「ぼーっとしてどうしたんだ?」慎が、私の目の前で手をひらひらと振った。「鍵、なくすなよ。明日の朝早くに出発するから、締め出されるぞ」そう言う慎の脇を抜け、妹の結城莉子(ゆうき りこ)が部屋から出てきた。その腕には何着ものワンピースが抱えられている。「お母さん、この青いワンピースにしようかな?写真撮る時、顔色悪く見えないかな?」母が歩み寄る。「そんなことないわよ。莉子は青が一番似合うんだから。海辺で映えるし、その白いのも持っていきなさい」「でも、白は汚れやすいし」「汚れたらお母さんが洗ってあげるから平気よ」母はあまりにも自然にそう言い放った。娘の服が汚れたなら、母親が洗ってやるのが当然だとでも言うように。掌の鍵を握りしめながら、私はふと遠い昔の記憶を呼び起こしていた。制服の袖口を汚してしまった時のことだ。祖母に苦労をかけたくなくて、ひたすらゴシゴシと生地をもみ洗いした。冬の水道水は骨に染みるほど冷たく、手を入れた途端に指先の感覚が消え失せた。それでも手を止めるわけにはいかない。翌日もその制服を着て登校しなければならなかったからだ。やがて手にはひどい霜焼けができ、治ってはまたひび割れる日々を繰り返した。今でも手の甲には、うっすらとその痛々しい跡が残っている。一方、父はスマートフォンで旅行のスケジュールを確認することに夢中だ。「明日の朝は6時半に家を出るぞ。7時半に空港に着いて、10時の便だ。現地に着いたらまずホテルに荷物を置いて、午後は海へ行く。夜は海鮮料理だな」慎が横から画面を覗き込む。「美味しいものは控えめにしておけよ。莉子はただでさえぽっちゃりしてんだから」莉子がすかさず文句を言う。「お母さん、お兄ちゃんたらまた私のことバカにしてる!」母が笑ってとりなす。「いざとなったら、お兄ちゃんはホテルの外に閉め出しましょうね」家族は海や夕日、美食の話題で嬉々として盛り上がっている。誰も私に行きたいかどうかなんて聞いてこない。そもそも、私を連れて行くという選択肢など誰の頭にもないのだ。私はその場に立ったまま、片付け忘れられた古びた荷物のように放置されていた。ずいぶん時間が経ってから、母がようやく私の存在を思い出したように振り返った。「そういえば紬、留
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