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10 Chapters

第1話

「おめでとうございます。神宮寺社長と桐島さんも、ついに今日という日を迎えましたね」招待客の一人がグラスを手に立ち上がり、笑顔でこちらに掲げた。「白石さんも、そう落ち込まないで。神宮寺社長に気に入られて、愛人にしてもらえるだけでも幸せでしょう」あちこちから笑い声が湧き起こった。「いやあ、神宮寺社長も趣味が悪い」「この子、まだ大学生だろ。こんな余興、見たこともないだろうな」私はその場に立ち尽くした。身にまとっているのはウェディングドレスなのに、大勢の前で裸にされ、見世物にされているようだった。今日ここへ来た人間は、私を除いて全員が真相を知っていたのだ。恭弥はスーツの内ポケットからカードキーを取り出し、私の手のひらに押し込んだ。「いい子だから、マンションで待ってろ。式が終わったら会いに行く」彼は顔を寄せ、吐息が耳に触れるほどの距離から、二人にしか聞こえない甘い声で囁いた。「約束しただろ。式の翌日は、ベッドから起き上がれないほどかわいがってやるって」私は呆然と立ち尽くした。悔しさと屈辱が波のように胸へ押し寄せ、息が詰まった。「どうして?」涙をこらえながら、まっすぐ彼の目を見つめた。「私を好きじゃないなら、そう言ってくれればよかった。どうして、こんなふうに私を辱めるの?」恭弥はそんな私を見て、いっそう慈しむように目を細めた。目尻の涙をそっと拭い、優しく言った。「栞、好きじゃないなんて言ってない。お前は本当に純粋で、かわいい。だから、俺に一途なお前が、騙されていたと知って打ちのめされる姿を見るのが好きなんだ」全身の血が一瞬で凍りついた。私は信じられない思いで恭弥を見た。まるで、初めて見る人のようだった。昨夜、彼が自らドレスの試着を手伝ってくれた姿を、そのときもはっきり覚えていた。後ろから私の腰を抱き、甘やかすように言ったのだ。「栞、知ってるか?初めて会ったとき、この子はウェディングドレスが似合うだろうなって思った」頬を赤らめた私は尋ねた。「じゃあ、今は?」彼は笑って、私の耳たぶに口づけた。「想像してたより、ずっときれいだ」いつの間にか、真奈がそばまで来ていた。彼女はすでに、私のものよりさらに豪華なウェディングドレスに着替えていた。恭弥の肩を親しげに叩き、か
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第2話

マンションは32階にあり、床まで届く大きな窓から街の半分ほどを見渡せた。冷蔵庫には私の好物がぎっしり詰められ、ウォークインクローゼットには季節ごとに分けられた服が並んでいた。洗面台の歯ブラシまで、私がいつも使っていたメーカーのものだった。スマホは取り上げられ、代わりに恭弥が用意した専用端末を持たされた。私がどこで何をしているか、彼にはすべて分かるようになっていた。力なくソファに座り込み、ようやく気づいた。私は彼に飼われる籠の鳥になったのだ。夜になると、宴席の酒の匂いをまとった恭弥が帰ってきた。冷蔵庫の中身に手がつけられていないと知ると、瞳に心配そうな色が浮かんだ。「栞、何も食べずに俺を脅すつもりか?」私は顔を上げ、かすれた声で言った。「ここから出して」それを聞くと、彼は怒るどころか、小さく笑った。私の前まで来てしゃがみ込み、その仕草だけなら優しいとさえ言えた。「どこへ行くつもりだ。大学に戻るのか?狭い部屋で暮らして、毎日学食やコンビニで適当に食事を済ませる生活に戻るのか?」私は答えなかった。彼は手を伸ばし、顔にかかった髪を耳にかけた。「どうした?まだ嫌なのか?」その声には、わずかな苛立ちが混じっていた。「栞、俺のことは分かってるだろ。俺は滅多に二度目のチャンスはやらない」目を閉じると、胸をわしづかみにされたような鈍い痛みがした。返事をせず、逆に尋ねた。「最初から、ずっと私を騙していたの?」恭弥は一瞬目を見開き、やがてゆっくり眉をひそめた。次に口を開いたとき、その顔には苛立ちが浮かんでいた。「今さら聞いて、何になる?」彼は私の隣に腰を下ろし、自分のグラスに酒を注ぐと、それ以上何も言わなかった。記憶は、あの夏へと戻っていった。彼は3か月かけて私を口説いた。焦ることも、しつこく付きまとうことも、機嫌を取ろうとすることもなかった。ただ毎日、私が図書館でいつも座る席の向かいに決まった時間に現れた。飲み頃のカフェラテを一杯置くと、向かいに座って静かに本を読んだ。ある日、たまらず尋ねた。「神宮寺さん、いったい何が目的なの?」ようやく狙いどおりになったとでもいうように顔を上げた彼の瞳は、きらきら輝いていた。「決まってるだろ。お前だよ。それ以外に
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第3話

私は呆然と立ち上がった。胸の奥が押し潰されるように苦しく、まともに息もできなかった。「恭弥、嫌だと言ったら?」かすかな血の匂いが漂っていた。恭弥は顔も上げず、煙草に火をつけた。「栞、ずいぶん言うことを聞かなくなったな」灰を落とすと、顔つきが険しくなり、苛立ちと怒りがにじんだ。「俺が甘やかしすぎたせいで、自分と俺の立場の違いも忘れたのか?」言い終わると、玄関の外から警備員が二人入ってきた。二人はいきなり私の膝裏を強く蹴った。痛みに耐えきれず、その場に膝をついた。涙が込み上げたが、必死にこらえた。恭弥の言うとおりだった。彼は神宮寺グループの社長で、決断は速く、手段にも容赦がなかった。名家の御曹司でさえ一目置く存在だった。一方の私は、学費にも困る大学生にすぎなかった。彼が一言命じれば、これまでの努力など簡単に踏みにじられてしまう立場だった。交際を公表したばかりのころ、友人たちは皆、恭弥は冷酷で、本気で人を愛するような男ではないと忠告してくれた。けれど、あのころの私は信じなかった。彼は私を本当に大切にし、怖がらせまいと声を荒らげることすらなかったからだった。そして今、警備員の平手が頬に飛んできて、ようやく分かった。彼が欲しかったのは、夫婦で弄ぶための籠の鳥だったのだ。「謝れば済む、栞」恭弥は眉を寄せ、指に挟んだ煙草が燃え尽きかけていることにも気づいていなかった。私は歯を食いしばって彼をにらみ、口を閉ざした。数秒ほど静寂が続いたあと、再び平手が飛んできた。今度の平手打ちは、体が横倒しになるほど強く、口元を床にぶつけて血がにじんだ。さらにもう一度、また一度と続いた。視界が暗くなり、痛みも次第に麻痺していった。真奈が止めに入ったのは、それからだった。「もういいわ、恭弥。あなたの心には私しかいないって、よく分かったから。それにしても、ずいぶんひどくやったのね。まだ若いんだし、聞き分けがないのも仕方ないわ」彼女は腫れた私の頬を指先でつつき、面白そうに笑った。「こんな顔になったら、かわいくないじゃない。恭弥、あとでちゃんと冷やしてあげてね」真奈が帰ると、恭弥は私の前にしゃがみ込んだ。濡らしたタオルで口元の血をそっと拭う。その手つきは慎重で、優しかった。「痛
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第4話

そのときの私は、彼が言った「後悔」の意味を知らなかった。ようやく情けをかけ、私を本当に解放してくれたのだと思っていた。だが大学へ戻ると、行き交う人たちが皆、嘲りと軽蔑の目を向けてきた。そこで初めて、何かがおかしいと気づいた。私のあられもない姿を写した写真が、大学の匿名掲示板に投稿され、瞬く間に拡散されていた。頭が真っ白になり、目の前が大きく揺れた。震える手では暗証番号を何度も間違え、なかなかスマホを開けなかった。【衝撃!4年生のS、神宮寺グループ社長の秘密の愛人。学生生活の裏で長年囲われていた!】投稿された写真にはぼかしが入っていたが、それでも私だと分かるものだった。写っていたのは、昨夜、恭弥といたあのベッドだった。あのとき彼がスマホで撮影していなかったことは確かだった。だとすれば、部屋にカメラが仕掛けられていたとしか考えられなかった。胃の中が激しく込み上げ、花壇の陰へ駆け込んで吐き続けた。その間も多くの学生が通り過ぎ、写真を撮る者や動画を回す者、聞こえよがしに罵る者までいた。「清楚そうな顔して、裏ではずいぶん派手に遊んでたんだな」「一晩いくら?俺にも相手させてよ」逃げるように寮へ戻ったときには、惨めなほど身なりが乱れ、服も何か所か破れていた。ところがドアを開けると、仲のよかったルームメイトたちは荷物をまとめ、別の部屋へ移ろうとしていた。私を見るなり距離を取り、よそよそしい顔をした。「栞がそんなことする人だったなんて、思わなかった」私は何度も首を振った。「違う。私、不倫なんてしてない」だが、誰も信じてくれなかった。恭弥に婚約者がいたのに、3年も付き合って何も知らなかったはずがない。それが皆の言い分だった。午後、学生課の担当者から電話がかかってきた。品位を著しく損なう行為があったとして、大学院への推薦資格を取り消すという。私は騙されたこと、自分こそ被害者であることを必死に説明した。しかし担当者は、困り果てたようにため息をついただけだった。「学内の研究棟2棟と設備は、神宮寺グループから寄贈されたものです。仮にあなたが被害者だとしても、大学にはどうすることもできません」電話が切れ、ようやく恭弥の言葉の意味を理解した。彼は私を屈服させようとしていた。逆
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第5話

(恭弥視点)恭弥は、スマホに表示されたニュース速報を見つめたまま、親指を宙で止めた。突然、激しい胸騒ぎに襲われた。「恭弥、もう見なくていいじゃない」真奈は気だるそうに言った。「あの子があなたのものだって、みんな知ってるのよ。手を出す人なんているはずないわ。考えすぎよ」恭弥は返事をせず、栞に電話をかけた。【おかけになった電話は、電源が入っていないためかかりません】眉を寄せた。ついさっきまで呼び出せたのに、そのときは電源が切られていた。もう一度かけたが、やはり同じだった。3回、4回と繰り返すうちに、無機質な自動音声が耳にこびりつき、頭が痛くなるほどだった。真奈は気にも留めずにリンゴの皮をむき、顔も上げなかった。「あの子は意地っ張りだから、わざと出ないであなたを困らせてるだけよ。この前と同じ。恭弥、忘れたの?おとといだって、あなたの手を噛んだじゃない。飼い主を噛んだくせに、よく拗ねていられるわね」恭弥は複雑な顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。スマホをソファに放り投げ、苛立たしげにつぶやいた。「そうだな。あいつはいつまでたっても、言うことを聞こうとしない」そう言いながら、親指で無意識に手の甲の傷をなぞっていた。そして、あの夜の光景を思い出した。栞はかわいかった。怒って噛みついたときでさえ、追い詰められた子羊のようだった。真奈は、彼が上の空になっていることに気づいた。リンゴを置くとするりと彼の胸に身を寄せ、爪で何度も胸元をなぞった。「恭弥、あなたと正式に結婚した妻は私よ。まさか、本気になったの?愛人一人のために私と険悪になるつもり?そんな話が広まったら、世間の笑いものよ」恭弥の顔つきは、すぐに和らいだ。「真奈は心が広いな。さっきは俺が悪かった」そう言って身をかがめ、真奈を強く抱き締めた。やがて広いリビングに、艶めいた声が響き始めた。夜、真奈が眠ったあと、恭弥はどうしても気になり、車であのマンションへ戻った。エレベーターの扉が開いた瞬間、かすかな腐敗臭が漂ってきた。眉をひそめながら中へ入った。部屋は無人で、寝室にもバルコニーにも、誰かが暮らしている気配はなかった。冷蔵庫の扉は少し開いたままで、中のものには一切手がつけられていなかった。自分で用
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第6話

恭弥は、証拠品袋に入った靴を一目で見分けた。栞が大学へ入った年の秋、大学近くの小さな店で買ったものだった。2000円の靴だったが、栞は1週間ずっと喜び、毎晩古い歯ブラシで靴底の縁を磨いていた。その後、数万円から数十万円もするハイヒールやスニーカー、特注品も数え切れないほど買い与えた。栞はどれも受け取ったが、引っ越すたび、荷物の一番上には必ずこのキャンバスシューズを載せていた。恭弥が貧乏性だとからかったとき、栞は靴箱を抱えて離さず、ひどく真剣な顔で言った。「あなたが初めてくれたプレゼントなの。ほかのものとは違う」恭弥は手を伸ばし、証拠品袋越しに靴の表面に触れた。指の震えは、どうしても止められなかった。警察官が取調室のドアを開けた。「神宮寺さん、容疑者が供述しました」マジックミラーの向こうでは、男が三人、金属製の椅子に座っていた。一人は頭に包帯を巻き、右手の小指を途中から失っていた。取調官が尋ねた。「誰の指示だ?」主犯格の男は、乾いた唇を舐めた。「最初に頼んできた男は、平手打ちを何発か食らわせて脅せばいいって。報酬は100万円だった。そのあと女から電話が来て、報酬を600万円まで引き上げるから、もっときつく痛めつけろって言われた」「どんな女だ?」「名前は知らない。甘ったるい声で、自分は神宮寺夫人だと言ってた」恭弥の顔から血の気が引き、呼吸が荒くなった。男の供述は続いた。「あの女、最初は暴れて、スマホで誰かに電話してた。でも、つながらなかったみたいで。俺たちがその……やろうとしたら、急に人が変わったみたいに抵抗して、仲間の小指を噛みちぎった。それから川へ飛び込んだんだ。流れが速くて、引き上げられなかった」恭弥は、怒りで全身が冷たくなるのを感じた。あの夜、彼はバスルームにいて電話に出られなかった。真奈が出た。だが報酬を上乗せした張本人だったため、その場で切ったのだ。あれは、栞からの救いを求める電話だった。恭弥は立ち上がった。目は真っ赤に充血していた。警察署を飛び出し、車のドアを開けた。助手席では真奈が口紅を塗り直していた。戻ってきた彼を見ると、かすかに笑った。「どうしたの?顔色が悪いわよ」言い終える前に、恭弥の手が真奈の首を締め上げた。恭弥は真奈をシー
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第7話

(栞視点)私は死んでいなかった。どれほど長く流されたのか分からなかった。途中で何かにぶつかったらしく、肋骨の辺りが鈍く痛んだ。次に意識を取り戻したとき、誰かの手が川辺の葦の中から私を引き上げていた。「まあ大変!こんなところに若い娘が!」私を助けてくれたのは、小さな商店を営む藤井のおばちゃんだった。どこから来たのかも、なぜ傷だらけなのかも聞かなかった。ただ私をベッドに寝かせ、温かい飲み物を飲ませながら、ぶつぶつ文句を言いつつ世話をしてくれた。「運の強い子だね。危ないところだったよ」私は店の屋根裏部屋で、丸1週間寝込んだ。熱が下がり、傷も少しずつ塞がっていった。おばちゃんは娘のお古を一式探してくれ、引き出しからはさみも取り出した。「髪がこんなに絡まってる。もう切ってしまいな」はさみを受け取り、鏡の前で少しずつ髪を切った。長い髪が床に落ちるたび、過去のしがらみまで切り離されていくようだった。おばちゃんには、幸子という名前だと話した。彼女は横目で私を見た。明らかに信じていなかったが、それ以上追及しなかった。「そうかい、幸子。仕事はできる?店を手伝う人が足りないんだ」私はうなずいた。それからは、同じような日々が過ぎていった。昼は品出しをして店番をし、夜は窓を開けて川風に当たりながら眠った。町はとても小さく、恭弥や神宮寺グループの気配など、どこにもなかった。店の隅には古いテレビがあった。映りは悪く、見られる番組もわずかしかなかった。ある日の昼、棚のカップ麺の向きをそろえていると、突然ニュースが流れた。【神宮寺グループ社長の神宮寺恭弥氏が、亡くなった婚約者・白石栞さんに関する情報提供に20億円の懸賞金。神宮寺氏は桐島グループと完全に決別したとみられています】画面の中の恭弥は目が落ちくぼみ、痩せた体にスーツがだぶついていた。かつて何もかも思いどおりにしていた男が、今は生気を失い、憔悴しきっていた。おばちゃんが茶碗を手にやって来て、テレビをちらりと見た。「お金持ちってのはすごいねえ。人捜しに20億円だって」「おばちゃん、チャンネルを変えて」彼女は私の顔を見たが、何も言わず、農業番組に変えた。私はうつむいて、またカップ麺を並べ始めた。心には、何一つ湧き
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第8話

外は数秒ほど静まり返った。そのあとすぐ、拳で鉄板を叩く鈍くせわしない音が響いた。「栞!」ひどくかすれた声だった。「栞、開けてくれ。頼む……」私はレジの後ろの椅子に座り、手元の小銭を数えた。彼はいつまでもシャッターを叩き続けた。やがて音がやみ、代わりに額を鉄板に押し当てたような鈍い音がした。「死んでなかった……本当に、生きてた……よかった……」彼は泣いていた。小銭を分け、レジのそれぞれの仕切りに収めた。おばちゃんが裏口から入ってきて、シャッターと私を交互に見た。「あの人……あんたを捜して来たのかい?」「知らない人」彼女はもう一度シャッターに目をやり、何か言いたげなまま裏へ行った。恭弥は午後いっぱい、店の前にいた。日が暮れても帰らなかった。私は裏口から遠回りして、借りている小さな平屋へ戻った。その夜は激しい雨が降り、空気には土の匂いがほのかに混じっていた。翌朝、仕事へ行こうとドアを開けると、恭弥が玄関先の段差にうずくまっていた。全身ずぶ濡れだった。目を真っ赤に腫らし、書類の束と黒いカードを握り締めていた。私を見るなり勢いよく立ち上がり、ふらついて転びそうになった。「栞!」「人違いです」淡々と彼を見た。「私は幸子です」髪を短く切り、日に焼けて痩せ、身につけているのはおばちゃんの娘の古着だった。それでも彼は、私から目を離さなかった。「栞、まだ俺に怒ってるんだな」声が震えていた。私は答えず、彼を避けて歩き出した。恭弥はあとを追い、書類の束を差し出した。「このカードに200億円入ってる。それと……大学院の推薦資格も、元に戻した。大学とはもう話がついてる。大学へ戻らないか?」これ以上ないほど低姿勢で、その目は私の反応を恐れるように揺れていた。結婚式でカードキーを私の手に押しつけた、あのときの姿とは別人だった。大学の公印が押された、大学院への推薦資格の回復を証明する書類。彼は、たった一言で私の資格を奪った。そして今度は、また一言で返そうとしていた。私の人生は、すべて彼の気分一つで操られていた。私はその書類を受け取った。彼の目が輝き、半歩近づいた。私は彼の目の前で、紙を一枚ずつ、ゆっくりと破いた。紙片が宙を舞い、青
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第9話

恭弥は町に居座り、帰ろうとしなかった。彼はおばちゃんから店を買い取った。代金を受け取ったおばちゃんは、複雑そうな顔で私の肩を叩いた。「幸子、あの人があんまり大金を出すから、断れなかったよ。でも、ここで働きたくなくなったら、いつでも辞めていい。私が面倒を見るから」私は大丈夫だと答え、そのまま働き続けた。店の持ち主は変わったが、商品は同じで、私も変わらずレジの後ろに座っていた。違うのは、店先に折り畳み椅子が一脚増えたことだけだった。恭弥は毎日、朝から晩までそこに座った。よく手に、私が以前好きだった食べ物を持っていた。中へ入ろうとはせず、ただ店先で小さくなっていた。近所の人たちは噂し始めた。「あの男、幸子とどういう関係なんだ?」「金持ちそうなのに、どうして毎日店の前にいるのかね」「まさか、人さらいじゃないだろうね?」彼のせいで、静かだった生活はすっかり乱された。7日目の夜、とうとう耐えきれず、勢いよく玄関を開けた。彼は段差にしゃがみ、温かいうどんの入った器を手にしていた。私を見上げる目は、機嫌をうかがうように揺れていた。「栞、会ってくれるのか?」「神宮寺恭弥」その言葉を遮った。「ひざまずいて泣いて、お金を渡して、大学院の推薦をどうにかすれば、昔に戻れるとでも思っているの?」彼は器を置いて立ち上がり、必死に首を振った。「違う……栞、俺が間違ってた。償いたいんだ。頼むから、機会をくれ……」彼は手を伸ばし、私の服の裾をつかんだ。その手を見下ろした。手の甲の歯形は、薄い傷痕になっていた。「償う?何をどう償うの?」1年間、誰にも話せずに胸の中にため込んできた怒りが、一気に込み上げた。「私が身寄りのない人間だって、知っていたでしょう」声は震えていたが、一語一語をはっきりと言った。「私には父も母もいない。この世界で、家族と呼べる人はあなただけだと思っていた」恭弥の顔から、少しずつ血の気が引いていった。「大学で過ごした3年間、私はあなたにすべてを預けた。あなたは、自分には何もかもそろっている。ただ、私だけが足りないと言った。私は、それを信じた。それなのに、あなたは何をした?」首を指さした。あの夜、地面に押さえつけられたときについた傷痕が残っていた。
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第10話

あの夜を境に、恭弥は姿を消した。店先の折り畳み椅子だけが残され、うっすら埃が積もっていた。おばちゃんによると、彼が出ていったのはまだ夜が明ける前だったという。車はゆっくり走り、路地の出口で長いこと停まったあと、ようやく角を曲がっていったらしい。私は折り畳み椅子を片づけ、物置へしまった。日々は再び静けさを取り戻した。1か月後、おばちゃんがテレビを見ながら突然私を呼んだ。「幸子、ちょっとおいで。この人、前にあんたの家の前に座り込んでた人じゃないかい?」画面の中では、裁判所の前に立つ恭弥が記者たちに囲まれていた。痩せ細り、スーツはだぶついていたが、目にははっきりとした光が戻っていた。ニュースの見出しには、こう表示されていた。【神宮寺グループ社長が妻・桐島真奈を自ら告発性的暴行の教唆および傷害の疑い】映像は法廷内の様子に切り替わった。被告席の真奈は、急に老け込んだように見え、疲れ切っていた。法廷で取り乱し、恭弥を指さして叫んだ。「恭弥、正気なの!?死んだ女一人のために、私の一族を潰すつもり!?」恭弥は傍聴席に座り、無表情のまま一言も発しなかった。判決は、懲役15年。桐島グループも全資産を清算し、完全に破綻した。その1週間後、また新たなニュースが流れた。恭弥は神宮寺グループの全株式と相続権を放棄。個人名義の資産はすべて、各地の児童養護施設と女性・子どもの支援団体へ寄付したという。ニュース映像の中で、彼は何一つ持たずに会社のビルを出てきた。ただ、スーツの内ポケットだけが、小さな四角い何かで膨らんでいた。一枚の写真だった。私はテレビを消した。おばちゃんは何か言いたげに、私を見た。「幸子、つらくないのかい?」首を振った。あの出来事が残した心の傷は、とうに何の痛みも感じなくなっていた。「つらくないよ。おばちゃん、今日は私が夕飯を作るね」それから半年が過ぎた。ある日、裏庭で布団を干していると、家の中でテレビを見ていたおばちゃんがため息をついた。「ああ、この前までよく店の前に座ってた、あの男前の人……まだ若いのに、亡くなったんだねえ」シーツを持つ手が、一瞬止まった。家に入ると、テレビでは短い訃報が流れていた。【神宮寺恭弥、28歳。長期にわたる重度
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