翌朝、紗月はいつもより早くホテルに着いた。昨夜、雨の中で崩れ落ちた蓮司の姿が、何度も浮かんだ。けれど、その光景を同情や愛情にすり替えたくはなかった。来ないでと言われても待ち続けたあの行動は、心を揺さぶりはしても、こちらの境界を守ったものではない。ホテルの警備チームには、蓮司との個人的な面談を設定しないよう伝えた。婚礼についての会議が必要なら、怜奈とルミエールの担当者が同席する場でのみ行うことにした。「桐生会長が、またいらしたら?」宮瀬真帆が尋ねた。「仕事でなければ、お引き取り願って。湊の話もしないで」紗月はリハーサルの確認表を開いた。昨日、取引先への圧力があったものの、花と照明の予定はまだ変わっていない。個人的な事情を理由にスタッフを急かすことはせず、当初の手順どおりに進めさせた。午前10時頃、湊を預かるシッターから急な連絡が入った。家族がけがをして、病院へ行かなければならないという。幼稚園は教員研修で休みだった。紗月が会議を取り消そうとすると、真帆が言った。「1時間だけ、私が見ています。ホテルのカフェにいて、お昼前には会社へ連れていきますから」「大丈夫?」「今日は発注の確認だけです。湊の顔が外から見えない、奥の席にいますね」子供をホテルに連れてくるのは気がかりだった。それでも紗月は、シッターの待つ家へ戻り、まず事情を説明した。湊は恐竜のスケッチブックと色鉛筆をバッグに入れ、真帆の手を握った。「ママ、お仕事終わったら来る?」「うん。1時間だけ、真帆おばちゃんと待っていてね」「ケーキ、食べてもいい?」「お昼の前だから、1切れだけね」ホテルのカフェのいちばん奥の席は、ロビーから直接は見えなかった。真帆は湊の向かいに座って発注の電話を受け、湊はスケッチブックに大きなお城を描いた。同じ頃、蓮司は、外部の弁護士と実家での面談記録を確認するため、ホテルの別館に来ていた。昨夜の濡れた服ではなく、濃いグレーのスーツを着ていたが、顔には眠れていない跡がはっきり残っていた。ロビーを横切りかけて、黄色い通園バッグを見つけた。足が止まった。湊は舌先を少し出し、色塗りに夢中になっていた。真帆は数歩離れたカウンターで、納品業者と電話をしている。蓮司は近づかなかった。神谷室長にも、その場を外してもらった。「宮瀬室長に、私がここにいることだけ伝えてく
Last Updated : 2026-09-15 Read more