向かいの高層レジデンスから撮られた1枚の写真が、瞬く間に上流社会と金融街を駆け巡った。『高城グループ次期後継者・高城冬真副会長、素性不明の住み込みハウスキーパーと自宅密会』刺激的な見出しをつけられた怪文書は、金融関係者や名家のグループチャットを通じて、急速に広がっていった。3,000億円の資金調達が危ぶまれるなか、次期トップが身分の低いメイドにのぼせ上がり、有力政治家一族との縁談を蹴った。そんな悪意に満ちた噂だった。本社の執務室で報告を受けた冬真は、怒りを抑えきれず机を叩いた。「最初の拡散経路から保存してください。虚偽情報を転載したアカウントには、削除要請と証拠保全の通知を同時に。記事にした媒体には訂正を求め、名誉毀損への対応も進めてください」秘書室長が汗を浮かべて言う。「副会長、役員たちがこの噂を理由に、緊急の信任投票を求めています」「高城は、根拠のない怪文書に揺さぶられるほど弱い組織ではありません。私の評判より、元麻布を先に守ってください。記者やパパラッチが私有地に近づいたら立ち入りを阻止し、撮影と侵入の証拠を確保して警察へ」冬真が何より恐れていたのは、自分の評判ではなかった。紗良がこの噂を見て、出ていってしまうことだ。すぐに電話をかける。「今は、ネットを見ないでください」「もう見ました」紗良の声は、いつもどおり落ち着いていた。「写真の解像度が低いですね。それに、水平が1.7度傾いていました」「そこが大事なんですか?」「内容は事実ではありませんから、訂正すれば済みます。雇い主様は、大丈夫ですか?」冬真は一瞬、言葉をなくした。自分がどれほど損害を受けるかと聞く人は多い。けれど、自分自身が大丈夫かと確かめたのは、紗良だけだった。「私は大丈夫です。あなたの名前を、勝手に使われるのが嫌なだけです」電話の向こうが、少し静かになった。「わかりました。夕食は、いつもどおり用意しておきますね」その一言に、冬真は握りしめていた手を開いた。* * *同じ頃。南青山の高級プライベートラウンジ。花凛は個室で、氷を満たしたクリスタルのグラスから高級シャンパンを飲み、冷ややかに笑っていた。向かいに座るのは、政財界の大物の弱みや身辺調査を専門とする、国内最大手の調査会社「ブラックオーシャン」の代表だった。「どうなったの? あのメイ
Last Updated : 2026-09-15 Read more