All Chapters of 分かれた彼が、全員私を溺愛してきます 〜私も彼ら全員を愛していますが、これはいけないことなのでしょうか〜: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話 結び火祭りの夜

「澪」四つの声が、同時に私の名前を呼びました。教室の入口に、四人が並んで立っています。前髪が目にかかるくらいの黒髪で、制服をきちんと着ているのが和樹くん。襟足を刈り上げた短髪で、第一ボタンを開けて袖をまくっているのが新太くん。明るい癖毛をそのままにして、カーディガンの袖に指を引っかけているのが幸也くん。額を出して、ネクタイまできっちり締めているのが久遠くん。四人の声は、本当ならぜんぜん違います。和樹くんはやわらかい中音で、新太くんは低くて硬い。幸也くんは高くてよく通って、久遠くんは静かな低音です。なのに、私の名前を呼ぶときだけ、四人とも声がほんの少しだけ下がるのです。だから「澪」の二文字だけが、同じ高さで重なって聞こえます。私はこの音を、去年の夏から知っています。——この人たちは、全員が、私の恋人だった人です。比喩でも冗談でもなく、そのままの意味で言っています。去年の夏まで、彼は一人でした。結城和樹という名前の、一人っ子の男の子でした。そのことを覚えているのは、この世界で、私だけです。    ◇八月十六日。結び火祭りの夜でした。四方原市の外れに、結守神社という小さなお社があります。うちは代々、そこのお祭りの世話役をしている家です。毎年この日になると、町中の恋人たちが二人並んで石段をのぼっていきます。結守さまは縁を結んでくださる神さまだから、二人で参ると長続きする。そういう言い伝えがあるのです。私は紺地に白い朝顔の浴衣を着て、参道の入口で和樹くんを待っていました。「お待たせ」 走ってきた和樹くんは、私を見て、それから目をそらしました。「……うん」「なんですか、それ」「いや、あのさ」和樹くんは右手の親指で、人差し指の付け根をかりかりと掻きました。照れているときと、嘘をついているときにだけ出る癖です。付き合って三年、私はこの動きを数えきれないくらい見てきました。「似合ってる。すごく」石段の下から本殿まで、両側にずらりと屋台が並んでいます。りんご飴、金魚すくい、焼きそば、大学芋。「チョコバナナ食べます?」「俺はいい」和樹くんは、チョコレートが食べられません。甘いものが苦手なわけではなくて、チョコだけが駄目なのだそうです。去年のバレンタインに私が渡したのは、お煎餅と甘納豆の詰め合わ
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第2話 おはよう、結城くんたち

朝、目が覚めてすぐに、私は枕元の携帯を手に取りました。『昨日は大丈夫でしたか。ちゃんと眠れましたか』既読がついたのは、それから五分後でした。『平気。迎えに行く』その四文字を見て、私は安心してしまったのです。昨日の帰り道、和樹くんの指はひどく冷たかったのです。あの顔色を思い出すたびに、心臓のあたりがきゅっと縮みました。でも、迎えに行くと言うのなら大丈夫なのでしょう。今日会ったら、大学芋をもう一度食べに行きませんかと誘おう。そんなことを考えていました。顔を洗って、髪を結んで、制服に着替えて。玄関でローファーを履いていたら、インターホンが鳴りました。戸を開けて、私は動けなくなりました。和樹くんが、四人いました。いえ、違います。四人とも、和樹くんの顔をしていました。朝の光がまぶしくて、一瞬、目の錯覚だと思いました。瞬きをしても、数は減りませんでした。ひとりは、前髪が目にかかるくらいの黒髪で、制服をきちんと着ています。ひとりは襟足を刈り上げた短髪で、腕が日に焼けています。ひとりは明るい癖毛をそのままにして、八月なのにカーディガンを羽織っています。ひとりは額を出して、ネクタイまできっちり締めています。背の高さが、少しずつ違いました。並ぶと、なだらかな段になっていました。「おはよう、澪」四つの声が、同時に言いました。そして私の口は、勝手に動きました。「……おはようございます。新太くん、幸也くん、久遠くん」言ってから、自分でぞっとしました。知らない人たちのはずなのに、名前が出てきたのです。しかも、間違えずに。それどころではありません。私の頭の中には、この三人との思い出が、ぎっしり詰まっていました。新太くんが中学の体育祭でリレーのアンカーを走ったこと。幸也くんが去年の冬に雪だるまを作って、鼻に人参ではなく柿の種を刺したこと。久遠くんが図書室の隅で本を読んでいて、私が声をかけるまで顔を上げなかったこと。どれも、手触りがありました。においも、温度もありました。作り物だと言われても、私には見分けがつきませんでした。それなのに。私は同時に、はっきりと覚えているのです。結城和樹くんは、一人っ子でした。「澪、鞄」新太くんが、私の手から鞄をひょいと取り上げました。「持てます」「いいから」「今日も新太くんが一
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第3話 全員が、あのときの彼だった

それから三日、私はずっと四人を見ていました。証拠が欲しかったのだと思います。世界のほうが間違っているのだと証明できるものが、ひとつでもあれば。だから私は、四人をよく見ました。ノートを取る手つきも、笑い方も、廊下の曲がり方も。二日目の昼休み、新太くんが購買のパンを二つ買ってきて、片方を私に押しつけました。私が「ありがとうございます」と言ったら、新太くんは目をそらして、右手の親指で人差し指の付け根をかりかりと掻きました。私はパンの袋を持ったまま、動けなくなりました。その仕草を、私は三年間、数えきれないくらい見てきました。照れたときと、下手な嘘をついたときにだけ出る癖です。誰にも言ったことはありません。たぶん、和樹くん本人も気づいていません。三日目の放課後、幸也くんが「あのさ、」と切り出して、夏休みの宿題を見せてほしいと言いました。四日目の昼、久遠くんがノートを取る手は左でした。それなのに、お弁当の箸は右手で持っていました。「久遠くん、左利きですよね」「ああ」「お箸だけ、右なんですね」久遠くんは、少しだけ手を止めました。「小さいころに、婆ちゃんに直された」和樹くんと、一字一句、同じ答えでした。和樹くんの癖の数々が、すべて四人の中にありました。間違えようがありません。私はそれを、三年間見てきたのですから。もうひとつ、確かめたことがあります。四人とも、言いにくいことを切り出すときに「あのさ、」から入るのです。新太くんは「あのさ、明日部活休みだから」。幸也くんは「あのさ、宿題」。久遠くんは「あのさ」とだけ言って、そのまま黙ってしまいました。四人とも、目の形が同じでした。笑うと、右の頬にだけ笑窪ができるところも同じでした。耳の形まで同じでした。それでも私は、一度も四人を間違えませんでした。間違えられたらよかったのに、と思いました。誰が誰だか分からなければ、まだ楽だったはずです。髪の長さが違います。肩幅が違います。歩幅も、声の高さも、制服の着方も違います。四人が並んでいたら、後ろ姿だけで誰が誰か分かってしまいます。それなのに、笑ったときに出る笑窪の位置だけが、四つとも同じなのです。金曜日、私は決定的なことをしました。部活のない放課後、四人が教室に残っていたので、紙袋を出したのです。「差
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第4話 わしが分けた

「返すとは、なんじゃ」本殿の屋根の上に、小さな女の子が座っていました。夕日を背にしているせいで、輪郭が金色に滲んでいました。白い着物の裾から、裸足の足首が二本、ぶらりと出ています。七つか八つくらいでしょうか。白い着物を着て、足をぶらぶらさせています。逆光でよく見えないのに、笑っているのだけは分かりました。蝉が鳴きやんでいました。風も止まっていました。境内の空気だけが、水の中のように重くなっていました。「……結守さま、ですか」「ほかに誰がおる」「そなたの家の者は、代々わしに供物を上げてくれておる。祭りの晩にいちばんよい酒を置いていくのは、そなたの祖母じゃな。あれは気が利く」女の子は、指を折って数えるような仕草をしました。「一ノ瀬の家とは、もう六代の付き合いになる」女の子はひらりと屋根から飛び降りて、私の前に立ちました。頭ひとつ分どころか、二つ分は小さいのです。それなのに、その子の前に立っていると、膝が震えました。「よう来たな、一ノ瀬の娘。そなたの家には世話になっておる」「あの」「どうじゃ」女の子は、胸を張りました。「うまくいったであろう」私は、言葉が出ませんでした。褒めてもらえると思っている顔でした。夏休みの自由研究を親に見せる、子どもの顔です。「四つに分けた。わしがやった」その子は得意げに言いました。悪びれるどころか、褒められるのを待っている顔でした。「……どうして、そんなことを」「あの男の魂の緒が細かったからじゃ」女の子は指を一本立てて、それを見せてきました。「ほつれておったのよ。毛羽立って、あと数年で切れるところじゃった。二十を迎える前にな」結守さまは、両手で細い糸を引っぱるような仕草をしました。ぷつん、と口で言いました。子どもが遊びで出すような、軽い音でした。息が止まりました。和樹くんの体が弱かったこと。病院で何度診てもらっても原因が分からなかったこと。中学二年の夏、お祭りの準備中に倒れたこと。あの日、提灯を運んでいた和樹くんは、参道の真ん中で崩れるように倒れました。私が保健の先生を呼びに走って、戻ってきたときにはもう目を開けていました。「大丈夫、いつものだから」と和樹くんは言いました。いつものだから、と。その日から私は、彼の隣を歩くようになったのです。全
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第5話 誰も、悪くない

「あの夜、そなたたちは二人で言うたであろう」結守さまは、指を折りながら言いました。「この人と結婚して、長く暮らしていきたい、と。一字一句、同じであった。あんなに揃うた願いは、久しく聞いておらぬ」その通りです。私が言いました。和樹くんも言いました。「じゃからわしは、長く暮らせるようにした。何がいかんのじゃ」いけないことなど、ひとつもありませんでした。言葉のとおりに叶えてもらっただけです。私たちは「この人と」としか言いませんでした。「この人ひとりと」とは、言わなかったのです。だって、四人になってしまうなんて思わなかったから。「……ひとりと、暮らしたかったんです」「なぜ」結守さまは、本気で聞いていました。「縁は多いほうがよかろう。結ばれるほど豊かになる。一本きりの縁など、切れたら終わりではないか」この神さまにとって、縁とは網のようなものなのだと思いました。太い糸が一本あるより、細い糸がたくさん絡み合っているほうが丈夫で、豊かで、ありがたい。何百年も、そうやって土地と人を結んできたのでしょう。私は、何も言い返せませんでした。この神さまは、人が一対一で約束をする生き物だということを、知らないのです。何百年もこの土地にいて、縁を結び続けてきて、それでも知らなかったのです。誰も、悪くありませんでした。それが、いちばんどうしようもないところでした。「あの」私は、まだ希望を持っていました。「みんなの記憶は、どうなっているんですか。写真も、学校の名簿も、全部——」「知らぬ」「え」「わしがしたのは、分けたことだけじゃ」結守さまは、はじめて困った顔をしました。「翌朝、わしも驚いた。世界のほうが勝手に辻褄を合わせおった。四つの魂が在るのなら、四人分の居場所が要る。そういうことなのじゃろう。わしにも止められぬ」私は、自分の頭の中にある偽物の思い出を思いました。新太くんの体育祭。幸也くんの雪だるま。久遠くんの図書室。どれも、あるはずのない記憶です。それなのに、思い出そうとすると勝手に色がつきます。新太くんの走る背中も、雪だるまに刺さった柿の種も、図書室の埃っぽい匂いまで。私の頭の中にも、誰かが勝手に手を入れているのです。「じゃあ、どうして私だけが、覚えているんですか」「同じときに、同じ願いを、わしの前で捧げたから
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第6話 送り当番

次の日の夕方、うちの門の前で、四人が揉めていました。昨日、神社で泣いてしまったことを、四人は誰も蒸し返しませんでした。学校でもいつもどおりでした。幸也くんがふざけて、新太くんが怒って、久遠くんが黙って、和樹くんが笑っている。それがかえって、こたえました。「だから順番だって言ってるだろ」「なんで新太が最初なんだよ」「昨日、俺が最初に見つけたから」「それ関係ある?」鞄を抱えたまま、私はしばらくその場に立っていました。四人が四人とも真剣で、誰も私に気づいていません。「あの」四つの顔が、同時にこちらを向きました。「何の話ですか」新太くんが、一歩前に出ました。「送り当番」「送り、当番」「昨日みたいなことがあると困る」昨日。鞄を玄関に放り出して、神社まで走った日のことです。「町じゅう走ったんだからな。幸也なんか駅まで行ったんだぞ」「自転車で行ったんだけどね」と幸也くんが手を挙げました。「途中でチェーン外れて、押して帰った」「だから、これからは誰かが必ず一緒に帰る。順番で」幸也くんが指を折り始めました。「じゃあ月曜が俺で、火曜が和樹で、水曜が久遠で、木曜が新太ね」「なんで俺が最後なんだ」「言い出しっぺは最後って決まってるんだよ」「決まってない」「じゃあ、火曜と木曜を替われ」新太くんが、和樹くんのほうを見ました。「いいよ」和樹くんは、二つ返事でした。「和樹、お前もうちょっと粘れよ」「粘る理由がないだろ」久遠くんが、静かに口を挟みました。「金曜がない」四人が黙りました。「五日ある。俺たちは四人だ。割り切れない」その言い方に、私はどきりとしました。四で割り切れないという、ただそれだけの話なのに。四という数が出てくるたびに、私はあの夜の声を思い出してしまうのです。死が四度来るまで、と言った、あの軽い声を。「じゃあ金曜は全員で行こう」和樹くんが言いました。それまで一言も言わずに、私の隣に立っていた人です。「四人で行けば、誰も文句ないだろ」「和樹、それ天才」「賛成」「……異論はない」あっという間に決まっていきます。「あの、私、一人で帰れます」四人が、また同時にこちらを向きました。「危ないから」四人とも、同じことを言いました。声の高さはばらばらなのに、言葉だけが完全に重なりました。
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第7話 君、俺たちを見分けてるよな

その週の、久遠くんの当番の日でした。久遠くんは、ほとんど喋りません。教室を出てから川沿いの道に入るまで、交わした言葉は三つでした。「行くぞ」と「うん」と「そっち」です。歩くときは、いつも半歩前にいます。並ぶのでも、先導するのでもなく、半歩前。最初は距離を取られているのかと思いました。違いました。あの位置だと、私の顔がよく見えるのです。「久遠くん」「ん」「疲れませんか。ずっと黙っていて」「黙ってるほうが楽だ」それきりでした。不思議なもので、気まずくはありませんでした。和樹くんと一緒にいるときの沈黙に、少しだけ似ていました。少しだけです。和樹くんの沈黙はぬるいお湯のようでしたが、久遠くんの沈黙は、水の底のような静かさでした。その静かさの中で、私はときどき、見られていることに気づきます。ときどき、久遠くんが半分だけ振り返ります。目が合っても、この人は目をそらしません。そらさずに、そのまま見ています。悪びれもしません。川沿いの道の、堤防が途切れるところで、久遠くんが立ち止まりました。夕方の川面が、まだらに光っていました。「あのさ、」私の心臓が、大きく跳ねました。和樹くんが、言いにくいことを切り出すときにだけ使う言葉です。「君、俺たちを見分けてるよな」風の音が、急に遠くなりました。「……何を言っているんですか。四人とも全然違うじゃないですか」「そうか?」久遠くんは、川のほうを見たまま言いました。「母親でも間違える。父親なんか、いまだに俺と新太を取り違える。中学の先生は三年間、最後まで諦めてた。俺たち自身、写真のうつりが悪いと分からないことがある」知りませんでした。私には、一度もそんな瞬間がなかったからです。「君は一度も間違えない。廊下の向こうからでも、後ろから声をかけても、振り向く前に名前を呼ぶ。体育のあと、四人ともジャージで、髪も同じように濡れてた。あのときも君は間違えなかった」「……声が違いますから」「違うのは分かる。分けられるのは別の話だ」久遠くんは、そこで初めてこちらを向きました。「それと、豆菓子」鞄の紐を握る手に、力が入りました。「四人ともチョコが駄目だと、なんで知ってた」「たまたまです」「四人分たまたまか」「……はい」「そうか」久遠くんは、それ以上追及しませんでした。
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第8話 笑わせる人

夏期講習の最終日、冷蔵庫の当番表が新しくなっていました。誰かが夜のうちに差し替えたのです。犯人はすぐに分かりました。字がまるくて、月曜のところに小さな星が描いてあったからです。「幸也くん。これ、なんですか」『夏休みバージョン』そう書いてありました。送り当番だったはずの表は、いつのまにか「誰と遊ぶか」の表に変わっていました。月曜・幸也。火曜・新太。水曜・久遠。木曜・和樹。金曜・全員。順番は、そのままでした。変えたのは中身のほうです。「送るだけとか、もったいないじゃん」電話の向こうで、幸也くんは悪びれもせずに言いました。「始業式まで、まだ一週間あるんだよ。一週間だよ。一日も無駄にできないでしょ」「私、宿題がまだ残っています」「それも入れといた。水曜の久遠のとき、図書館でやればいいじゃん」「人の予定を勝手に」「勝手じゃないよ。みんなで決めた」みんな、というのは四人のことです。私は入っていません。    ◇月曜日、幸也くんは朝の九時にうちのチャイムを鳴らしました。「早すぎます」「早くないよ。もう夏が終わるんだよ」連れて行かれたのは、商店街の外れにある古い駄菓子屋でした。小学生のころに何度か来たきりの店です。店番のおばあさんは、私たちの顔を見て「あら、結城さんとこの」と言いました。「四人のうちのどれ?」「どれって」幸也くんが吹き出しました。「三男です。幸也です」「そうかい。どれも同じ顔だからねえ」私は笑えませんでした。幸也くんは笑っていました。どれも同じ顔だからねえ。おばあさんに悪気はありません。四つ子なのですから、当たり前の感想です。それでも私は、その言葉が怖いのです。同じ顔だと言われるたびに、じゃあ和樹くんはどこにいるんですかと、聞きたくなってしまいます。店を出てから、幸也くんは十円のラムネを一袋買って、歩きながら一粒ずつ私にくれました。「澪ちゃん、これ知ってる? ラムネって九割がブドウ糖なんだって」「はあ」「だから頭にいいらしいよ。テスト前に食べると賢くなる」「本当ですか」「知らない。たぶん嘘」思わず笑ってしまいました。笑ってから、心臓が冷たくなりました。    ◇川原に着くころには、日が高くなっていました。幸也くんは靴を脱いで、ズボンの裾をまくって、いきなり浅瀬
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第9話 怒る人

火曜日は、新太くんでした。「どこか行きたいところあるか」朝いちばんにそう聞かれて、私は駅前の書店と答えました。祖母に頼まれた本を取りに行く用事があったからです。「じゃあ行くぞ」それだけで話は終わりました。幸也くんと正反対です。電車の中でも、新太くんはほとんど喋りませんでした。喋らないのに、私が立とうとすると先に立ち、扉が開くと先に降ります。そして必ず、私が降りきるまで待っています。気を遣っているというより、体が勝手にそう動いているように見えました。電車で二駅の大きな駅まで出て、本を受け取って、それで用事は済みました。まだ昼前でした。「終わったな」「終わりました」「……帰るか」新太くんは間の持たせ方を知らないのです。私も人のことは言えません。二人で黙って駅のほうに歩きました。沈黙が続くと、新太くんはだんだんそわそわしてきます。和樹くんの沈黙とも、久遠くんの沈黙とも違います。この人は、黙っているのが下手なのです。声をかけられたのは、駅前のロータリーでした。    ◇制服ではない、けれど高校生らしい三人組でした。どこの学校かも分かりません。「ねえ、今ひま?」一人が私の前に回り込みました。「ひまじゃないです」「そんなこと言わないでさ」私は歩こうとしました。もう一人が横に並んできました。距離が近いのです。手が触れそうで、私は鞄を抱え直しました。こういうとき、どうすればいいのか分かりません。強く言えば角が立って、黙っていれば終わらない。心臓だけが速くなって、足が動かなくなります。次の瞬間、目の前が暗くなりました。新太くんが、私と相手の間に入ったのです。「触るな」低い声でした。聞いたことのない声でした。「は? 何お前」「触るなって言った」新太くんは手を出しませんでした。ただ、一歩も引かずに立っていました。肩幅の広い背中が、私の視界を全部ふさいでいました。殴られると思ったのかもしれません。相手の一人が、半歩下がりました。新太くんの拳は握られていました。けれど腕は上がりませんでした。上げないように力を入れているのが、後ろからでも分かりました。しばらく睨み合って、向こうが舌打ちをして離れていきました。「なんだよ、感じわる」足音が遠ざかってから、新太くんはまだ動きませんでした。「新
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第10話 見ている人

水曜日は久遠くんです。行き先も聞かれませんでした。朝、玄関を開けたら立っていて、「図書館」とだけ言われました。市立図書館は、自転車で二十分ほどの川沿いにあります。古い建物で、冷房がよく効いていて、平日の午前中はほとんど人がいません。並んで漕いでいる間も、久遠くんは何も言いませんでした。ただ、信号のたびに速度を落として、私が追いつくのを待ちました。少し前をいこうとするのは、自転車でも同じでした。私は、ここ三日ほど眠れていませんでした。目をつぶると、祭りの夜のことばかり思い出すのです。鈴の緒が鳴ったこと。二人の声が重なったこと。和樹くんの指が冷たかったこと。あの夜に戻れたら、と考えます。何度も考えます。願いなんて口に出さなければよかった、せーの、なんて言わなければよかった。でもそれは、和樹くんが二十歳まで生きられないということでもあるのです。どこまで戻っても、正しい道がありません。それを考え始めると、朝になります。「三日前からだな」閲覧席に座ってすぐ、久遠くんが言いました。「何がですか」「まばたきが増えてる。あと、目をこする回数」私は手を止めました。ちょうど、目をこすろうとしていたところでした。この人は、いつからそれを数えているのでしょう。「久遠くんは、いつも人のことをそんなに見ているんですか」「いや」久遠くんは、鞄から本を出しながら言いました。「君だけだ」あまりにも普通の言い方だったので、私は返事に困りました。「眠れてないだろ」「……少しだけ」「そうか」それだけでした。理由は聞かれませんでした。    ◇久遠くんは、私の向かいではなく、斜め向かいの席に座りました。あとで気づいたのですが、そこは窓を背にした席でした。私の顔に日が当たらない位置なのです。しばらくして、久遠くんが席を立ちました。戻ってきたとき、手に薄い毛布のようなものを持っていました。「受付で借りた。冷房が強い」「久遠くん」「寝ろ」「ここで寝るわけには」「誰もいない。俺が見てる」見てる、という言葉に含みはありませんでした。監視でも、下心でもなく、文字どおりの意味です。ここにいて、見ている。それだけです。不思議なもので、その言い方だったから、安心できたのだと思います。その言い方に、私は何も言えなくなりました。
last updateLast Updated : 2026-09-17
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