ホーム / 遅すぎた鍵を置いて / チャプター 1 - チャプター 10

遅すぎた鍵を置いて のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

12 チャプター

第1話

「ぼーっとしてどうしたんだ?」慎が、私の目の前で手をひらひらと振った。「鍵、なくすなよ。明日の朝早くに出発するから、締め出されるぞ」そう言う慎の脇を抜け、妹の結城莉子(ゆうき りこ)が部屋から出てきた。その腕には何着ものワンピースが抱えられている。「お母さん、この青いワンピースにしようかな?写真撮る時、顔色悪く見えないかな?」母が歩み寄る。「そんなことないわよ。莉子は青が一番似合うんだから。海辺で映えるし、その白いのも持っていきなさい」「でも、白は汚れやすいし」「汚れたらお母さんが洗ってあげるから平気よ」母はあまりにも自然にそう言い放った。娘の服が汚れたなら、母親が洗ってやるのが当然だとでも言うように。掌の鍵を握りしめながら、私はふと遠い昔の記憶を呼び起こしていた。制服の袖口を汚してしまった時のことだ。祖母に苦労をかけたくなくて、ひたすらゴシゴシと生地をもみ洗いした。冬の水道水は骨に染みるほど冷たく、手を入れた途端に指先の感覚が消え失せた。それでも手を止めるわけにはいかない。翌日もその制服を着て登校しなければならなかったからだ。やがて手にはひどい霜焼けができ、治ってはまたひび割れる日々を繰り返した。今でも手の甲には、うっすらとその痛々しい跡が残っている。一方、父はスマートフォンで旅行のスケジュールを確認することに夢中だ。「明日の朝は6時半に家を出るぞ。7時半に空港に着いて、10時の便だ。現地に着いたらまずホテルに荷物を置いて、午後は海へ行く。夜は海鮮料理だな」慎が横から画面を覗き込む。「美味しいものは控えめにしておけよ。莉子はただでさえぽっちゃりしてんだから」莉子がすかさず文句を言う。「お母さん、お兄ちゃんたらまた私のことバカにしてる!」母が笑ってとりなす。「いざとなったら、お兄ちゃんはホテルの外に閉め出しましょうね」家族は海や夕日、美食の話題で嬉々として盛り上がっている。誰も私に行きたいかどうかなんて聞いてこない。そもそも、私を連れて行くという選択肢など誰の頭にもないのだ。私はその場に立ったまま、片付け忘れられた古びた荷物のように放置されていた。ずいぶん時間が経ってから、母がようやく私の存在を思い出したように振り返った。「そういえば紬、留
続きを読む

第2話

私はその4枚のバスタオルをじっと見つめた。踵を返し、どれを使えばいいのか母に尋ねようとドアノブに手をかける。その時、リビングから押し殺したような話し声が漏れ聞こえてきた。「莉子、少しは聞き分けなさい。紬がここにいるのは数日だけよ。旅行から帰ってきたら、またおじいちゃんたちの所に送り返すんだから」ドアノブに伸ばした手は、何かに縫い留められたようにピタリと止まった。リビングでの会話はまだ続いている。莉子の不満げな声が聞こえた。「とにかく私は、お姉ちゃんと一緒に住みたくないもん。彼女、なんか変な匂いがするし、持ってるものも全部ダサいんだもん」母が声を潜めてなだめる。「1晩だけの我慢よ。明日の朝にはもう家を出るんだから」「じゃあ、なんでリビングで寝かせないの?」そこへ慎の声も混ざる。「先に言っておくけど、俺の部屋で寝かせるのも絶対ダメだからな。机の上に大学の資料出しっぱなしなんだから。勝手にいじられて、ぐちゃぐちゃにされたらどうすんだよ」母がたしなめるように言う。「紬はそんなことしないわよ」慎が鼻で笑った。「そんなの、分かんねえだろ!ずっと田舎で育ったんだぞ、どんな図々しい真似するか知れたもんじゃない」莉子がすかさず同調する。「そうよ。彼女がいると、なんか気が休まらないの。今まで通り、4人だけの時が一番よかったのに」父が重々しいため息をついた。「紬が急に来たのが悪い。ちょうど旅行のタイミングと重なってしまったからな。だが来てしまった以上、数日だけ泊まらせてから送り返すしかないだろう」数日泊まらせて、また送り返す。その言葉は、これまで嫌というほど聞かされてきた。幼い頃、私は母に尋ねたことがある。なぜお兄ちゃんと妹はお父さんたちと一緒に住めるのに、私だけ仲間外れなのかと。母はこう答えた。「うちも経済的に余裕がないのよ。紬はおじいちゃんとおばあちゃんがちゃんと面倒を見てくれるからね」父にも尋ねたことがある。なぜお兄ちゃんだけが都会の学校に通えて、私はダメなのかと。父はこう答えた。「くじ引きで、お兄ちゃんが当たったからだ」私が3歳の年、妹の莉子はまだ生まれていなかった。両親は都会へ働きに出ることになったが、2人の子供を手元で育てる余裕はなく
続きを読む

第3話

先ほどまで、手の中には1本の鍵が握られていた。12年間、ずっと待ち望んでいた鍵だ。けれど、世の中には、たとえ鍵を開けることができても、決して中には入れてもらえない扉が存在するのだ。風呂から上がると、母はまだ私を莉子の部屋で寝かせようと画策していた。しかし莉子はベッドの上に座り込んだまま、頑なに口を閉ざしている。母はしばらく莉子を見ていたが、やがて私に渡すつもりだった薄手のタオルケットを、諦めたようにリビングのソファの上に置いた。「夜はエアコンの温度を下げすぎないようにね。風邪をひくから。明日は朝早くに出るから起こさないわ。ゆっくり寝てなさい」私は黙って頷いた。母は何かを思い出したように、ローテーブルを指さした。「家の鍵はちゃんと保管しておいてね。私たちがいない間に宅配便が来たら、代わりに受け取っておいてちょうだい。ベランダの鉢植えには2日に1回水をやって。ゴミもこまめに捨てるのよ、夏場は匂いが出やすいからね」父が顔を上げる。「もし管理会社が点検に来ても、すぐにはドアを開けず、まずは私たちに電話しなさい」慎が言った。「俺の部屋は鍵かけておくから、絶対に入るなよ」莉子もすかさず続く。「私の机の上のものにも触らないで。特にアクスタには絶対」同じように受験が終わった夏、両親は慎を連れて南の島のリゾートへ旅行に行った。莉子が高校受験を終えた時は、有名なテーマパークへ連れて行った。そして私の番になって、彼らが私に与えたのは、次から次へと続く留守番の指示と無機質な注意書きだけだった。私が一つ一つ頷くのを見て、母は慎と莉子に早く寝るよう促し始めた。「早く歯を磨いてきなさい。明日起きられなくなるわよ」父はスマートフォンをいじりながら言った。「最後に一つ、ホテルの情報を家族のLINEグループに送ったから、お前たちも確認しておきなさい」言葉が終わるか終わらないかのうちに、リビングに立て続けに通知音が鳴り響いた。母のスマホ。慎のスマホ。莉子のスマホ。私のスマホだけが、静寂を保っていた。父はふと違和感を覚えたように顔を上げ、私を見た。「紬はまだグループに入ってなかったか?」母がハッとする。「そうみたいね」「じゃあ、後で招待しておいてくれ」私は静かに言った
続きを読む

第4話

支払い完了のメッセージがポップアップした時、私は大きく息を吐き出した。ここから祖父母の家まで、600キロ。私はこの12年間で、48回も往復してきた。これからはもう、49回目はない。翌朝5時、まだ夜も明けないうちに母が起きてきた。彼女はまず莉子を起こしに行き、次に慎を叩き起こした。リビングを通り過ぎる時、母がふと止まった。彼女が私のそばに立ち、しばらく私を見下ろしている気配がする。やがて、彼女は私の肩にかかったタオルケットをそっと引き上げてくれた。次の瞬間、莉子の声が響く。「お母さーん、私のサングラスどこ?」母はすぐに背を向けて立ち去った。「はいはい、今行くわよ。カバンの中に入ってるでしょ」私は薄目を開け、玄関へ向かう母の後ろ姿を見つめた。父は玄関で靴を履いている。慎はカメラを持ち、莉子の姿を撮影している。私が起き上がると、それに気づいた母が一瞬驚いた顔をした。「起こしちゃった?」私は無言で首を振る。「あ、ちょうどよかった。お姉ちゃん、写真撮ってよ」莉子がカメラを私の胸元に押し付けてきた。誰もその無神経な振る舞いに違和感を抱いていない。彼ら4人は玄関に並んで立った。父はキャリーケースに手を添え、莉子は母の腕に抱きついている。慎は一番後ろに陣取り、莉子の頭の上でおどけてピースサインを作っていた。シャッターを切る。「撮れたよ」莉子はカメラを受け取り、画面を見るとすぐに歓声を上げた。「きゃあ、これすっごくよく撮れてる!」慎が言う。「グループLINEに送っとけよ」母も頷く。「後で送るわね」私はうつむいて自分のスマホを見た。相変わらず、沈黙したままだ。ドアが開き、廊下のセンサーライトが点灯した。家族はキャリーケースを引きずりながら出て行く。母が最後に振り返って私を見た。何か言いたげだったが、結局口にしたのはこうだった。「紬、家でおとなしくお留守番してるのよ」私は頷き、「うん」と答えた。ドアが閉まり、彼らの声は完全に遮断され、エレベーターと共に遠ざかっていった。家の中はしんと静まり返った。私はしばらくじっと座っていた後、床に置かれたキャンバス地のバッグを手に取り、脱いだ服を綺麗に畳んで中に押し込んだ。バッグ
続きを読む

第5話

特急列車が地元の駅に到着した。私はあの古いキャンバス地のトートバッグを背負い、人の波に流されるように改札口へ向かった。駅構内はとても騒がしい。アナウンスの声、キャリーケースの車輪の音、出迎えの歓声が入り混じっている。それでも私は、一目で祖父母の姿を見つけた。祖父は人だかりの外側に立ち、手にうちわを握りしめ、首を長くしてずっと改札口を見つめていた。祖母はその隣にいたが、背が低いため、行き交う人々に体の半分が隠れてしまっている。彼女の手には薄手の上着が握られていた。夏だというのに、彼女はいつも私が冷房で寒がるのではないかと心配するのだ。私は外へ歩み寄り、声をかけた。「おじいちゃん、おばあちゃん」祖母がハッと顔を上げた。次の瞬間、彼女の目尻が赤く染まった。「紬」彼女は小走りで私に向かってきたが、ちょっと進んだところで膝の痛みのせいか速度が落ちた。私は慌てて駆け寄った。彼女は私の手をぎゅっと握りしめ、さすってから、私の頬にも優しく触れた。「痩せたねえ」私は笑った。「まだ1日しか経ってないよ」だが祖母は聞く耳を持たない。彼女は上着を私の肩に掛けながら、小言のようにつぶやいた。「電車の中は冷房がきついからね。羽織っておきなさい、風邪でも引いたら大変だ」祖父が私のバッグを取ろうと無言で手を伸ばしてきた。「貸しなさい」私は少し身をかわした。「重くないから、自分で持てるよ」祖父はわざとらしく眉を吊り上げた。「おじいちゃんはまだ、孫のカバン1つ持てないほど老いぼれちゃおらんぞ」私は苦笑して、仕方なくバッグを彼に渡した。その瞬間、ふいに鼻の奥がツンとした。両親の家では、私の荷物は玄関に放置されたままで、家に入ってから出るまで、誰も指1本触れようとしなかった。でもここでは、改札を出た瞬間に祖父が荷物を奪い取り、祖母が私の体調を心底心配してくれる。「自分の家に帰る」ことと、「他人の家にお邪魔する」ことの違いを、私は痛いほど実感していた。帰り道、祖父が運転する古びた軽自動車の後部座席で、私は祖母と並んで座った。窓から夜風が吹き込んでくると、田んぼと土の匂いがした。道沿いの街灯は少なく、遠くの集落にぽつぽつと温かな明かりが灯っている。祖母はずっと私の
続きを読む

第6話

祖母は、私が甘口の卵焼きが大好きなのを知っている。パクチーアレルギーなのも知っている。寝る時に明るすぎる照明が苦手なことも。字を書き続けて手首が痛くなった時も。悲しい時はいつも、うつむいて押し黙ってしまう癖も。こうした私の些細な癖を、誰かがわざわざ教えたわけではない。彼女はただずっと、私から目を離さずに見守ってくれていた。だから気づいてくれたのだ。ご飯を食べているうち、不意に涙が茶碗にこぼれ落ちた。祖母は途端に慌てふためいた。「どうしたんだい?熱かったかい?」私は首を横に振る。祖母が箸を置き、急に声を低くした。「あっちの家で、お父さんたちに何か嫌な思いをさせられたのか?」私はまた首を振った。それでも、涙は後から後から溢れてくる。祖母は私の隣に座り、私を優しく抱き寄せてくれた。「泣きなさい」彼女は私の背中を一定のリズムでトントンと叩く。「自分の家なんだから、泣きたい時は我慢しなくていいんだよ」「自分の家」という言葉を聞いた瞬間、私はついに堪えきれなくなった。私は祖母の肩に顔を埋め、まるで幼い子供のように声を上げて泣きじゃくった。私の分だけなかった、あの4枚の航空券のために。12年も遅れて渡された、あの空虚な合鍵のために。リビングの狭いソファのために。脱衣所に掛かっていた、私の居場所を否定する4枚のバスタオルのために。そして、私自身のために。3歳の頃からずっと、手のかからないいい子になろうと努め、他人に迷惑をかけず、誰からも嫌われないように必死に生きてきた小さな子供のために。私はずっと待ち続けてきた。けれどついに、もう待つことをやめたのだ。……翌日の午前中、両親がやって来た。彼らだけではない。慎と莉子も一緒に来ていた。車が庭の外に停まった時、私はちょうど祖母の手伝いで野菜の筋を取っていたところだった。車のエンジン音を聞きつけ、祖母が家の中から出てくると、その顔はたちまち険しくなった。母が真っ先に車から降りてきた。彼女の目は赤く腫れており、一睡もしていないのは明らかだった。父がその後に続き、手にはいくつかの手土産の紙袋を提げている。慎は帽子を目深に被り、どこか気まずそうな表情を浮かべていた。莉子はスマートフォンを抱
続きを読む

第7話

私は答えなかった。しかし、母はすでに私の沈黙の意味を理解していた。「莉子はまだ子供だから、言葉の使い方が分からないだけなの。お兄ちゃんだって、本気で言ったわけじゃないわ」莉子がようやく顔を上げ、不満げに小さく呟いた。「私、別に変なこと言ってないじゃん」庭がふいに静まり返る。母が振り返って莉子を睨んだ。「莉子!」莉子は唇を尖らせて反抗する。「だって、お姉ちゃんの持ってるものがダサいって言っただけだし、間違ってないもん。それに私の部屋狭いのに、他の人と一緒に寝るなんて嫌だっていうの、どこがいけないの?」彼女はこちらを向き、開き直ったような口調で言った。「お姉ちゃんだって、ずっとおじいちゃんたちの家に住んでたんでしょ?急に帰ってきても、こっちが戸惑うのなんて当たり前じゃない」慎も眉をひそめて同調した。「そうだよ。たかが1回の旅行のことで、ちょっと大げさすぎないか?わざと置いていこうとしたわけじゃないんだし。だいたい、父さんたちが鍵を渡しただろ?なんで勝手に帰ったりしたんだよ」私は冷ややかな目で兄を一瞥した。そうか、彼らの目には「1本の鍵を与えれば十分だ」と映っていた。ドアの前で待ち続けた12年を埋め合わせるのに十分。自分の部屋がない惨めさを埋め合わせるのに十分。用意されなかった4枚の航空券を埋め合わせるのに十分。あの家で、私が完全によそ者扱いされていた全ての日々を埋め合わせるのに十分だと。私は急に、彼らに説明することすら無意味に思えてきた。なぜなら、彼らはその痛みを一度も経験したことがないからだ。慎には幼い頃から立派な書斎があった。莉子には幼い頃から可愛い個室があった。彼らは、自分の両親の家のドアの前で、誰かが内側から鍵を開けてくれるのを待つ惨めさを知らない。脱衣所に立ち、4枚のバスタオルを見つめながら、1枚も自分のものがないと思い知らされる時の息の詰まるような悲しさを知らないのだ。私が口を開く前に、祖父が重い音を立てて机を叩いた。「お前は当然、大したことじゃないと思ってるんだろうさ」彼の声は決して大きくなかったが、その場にいた全員を黙らせるだけの凄みがあった。「置いてけぼりにされたのが、自分じゃないからな」慎の顔が強張る。祖父は慎を真っ
続きを読む

第8話

父は絞り出すような低い声で言った。「お父さんたちが、お前を蔑ろにしていたよ」彼らが「蔑ろにした」という事実をはっきりと口にしたのは、これが初めてだった。この言葉を聞けば、少しは胸がすくかと思っていた。けれど、何も感じなかった。ただ、凪のように心が静まり返っていた。まるで、長すぎる日照りの後でようやく降ってきた雨のようだった。土の中の種は、とうの昔に干からびて死んでいるというのに。私は淡々と言った。「お父さんたちに愛情がないわけじゃないってことは、分かってるよ」母が弾かれたように顔を上げた。私はそのまま続ける。「でも、その愛情はあまりにも遅すぎるし、少なすぎる。昔はすごく欲しかったけど、今はもう、いらない」母の目から、また大粒の涙がこぼれ落ちた。父はその場に立ち尽くし、何か言おうと唇を動かしたが、結局声にはならなかった。莉子はうつむいたまま、すっかり押し黙っている。慎も無言を貫いていた。彼らはおそらく、この瞬間に至ってようやく薄々気づき始めたのだ。私にとっての傷は、今回の旅行のことではない。1本の鍵のことでもない。数え切れないほどの年月、数え切れないほどの回数、私が常に「一番後回し」にされてきた、無数の瞬間の蓄積なのだと。母が泣きながら尋ねた。「じゃあ、これから先……もう家には帰ってきてくれないの?」私は彼女を見つめ、静かに答えた。「ここが、私の家だから」母は息を呑んで立ち尽くした。私はさらに続ける。「今後、時間ができたらそっちへ顔を出すことはあるかもしれないけど」その言葉を最後に、庭は長い沈黙に包まれた。風が柿の木を揺らし、葉がサラサラと音を立てる。母はうつむき、肩を震わせてむせび泣いていた。私は彼女を抱きしめに行かなかった。これ以上、追い討ちをかけるような残酷な言葉も口にしなかった。彼らをそこまで深く憎んでいるわけではない。憎むというのは、ひどく体力を消耗するものだ。かといって、心から許したいとも思わない。許すことにもまた、途方もないエネルギーが必要だからだ。私はただ、もう彼らの愛情を乞うために立ち回るのをやめたかっただけだ。私には、おじいちゃんとおばあちゃんがいる。それだけで十分だ。両親はその日、夕飯を食
続きを読む

第9話

いざ実際にその中に入ってみると、私の心にはさざ波一つ立たなかった。私はただ、「ありがとう」とだけ返信した。そしてLINEの設定画面を開き、迷わず通知をオフにした。画面を閉じた時、ちょうど母が顔を上げてこちらを見た。彼女は私が手元で何をしたか知る由もなく、ただ一生懸命に笑みを取り繕っていた。だがその笑みは、泣き顔よりも痛々しく見えた。彼らが去った後、庭は再び静まり返った。祖母は机に残された手土産のフルーツを家の中に運びながら、ぶつぶつと文句を言っている。「こんなにたくさん買ってきたって、食べきれずに腐らせちまうだけなのにねえ」祖父は玄関の段差に腰掛け、煙草をふかしていたが、2口ほど吸ってふと手を止めた。「紬」「ん?」「もし心の中で我慢してることがあるなら、全部吐き出しちまえよ」私は彼に歩み寄り、隣に腰を下ろした。「おじいちゃん、私、もう全然つらくないよ」彼は疑わしそうに目を細めた。「本当に強がってないか?」私はしっかりと頷いた。「本当に平気だよ」家の中から出てきた祖母がその言葉を耳にし、私の頭を優しく撫でた。「それならよかった」「人生っていうのはね、他人がくれなかったものばかりに執着して生きちゃいけないんだよ。あんたに愛情を注いでくれる人がいたら、その恩だけを大切に覚えておきなさい。傷つけるような人間からは、迷わず距離を置きなさい」私は彼女の温かい肩に寄りかかり、小さな声で答えた。「うん、分かってる」数日後、私は町へ夏休みのアルバイトを探しに出かけることにした。祖母はそれを聞くや否や、難色を示した。「アルバイトなんてしなくていいよ。受験が終わったばっかりなんだから、家でゆっくり休んでおきな」祖父も同調する。「学費ならおじいちゃんとおばあちゃんがちゃんと用意してあるんだから、お前がわざわざ苦労して外で働くことはないんだぞ」私は微笑んで答えた。「分かってるよ。でも、自分のお小遣いぐらいは自分で稼いでみたいの。それに、毎日家でゴロゴロしてるのも退屈だしね」祖母が心配そうに眉を寄せる。「もしかして、気を使ってお金を節約しようとしてるんじゃないのかい?」私は首を横に振った。「違うよ。ただ、社会勉強のためにやってみたいだけ」本当は
続きを読む

第10話

家に帰れば、私と一緒に食卓を囲むために待ってくれている家族がいる。まるで、私の人生のひび割れた隙間から、希望の種がゆっくりと芽吹き始めたかのようだった。大学受験の成績発表の日、私は書店の自習スペースで中学2年生の男の子に関数を教えていた。ふいにポケットの中でスマホがけたたましく震え始めた。担任の先生からの着信だった。通話ボタンを押すなり、私が「もしもし」と口にする間もなく、彼の興奮した大声がスピーカー越しに弾けた。「結城君!大学の合格発表、見たか!」私は虚を突かれた。「いえ、まだですけど」「早く確認しろ!今すぐだ!早く!」店長もただならぬ気配を感じて、カウンター越しに身を乗り出してきた。「合格発表?」私の指先は、少しだけ震えていた。あんなに落ち着いて試験を受けていた時でさえ、ここまで緊張はしなかったのに。大学のウェブサイトを開き、受験番号を入力する。画面が数秒間、読み込みのアイコンを表示した。結果がポップアップした瞬間、店内の空気がピタリと止まった。合格。そして、その下には成績トップの者のみに与えられる「首席合格」の文字が輝いていた。私はその画面を、瞬きもせずにじっと見つめ続けた。電話の向こうで、担任の先生が歓喜で声を上ずらせて叫んだ。「結城君!難関国立大に合格だ!しかも君、首席合格だぞ!うちの高校から首席が出るなんて!君はうちの誇りだ!」スマホを握りしめたまま、私はふいに喉の奥が熱く詰まるのを感じた。私よりも先に我に返った店長が、バンバンと机を叩きながら歓声を上げた。「いやだ、すごいじゃない!うちのバイトの子が、あの超難関大学に首席で受かるなんて!」周りで自習していた数人の学生たちが、一斉に顔を上げて私を見た。さっきまで関数の問題に頭を抱えて唸っていた中学2年生の男の子が、目をまん丸にして言った。「紬さん、そんなにすげー人だったの?」私は思わず吹き出してしまった。「まあ、そこそこね」店長はすかさず外へ飛び出し、隣の店の店主に向かって叫んだ。「佐藤さん!うちの店の子がね、国立大に首席で受かったのよ!トップ合格なんだから!」30分も経たないうちに、商店街の半分がそのことを知ることになった。文房具を買うふりをして、わざわざ私の顔を拝みに
続きを読む
前へ
12
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status