かけてもつながらず、メッセージを送っても返事がない。湊は友人や知人に頼り、あちこち聞き回りながら、半月かけてようやく北のB市の海辺で彩良を見つけた。彩良は海辺に座り、潮風に吹かれている。背後から声がした。「彩良」……私は声をかけられて振り返った。目の前にいる人物が誰なのか分かった瞬間、驚きを隠せなかった。――どうして湊が、ここを見つけられたの?湊は私の隣に腰を下ろし、何事もなかったかのような顔で言った。「一緒に帰ろう」私は少し横へずれ、湊との間にわずかな距離を空けた。「湊と離婚する。書類は机の上に置いてあるって、もう伝えたでしょ」海風が波を巻き上げ、岸へと吹きつける。「俺たち、うまくやってただろ。どうして離婚なんだ?」私は呆然と湊を見た。しばらくして、湊は声を和らげた。「知夏と母親のことで、俺たちの間が少しこじれたのは分かってる。でも夫婦なら、喧嘩したり、ぶつかったりすることくらいあるだろ。ちゃんと話せばいい。どうしても気が済まないなら、俺が謝る。そこまでして離婚する必要があるのか?」私は呆れて言葉も出なかった。未だに湊は、自分が一言謝りさえすれば私たちは元通りになれると思っている。私が黙っていると、湊はまた説明を続けた。あの母娘をT市へ連れてきたのも、知夏を放っておけず、助けてやりたかっただけだという。それに、もう知夏は会社を辞めさせた。これから先、二度と知夏と顔を合わせることもない、と。湊は私に許してくれと言った。けれど、私はもう許せない。すぐそばには、母が私のために縫ってくれた白いドレスが置いてある。真紀子の吐しゃ物がついたそれを、私は洗面台へ運び、蛇口をひねった。まず表面についた汚れを水で流し、それから洗剤をたっぷりかけ、力いっぱい擦り洗いをした。1時間擦り洗いを続けたあと、たらいに入れて1日つけ置きした。翌日、また擦り洗い、水で流した。それでも、吐しゃ物の跡は残っていた。また水で流し、擦り洗い、つけ置く。そんなことを10回も繰り返した。それでも、付着した汚れを完全に落とすことはできなかった。一見しただけでは分からない。でも、よく見れば跡が残っている。そのあと、私はクリーニング店に
それを聞いた知夏は、慌てて湊のところへ駆け寄り、腕をつかんだ。「彩良さん、湊さんと離婚するの?」湊は、知夏が自分の話を嘘だと疑っているのだと思い、離婚届を知夏に叩きつけた。「自分で見ろ」知夏は離婚届をじっと見つめた。しばらくして、その目に光が宿った。「湊さん、これって、すごくいいことじゃない?湊さんが署名さえすれば、私たち結婚できる」次の瞬間、知夏は真紀子の前へ駆け寄り、嬉しそうに言った。「お母さん、私、嘘ついてなかったでしょう?湊さんはもうすぐ離婚するの。離婚したら私と結婚してくれるから、そしたら湊さんは私の夫よ。私がお金持ちの社長の妻になれば、弟の学費も、家や車を買うことだって、もう何も心配しなくていいの」知夏の狂ったような言葉を、湊は一言も聞いていられなかった。怒鳴るように遮った。「何を馬鹿なことを言ってる!俺が彩良と離婚するなんて、ありえない!いい加減、寝言を言うのはやめろ」知夏の顔色が一変した。「どうして離婚してくれないの?どうして?」湊は、知夏は話が通じないと思ったが、それでも答えた。「俺は彩良を愛してるからだ。自分のことより、彩良を大切に思ってる」知夏の瞳に、失望の色があふれた。「彩良さんを愛してるなら、私のことだって愛せるでしょう?私のどこが彼女に劣るの?私のほうが若いし、きれいだし、スタイルだっていい。それなのに、どうして私を愛せないの?」湊は知夏を冷たい目で見つめた。まるで突然、別人になったように感じた。以前はおとなしくて聞き分けがよく、何かを奪い合うこともなく、人の気持ちを汲める女だった。それが今は、道理の通じない駄々っ子のようだ。何より、彩良と比べる資格なんてない。湊はもう、この母娘を相手にしている気にはなれない。彩良を探しに行かなければならない。謝って、許してもらわなければ。「待って」湊が病室を出ようとした瞬間、知夏が鋭い声で呼び止めた。湊はゆっくり振り返り、ただ冷たい目で知夏を見つめた。まだ何を企んでいるのかと、警戒している。知夏は離婚届を掲げた。「この離婚届、湊さんは署名するしかないよ」湊は鼻で笑った。知夏の目に、剣呑な光が宿っている。「彩良さんを愛してるんでしょう?一番大切にしてるんでしょう?彩良さんに、少し
【離婚協議書】【離婚届】そういう内容が、真っ先に湊の目に飛び込んできた。全身が凍りついた。彩良はただ意地を張って、離婚すると言っているだけだと思っていた。まさか、本当に離婚の書類まで用意していたなんて。しばらくして、湊は書類をめくった。署名が必要なところには、どこも彩良の名前が記されている。あとは自分が名前を書くだけで、彩良との結婚は完全に終わる。そう考えただけで、胸の奥を誰かに力いっぱい引き裂かれたようだ。息ができないほど、痛い。でも、離婚するなんて、湊は絶対に認めない。慌てて彩良に連絡しようとしたが、手からスマホが滑り落ちた。パリン。スマホが床に落ち、湊は拾おうとしたところで椅子の脚に足を取られた。よろめいた拍子に、そのままスマホを踏みつけた。画面が一瞬で粉々に砕けた。「そんな!」湊は絶叫した。そして砕けたスマホを掴み、そのまま家を飛び出した。けれど、今は午前2時。スマホ修理の店はどこも閉まっている。それでも気が急いて、とても待ってなんていられない。新しいスマホを買おうと、ようやく営業している店を一軒見つけた。ところが、支払いができない。現金は持っていない。画面の割れたスマホも使えず、決済できない。湊は拳を握りしめ、展示台を殴った。――なぜだ。どうして俺がこんな目に遭うんだ?あまりの力で叩いたせいで、展示台のガラスまで砕け散った。弁償すると言ったものの、払えるお金がない。店主が警察を呼び、湊は連れていかれた。半日が過ぎ、ようやく事情が片づき、湊は新しいスマホを手に入れた。ところが、電源を入れた瞬間、請求書が届いていることに気づいた。彩良を訴える裁判の費用だ。知夏と真紀子は彩良を訴えるだけでなく、その訴訟費用まで湊に払わせるつもりらしい。湊の怒りは一気に燃え上がり、病院へ駆け込み、真紀子に詰め寄った。「どうして、そこまで彩良を追い詰めるんですか?」真紀子は勢いよく体を起こし、あざけるように言った。「あの女とは何もないって言ってたよねえ。何もないなら、なんでそんなにムキになるの?」――自分の妻が訴えられているんだ。怒るのが当たり前じゃないか。湊は本当の関係を明かそうとした。けれど、喉元まで出かかった言葉を、結局飲み込んだ。
湊が車のドアを開けたところで、知夏が先に助手席へ入り込んだ。湊は知夏を降ろそうとしたが、ふと思い直した。――ちょうどいい。知夏を連れて帰って、彩良に全部きちんと説明しよう。車を走らせるあいだ、湊はただ黙々と運転している。聞こえるのは、二人の呼吸だけ。知夏があれこれ話題を変えても、湊はまったく興味を示さない。適当に相槌を打つことすら面倒だ。扉を開けて家の中へ入った。リビングは、湊が出ていったときとほとんど変わっていない。真紀子が吐いたものも、そのまま残っている。ただ、あの白いドレスだけがなくなっていた。白いドレスのことを思い出した瞬間、湊の胸がずきりと痛んだ。彩良が自分と結婚したとき、湊は一文無しだった。ウェディングドレスを買うどころか、借りるお金さえなかった。湊はあちこちからお金を借りて、ようやくドレスを借りる費用を工面した。けれど彩良は、そのお金を全部返させてしまった。そして、あの白いドレスを取り出して、うれしそうに言った。「ほら、これ。母が私のために、一針一針縫ってくれたよ」あのとき彩良は、ウェディングドレスを借りるお金すら用意できなかった湊を責めなかった。それどころか、こう言って慰めてくれた。「借りるドレスは、誰かが一度着たものだけど、このドレスは母が一針一針、手で縫ってくれたの。一針一針に、私たちへの祝福が込められてる。それに、これだけは世界に一つだけ。今まで誰も着てないし、これからも誰も着ない」彩良は幸せいっぱいの顔で、胸元に縫い込まれたクローバーを指差した。「湊、私、挙式のときはこのドレスを着るよ。私たち、誰よりも幸せになろうね。このクローバーが幸運を運んでくれますように」湊は覚えている。あの日、自分はぽろぽろと涙をこぼしながら言った。「これから俺、いっぱい稼いで、彩良に何不自由ない暮らしをさせる。彩良を幸せにする」今では、何億円もする豪邸に住み、彩良にも何不自由ない暮らしをさせている。それなのに、彩良は幸せだったのだろうか。今夜までなら、湊の答えは決まっていた。もちろん、幸せだと。けれど今は、分からない。あの白いドレスと一緒に、彩良までいなくなってしまったから。知夏は真紀子の吐しゃ物を片づけ終えると、湊に水を差し出した。「湊さ