Masuk
母は私のその一言を聞いて、ようやく肩の荷が下りたように息を吐いた。帰る時、彼女は何度も振り返って私を見た。私は庭の入り口に立ったまま、追いかけることはしなかった。かといって、後ずさりすることもしなかった。私と彼らの間には、ようやく「適切な距離」が見つかったような気がする。決して近くはない。だがもう、互いに傷つけ合う必要もない距離だ。……出発の日。まだ空が白み始めたばかりだというのに、祖母はもう起きていた。台所でせわしなく立ち回り、卵焼きとおにぎりを作っている。祖父は私のキャリーケースを何度も何度も点検した。「合格通知書は入れたか?キャッシュカードは?充電器は忘れてないか?」私は笑った。「おじいちゃん、それ聞くのもう5回目だよ」彼はフンと鼻を鳴らした。「これから1人で暮らすんだ、用心するに越したことはない」祖母が、食べ物の詰まった袋をキャリーケースのポケットに押し込んだ。「これは途中で食べなさい」私は中を覗き込んだ。卵焼き、おにぎり、牛乳、それに綺麗に洗われたフルーツ。私は言った。「おばあちゃん、新幹線の中で駅弁とか売ってるから大丈夫だよ」彼女は返す。「外で買うものが、家の味に敵うわけないだろう」私はそれ以上何も言わなかった。ただ、その袋を丁寧にしまい直した。家を出る前、私は一度自分の部屋に戻った。ベッドはすでに綺麗に整頓されている。勉強机の上のデスクライトはそのまま。壁に貼られた賞状もそのままだ。窓辺には、祖母が野花を空き瓶に生けてくれていた。黄色と白色の、どこにでも咲いているありふれた花。でも、とても綺麗だった。私はキャリーケースを引きながら入り口に立ち、その光景を長く見つめた。この部屋は、長い間私に寄り添い続けてくれた。小さかった私が、これから大学へ進学するまでに成長する日々を。深夜まで必死に勉強する姿を。1人でこっそり涙を流す姿を。そして、合格通知書を握りしめて笑う姿を知っている。これから先、私は色々な場所へ行くだろう。大学の学生寮で一人暮らしを始める。新しい机を買い、新しいベッドで眠り、新しい友人を作る。けれどこの部屋は、いつでも私のために明かりを灯して待っていてくれるのだ。外で祖母が呼ぶ
それは志望校を決めるときの話だった。担任は遠方のさらにレベルの高い大学に挑戦するよう勧めてきた。「この大学も素晴らしいと思うが、君の成績なら申し分ない。選択肢はいくらでもあるぞ」私は志望校の調査票を見つめ、最終的には地元の難関国立大学を第一志望に記入した。祖父たちの家からそう遠くないからだ。新幹線で1時間ちょっとの距離。祖母の膝が痛んだり、祖父の具合が悪くなったりした時、すぐに駆けつけられると思ったのだ。週末に時間が空けば、帰省して一緒にご飯を食べることだってできる。担任は少し意外そうだった。「本当にこれでいいのか?」私は頷く。「はい」彼はしばらく私を見つめていたが、やがて笑みを浮かべた。「まあいいだろう。大学も申し分ないし、学部も素晴らしい。結城君自身が納得しているなら、それでいい」……合格通知書が届いた日、祖父はわざわざ綺麗な服に着替えてから配達員を出迎えた。封筒を受け取る時、彼はまるでとてつもなく高価なものを扱うように、うやうやしく受け取っていた。祖母が傍らでしきりに急かす。「早く開けておくれよ」祖父は彼女を睨みつけた。「何を慌ててるんだ。こんな大事なもの、紬自身に開けさせなきゃダメだろうが」私はハサミで封を切り、中から合格通知書を取り出した。エンジ色の立派な表紙。そこには、私の名前がしっかりと印字されていた。結城紬。自分の名前を見つめていると、不意に心の底から安堵感が湧き上がってきた。この何年間、私はずっと「誰かが自分に居場所を与えてくれる」のを待っていたような気がする。両親が私に1本の鍵をくれるのを。彼らが、私もまた娘であると思い出してくれるのを。あの家が、私のために1つの明かりを灯して待っていてくれるのを。けれど今、私はついに自らの力で、自分の道を切り開いたのだ。その後、大学から連絡があった。入試成績が極めて優秀だったため、授業料が全額免除される上に、新入生向けの特別奨学金まで給付されることになったのだ。私はそのことを祖母に伝えた。彼女はぽかんと呆気にとられていた。「本当にタダになるのかい?」私は頷いた。「おまけに奨学金ももらえるよ」祖父が傍らでポンと膝を打った。「でかした!よくやった!」彼は
家に帰れば、私と一緒に食卓を囲むために待ってくれている家族がいる。まるで、私の人生のひび割れた隙間から、希望の種がゆっくりと芽吹き始めたかのようだった。大学受験の成績発表の日、私は書店の自習スペースで中学2年生の男の子に関数を教えていた。ふいにポケットの中でスマホがけたたましく震え始めた。担任の先生からの着信だった。通話ボタンを押すなり、私が「もしもし」と口にする間もなく、彼の興奮した大声がスピーカー越しに弾けた。「結城君!大学の合格発表、見たか!」私は虚を突かれた。「いえ、まだですけど」「早く確認しろ!今すぐだ!早く!」店長もただならぬ気配を感じて、カウンター越しに身を乗り出してきた。「合格発表?」私の指先は、少しだけ震えていた。あんなに落ち着いて試験を受けていた時でさえ、ここまで緊張はしなかったのに。大学のウェブサイトを開き、受験番号を入力する。画面が数秒間、読み込みのアイコンを表示した。結果がポップアップした瞬間、店内の空気がピタリと止まった。合格。そして、その下には成績トップの者のみに与えられる「首席合格」の文字が輝いていた。私はその画面を、瞬きもせずにじっと見つめ続けた。電話の向こうで、担任の先生が歓喜で声を上ずらせて叫んだ。「結城君!難関国立大に合格だ!しかも君、首席合格だぞ!うちの高校から首席が出るなんて!君はうちの誇りだ!」スマホを握りしめたまま、私はふいに喉の奥が熱く詰まるのを感じた。私よりも先に我に返った店長が、バンバンと机を叩きながら歓声を上げた。「いやだ、すごいじゃない!うちのバイトの子が、あの超難関大学に首席で受かるなんて!」周りで自習していた数人の学生たちが、一斉に顔を上げて私を見た。さっきまで関数の問題に頭を抱えて唸っていた中学2年生の男の子が、目をまん丸にして言った。「紬さん、そんなにすげー人だったの?」私は思わず吹き出してしまった。「まあ、そこそこね」店長はすかさず外へ飛び出し、隣の店の店主に向かって叫んだ。「佐藤さん!うちの店の子がね、国立大に首席で受かったのよ!トップ合格なんだから!」30分も経たないうちに、商店街の半分がそのことを知ることになった。文房具を買うふりをして、わざわざ私の顔を拝みに
いざ実際にその中に入ってみると、私の心にはさざ波一つ立たなかった。私はただ、「ありがとう」とだけ返信した。そしてLINEの設定画面を開き、迷わず通知をオフにした。画面を閉じた時、ちょうど母が顔を上げてこちらを見た。彼女は私が手元で何をしたか知る由もなく、ただ一生懸命に笑みを取り繕っていた。だがその笑みは、泣き顔よりも痛々しく見えた。彼らが去った後、庭は再び静まり返った。祖母は机に残された手土産のフルーツを家の中に運びながら、ぶつぶつと文句を言っている。「こんなにたくさん買ってきたって、食べきれずに腐らせちまうだけなのにねえ」祖父は玄関の段差に腰掛け、煙草をふかしていたが、2口ほど吸ってふと手を止めた。「紬」「ん?」「もし心の中で我慢してることがあるなら、全部吐き出しちまえよ」私は彼に歩み寄り、隣に腰を下ろした。「おじいちゃん、私、もう全然つらくないよ」彼は疑わしそうに目を細めた。「本当に強がってないか?」私はしっかりと頷いた。「本当に平気だよ」家の中から出てきた祖母がその言葉を耳にし、私の頭を優しく撫でた。「それならよかった」「人生っていうのはね、他人がくれなかったものばかりに執着して生きちゃいけないんだよ。あんたに愛情を注いでくれる人がいたら、その恩だけを大切に覚えておきなさい。傷つけるような人間からは、迷わず距離を置きなさい」私は彼女の温かい肩に寄りかかり、小さな声で答えた。「うん、分かってる」数日後、私は町へ夏休みのアルバイトを探しに出かけることにした。祖母はそれを聞くや否や、難色を示した。「アルバイトなんてしなくていいよ。受験が終わったばっかりなんだから、家でゆっくり休んでおきな」祖父も同調する。「学費ならおじいちゃんとおばあちゃんがちゃんと用意してあるんだから、お前がわざわざ苦労して外で働くことはないんだぞ」私は微笑んで答えた。「分かってるよ。でも、自分のお小遣いぐらいは自分で稼いでみたいの。それに、毎日家でゴロゴロしてるのも退屈だしね」祖母が心配そうに眉を寄せる。「もしかして、気を使ってお金を節約しようとしてるんじゃないのかい?」私は首を横に振った。「違うよ。ただ、社会勉強のためにやってみたいだけ」本当は
父は絞り出すような低い声で言った。「お父さんたちが、お前を蔑ろにしていたよ」彼らが「蔑ろにした」という事実をはっきりと口にしたのは、これが初めてだった。この言葉を聞けば、少しは胸がすくかと思っていた。けれど、何も感じなかった。ただ、凪のように心が静まり返っていた。まるで、長すぎる日照りの後でようやく降ってきた雨のようだった。土の中の種は、とうの昔に干からびて死んでいるというのに。私は淡々と言った。「お父さんたちに愛情がないわけじゃないってことは、分かってるよ」母が弾かれたように顔を上げた。私はそのまま続ける。「でも、その愛情はあまりにも遅すぎるし、少なすぎる。昔はすごく欲しかったけど、今はもう、いらない」母の目から、また大粒の涙がこぼれ落ちた。父はその場に立ち尽くし、何か言おうと唇を動かしたが、結局声にはならなかった。莉子はうつむいたまま、すっかり押し黙っている。慎も無言を貫いていた。彼らはおそらく、この瞬間に至ってようやく薄々気づき始めたのだ。私にとっての傷は、今回の旅行のことではない。1本の鍵のことでもない。数え切れないほどの年月、数え切れないほどの回数、私が常に「一番後回し」にされてきた、無数の瞬間の蓄積なのだと。母が泣きながら尋ねた。「じゃあ、これから先……もう家には帰ってきてくれないの?」私は彼女を見つめ、静かに答えた。「ここが、私の家だから」母は息を呑んで立ち尽くした。私はさらに続ける。「今後、時間ができたらそっちへ顔を出すことはあるかもしれないけど」その言葉を最後に、庭は長い沈黙に包まれた。風が柿の木を揺らし、葉がサラサラと音を立てる。母はうつむき、肩を震わせてむせび泣いていた。私は彼女を抱きしめに行かなかった。これ以上、追い討ちをかけるような残酷な言葉も口にしなかった。彼らをそこまで深く憎んでいるわけではない。憎むというのは、ひどく体力を消耗するものだ。かといって、心から許したいとも思わない。許すことにもまた、途方もないエネルギーが必要だからだ。私はただ、もう彼らの愛情を乞うために立ち回るのをやめたかっただけだ。私には、おじいちゃんとおばあちゃんがいる。それだけで十分だ。両親はその日、夕飯を食
私は答えなかった。しかし、母はすでに私の沈黙の意味を理解していた。「莉子はまだ子供だから、言葉の使い方が分からないだけなの。お兄ちゃんだって、本気で言ったわけじゃないわ」莉子がようやく顔を上げ、不満げに小さく呟いた。「私、別に変なこと言ってないじゃん」庭がふいに静まり返る。母が振り返って莉子を睨んだ。「莉子!」莉子は唇を尖らせて反抗する。「だって、お姉ちゃんの持ってるものがダサいって言っただけだし、間違ってないもん。それに私の部屋狭いのに、他の人と一緒に寝るなんて嫌だっていうの、どこがいけないの?」彼女はこちらを向き、開き直ったような口調で言った。「お姉ちゃんだって、ずっとおじいちゃんたちの家に住んでたんでしょ?急に帰ってきても、こっちが戸惑うのなんて当たり前じゃない」慎も眉をひそめて同調した。「そうだよ。たかが1回の旅行のことで、ちょっと大げさすぎないか?わざと置いていこうとしたわけじゃないんだし。だいたい、父さんたちが鍵を渡しただろ?なんで勝手に帰ったりしたんだよ」私は冷ややかな目で兄を一瞥した。そうか、彼らの目には「1本の鍵を与えれば十分だ」と映っていた。ドアの前で待ち続けた12年を埋め合わせるのに十分。自分の部屋がない惨めさを埋め合わせるのに十分。用意されなかった4枚の航空券を埋め合わせるのに十分。あの家で、私が完全によそ者扱いされていた全ての日々を埋め合わせるのに十分だと。私は急に、彼らに説明することすら無意味に思えてきた。なぜなら、彼らはその痛みを一度も経験したことがないからだ。慎には幼い頃から立派な書斎があった。莉子には幼い頃から可愛い個室があった。彼らは、自分の両親の家のドアの前で、誰かが内側から鍵を開けてくれるのを待つ惨めさを知らない。脱衣所に立ち、4枚のバスタオルを見つめながら、1枚も自分のものがないと思い知らされる時の息の詰まるような悲しさを知らないのだ。私が口を開く前に、祖父が重い音を立てて机を叩いた。「お前は当然、大したことじゃないと思ってるんだろうさ」彼の声は決して大きくなかったが、その場にいた全員を黙らせるだけの凄みがあった。「置いてけぼりにされたのが、自分じゃないからな」慎の顔が強張る。祖父は慎を真っ