一兆円令嬢の 趣味はメイド生活です

一兆円令嬢の 趣味はメイド生活です

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資産1兆円を持つ投資会社の若き会長・神谷紗良。仕事に疲れ切った彼女が選んだ休暇は、正体を隠して“メイド”として働くことだった。雇い主は潔癖症で不眠に悩む財閥御曹司・高城冬真。貧しい使用人だと勘違いし過保護になる彼に、紗良の心も少しずつ揺れ始める。だが彼女の正体を知らない者たちは、次々と罠を仕掛けてきて――。身分逆転×ざまぁ×溺愛ラブコメ!

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Chapter 1

第1話 燃え尽きた令嬢は、メイドに応募する

世界規模の投資ファンド、ヴァルハラ・キャピタル。東京本社33階の大会議室には、凍りつくような沈黙が流れていた。

四方をガラスに囲まれた部屋の上座で、神谷紗良(かみや・さら)は無表情のまま時計に目を落とした。

午後2時15分。

欧州の製薬会社の買収をめぐり、議論は堂々巡りを続けている。副代表が額の汗を拭い、おそるおそる口を開いた。

「会長。現地の労働組合が、300億円の追加出資を求めています。今四半期中に署名しなければ、優先交渉権を失います」

紗良は資料から顔を上げなかった。白く細い指に挟んだ万年筆で、テーブルを軽く叩く。

先代から受け継いだ持ち株と、自らの投資で築いた利益。公表されているものだけで、紗良の個人資産は1兆400億円に上る。

非公開の持ち分や海外信託まで含めれば、その全容を把握できる者はほとんどいなかった。

ヴァルハラは、会長の顔をめったに外へ出さない。対外的な公表には海外信託の名義や英字のイニシャルが使われ、「神谷紗良」という本名を知る者さえ、ごく一部に限られていた。

報道に使われるのは、たいていシルエットか代理人の写真。日本を代表する10大企業のトップたちですら、面会まで半年待たされる。

27歳にして投資会社の頂点に立った女。

けれど、その瞳にあるのは達成感ではなかった。底の見えない倦怠と、消えない疲労だけだ。

「追加出資の要求は却下します」

澄んだ声が、静まり返った会議室に通った。

「あの会社の臨床データには欠陥があります。300億円も追加するなんて、シュレッダーにお金を放り込むようなものです」

「し、しかし、会長――」

「買収から全面撤退してください。違約金50億円を支払って、即座に手を引きます」

決裁書類を閉じる。

その一言で、2,000億円の買収計画は撤回へと動きだした。

誰も声を発しないなか、紗良はゆっくりと立ち上がった。

「本日の予定は、これで終わりです。今夜7時から30日間、休暇に入ります。正式な復帰は30日後の午後7時に設定してください」

秘書室長の黒田が、顔色を変えて後を追った。

「会長、突然そんな……! 来週はニューヨークのフォーラムがございます!」

「すべて取り消して。私の署名が必要な緊急案件だけ、衛星回線に上げてください。それ以外の連絡は不要です」

紗良が求めているのは、高級リゾートでもヨットでの休暇でもなかった。

果てしなく続く数字との戦い。そのなかで燃え尽きた彼女は、もう3年、睡眠薬なしでは眠れずにいた。

頭の中が静かになるのは、たったひとつの瞬間だけ。

汚れを跡形もなく拭き取り、傾いた物を1ミリのずれもなく、きちんと直角にそろえたとき。

完璧に整った秩序がもたらす、理屈抜きの安らぎ。

それだけが、1兆円を持つ女の逃げ場所だった。

* * *

3日後の午前。南青山にある最上級の家事代行エージェンシー、ザ・ヘリテージの面接室。

「神谷紗良さん、27歳。職歴も資格もないのに、実技試験は満点なのね」

支店長は、目の前の女をいぶかしげに眺めた。

本人確認も、犯罪歴を含む身元審査も問題はない。なのに、履歴書の中身は不自然なほど空白だった。

化粧気のない澄んだ顔に、飾り気のない服装。にもかかわらず、ひんやりとした気品だけは隠せていない。

「神谷さん、うちは普通の清掃会社じゃないの。資産家のお宅に住み込みで働く仕事よ。どれだけ気難しいお客様を相手にするか、わかっている?」

「拭き掃除と整理整頓に集中できるなら、待遇は問いません」

紗良の目は静かなままだった。

巨額の資金を動かし、投資家や経営陣と渡り合ってきたのだ。この程度の圧力など、どうということはない。

支店長は小さく舌を鳴らし、ファイルを1冊差し出した。

「ちょうど今日から入れるペントハウスが、1件あるにはあるんだけど……。ここは本当に地獄よ」

「どちらですか?」

「高城グループの総括副会長、高城冬真様のご自宅。元麻布のペントハウスよ」

高城冬真(たかしろ・とうま)。

高城グループの後継者であり、つい先日、ヴァルハラに3,000億円規模の出資を打診してきた男だ。

「極度の潔癖症で、不眠にも悩まされているそうなの。髪の毛が1本落ちていただけで即解雇。この3か月で辞めさせられたハウスキーパーは12人よ」

「いいですね。そちらにお願いします」

ここなら、自分が1兆円超の資産を持つ投資会社の会長だとは誰も知らない。

ただ掃除と秩序だけがある世界へ。

これほど都合のいい入り口はなかった。

* * *

元麻布の高台に建つ、約600平方メートルのメゾネット式ペントハウス。

重厚な玄関扉が開き、紗良は冷たい大理石のホールに足を踏み入れた。

広いリビングの窓際に、濃紺のシャツを着た男が立っていた。

高城グループの若き支配者、高城冬真。

彫刻を思わせる鋭い輪郭と、冷え切った眼差し。その存在だけで、部屋の空気が重くなる。

冬真はゆっくりと振り返り、紗良を頭から足元まで見た。

「エージェンシーは、私の警告を伝えなかったようですね」

低く冷ややかな声が、リビングに響く。

「水仕事など、したこともなさそうな人をよこすとは」

紗良の手首を一瞥し、彼は薄く笑った。

「この家に、役にも立たない飾り物も、手を抜く人間も必要ありません。手っ取り早く小遣いでも稼ぐつもりで来たのでしょうが……」

冬真は一歩近づき、容赦なく言い切った。

「あなたも3日ともたないでしょう」

紗良は、まばたきひとつせずに答えた。

「それは3日後にご判断ください、雇い主様」

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第1話 燃え尽きた令嬢は、メイドに応募する
世界規模の投資ファンド、ヴァルハラ・キャピタル。東京本社33階の大会議室には、凍りつくような沈黙が流れていた。四方をガラスに囲まれた部屋の上座で、神谷紗良(かみや・さら)は無表情のまま時計に目を落とした。午後2時15分。欧州の製薬会社の買収をめぐり、議論は堂々巡りを続けている。副代表が額の汗を拭い、おそるおそる口を開いた。「会長。現地の労働組合が、300億円の追加出資を求めています。今四半期中に署名しなければ、優先交渉権を失います」紗良は資料から顔を上げなかった。白く細い指に挟んだ万年筆で、テーブルを軽く叩く。先代から受け継いだ持ち株と、自らの投資で築いた利益。公表されているものだけで、紗良の個人資産は1兆400億円に上る。非公開の持ち分や海外信託まで含めれば、その全容を把握できる者はほとんどいなかった。ヴァルハラは、会長の顔をめったに外へ出さない。対外的な公表には海外信託の名義や英字のイニシャルが使われ、「神谷紗良」という本名を知る者さえ、ごく一部に限られていた。報道に使われるのは、たいていシルエットか代理人の写真。日本を代表する10大企業のトップたちですら、面会まで半年待たされる。27歳にして投資会社の頂点に立った女。けれど、その瞳にあるのは達成感ではなかった。底の見えない倦怠と、消えない疲労だけだ。「追加出資の要求は却下します」澄んだ声が、静まり返った会議室に通った。「あの会社の臨床データには欠陥があります。300億円も追加するなんて、シュレッダーにお金を放り込むようなものです」「し、しかし、会長――」「買収から全面撤退してください。違約金50億円を支払って、即座に手を引きます」決裁書類を閉じる。その一言で、2,000億円の買収計画は撤回へと動きだした。誰も声を発しないなか、紗良はゆっくりと立ち上がった。「本日の予定は、これで終わりです。今夜7時から30日間、休暇に入ります。正式な復帰は30日後の午後7時に設定してください」秘書室長の黒田が、顔色を変えて後を追った。「会長、突然そんな……! 来週はニューヨークのフォーラムがございます!」「すべて取り消して。私の署名が必要な緊急案件だけ、衛星回線に上げてください。それ以外の連絡は不要です」紗良が求めているのは、高級リゾートでもヨットでの休暇でもなかった。果てしな
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第2話 187億円と雑巾がけ
そっけないのに、妙にふてぶてしい。紗良の返事を聞いた冬真は、あきれたように息だけで笑った。「結構です。3日後に自分から荷物をまとめても、違約金を請求しないでくださいよ」彼はリビングのテーブルに置かれたタブレットを、顎で示した。「規則は全部で47項目。室温は正確に21.5度、照度は40ルクス。寝具はヘッドボードに対して直角を保つこと。冷蔵庫の飲料はラベルを正面に。水垢も埃も、1ミリグラムたりとも許しません」「覚えるのは1分で十分です」紗良はまだ画面を開くこともなく、平然とうなずいた。数百ページに及ぶ多国籍企業の買収契約書。その不利な条項まで10分で頭に入れる彼女にとって、家事のルール47個など、たかが知れている。「出勤するまでは、私の目に入らないように」冷たい言葉を残して、冬真は書斎へ入った。扉が閉まる。取り残された紗良の口元が、かすかに上がった。「47個……。ずいぶん緩いのね」飾り気のないリネンのエプロンを締め、髪をきっちりまとめる。彼女の目には、この600平方メートルのペントハウスはひどく散らかって見えた。歴代のハウスキーパーは冬真の顔色をうかがうあまり、表面を磨き上げることしかできていなかったのだ。物の配置も、家事の流れも、根本から整っていない。1兆円を動かしてきた、徹底した効率主義者の本能が目を覚ました。まずはリビングの大きな窓。アルコール溶液で、ごく薄い油膜まで丁寧に取り除く。窓枠の隅に入り込んだ埃を極細ブラシでかき出すと、港区の夜景は、そこにガラスなどないかのように澄んで見えた。次はドレッシングルーム。何十着ものスーツを、季節、素材の厚み、色の濃淡の順に並べ直した。ハンガーの間隔はすべて3.5センチ。レーザーで測ったかのように、寸分の狂いもない。キッチンで冷蔵庫を開けた瞬間、紗良は眉を寄せた。「ソースのラベルが、全部ばらばらじゃない」炭酸水、ジュース、ミネラルウォーター。ボトルのバーコードの向きをそろえ、調味料は高さと容量に応じて、整然と区画に収めていく。1本があるべき場所に戻るたび、こめかみを締めつけていた圧迫感が少しずつほどけた。何百枚もの財務モデルの数字を合わせるより単純で、それだけに、確かな満足がある。浴室のタイルの水垢と、排水口の油汚れを専用のスチームクリーナーで落としきって、ようやく紗良はゴム
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第3話 10年ぶりの朝
午前7時。遮光カーテンの隙間から、柔らかな朝日が差し込んでいた。冬真は目を開け、しばらくぼんやりと天井を見つめた。頭が、信じられないほどすっきりしている。しつこい片頭痛も、目の奥を突き刺すような痛みも、きれいに消えていた。(……何時だ?)反射的にサイドテーブルの時計を見る。【午前7時5分】一瞬、心臓が大きく跳ねた。昨夜ベッドに入ったのは11時半。それから一度も目を覚まさず、7時間35分も眠ったということだ。薬を1錠も飲まずに朝を迎えたのは、21歳のとき以来。実に10年ぶりだった。驚きが収まらないまま、冬真はベッドから立ち上がった。リビングへ出ると、上質なコーヒーの香りに、トーストの香ばしさが重なる。キッチンのアイランドカウンターの前に、白いシャツと素朴なリネンのエプロンを着けた紗良が立っていた。片手でサラダボウルを整えながら、もう片方の手でタブレットの画面を確認している。「……お目覚めですか、雇い主様」振り向いた紗良は、まず冬真の顔を見た。目の下の影が薄くなっている。彼が席に着くちょうどそのとき、温かなアメリカーノがテーブルに置かれた。温度は82度。カップの持ち手は、右利きの冬真が取りやすいよう、45度の角度にそろえられていた。冬真は小さく喉を鳴らした。昨日、「3日ともたない」と言ったことを思い出したのだろう。耳の先が少し赤い。紗良は気づかないふりで、サラダトングの向きだけを直した。「あなた……私の部屋に、何をしたんですか」「埃を払い、寝具を整え、室温を21.5度にしました。それだけです」あまりにも事務的な返事だった。冬真は咳払いをこらえ、コーヒーをひと口飲んだ。酸味も、舌に触れる温度も、驚くほどちょうどいい。「……エージェンシーとの契約は、1か月でしたね」「はい」「今日から専属契約に切り替えます。基本給は今の3倍。希望があれば、専属の運転手と個人用の法人カードも用意しましょう」この女が出ていけば、またあの眠れない夜に戻ってしまう。冬真の目には、隠しきれない切実さがあった。けれど、紗良の反応は淡々としたものだった。「昇給は契約書に沿って処理してください。カードは結構です。特に使い道もありませんので」(使い道がない?)冬真は目を細めた。27歳で、値段のわからない地味なシャツを着て、他人の家に住
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第4話 その手首と、4Kの証拠
パシッ!乾いた音が、空気を裂いた。けれど、頬を打った音ではない。花凛の手が触れる寸前、紗良がその手首をつかんでいた。速く、正確な動きだった。必要以上に力は加えず、相手の動きだけを封じる。「痛っ! 放しなさいよ! 頭、おかしいんじゃない!? ただのメイドのくせに、誰に触ってるの!」花凛は悲鳴を上げてもがいたが、紗良の手はびくともしなかった。冷えた瞳が、まっすぐに花凛を捉える。数えきれない交渉の場で、相手の隙を最後まで見逃さなかった者の目だった。「人の頬を叩く前に、状況を確認なさったらどうですか」低く落ち着いた声に、リビングの空気が冷えた。「右の靴のつま先に、白磁の釉薬の粉がはっきりついています」「な、何ですって?」「棚の下には、今しがた押し動かされた跡。破片は、あなたが立っていた側から斜めに広がっています。水を持っていた私が触れた形跡はありません」紗良は感情を交えず、事実だけを並べた。「私が割ったとは考えられませんね。それから、3,000万円のアンティークとおっしゃいましたか?」床に落ちた底の破片を一瞥して、続ける。「現代の工房の刻印と、オークションのロット番号が残っています。少なくとも、本物の王室アンティークではありません。3,000万円を請求するには、準備が足りませんでしたね」「こ、この生意気な……!」花凛の顔が屈辱と驚きで白くなり、唇が震えた。そのとき、ドレッシングルームの扉が荒々しく開いた。隙なくスーツを着込んだ冬真が出てくる。床に散らばる破片と、紗良に手首を押さえられて息を荒らす花凛を見て、その顔が険しくなった。「私の家で、いったい何をしているんですか」冬真を見るなり、花凛は傷ついたような顔に切り替えた。目に涙まで浮かべてみせる。「冬真さん! このメイド、私の手首を折ろうとしたの! あなたが大切にしていた花瓶も、自分で割ったくせに私のせいにして!」冬真はその言葉を聞き流し、大股で近づいた。そして迷いなく紗良の手首を優しく包み、花凛から離した。いつもの刺々しい態度からは想像できないほど、慎重な手つきだった。床の破片に冷たい目を落としたあと、冬真は花凛を見た。そこには、もうわずかな温度も残っていない。「新堂花凛さん」「と、冬真さん……?」「飾り棚の真上に、広角の4K防犯カメラがあることをお忘れです
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第5話 防弾車とオレンジの箱
花瓶の一件から3日目。元麻布のペントハウスの日常は、それまでとはまるで違う、かなり奇妙な方向へ進み始めていた。午後2時。夕食の食材を買いに行こうと、紗良がリネンのエコバッグを手に玄関へ向かったときのことだ。カチャリ。玄関のセンサーが反応するより早く、重厚な両開きの扉が開いた。黒いオーダースーツを隙なく着込んだ高城グループ専属の警護員が2人、姿を現す。そろって、きっちり90度に腰を折った。「神谷様。ペントハウス専用の送迎車が、地下駐車場でお待ちしております」紗良は片眉を上げた。「スーパーへ、買い物に行くだけですが」「高城副会長からの直接のご指示です。外出の際は、防弾仕様のセダンと専属運転手をお付けするよう、申しつかっております」そのうえ、もう1人の手には、手のひらほどの黒い緊急通報端末まであった。位置共有と緊急連絡だけの簡素な機器とはいえ、歩いて買い物へ行く人間に持たせるには、十分に大げさだ。「危険を感じたら、中央のボタンを押してください。グループの総合指令室と契約警備会社に位置情報が送られ、必要であれば110番通報にも連携します」手の上に置かれた端末を見下ろし、紗良は胸の内で盛大にため息をついた。その気になれば、ヴァルハラのグローバル警備チームも、専用の衛星通信網も、すぐに動かせる。それなのに、徒歩5分のオーガニックスーパーへ行くために、防弾車と非常ベルとは。「不要です。歩いて5分の場所に車と運転手を使うなんて、移動の無駄が多すぎます。その端末も、お持ち帰りください」「ですが、警護に空白が生じれば、私どもの責任を問うと副会長が……」「では、私から説明します。私の雇用契約に、買い物で過剰な送迎を受け入れる義務はありません」きっぱり断り、紗良は一般用のエレベーターに乗った。専用エレベーターより42秒遅い。だが、玄関で押し問答を続けるよりは効率的だった。そんな計算をしながらも、冬真が自分の外出時間をわざわざ確認して指示を出したことが、もう一度、頭をよぎった。* * *その頃、高城グループ本社48階、総括副会長室。報告を受けた冬真は、握っていた重厚なモンブランの万年筆を、机に置いた。硬い音が響く。「防弾車も非常ベルも、全部断った?」「はい。『移動の無駄が多すぎる』と。エコバッグを肩にかけ、そのまま歩いてお出かけになりま
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第6話 行かないでくれ
紗良はオレンジ色の箱をそのまま持ち出し、リビングのテーブルの中央へ、まっすぐに置いた。翌朝、出勤するために書斎を出た冬真は、箱を見つけて眉を寄せた。「どうして、これがここに?」「私の部屋の引き出しに、間違って入っていました。雇い主様の物だと思いましたので、こちらにまとめておきました」よどみのない返事に、冬真の顎がこわばった。数百万円のバッグを見ても、まばたきひとつせずに返すとは。(他人の物に手は出さない、と身の潔白を示したいのか。それとも、バッグひとつで言いなりにさせるつもりだと思われたのか)穏やかな紗良の顔を見ながら、冬真だけが気を揉んでいた。(恐ろしく誇り高いな。いい、なら別の方法だ)3日後。紗良のクローゼットには、500万円のシャネルのコレクションラインのカシミヤコートが掛かっていた。紗良はそれも、埃ひとつつけずに冬真のドレッシングルームのメインハンガーへ移した。その翌日には、800万円のヴァシュロン・コンスタンタンのダイヤモンドウォッチが、引き出しに入っていた。紗良は慎重に取り出し、書斎の金庫の横にあるトレーへ、きれいに水平をそろえて置いた。(この人、だんだんおかしくなっていない? どうして貴重品を、あちこちに置き忘れるのかしら)その夜、とうとう冬真は我慢できずに尋ねた。「神谷さんには、欲しい物がないんですか?」「あります」冬真の目が、ぱっと明るくなった。「言ってください」「レンジフードの隙間用の6ミリのブラシと、無香料のシリコン用洗浄剤です。今あるブラシは先端が2ミリ太くて、隅に届きません」冬真は、しばらく何も言えなかった。紗良はその沈黙を、注文する品を覚えている時間だと受け取り、うなずいた。「それぞれ2つあれば十分です」高級バッグより、数百円のブラシを真剣に欲しがる女。冬真の勘違いは正されるどころか、ますます深まった。紗良が背を向けると、彼はこめかみを押さえた。(ダイヤの時計まで返すのか……)息苦しさを逃がすように、ネクタイを緩める。紗良は金の価値がわからないのではない。好意を受け取ること自体を恐れているのだ。冬真は、そう確信していた。断られるほど諦めがつくどころか、次の手段を考え始める自分も、どうかしている。* * *その夜、午前0時半。突然の豪雨と雷に、ペントハウスの大きな窓が低く鳴
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第7話 月給200万円と、3,000億円の取引
手首に触れる熱は、明け方の空気の中でいっそう際立っていた。冬真は、自分が口にした「行かないでくれ」という言葉に押しつぶされたように、紗良の細い手首を握ったまま動けずにいた。呼吸だけが、少し速い。紗良は乱暴に振りほどかなかった。こわばった彼の手の甲を、指先で軽く2回叩く。「どこにも行きません。本は読み終わりましたから、お水を持ってくるだけです」「……」「放してください、雇い主様。このままでは、お水を取りに行けません」落ち着いた、ごく日常的な声。それが耳に届いて、ようやく冬真は我に返った。弾かれたように手を離す。耳の先から首筋まで、一気に熱くなった。「……すみません。悪い夢を見て、寝ぼけていたようです」顔を手でこすり、視線をそらす。情けないやら恥ずかしいやらで、穴があったら入りたかった。ハウスキーパーにすがりついて、行かないでくれと頼むなど。高城グループ副会長としての威厳も、何もあったものではない。紗良は何も言わず、ぬるめの麦茶をサイドテーブルに置き、静かに書斎の扉を閉めた。その夜、紗良も3年ぶりに、薬なしで6時間眠った。壁の向こうから聞こえる冬真の穏やかな寝息を、確かめてからのことだった。* * *翌朝8時。食卓に着いた冬真は、きちんと紺のスーツを着ていたが、昨夜の気まずさから紗良と目を合わせられずにいた。咳払いばかりが増える。「その、昨日は……雨の音で、いつもより神経が過敏になっていたようです」「よく眠れなかった翌朝ですから、刺激の少ないものにしました。今朝はかぼちゃとアボカドが中心です」かぼちゃのスープ、アボカドのサラダ、温度まで計ったオムレツ。紗良は、あくまで仕事として料理を並べた。その平然とした態度に、冬真は安堵する一方、どこか面白くなかった。自分はあれほど必死にすがったのに、彼女の表情は少しも乱れない。(本当に、何を考えているかわからない人だ)コーヒーカップを手で包みながら、そっと書類を食卓の端へ滑らせた。「昨夜の謝罪とお礼も兼ねて、給与条件を見直しました。月給200万円に引き上げます。週4日勤務で、専属の補助スタッフも付けましょう」月給200万円。大企業の役員でも、驚くような条件だった。(これなら、少なくとも生活費のために無理をすることはないだろう)冬真は内心で満足し、紗良が喜ぶ顔を待った
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第8話 崖っぷちの政略結婚
「高城重工、ね」紗良はマイクロファイバーのはたきを軽く払い、目を細めた。高城グループの中核企業だが、海運市況の悪化と原材料価格の高騰が重なり、資金繰りが厳しくなっていた。3,000億円の出資を取りつけられるかどうか。冬真が次期会長の座を継ぎ、経営権を守れるかも、そこにかかっている。「会長、高城重工の財務基盤と環境配慮型LNG船の特許は、同業の中でも最上位です。ヴァルハラの資金が入れば、2年以内に40%を超える投資収益率も期待できます」熱を帯びた説明を受けても、紗良の声は冷静だった。提出された事業計画書の主要な数字には、すでに目を通している。無理な楽観論で数字を膨らませた跡はない。リスクの項目には、冬真自身の反対意見と補完策まで、併記されていた。投資を求める経営者にしては、珍しいほど正直な報告書だった。「財務と技術力が優秀なのは、わかっています。ただ、この案件は私が直接審査してはいけません」「は? 会長が審査なさらないのですか? 3,000億円の案件ですが……」「利益相反を避けるためです。私は現在、高城副会長の自宅に滞在しています。自分で判断を下すべきではありません。高城の案件は、独立投資審査委員会の決裁に委ねてください。私への中間報告も不要です」「承知いたしました。直ちに独立審査へ移管します」通話を終えると、紗良は端末をエプロンの奥へ戻した。公私の線引きは、厳密でなければならない。冬真が自分を貧しいハウスキーパーだと思い込み、見当違いの気遣いを繰り返していることと、巨額の資金を運用することは別の話だ。感情に流されて投資原則を曲げるなど、ヴァルハラのトップとして許されない。(高城冬真さん。あなた自身の実力で、証明してください)紗良は小さく息をつき、またリビングの窓枠に残る微細な埃を拭き始めた。* * *高城の投資案件については、独立委員会が15日間の精査を行った。その間、冬真はほとんどの夜を睡眠薬なしで過ごし、紗良は贈られたバッグを部屋の片隅に保管したまま、契約終了の日を意識し始めていた。言葉にしなくても、相手がいつ帰るか、食事は取ったか、よく眠れたか。2人は、何より先にそれを気にするようになっていた。15日後。大手町の金融街にある会員制プライベートクラブ。外の音が一切届かない会議室で、冬真と有力政治家の新堂征一郎
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第9話 俺が結婚したら
新堂との会談を終えると、冬真は運転手に、まっすぐ元麻布へ向かうよう告げた。夜景が車窓の向こうへ流れていく。それでも、頭の中は少しも片づかなかった。帰宅したのは、日付が変わってしばらく経った頃だ。リビングの照明は30ルクスに落とされ、天然のラベンダーとヒノキの香りが、穏やかに漂っていた。冬真は玄関でネクタイを乱暴に緩めると、ふらつく足取りでソファへ向かった。一日中、役員からは辞任を迫られ、政治家からは脅されていた。体が鉛のように重い。会社では誰にも弱みを見せられない。そのことが、何より疲れた。淹れたばかりのカモミールティーをトレーに載せ、紗良が音もなく近づいた。「お帰りなさいませ、雇い主様」静かな足取りで、テーブルにカップを置く。帰宅予定より38分遅かった。紗良は冷めたスープを2度温め直したが、そのことは言わなかった。代わりに、乱れたネクタイ、しわになったシャツの袖、手の甲の赤い跡を順に見る。いつもの秩序を保つ余力さえ、ないということだった。冬真はカップにも目を向けず、目の前に立つ紗良を見上げていた。青ざめた顔。赤く充血した瞳。そこには、深い孤独と疲れがにじんでいた。会社では少しも揺らがなかった男が、家に戻った途端、どうにか立っているだけの人に見えた。「……夕食は、召し上がりましたか?」紗良がそっと聞くと、冬真は力なく自嘲した。「名家の後継者というのは、食事ひとつ落ち着いてできる立場だと思いますか」震える手で顔をこすり、ソファの背に深く頭を預けた。「誰もが俺の首に縄をかけて、欲しいものを差し出せと言う。会社を救いたければ、望みもしない女と一生を共にしろ、とね」胸を締めつける苦しさに耐えかねたように、シャツの襟元を引いた。「子供の頃から、周りにいたのは家と金しか見ない人間ばかりだ。実の母親でさえ、俺を、グループ内の権力を守るための飾りにしか思っていない。誰も……俺が息をしているか、生きた人間なのかなんて、気にもしない」初めて、冬真は紗良の前で弱音を隠さなかった。紗良の胸の奥が、ちくりと痛んだ。彼女にも、覚えのある夜だった。会議が終われば、誰もが自分の決断を待っている。なのに、昨夜は眠れたのかと聞く人は、1人もいない。権力が大きくなるほど、個人的な弱みは厳重に隠さなければならなかった。紗良はソファの横へ歩み
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第10話 白紙の小切手の値段
低く震える問いが、リビングの静けさに落ちた。紗良の澄んだ目が、揺れる冬真の視線を正面から受け止める。出資が受けられないかもしれないと話していたときより、紗良が去る可能性を口にした今のほうが、彼は不安そうだった。(この人は……本当に、私が貧しいメイドで、いつでも別の家へ行ってしまうと思っているのね)1兆円の資産を運用するなかで、紗良は数えきれないほどの欲と打算を見てきた。けれど、何の条件もなく、自分そのものを失いたくないと訴える目は、初めて見た。冬真は、彼女の金も、家も、地位も知らない。それでも、神谷紗良を手放したくないのだ。もう、そのことを無関心にやり過ごすことはできなかった。紗良はつかまれた手首を引かず、落ち着いた声で答えた。「雇い主様の私生活やご結婚に関係なく、私の契約は30日間です。期間中に、自分から出ていくことはありません」「……契約が終わったら?」「それは、契約が終わる日に決めることです」口にしたのは原則どおりの答えだった。だが、紗良の中では、もう結論が出ていた。契約が終わっても、この家の冷蔵庫のラベルと、冬真の朝のコーヒーを確かめていたい。それが仕事上の判断ではなく感情だということに、まだ慣れない。だから、言葉にできないだけだった。冬真はそっけない答えに安堵しながらも、胸の奥がじわりと締めつけられるのを感じた。手首をゆっくり放すと、自分に言い聞かせるように、低く言った。「新堂花凛とは、絶対に結婚しません。高城重工が法的整理に入って、俺が一文無しで追い出されるとしても、あの女に人生を売るつもりはない」冬真はその場で秘書室へ電話し、新堂側に縁談を正式に断るよう指示した。投資案件と結婚を結びつけて脅されたことも、コンプライアンス上の記録に残させる。断りの通知まで手配を終えてから、ようやく電話を置いた。紗良の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。(それでこそ、高城冬真さんね)もし彼が政略結婚を受け入れていたら、投資とは別に、紗良の気持ちはその場で終わっていただろう。利益相反を避けて審査から外れたからといって、1人の人間を見極めることまでやめる必要はない。* * *翌日午前11時。冬真は緊急取締役会と債権者への説明のため、本社へ出かけていた。紗良はペントハウス2階の書斎で、革装の古書に保革剤を塗り、整えていた。
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