LOGIN資産1兆円を持つ投資会社の若き会長・神谷紗良。仕事に疲れ切った彼女が選んだ休暇は、正体を隠して“メイド”として働くことだった。雇い主は潔癖症で不眠に悩む財閥御曹司・高城冬真。貧しい使用人だと勘違いし過保護になる彼に、紗良の心も少しずつ揺れ始める。だが彼女の正体を知らない者たちは、次々と罠を仕掛けてきて――。身分逆転×ざまぁ×溺愛ラブコメ!
View More世界規模の投資ファンド、ヴァルハラ・キャピタル。東京本社33階の大会議室には、凍りつくような沈黙が流れていた。
四方をガラスに囲まれた部屋の上座で、神谷紗良(かみや・さら)は無表情のまま時計に目を落とした。
午後2時15分。
欧州の製薬会社の買収をめぐり、議論は堂々巡りを続けている。副代表が額の汗を拭い、おそるおそる口を開いた。
「会長。現地の労働組合が、300億円の追加出資を求めています。今四半期中に署名しなければ、優先交渉権を失います」
紗良は資料から顔を上げなかった。白く細い指に挟んだ万年筆で、テーブルを軽く叩く。
先代から受け継いだ持ち株と、自らの投資で築いた利益。公表されているものだけで、紗良の個人資産は1兆400億円に上る。
非公開の持ち分や海外信託まで含めれば、その全容を把握できる者はほとんどいなかった。
ヴァルハラは、会長の顔をめったに外へ出さない。対外的な公表には海外信託の名義や英字のイニシャルが使われ、「神谷紗良」という本名を知る者さえ、ごく一部に限られていた。
報道に使われるのは、たいていシルエットか代理人の写真。日本を代表する10大企業のトップたちですら、面会まで半年待たされる。
27歳にして投資会社の頂点に立った女。
けれど、その瞳にあるのは達成感ではなかった。底の見えない倦怠と、消えない疲労だけだ。
「追加出資の要求は却下します」
澄んだ声が、静まり返った会議室に通った。
「あの会社の臨床データには欠陥があります。300億円も追加するなんて、シュレッダーにお金を放り込むようなものです」
「し、しかし、会長――」
「買収から全面撤退してください。違約金50億円を支払って、即座に手を引きます」
決裁書類を閉じる。
その一言で、2,000億円の買収計画は撤回へと動きだした。
誰も声を発しないなか、紗良はゆっくりと立ち上がった。
「本日の予定は、これで終わりです。今夜7時から30日間、休暇に入ります。正式な復帰は30日後の午後7時に設定してください」
秘書室長の黒田が、顔色を変えて後を追った。
「会長、突然そんな……! 来週はニューヨークのフォーラムがございます!」
「すべて取り消して。私の署名が必要な緊急案件だけ、衛星回線に上げてください。それ以外の連絡は不要です」
紗良が求めているのは、高級リゾートでもヨットでの休暇でもなかった。
果てしなく続く数字との戦い。そのなかで燃え尽きた彼女は、もう3年、睡眠薬なしでは眠れずにいた。
頭の中が静かになるのは、たったひとつの瞬間だけ。
汚れを跡形もなく拭き取り、傾いた物を1ミリのずれもなく、きちんと直角にそろえたとき。
完璧に整った秩序がもたらす、理屈抜きの安らぎ。
それだけが、1兆円を持つ女の逃げ場所だった。
* * *
3日後の午前。南青山にある最上級の家事代行エージェンシー、ザ・ヘリテージの面接室。
「神谷紗良さん、27歳。職歴も資格もないのに、実技試験は満点なのね」
支店長は、目の前の女をいぶかしげに眺めた。
本人確認も、犯罪歴を含む身元審査も問題はない。なのに、履歴書の中身は不自然なほど空白だった。
化粧気のない澄んだ顔に、飾り気のない服装。にもかかわらず、ひんやりとした気品だけは隠せていない。
「神谷さん、うちは普通の清掃会社じゃないの。資産家のお宅に住み込みで働く仕事よ。どれだけ気難しいお客様を相手にするか、わかっている?」
「拭き掃除と整理整頓に集中できるなら、待遇は問いません」
紗良の目は静かなままだった。
巨額の資金を動かし、投資家や経営陣と渡り合ってきたのだ。この程度の圧力など、どうということはない。
支店長は小さく舌を鳴らし、ファイルを1冊差し出した。
「ちょうど今日から入れるペントハウスが、1件あるにはあるんだけど……。ここは本当に地獄よ」
「どちらですか?」
「高城グループの総括副会長、高城冬真様のご自宅。元麻布のペントハウスよ」
高城冬真(たかしろ・とうま)。
高城グループの後継者であり、つい先日、ヴァルハラに3,000億円規模の出資を打診してきた男だ。
「極度の潔癖症で、不眠にも悩まされているそうなの。髪の毛が1本落ちていただけで即解雇。この3か月で辞めさせられたハウスキーパーは12人よ」
「いいですね。そちらにお願いします」
ここなら、自分が1兆円超の資産を持つ投資会社の会長だとは誰も知らない。
ただ掃除と秩序だけがある世界へ。
これほど都合のいい入り口はなかった。
* * *
元麻布の高台に建つ、約600平方メートルのメゾネット式ペントハウス。
重厚な玄関扉が開き、紗良は冷たい大理石のホールに足を踏み入れた。
広いリビングの窓際に、濃紺のシャツを着た男が立っていた。
高城グループの若き支配者、高城冬真。
彫刻を思わせる鋭い輪郭と、冷え切った眼差し。その存在だけで、部屋の空気が重くなる。
冬真はゆっくりと振り返り、紗良を頭から足元まで見た。
「エージェンシーは、私の警告を伝えなかったようですね」
低く冷ややかな声が、リビングに響く。
「水仕事など、したこともなさそうな人をよこすとは」
紗良の手首を一瞥し、彼は薄く笑った。
「この家に、役にも立たない飾り物も、手を抜く人間も必要ありません。手っ取り早く小遣いでも稼ぐつもりで来たのでしょうが……」
冬真は一歩近づき、容赦なく言い切った。
「あなたも3日ともたないでしょう」
紗良は、まばたきひとつせずに答えた。
「それは3日後にご判断ください、雇い主様」
宴会場の一件を受け、新堂一族への捜査と、ヴァルハラによる特別調査が同時に始まった。監査チームは数週間にわたり、新堂ホールディングスの系列会社の取引を追った。予備報告にあった800億円規模の売上水増しと、担保の重複は、始まりにすぎなかった。海外のペーパーカンパニーを使った裏金作りや脱税の疑いまで明らかになり、新堂征一郎は身柄を拘束されたまま起訴された。花凛も、宝石窃盗の証拠を捏造して紗良に罪を着せようとした件と、不正な身元照会を指示した件で、裁判にかけられた。事件が起きる前に出動指令を受け、逮捕を急いだ刑事の班長と関係警察官には、監察の調査が入った。政治家による不当な介入の経路も、捜査の対象になった。その後、一審では新堂親子に重い刑が言い渡された。犯罪による利益は追徴と回収の手続きに入り、新堂ホールディングスは債権者の管理下で、正常な系列会社と不良会社を分離したうえで、清算へ進んだ。紗良は最後まで、私情で結論を早めなかった。高城重工の投資案件についても、正式に審査から外れたままだった。その間、高城重工はヴァルハラの独立投資審査委員会による正式な精査を経て、3,000億円規模の増資を実現した。資金繰りの危機を乗り越えると、冬真は取締役会の支持を受け、高城グループの会長に就任した。最初に改めたのは、親族が経営や人事に私的に口を挟む慣行だった。麗子は、取締役会からも冬真の家からも、一歩身を引いた。紗良には、言い訳のない謝罪の手紙を送った。直接会って謝りたいという希望も、紗良が認めるまで待った。紗良は謝罪を受け入れた。けれど、なかったことにはしなかった。2人の関係は、仲むつまじい嫁と姑というよりも、越えてはいけない線を心得た家族に近くなっていった。* * *1年後。晴れ渡った5月のある日。2人の結婚式は、都内のプライベートガーデンで執り行われた。紗良が誰より長く見つめていたのは、壇上で自分を待つ冬真だった。大勢のカメラの前でも動じない人なのに、今日は指先を硬く握り込んでいる。紗良が近づくと、彼はとても小さな声で聞いた。「逃げるつもりは、ありませんか?」「もう、契約書に署名していますが」「契約期間は?」「一生です」そこでようやく、冬真の緊張が笑顔に変わった。花嫁控室では、ナプキンの1度の傾きまで直していた紗良も、誓い
「俺に対しても、全部……嘘だったんですか?」冬真の問いが、誰もいなくなった大宴会場に低く響いた。裏切られた思いより大きかったのは、自分は紗良にふさわしくないのではないか、という恐れだった。貧しいハウスキーパーだと決めつけ、こっそり高級バッグを入れた。月給200万円なら、暮らしの苦しさを軽くできると信じていた。そんな行動のひとつひとつを、ただ面白がって見ていただけだったら。そう思うと、耐えられなかった。冬真は乾いた唇を噛み、うつむいた。「あなたの目には、どれほど滑稽だったでしょうね。1兆円を持つ人に、はした金で守ってやると出しゃばって」紗良が近づいた。広い会場には、もう2人しかいない。彼の正面に立ち、逃げずに答えた。「始まりは……嘘でした」低く澄んだ声が、冬真に届いた。硬い肩が、目に見えてこわばる。「3年間、1日に2時間も満足に眠れないまま働いていました。誰かと会えば、まず打算を疑うようになって。掃除をして、物を整えているときだけ、頭の中が静かになったんです。だから、身分を隠してあなたの家へ入りました」紗良は、その目をそらさなかった。「会長だと明かさなかったことは、嘘です。でも、名前も年齢も、掃除が好きだということも、あなたのそばで安らげた気持ちも、嘘ではありません」冬真のまぶたが震えた。「俺がかわいそうで、付き合ってくれていたんですか?」「いいえ」紗良は、ためらわなかった。「最初は雇い主でした。その次は、ちゃんと眠れているか気になる人になって。今は、好きな人です」冬真は、しばらくしてから、ようやく尋ねた。「だったら、どうして最後まで言わなかったんですか?」紗良の視線が、初めて少し下がった。「肩書きを知らないあなたが、神谷紗良をどう扱うのか、もう少し見ていたかったんです。それに、話した途端に今の関係が終わるのが……怖かった」自分も怖かったのだと、紗良が先に認めたのは、初めてだった。「だからといって、あなたが選ぶ機会を遅らせてよかったわけではありません。ごめんなさい」冬真は、すぐにいいとは言わなかった。傷つかなかったわけではない。「腹は、立っています」「わかっています」「二度と、こんなふうに1人で決めないでください」「約束します」あまりに即答だったので、冬真の硬い表情が少しほどけた。「でも、あなた
紗良の白い指が、タブレットの上に止まっていた。新堂と花凛は、息が止まりそうな恐怖の中で、その指先だけを見つめている。承認されれば、首の皮一枚でつながる。拒否されれば、系列全体が資金繰りの危機に陥る。けれど、紗良は承認ボタンを押さなかった。静かに画面を送り、黒田へ告げた。「承認は保留に」新堂の顔がゆがんだ。「神谷会長。今日の件と投資判断は、別だとおっしゃったではありませんか」「ですから、却下しなかったんです」低く、明瞭な声だった。「ヴァルハラの国際監査チームと外部監査法人を入れて、新堂ホールディングスの全系列を特別調査してください。結果が出るまで、新規資金の実行は停止します」さらに、指示を続ける。「ただし、従業員の給与と通常の仕入れ代金は、別の管理口座へ切り分けて。大株主の私的な引き出しは止めても、事業を回す資金まで断たないように」下で働く従業員まで、罰するつもりはなかった。「それでは、事実上の死刑宣告だ! 感情的な報復ではありませんか!」「ヴァルハラの資金は、誰かの政治的な盾ではありません。投資価値があるか、原則に沿って確かめます」紗良は、画面のリスク項目をひとつずつ開いた。「精査は、申請企業が当社と結んだ契約に含まれています。資料に問題がなければ、支援案は再審査されます。問題があれば、今日の一件がなくても、資金は受けられません」新堂は、それ以上反論できなかった。ヴァルハラは借り換え審査のために、すでに財務諸表と担保資料を受け取っていた。資料が調査用サーバーに集約される。1時間後に届いたのは、確定した結論ではなく、予備報告だった。系列会社の間で繰り返された800億円の売り上げ。同じ不動産が複数回担保に入れられた形跡。海外のペーパーカンパニーへ流れた資金。提出資料を突き合わせただけでも、説明のつかない穴が多すぎた。会場の片隅で、黒田が報告書を読み上げる。「虚偽の財務情報が提出された可能性が高いとみられます。既存融資1,200億円についても、契約違反の有無を審査する必要があります」紗良はすぐに答えた。「追加の引き出しを停止し、担保保全の準備を。期限の利益の喪失と早期回収は、法務の確認を経て、債権者の協議会で判断してください。金融庁と捜査機関には、原資料を提出します」「系列ごとに、正常な事業と大株主関連の取引を切
「か、会長……?」花凛は口を開いたまま、何も言えなくなった。つい先ほどまで、自分が泥棒呼ばわりしていたハウスキーパー。その前に、ヴァルハラの幹部が並んでいる。この女が、個人資産1兆400億円を持つ、ヴァルハラ・キャピタルの筆頭株主にして会長だった。会場のざわめきが、ぷつりと途切れた。「あの方が、顔を出さないことで有名な神谷会長だったのか?」「ヴァルハラの議決権株式を、1人で握っているという……?」客たちの携帯電話に、たった今ヴァルハラが発表した、本人確認のプレスリリースが表示された。イニシャルしか知られていなかった筆頭株主。その本名、神谷紗良と、役職、資産規模が、初めてひとつの資料にそろっていた。撮影していた動画を消そうとする客を見て、紗良が法務チームへ言った。「現場の映像は証拠になります。無理に削除させないでください。私の顔を商業的に使う場合にだけ、正式な手順で対応を」法務責任者が頭を下げた。刑事の班長は手錠をしまったまま、証拠保全の手順から、改めて指示を出し直していた。麗子は衝撃と恐怖に息を詰まらせ、よろめいた。ソファに手をついて、そのまま座り込む。「ヴァ、ヴァルハラの……神谷紗良? 1兆円も持っている人が、どうして息子の家で雑巾がけを……!」紗良は麗子へ目を向けた。「私個人の予定です」説明は、それで終わりだった。白紙の小切手を突きつけ、いくらで出ていくかと聞いていた人が、今は、なぜ息子の家を選んだのかと問い返すことさえできない。麗子は小切手の「0円」を思い出し、口を閉じた。誰より言葉を失っていたのは、冬真だった。彼は目の前の紗良を、ただ見つめた。生活に困っていると勝手に決めつけて、エルメスのバッグやダイヤの時計を引き出しに入れた。月給200万円を渡せば、安心するだろうと信じていた相手。防弾車を断った理由も、法人カードに興味を示さなかった理由も、今ならあまりに明らかだった。それでも、紗良は一度も彼の勘違いを笑わなかった。それどころか、贈り物だからという理由で、あのバッグを受け取ったのだ。そこまで思い出して、冬真の顔が熱くなった。もう、どう呼べばいいのかさえわからない。「神谷……会長」紗良の目が、すぐに彼へ向いた。「呼び方は、あとで整理しましょう」いつもと変わらない声だった。冬真には、距離を測り





