元夫の結婚式を、私が担当することになりました

元夫の結婚式を、私が担当することになりました

last updateLast Updated : 2026-09-15
By:  6jayUpdated just now
Language: Japanese
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結婚式を幸せに導くウェディングプランナーとして働く彼女のもとに、思いがけない依頼が舞い込む。新郎は、かつて愛し、そして離婚した元夫だった。過去の傷も未練も胸の奥にしまい、彼の再婚を完璧にプロデュースしようとする彼女。しかし、準備を重ねるほど、終わったはずの二人の想いと誤解が再び揺れ始める。切ない恋と後悔が交差する、大人の再会ラブストーリー。

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Chapter 1

第1話 赤の他人

「申し訳ありません。娘さんは二月十五日、午前一時十三分に蘇生処置の甲斐なく、お亡くなりになりました」

寺原真衣(てらばら まい)はウサギのぬいぐるみを握りしめたまま、無表情で手術室をじっと見つめていた。

彼女は娘の最後の旅立ちを見送るため、静かに歩み寄った。

手術台の上、真衣は娘の枯れ枝のように細く乾いた小さな手をそっと握った。

その手は冷たく、すでにぬくもりは失われていた。

彼女は静かに娘の髪を整えた。

脳裏には、娘がまだ救急室へ運ばれる前、かすかに漏らした弱々しい声がよみがえる。

「ママ……おじさんは、まだ来ないの?」

娘が「おじさん」と呼んでいたのは、実の父親である高瀬礼央(たかせ れお)だった。彼は娘に「パパ」と呼ぶことを許さず、そのくせ忘れられない初恋相手の息子には「パパ」と呼ばせていた。

高瀬千咲(ちさき)のいちばんの誕生日の願いは、パパと一緒に過ごすこと、そして一度だけでも「パパ」と呼ばせてもらうことだった。

千咲は体が弱く、去年の冬、冷たい風の中で礼央が帰ってくるのを待ち続けたせいでインフルエンザにかかり、肺炎を患った。今年に入ってからは病状が急激に悪化し、ずっと入院していた。

今日もまた、寒い冬の日だった。千咲はこっそりと家の門の外で、礼央の帰りを待ち続けていた。

倒れていたところを真衣が見つけ、すぐに病院へと運ばれた。

医師からは、危篤状態だと宣告された。

真衣は礼央に、娘の誕生日くらいは一緒にいてほしいと、必死に懇願した。

彼はそれを承諾した。

だが、またしても約束は裏切られた。

彼女は枯れ枝のように痩せ細った娘の小さな体をそっと抱きしめ、優しくささやいた。「いい子ね……もう、つらいことは終わりよ」

もう、病の苦しみに耐える必要はない。

もう、毎日父親に嫌われ、決して届かない父の愛を求めて泣くこともない。

「ママ、どうしておじさんは私にパパって呼ばせてくれないの? でもお兄ちゃんはいいのに……

ママ、萌寧さんがお兄ちゃんのこと好きだから、パパもお兄ちゃんのこと好きなんだよね……」

娘の無邪気な問いかけが、今もなお彼女の耳元で何度も何度も響いているようだった。

幼い彼女には、なぜパパが自分を好きになってくれないのか、なぜ自分だけ「パパ」と呼べないのか、その理由がどうしてもわからなかった。ただ、きっと自分がお兄ちゃんよりも劣っているから、だからパパに嫌われているのだと、そう思い込んでいた……

六年前、彼女は礼央とふとしたことで関係を持ち、千咲を身ごもった。いわゆる授かり婚だった。

千咲を産んだ時、彼女は難産の末、大量出血したが、彼は一度も顔を見せることはなかった。

その頃、礼央は憧れの女性・外山萌寧(とやま もえ)の出産に付き添っていたのだ。どちらが大事か、それは一目でわかることだった。

萌寧は男の子を産んだ後、その子を礼央に預けて出国し、そのまま消息を絶った。

一方、真衣は長年、礼央を一途に想い続けてきた。彼の心を少しでも引き寄せたくて、萌寧が産んだ子供を受け入れ、我が子同然に心を込めて育て上げた。

彼は千咲に「パパ」と呼ばせることを決して許さなかった。だが、萌寧の息子にはまるで宝物のように接した。これが、決定的な違いだった。

難産の時、彼女は本当は気づくべきだったのだ。あの男の心は氷のように冷たく、どれほど手を尽くしても、決して温めることはできないということに。

本当は千咲のほうが午前中に先に生まれていた。それなのに、彼は萌寧の息子を「兄」にして、高瀬家の長男としての地位を与えた。

その結果――

誰もが、その子こそ礼央の本当の息子だと信じて疑わなかった。

そして、千咲はただの私生児だと蔑まれたのだ。

医師は彼女の震える背中を重苦しい面持ちで見つめながら、そっと声をかけた。「お父様は……まだお見えになっていないのですか?」

この子・高瀬千咲が入院してからというもの、父親の姿は一度たりとも見かけることはなかった。

真衣の瞳は冷たく光り、皮肉げにかすかに笑った。「父親なら、私生児を連れてその実の母親に会いに行き、誕生日パーティーを開いていますよ」

毎年、同じことの繰り返しだった。

それでも彼女は、馬鹿みたいに四年間も他人の子を育て続けてきた。

同じ誕生日の子供なのに、千咲には冷たい仕打ちしか与えられなかった。

医師は呆然とし、目の前の哀れな女性に、どんな言葉をかければいいのか分からずにいた。

-

千咲が亡くなって初日、真衣は全ての手続きを済ませた。

北城の火葬手続き確認書には、父母双方の署名が必要だった。

真衣は港湾の別荘へ戻り、千咲の遺品を静かに整理した。

その時、階下から車の音が聞こえてきた。

「パパ!いつママを捨てて萌寧さんと結婚するの?萌寧さんにママになってほしい!」

礼央はコートを腕にかけ、身をかがめて子供である高瀬翔太(たかせ しょうた)の頬を優しくつねった。「翔太、萌寧さんをママって呼んでいいんだよ」

真衣は階上で、その会話の一部始終をはっきりと耳にした。

胸の奥がきゅっと締めつけられる。彼女はそっと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

「ママにお風呂に入れてもらって、着替えたら萌寧さんを迎えに行きなさい」

翔太は嬉しそうに跳びはねた。「やった!」

けれど次の瞬間、翔太の小さな顔は曇り、しょんぼりとつぶやいた。「でも……ママが知ったら、行かせてくれないかも。ママ大嫌い、いつも外のもの食べさせてくれないんだもん」

礼央は翔太の頭を撫で、やさしく背中を押すように言った。「パパがいるから、ママは何も言えないよ」

礼央はふと目を上げ、ちょうど階段を下りてくる真衣と視線がぶつかった。

だが彼の顔は淡々としていて、何の感情も浮かばず、視線を逸らして見なかったことにした。

翔太は駆け寄り、真衣の手を握って言った。「ママ、お風呂入れて。あとでお出かけするんだ!」

真衣はその手を静かに振りほどき、顔を上げて礼央を真っすぐに見つめた。「何か……忘れてない?」

礼央は淡々と真衣を一瞥した。「何を?」

何年経っても、礼央はずっと冷たかった。彼女に対しても、千咲に対しても、冷たさは変わらなかった。

真衣は自嘲するように微笑んだ。

そうね。礼央が千咲と翔太の誕生日が同じ日だなんて、覚えているはずがない。

翔太の誕生日は毎年、萌寧と一緒に盛大に祝われる。

その一方で、千咲は毎年、毎年、冷たい冬の風の中で、決して帰ってこない父を待ち続けていたのだ。

「話がある」

礼央は嘲笑うように鼻で笑った。「今日は忙しい」

「長くはかからないわ。サインして」

真衣は静かに言い、手にしたファイルを開いて、署名する場所を指し示した。

礼央はひどく不機嫌そうで、まるで彼女と一秒でも一緒にいること自体が鬱陶しいとでも言いたげだった。

彼は眉をひそめ、勢いよく署名すると、書類を真衣に突き返した。

「今夜は翔太と外で泊まるから帰らない。明日の朝、学校の先生に翔太が半日休みをもらうことを伝えておけ」

真衣は奥歯を噛みしめ、書類を握る指先が真っ白になるほど力を込めた。

もし彼がほんの少しでも真剣に目を通していれば。

すぐに気づいたはずだ。文書の一枚は離婚届、もう一枚は千咲の火葬手続きの書類だということに。

それなのに、彼はどちらの書類にも無造作に、心を込めることなくサインしたのだった。

「それと、千咲に電話してくるなと伝えろ」

真衣は冷たく笑った。

千咲はもう電話なんてかけてこない。

なぜなら、彼女はもう、この世にはいないから。

礼央は、普段とは明らかに違う真衣の態度にも、まるで気にする様子はなかった。

時間が迫る中、萌寧の方から電話が入り、彼らがいつ到着するのか尋ねてきた。

翔太はお風呂にも入らず、着替えもしないまま、礼央のあとについて外へ出た。「今夜は新しいママにお風呂に入れてもらう~」

礼央は甘やかすようにその言葉に応えた。

「いいよ」

真衣はその場に立ち尽くし、彼らの去っていく背中を、ただ呆然と見つめ続けた。

彼女は家の中にある、自分と千咲に関係するすべてのものを整理し、燃やした。

そしてその足で火葬場へ向かい、千咲の遺体を火葬した。

遺骨を受け取った時――

真衣の涙は、こらえきれずに頬をつたって落ちた。

「千咲……ママを待ってて。すぐに会いに行くから……」

-

一方その頃。

礼央は翔太を連れ、萌寧の帰国歓迎パーティーに出席していた。

三人は和やかに語らい、まるで本当の家族のように親密だった。周囲の人々も皆、彼らの家庭の幸せを称賛し、真衣がいつまでも高瀬夫人の座に居座り、彼らの幸せを壊しているのだと噂していた。

その時、誰かが人混みをかき分けて礼央の前に駆け寄ってきた。

「高瀬社長、奥様とお嬢様が本日火葬されました。どうか葬儀場へ、遺骨を受け取りにいらしてください」

礼央は眉一つ動かさず、冷えきった声で言った。「いい歳して、そんな嫉妬じみた茶番をいつまで続けるつもりだ?」

「ですが……火葬許可書にはご自身で署名されましたし、離婚届にも……」

その言葉に、礼央の心臓は一瞬、脈打つのを忘れた。「……何だと?」

礼央はほとんどスピード違反のまま火葬場に辿り着き、妻と娘が火葬炉に送り込まれる光景を目の当たりにした。

それだけの光景で、彼の胸は何かに引き裂かれるような痛みに貫かれた。

火葬場の職員が聞いたのは、彼が「ドサッ」と倒れる音だけだった……

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第1話 赤の他人
東京・南青山の中心部。斜めに切り取られた一面のガラス窓から午後の陽が差し込み、冷たい大理石の床に白い光を散らしていた。日本の上位0.1%に属するVVIPだけに門戸を開く、最高級ウェディングプロデュース会社『ルミエール』。その代表、一ノ瀬紗月(いちのせ さつき)は、書類をめくる手を止めず、落ち着いた明瞭な声で指示を出した。「グランドボールルームのメイン装花は、オランダの花市場から直輸入した白いアジサイとスズランにすべて差し替えて。バージンロードの壇はあと3センチ高く。ピンスポットの照度は10%落として、シルクのベールの輪郭がいちばん美しく見えるように」「はい、社長。ただいまフローリストの統括チームと舞台演出チームに伝えました」制作統括を務める宮瀬真帆(みやせ まほ)は頭を下げ、素早くタブレットを操作した。紗月のまなざしは鋭い。わずかなずれも、妥協も許さなかった。5年前、離婚届と捏造された証拠を突きつけられ、わずかな慰謝料すら受け取れずに追い出された。あの頃の面影は、今の彼女にはどこにもない。幼い子をひとりで抱え、異国で身を削るように働いて築き上げたルミエール。今や政財界の大物たちが何か月も前から予約を競う、他に並ぶもののないブランドとなっていた。そのとき、宮瀬室長が少し緊張した様子で、決裁書類のファイルを紗月のデスクにそっと置いた。「社長、先ほど桐生グループの秘書室から、直通回線で至急のご依頼が入りました。今年の下半期、財界最大規模となる非公開の政略結婚式です」――桐生グループ。その名が執務室の静けさを破った瞬間、書類の端に触れていた細長い指が、かすかにこわばった。けれど表情は、深い湖の水面のように静かなままだった。「新郎側のご依頼主は?」「桐生グループの桐生蓮司会長ご本人です。お相手は藤堂グループの一人娘、藤堂怜奈取締役。ご予算は実質的に上限なしで、全権を委ねるとのことです」桐生蓮司(きりゅう れんじ)。5年前、一族の安泰とグループの経営権を守るために、母親がでっち上げた慰謝料の契約書と合成写真を口実に、自分を冷酷に切り捨てた男。
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第2話 赤の他人・後編
『金さえあればいいんだろう。いくらでもくれてやる。二度と俺の前に現れるな』最後に浴びせられた冷たい声が、今も鋭く耳をかすめた。あのとき、お腹には彼の子がいた。その小さな命の存在すら知らないまま、彼は紗月の手を無残に振り払ったのだ。胸の奥からこみ上げる痛みを、紗月は押し殺した。爪が手のひらに食い込む。それでも赤い唇には、洗練された仕事用の笑みが浮かんでいた。「予算に上限がないのなら、ルミエールとしてお断りする理由はないわね。事前の打ち合わせは決まっているの?」「本日午後3時に、桐生会長が直接お越しになるとのご連絡がありました。今、1階のロビーに到着されたそうです」紗月は、ためらうことなく席を立った。しわひとつないベージュのシルクスーツの襟を整え、乱れのない足取りでVVIP専用の相談室へ向かう。重厚なウォールナットの扉が開いた。室内へ目を向けると、窓辺から南青山の街を見下ろしていた男が、人の気配にゆっくりと振り返った。体に寸分の隙もなく沿う濃紺のテーラードスーツ。彫刻を思わせる鋭い顎の線。そして、今なおすべてを足元に従えようとする、傲慢で冷ややかな瞳。桐生グループの若き支配者、桐生蓮司だった。ドアの前にまっすぐ立つ紗月を認めた途端、無表情だったその顔が大きく揺らいだ。5年前、惨めに涙をこらえながら姿を消した、か弱い女はもういない。日本屈指のウェディングディレクター、一ノ瀬紗月が、冷ややかに、堂々と彼を見据えていた。蓮司の顎がこわばり、喉が鳴った。「……一ノ瀬紗月?」信じられないというように、低い声でその名を呼ぶ蓮司。紗月は少しも動じず、完璧な接客の笑みを返した。澄んだ声には、感情の揺れひとつ混じっていなかった。「お久しぶりです、桐生蓮司会長。ようこそ、ルミエールへ」紗月は丁寧に会釈をし、向かいの革張りのソファを手で示した。「藤堂グループの藤堂怜奈取締役とのご婚礼をお任せいただき、誠にありがとうございます。桐生と藤堂の結びつきにふさわしい、この国で誰も見たことがないほど、完璧で華やかなお式をお約束いたします」蓮司の黒い瞳が激しく揺れた。恨みも怒りも、わずかな未練すらない。そこにあるのは、まったくの他人を見る目だった。自分を赤の他人として扱う、その冷たい微笑みが、蓮司の胸を鋭く貫いた。
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第3話 ビジネスの対価
VVIP専用の相談室には、ひんやりとした空気が沈んでいた。斜めに張り出すガラス窓の向こうから、南青山の街を染める赤い夕陽が差し込み、ふたりの間に置かれた重厚なウォールナットのテーブルに濃い影を落としていた。蓮司は勧められた革張りのソファに深く腰を下ろした。だが、その視線はテーブルのタブレットにも実績集にも向かず、紗月の顔だけを捉えていた。5年もの残酷な歳月を経て、こんな再会をするとは一度も想像していなかった。奇妙で、息苦しい再会だった。彼の記憶の中の一ノ瀬紗月は、一族の容赦ない圧力の前で、いつもひっそり息をひそめていた。冷たい屋敷で、ひとり涙をこらえる、か弱い妻だった。だが今、向かいに座る女は、体の線に美しく沿うベージュのシルクスーツを着こなし、桐生グループの会長を揺るぎない目で見つめている。「……今まで、どこで何をしていたんですか」抑えた声が、低くかすれた。紗月は眉ひとつ動かさず、タブレットに指を滑らせた。ルミエールの3D会場図とプレゼンテーションの画面が映し出される。「桐生会長、当社のVVIP向けご相談は、1回50分とさせていただいております。このあともお客様をお待たせしておりますので、個人的なお話に割ける時間はございません」「……紗月」「今は、ルミエール代表の一ノ瀬としてお話ししております。お打ち合わせ中は、仕事上の礼節を守っていただけますか」口調はどこまでも丁寧で、穏やかだった。けれど、その奥の拒絶は刃物よりも鋭い。蓮司の顎がこわばり、目がすっと細くなった。桐生グループの絶対的な支配者ではなく、通り過ぎていく大勢の客のひとり。その扱いが、彼の高いプライドを容赦なく傷つけた。「桐生と藤堂の婚礼は、今年下半期の日本財界で最大の催しです。私情や子供じみた反発で、いい加減に扱っていい仕事ではない。あなたもわかっているはずだ」「私情を仕事に持ち込むのであれば、最初からご依頼をお受けしておりません」紗月は落ち着いた手つきで高級輸入生地のサンプルブックと会場設計の資料をめくり、淀みなく説明を続けた。「ルミエールの価値は、仕上がりと完成度のみでお示しします。桐生のブランド価値と藤堂の格式に見合う、上質なプライベートウェディング。フランスのオートクチュールアトリエとの独占提携。非公開を徹底するための警備・情報管理体制も、すでに整えております
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第4話 招かれざる客
火曜日の午後。ルミエール1階のVVIP専用ラウンジには、ほのかなジャスミンの香りと静かなクラシック音楽が満ちていた。大理石のテーブルの向こうで、藤堂グループの一人娘、藤堂怜奈(とうどう れな)が優雅に腰かけていた。紗月の用意したオートクチュールの提案資料を隅々まで眺め、満足げにうなずく。「噂どおりですね、一ノ瀬代表。他の業者は桐生と藤堂の名前ばかり気にして、趣味の悪い金色の飾りや、やたら大きなシャンデリアを勧めてくるのに。ルミエールの提案は、まるで違うわ」「藤堂取締役の洗練された、控えめな美しさに合わせ、パリの一流アトリエによるシルクミカドのドレスと、スズランを主なモチーフに選びました。華やかさの奥にある、気品を引き立てる演出です」紗月は端正な笑みを崩さず、温かい紅茶を勧めた。怜奈は、気難しく冷徹な名門財界一族の後継者として知られていた。それでも紗月の抜きん出た審美眼と無駄のない企画には、素直な感嘆を隠さなかった。「桐生会長との結婚は、あくまで事業提携です。あの人も私も、愛情を求めて始めた関係ではないけれど。少なくとも世間には、この国でいちばん優雅で、完璧な夫婦に見えなければ」怜奈はカップを置き、淡々と続けた。「そういう意味では、総合ディレクターに一ノ瀬代表を選んだのは、桐生会長が今年下した判断の中で、いちばん賢明だったかもしれませんね」「光栄です。一生に一度の、最高の一日をおつくりするのが私の仕事ですから」そのとき、重厚なウォールナットの扉が、前触れもなく乱暴に開いた。チャコールグレーのスリーピーススーツを着た蓮司が、大股で入ってきた。秘書すら連れずに現れた彼は、向かい合って談笑していた怜奈と紗月を、順に鋭く見た。「桐生会長? 今日のお打ち合わせは、私ひとりで進めると決めていたはずですけれど」意外そうに、怜奈が整った眉を上げる。蓮司はその問いにすぐには答えず、紗月をまっすぐ見て、低い声を出した。「桐生のトップの婚礼です。新郎自身が立ち会い、最終判断をすべきことも多いので」冷たい瞳の奥には、紗月への執着と、正体のわからない苛立ちが絡み合っていた。紗月は一瞬も戸惑いを見せず、ごく自然に立ち上がって彼を迎えた。「お待ちしておりました、桐生会長。ちょうどおふたりの結婚指輪と、ご婚約のジュエリーの最終調整をしていたところです」紗月はテーブ
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第5話 一瞬の出会い
ルミエールの廊下に落ちた沈黙は、息もできないほど重かった。紗月は反射的に怜奈と蓮司の前を斜めに遮り、背後のファミリーラウンジを示すように、宮瀬室長へ鋭い視線を送った。今すぐ、あの子を中に。切実で、断固とした無言の合図だった。しかし好奇心いっぱいの4歳の湊は、黄色い通園帽をかぶり、小さなクマのキーホルダーがついたバッグを背負って、とことこと廊下へ出てきてしまった。「ママ、今日ね、幼稚園で恐竜の絵、描いたんだ。見せたくて……」丸い目をぱちぱちさせていた湊は、見知らぬ大人たちに気づくと、口をつぐんで首をかしげた。その瞬間、後ろに立つ蓮司の視線が、子供の顔に釘づけになった。顎が引きつるようにこわばり、黒い瞳が大きく揺れた。説明のつかない既視感と、ぞっとするほどの衝撃が、全身を駆け抜ける。くっきりとした目元。まっすぐな鼻筋。何か気になることがあると、ほんの少し右に首を傾ける、小さな癖まで。まるで鏡だった。幼い頃の自分の白黒写真から、そのまま切り抜いてきたような顔。蓮司の喉が鳴り、呼吸が詰まった。隣の怜奈は、意外そうにしながらも、柔らかな笑みで子供を見つめた。「まあ、一ノ瀬代表のお子さんだったんですね。とても賢そうな、かわいらしい目をしているわ」その褒め言葉に、紗月は一分の隙もない接客の笑みで応じた。「ありがとうございます、藤堂取締役。まだ小さいので、初めての方には人見知りをしてしまって」紗月は自然にかがみ、湊の肩を抱いて、そっとラウンジの中へ促した。だが蓮司の足は、意志に反してもう子供のほうへと大きく踏み出していた。視線は、一瞬たりともその顔から離れなかった。「……その子は、何歳ですか」押し殺した声が、低く割れた。瞳には、ただの好奇心では説明できない疑いと混乱が渦巻いている。紗月は立ち上がり、蓮司の前を完全に塞いだ。氷河のような冷たい目は、少しの隙も与えなかった。「満4歳です、桐生会長」「満4歳……?」蓮司の頭の中で、時間が勢いよく巻き戻された。離婚の書類に判を押し、彼女が忽然と姿を消してから、ちょうど5年。満4歳ならば、紗月が自分のもとを去ったあと、ほどなくして生まれた計算になる。――それなら5年前、あの日……すでに妊娠していたのか?心臓が激しく打ち、全身の血が冷えていく。5年前、偽の口座明細と捏造された写真を紗月の前に投げつ
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第6話 赤い烙印
グランド・キリュウ・ホテルの大宴会場。巨大なクリスタルシャンデリアの光の下で、蓮司は雷に打たれたように立ちすくんでいた。手の中で光るスマートフォン。その画面に浮かぶ赤い数値が、目に焼きついて離れなかった。【親子関係が成立する確率:99.99%】喉がひきつり、息が上がった。息を吸うたび、肺の奥まで鋭いガラス片が入り込むような痛みが、全身を襲う。湊。昨日、ルミエールの廊下に黄色い通園バッグを背負って、とことこと出てきた、小さな愛らしい子。自分とそっくりな目元と鼻筋。興味を引かれると、少しだけ首をかしげる癖。あの4歳の子は、他人の子でも、久我悠真(くが ゆうま)の子でもなかった。紛れもなく、自分の実の息子だった。――俺は……この手で、いったい何をした。5年前、母の桐生雅子(きりゅう まさこ)が差し出した偽の慰謝料契約書。他人名義の口座と、合成写真。それらを紗月の顔に投げつけ、浴びせた残酷な言葉が、容赦なく耳の奥を打った。『金さえあればいいんだろう。いくらでもくれてやる。二度と俺の前に現れるな』あの冷たい刃のような言葉を全身で受け止め、紗月は自分の子を身ごもったまま、わずかな金すら持たず、身ひとつで路上へ追い出されたのだ。蓮司は充血した目で、会場中央の壇上にいる紗月の後ろ姿を見た。スタッフたちに、照明の角度と装花の配置を指示している。しわひとつないベージュのシルクスーツ。その細い肩で、現場を正確に、完璧に動かしていた。あの小さな肩に、この5年間、どれだけの苦しみと孤独と絶望がのしかかっていたのか。想像すらつかず、蓮司は胸を潰されるような嗚咽を、必死にのみ込んだ。グループの経営権を守るという卑怯な言い訳に隠れ、妻と子を地獄へ突き落とした。自分こそが、残酷な加害者だった。蓮司は震える手で、神谷室長の直通番号を押した。呼び出し音が1回鳴り、つながるなり、金属を擦るような荒い声が口をついた。「神谷室長」「はい、会長。どうされましたか」「5年前の離婚の際、母が持ってきた一ノ瀬紗月代表の慰謝料契約書と他人名義の口座、それに合成写真。すべて一から調べ直せ。捏造の痕跡を、ひとつ残らず洗い出すんだ」「会長、それでは、ご実家の桐生雅子様が直接関与された形跡も、すべて……」「母だろうが誰だろうが関係ない。真実をねじ曲げ、俺の家庭を壊した者には、桐生の
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第7話 赤い烙印・後編
紗月の目に走った一瞬の衝撃は、すぐに氷より冷たく、鋭い嘲りへと変わった。少しも姿勢を崩さず、彼女は蓮司をまっすぐ見上げた。「桐生会長。今さら、よその子の父親にでもなったおつもりですか?」赤い唇に浮かぶ冷笑が、蓮司の胸を切り刻んだ。「湊は、私の息子です。あなたとは、何の関係もありません」「嘘をつくな! 鑑定結果なら、ここにある。湊は……5年前、君がひとりで身ごもって出ていった、俺の子だ!」押し殺していた声が、痛々しく割れた。日本財界を意のままにしていた、傲慢な巨大企業グループの総帥の仮面は剥がれ落ちていた。今にも膝をつきそうな、絶望に押し潰された男の叫びだけが、ロビーに響いた。紗月はその声にも眉ひとつ動かさず、冷たく言い返した。「DNA鑑定ですか。よその子のハンカチを泥棒のように盗んで、こっそり依頼なさったんですね。卑劣で下劣なやり方。いかにも桐生グループの会長らしいわ」凍てつくような一喝に、蓮司は息を詰まらせた。「5年前、捏造された書類1枚を信じて、妊娠初期の妻を路上に放り出したのは、あなたです。子供が生きようが死のうが、関心もなかった人が。今になって、父親などと名乗る資格があると思うんですか?」その目にあるのは、もはや怒りではなかった。完全な軽蔑と、拒絶だけだった。「あなたから子供を奪ったんじゃありません。あなたが、私たちを捨てたんです」ひと言の弁解も許さない、冷たく明確な言葉だった。紗月は振り返ることなく、ホテルの回転ドアを押し、堂々と外へ出ていった。蓮司はその場に崩れるようによろめき、赤くなった目元を手で覆った。犯してしまった、取り返しのつかない罪。後悔が、大波のように全身をのみ込んだ。そのとき、神谷室長が硬い顔でロビーへ駆け込んできた。「会長! 5年前、離婚当日の救急診療の記録が見つかりました。奥様……いえ、一ノ瀬紗月代表は、離婚書類に署名された直後、強いストレスによるショックと出血で、地方の病院の救急外来へ搬送されています」その報告は、最後の死刑宣告のように、蓮司の胸に突き刺さった。ついに、こらえていた熱い涙が、両頬を伝った。妻が冷たい救急外来で生死の境をさまよい、ひとりで子供を守っていた頃、自分は母に連れられ、藤堂グループとの会食で祝杯を上げていた。その事実が、骨を削るほどの痛みとなって襲った。「それから…
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第8話 破られた沈黙
ホテルを出て車に乗り込むなり、紗月は宮瀬真帆に、湊の登園写真や幼稚園の情報が外に漏れていないか、まず確認するよう頼んだ。「親子の話は、スタッフにも言わないで。今日ロビーにいた人には、顧客と代表の間で個人的な口論があった、とだけ説明して」「桐生会長が、鑑定結果まで持ってきたのにですか?」「あの鑑定には、私も湊も同意していない。結果が合っていたからって、やり方まで正しかったことにはならないわ」真帆はすぐに、ルミエールの顧客情報へのアクセスを制限した。湊が会社に来た日の防犯映像は別途保存し、外部からの問い合わせには応じないことにした。紗月は、車窓に映る自分の顔を見た。まだ、驚きの色が残っていた。蓮司が真実を知る瞬間を、何度も想像したことがあった。怒るだろうと思ったし、子供を奪おうとするかもしれないと覚悟もしていた。だが実際に彼の口から「俺の息子」と聞いたとき、真っ先に湧いたのは、安堵ではなく恐怖だった。5年かけて築いた暮らしの中に、桐生という名が、再び入り込もうとしていた。「ご自宅へ向かいますか?」真帆が尋ねた。紗月は首を振った。「会社へ。明日のリハーサルの予定を、もう一度確認する」「今日あんなことがあったのに、続けるんですか?」「私が契約を破れば、藤堂怜奈取締役の結婚式も、うちのスタッフの仕事も、一緒に潰れてしまう。個人的な事情と契約の解除は、分けて判断しないと」ルミエールに戻ると、取引先2社から連絡が入っていた。桐生文化財団の側から、今後の取引が難しくなると、圧力を受けたという。紗月はスピーカーに切り替えず、担当者の話を最後まで聞いた。「どなたからのご連絡か、確認できますか?」『文化財団の儀典チームとしか伺っていません。申し訳ありませんが、こちらも取引がありますので……』「承知しました。契約を解除されるかどうかは、書面でお送りください。すでに制作した分と、返金できる項目は、分けて精算いたします」理不尽だと引き留めはしなかった。その代わり、通話時刻と発信元の番号を記録し、弁護士に渡した。その頃、ホテルのロビーに残っていた蓮司も、神谷直人室長に同じ資料を求めていた。「病院の記録と、ルミエールへの攻撃経路は、正式な手続きで確認しろ。違法に個人情報を持ち出した資料は、受け取らない」神谷室長は、少しためらった。「桐生雅子理事長の側
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第9話 地獄への扉
田園調布にある桐生一族の屋敷。その重い鉄門が、轟音とともに開いた。豪雨を突き抜けてきた黒いマイバッハが、庭の噴水の前で、鋭い音を立てて急停止した。ドアを壊しかねない勢いで降りた蓮司は、雨水を滴らせながら玄関へ大股で進んだ。その剣幕に、警備員も使用人も青ざめ、慌てて道を空けた。2階の応接室。優雅なシルクのガウンをまとった雅子は、財界夫人の会の名簿に目を通しながら、ルミエールを主要取引先から締め出すよう、脅しの電話をかけていた。バンッ!重厚なマホガニーの扉が、壊れそうな勢いで開き、蓮司が現れた。濡れた髪の間からのぞく目は、獣よりも鋭く、容赦がなかった。「れ、蓮司? こんな夜更けに、何なの、その格好は。連絡もなしに、どうしたの?」雅子はティーカップを持ったまま、戸惑いに目を見開いた。蓮司はひと言も答えずテーブルに歩み寄ると、母が見ていた名簿のファイルをひったくり、床に叩きつけた。陶器のカップが大理石の床に落ち、鋭い破片を散らして砕けた。「何をするの! 母親に向かって、その態度は何ですか!」雅子が飛び上がるように驚き、きつい声を張り上げる。蓮司は上着の内ポケットから、濡れた封筒を2通取り出し、目の前に叩きつけた。「よく見てください」抑えた声は、地の底の水のように冷たく重かった。雅子は震える手で、封筒から書類を抜いた。5年前、自分が金で人を雇い、捏造させた一ノ瀬紗月名義の慰謝料契約書の写し。他人名義の口座への送金明細。そして、赤い文字が鮮明なDNA鑑定結果だった。【親子関係が成立する確率:99.99%】その文字を見た雅子の瞳が、激しく揺れた。「こ、これは……いったい、どういうことなの?」「5年前、金に目がくらんだ女だと指さし、追い出したあの人は、俺の子を身ごもっていました。母さんは、俺の息子を、俺自身の手で死地へ追いやらせたんです」蓮司の声が、血を吐くようにかすれた。雅子は一瞬青ざめたが、すぐに歯を食いしばり、険しい顔で書類を握り潰した。「あんな卑しい女の産んだガキを、どうして信じられるの! 久我悠真か、どこかの男の子を産んで、鑑定書を偽造したのかもしれないでしょう! 桐生の血を引いているはずがないわ!」その瞬間、蓮司の腕が走った。母のすぐ脇にある大理石の飾り棚へ、拳を叩きつける。ガンッ!強化ガラスに蜘蛛の巣のような亀裂が入り、赤い
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第10話 雨の中の影
深夜0時が近づく、ルミエールの代表執務室。斜めに張り出す一面のガラス窓を叩く激しい雨音だけが、がらんとした室内に響いていた。紗月は、蓮司との激しいやり取りのあと、押し寄せてくる複雑な感情を抑え込み、デスクに広げた会場装飾の図面と詳細な進行表を確認していた。グランド・キリュウ・ホテルの宴会場に飾るメイン装花の発注書。パリのヴァンドーム広場から届いた、プラチナの結婚指輪の検品証。数字ひとつ、1ミリのずれも許さないというように、万年筆の先が書類の上を冷静に滑っていく。指は疲れでこわばっていたが、目だけは冴えていた。そのとき、控えめなノックが響き、温かいゆず茶ときれいに詰められた弁当を手に、久我悠真が入ってきた。「紗月、まだ帰ってなかったのか」悠真は気遣わしげに、そのこわばった肩を見て、温かい茶を差し出した。「湊なら、家でシッターさんと好きな恐竜のアニメを見て、そのままぐっすり寝たよ。熱もないし、元気だから。心配しなくていい」「ありがとう、悠真。これだけ片づけたら、すぐ帰るつもりだったの」かすかに笑い、両手でカップを包む。悠真は、血の気のない唇も、指先の小さな震えも見逃さなかった。「昼間、桐生蓮司会長が会場に来たんだって? また、あの男に何かされたのか」穏やかな目に、冷たい影が落ちた。「紗月、君がそうしたいなら、違約金は俺が全部払う。桐生との契約を、今すぐ終わらせてもいい。あんな過去と向き合いながら、無理に最後まで続ける理由はないだろう」その心からの気遣いと申し出に、紗月はきっぱりと首を振った。「ううん、悠真。私は逃げない」揺るがない瞳が、澄んで強く光った。「5年前は、何もできずに追い出された。でも、今度は違う。私の力で、この結婚式を誰より完璧に仕上げる。私を捨てたあの人たちに見せられる、いちばん確かな勝利だから」その決意を聞き、悠真はそれ以上止めなかった。ただうなずき、黙ってそばにいた。午後11時半。ふたりは書類を片づけ、1階のロビーへ降りた。ガラスの自動ドアが開き、外へ出た途端、激しい風雨が服の裾をあおった。そして街灯の下に、傘もささず、土砂降りの雨を全身に受けて立つ、背の高い男が見えた。蓮司だった。ずぶ濡れのスーツ。顔を流れる雨に混じる、熱い涙。血走った目は、今にも壊れそうだった。紗月がロビーから出てくるのを見るなり、よろめ
last updateLast Updated : 2026-09-15
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