All Chapters of 自分の葬式に参列してきました: Chapter 1 - Chapter 10

15 Chapters

72時間ぶりの生還――病院のモニターに映っていたのは、私の遺影だった

東都総合病院、救命救急センター。ロビーの蛍光灯が、目に痛いほど白かった。額には乾いた血がこびりつき、袖口からのぞく腕には青黒いあざが広がっている。高速道路のトンネル崩落事故に巻き込まれ、閉じ込められてから丸3日。ようやく救助され、応急処置を受けたところだった。視界はかすみ、耳鳴りがやまない。それでも、頭に浮かぶのはたった1人の顔だけだった。コンクリートの下敷きになりながら、ひび割れたスマートフォンで夫にかけた、最後の電話。『紗希、救助隊が行くから。バッテリー、無駄にするなよ。切るぞ』佐伯直人。夫と交わした会話は、それきりだった。何度かけ直しても、もうつながらなかった。地中30メートル。暗闇と粉じんに埋もれた、コンクリートの墓場。冷たい地下水と泥水をすすって、72時間をしのいだ。血まみれの指で石をかき、息を1つつなぐことだけに必死だった。あの地獄で生きることを諦めなかった理由は、ただ1つ。青春も、稼いだお金も、何もかも捧げてきた夫のもとへ帰りたかった。ただ、それだけだった。「佐伯さん! まだ検査も治療も終わっていません。まずはベッドに戻ってください!」顔色を変えた看護師が、私の腕をつかんだ。私は震える指で、ロビーの案内カウンターを指した。「夫に……夫に連絡させてください。佐伯直人です。きっと外で、私を待っているはずだから……」かすれた声を聞いた看護師の表情が、妙にこわばった。その視線が、壁に設置された大型モニターへ流れる。事故関係者向けの案内画面だった。隣接する葬祭会館の案内に切り替わった、その赤い文字に、私の目は吸い寄せられた。【第1特別式場 故・佐伯紗希様】【出棺 明朝8時】【喪主 夫・佐伯直人】心臓が、すとんと落ちた。白い菊に縁取られた、見覚えのある証明写真。モノクロに加工された私の顔が、画面の真ん中にあった。「ねえ、あれ……あの患者さんと同じ名前じゃない?」「トンネル事故で行方不明になった人でしょ? 遺体も見つかっていないのに、ご主人がお通夜を始めたって……」「じゃあ、生きて帰ってきたの? もう葬式までしてるのに?」患者の付き添いや病院職員のざわめきが、一斉に耳へ押し寄せた。私の名前が掲げられた、葬儀の案内。私が地中30メートルの暗闇で、息を切らしながら救助を待っていたとき。夫は、私の葬式を出し
last updateLast Updated : 2026-09-16
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喪服の夫と初恋の女――香典を数えながら、1億5,000万円に乾杯

地下の連絡通路を抜け、葬祭会館の第1特別式場へ向かう。大理石の廊下には、供花が隙間なく並んでいた。『株式会社サエキトレーディング 社員一同』『代表取締役 佐伯直人』いちばん目立つ場所に飾られていたのは、夫の会社の花だった。私が必死に貯めた3,000万円を、そっくり元手につぎ込んだ会社だ。仰々しい立て札を見ているだけで、胃がねじれる。喉の奥に吐き気がこみ上げた。式場の入り口へ近づくにつれ、信じられない音が聞こえてきた。かろん、と氷がグラスに触れる音。それに重なって、甘ったるい女の笑い声が廊下を流れてくる。線香の匂いに混じって鼻をついたのは、高価なフランス製の香水と、きつい洋酒の匂いだった。私は重い扉の隙間から、そっと中をのぞいた。式場奥の遺族控室。開け放たれた仕切りの向こうに祭壇が見える、その場所で繰り広げられていたのは、悪趣味な喜劇だった。直人は喪服の上着をだらしなく羽織り、ネクタイを緩めて革張りのソファにふんぞり返っていた。その膝の上に、女が1人。念入りなメイクに、体の線がくっきり出る黒いミニワンピース。一ノ瀬莉央。直人の大学時代の初恋の相手。私たちが結婚してからも彼の周りをうろつき、事業資金だの何だのと、お金を引き出していた女だ。私は割れたスマートフォンの画面を拭き、動画撮影を始めた。扉の隙間越しに、2人の顔と札束を画角に収める。手が震えるので、手首をドア枠に押しつけた。声も残さなければ。こいつらが、今ここで口にする言葉を。「ねえ直人さん、これ見て。大企業の部長さんだって。10万円も入ってる! すごくない?」莉央が赤いネイルの指で香典袋の封を破り、媚びるように笑った。テーブルには、無造作に開けられた何百枚もの香典袋。一万円札の束が、うずたかく積み上がっている。「そんな端金で喜ぶなよ。紗希にかけてある死亡保険金、いくらだと思う? 1億5,000万だぞ、莉央」直人はいやらしく口元を緩め、莉央の腰をぐっと抱き寄せた。「トンネルが潰れて、遺体だって出てこない。さっさと死亡扱いにしてもらって、一括で金が入ったら、来週はバリだ。七つ星だか何だかの、プール付きヴィラ、取ってやるよ」「ほんと? 約束破ったら、絶対許さないからね」「俺がお前に嘘ついたことあるか? あのマンションを3,000万で売れば、合わせて1億8,00
last updateLast Updated : 2026-09-16
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「喪主様。ずいぶん楽しそうなお葬式ですね」

重い扉が、壁に叩きつけられた。鈍い音が響いた瞬間、式場に満ちていた笑い声も、音楽も途切れる。酒を飲んでいた直人の親戚たち。弔問客。そして、ソファで金を数えていた直人と莉央。全員の視線が、入り口に集まった。あのときの私は、地獄の底から這い上がってきた死神にでも見えただろう。髪にはコンクリートの灰色の粉じんが絡まり、額にも頬にも、乾いた血が残っていた。病衣の上に羽織った黒いロングコートが、冷房の風に揺れる。「……ど、どちら様ですか? ここ、ご遺族の控室なんで、勝手に入られると……」直人のいとこが、酒瓶を手にしたまま腰を浮かせた。答える気にもなれなかった。私は、祭壇に向かってゆっくり歩き始める。泥のついたスリッパが、大理石の床を擦った。誰かが口を開きかけ、何も言わずに閉じる。自分の足音だけが、やけにはっきりと聞こえた。直人の目が、ありえないほど大きく見開かれていく。手にしていたグラスが震えた。指の間から滑り落ち、砕け散った。飛び散るガラス。鼻を刺すアルコールの匂い。「さ……紗希……?」直人の唇は青ざめ、細かく震えていた。膝の上にいた莉央が甲高い悲鳴を上げ、転がるように床へ落ちた。誰もが息をひそめ、私の顔と祭壇の遺影を交互に見ている。私は、その沈黙を横切った。弔問客たちが、両脇に退いて道をあける。息をのんで後ずさる人。怯えた顔で口を押さえる人。「生きてるの? あれ、写真の……経理の佐伯課長じゃない!」「どういうことだよ。遺体が見つからないって……生きてたのか?」驚きの声が、あちこちから上がる。それでも私が見ていたのは、1人だけだった。直人の目の前で足を止める。首元から、莉央の甘い香水と、嫌な汗の匂いがした。額に浮かんだ大粒の汗が、顎を伝って落ちていく。私は白い菊を、札束の積まれたテーブルの真ん中へ放った。乾いた花びらが、かすかな音を立てた。「喪主様」自分でも驚くほど、静かな声だった。「まだ見つかってもいない妻の香典袋を開けるなんて。お忙しそうですね」「お前……なんで……。山梨の捜索隊が、生存の可能性はないって……。遺体も、見つからないだろうって……」直人は腰を引き、ソファの角につまずいた。歯がかちかちと鳴っている。私は薄く笑って、その顔をのぞき込んだ。「ずいぶん楽しそうなお葬式だったじゃない。バリの七
last updateLast Updated : 2026-09-16
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「幽霊よ!」――弔問客の前で、夫と愛人に叩きつけた怒り

「いやああっ! 幽霊! 幽霊が帰ってきた!」床に転がっていた莉央が、ひきつった声を上げた。這うようにして、テーブルの下へ潜り込む。親戚も弔問客も顔面蒼白で、押し合いながら出口へ逃げた。酒瓶が割れ、椅子が倒れる。ついさっきまでの宴会場は、一瞬で騒然となった。「幽霊?」私は、ソファにへたり込む直人の襟元を右手でつかんだ。3日も閉じ込められていた腕には、ろくに力が入らない。指に布を巻き込み、テーブルに体を預けて踏みとどまった。喉元を締められた直人が、苦しげに咳き込む。「私が土に埋もれて、助けを待ってたときに、私の葬式で乾杯してたくせに。今さら幽霊が怖いの?」「さ、紗希……離せって……。話せばわかるだろ! 息ができないんだよ!」直人が両手で私の手首を引き剥がそうとした。その口を見ているだけで、我慢できなかった。左手を振り抜く。乾いた音が、式場に響いた。手のひらに裂けるような痛みが走る。それでも、手を引けなかった。直人の顔が横へはね、切れた唇から香典袋へ血が飛んだ。「ぐっ……顎が……!」直人が床へ崩れ落ちる。私はそのまま、テーブルの下で震えていた莉央の長い髪をつかみ、引きずり出した。「痛い! 髪、やめて! 離しなさいよ、この頭おかしい女! 直人さん、助けて!」「他人の葬式に潜り込んで、喪服まで着て、奥様気取り? 私の保険金でポルシェを買って、バリへ行くつもりだったの?」莉央の頬を打ち、その顔を札束の散らばるテーブルの縁へ押しつけた。「人の夫にしがみつくだけじゃ足りなくて、私の命の値段まで山分けしようとした。……人が血を吐く思いで稼いだ金に、手を出すんじゃないわよ。クズども」莉央は鼻血を垂らし、床にうずくまって震えた。残っていた弔問客や会館の職員たちが、息をのんだままスマートフォンを向けている。直人が血のついた顎を拭い、ふらつく足で立ち上がった。怯えだけだった目に、今度は卑劣な光が浮かぶ。「紗希、勘違いするなよ! 病院から正式に死亡診断書が出てるんだ! 法律上、お前はもう死んでるんだよ!」追い詰められて、そんな言い訳しか出てこないのか。私はコートの内側から、救急外来で受け取った生存を確認できる診療資料と身分証を取り出し、直人の顔へ投げつけた。書類の角が額をかすめ、床へ落ちる。「死亡診断書? 私は、ここに生きてる。
last updateLast Updated : 2026-09-16
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死亡記録の訂正――1億5,000万円は、もう手に入らない

第1特別式場に、息苦しい沈黙が落ちた。直人は桐生の差し出した受付記録と告訴状を見下ろし、浅い呼吸を繰り返していた。真っ白な紙には、保険会社の受付番号が印字されている。【被保険者の生存確認に伴う、死亡保険金支払い審査の停止】直人は紙を裏返し、また表を見た。1億5,000万円という数字よりも、その下の「停止」の文字を長く見つめていた。「な……なんだよ、このふざけた話! 仮差押えって何だよ! 俺が喪主なのに、なんで保険金が止まるんだ!」血に汚れた唇を震わせ、直人が怒鳴った。その後ろで床にへばりついていた莉央も、メイクの崩れた顔を上げる。「弁護士さん、何かの間違いじゃありません? 紗希さんが閉じ込められたとき、直人さんがどれだけつらい思いをしたか……!」桐生は、テーブルの香典袋を指した。「悲しんでいた、と。では、なぜあれほどの封筒が開けられているのでしょう。その金を誰が持ち出そうとしていたのか、先に確認させていただきます」彼がタブレットを起動し、直人の目の前に画面を向けた。妻の行方不明を届け出た直後に、直人が保険会社へ提出した請求資料が映っている。「捜索が続いていた事故当日の夜、救急外来の当直医に50万円を渡し、死亡診断書を入手した疑いがあります。この資料も警察に提出しました。医師への事情聴取も始まっています」後ずさった直人のかかとが、ソファの脚にぶつかった。両手で背もたれをつかまなければ、倒れていただろう。「い、医者が……もう、調べられてるって……?」「あなた名義の預金と株式については、仮差押えを申し立てます。サエキトレーディングの法人預金に見られる不審な取引は、別に調べます。会社の金と、代表個人の金は分けて扱う必要がありますから」桐生が書類の一行を示すと、直人はそれを隠すように手を伸ばした。桐生は先に紙を引き、ファイルへ戻した。大手企業の経理で6年。何十億円もの資金の流れを追ってきた私の経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。事故に遭う前から、説明のつかない取引や会社の会計資料は、クラウドに保存してあった。あのときは、直人にきちんと説明してもらうためだった。もう、その機会を彼に預けるつもりはない。「直人」コートのポケットに手を入れ、床にへたり込んだ夫を見下ろした。「あなた、もう1億5,000万円は受け取れな
last updateLast Updated : 2026-09-16
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事故当日の真実――私のSOSを切った夫は、愛人とホテルにいた

葬祭会館を出て、桐生のセダンの後部座席に乗り込んだ。夜明け前の冷たい空気が、血と粉じんに汚れた頬を冷やしていく。車内は静かだった。革の匂いに、ほのかなウッディ系の香りが混じっている。3日ぶりの、まともな座席。それでも神経は張りつめたまま、少しも休まらなかった。「佐伯さん、そのお体では無理です。まずは病院に戻りましょう。個室で点滴と酸素の治療を受けていただきたい」桐生の落ち着いた声に、私は首を振った。「いいえ、桐生先生。今休んだら、あの2人に証拠を消して逃げる時間を与えてしまう。先に、ドライブレコーダーの映像を見せてください」桐生は私の目を見て、静かにうなずいた。ノートパソコンを開く。画面に表示された撮影日時は、事故当日の午後4時20分。私が山梨県内の高速道路トンネルで、生き埋めになっていた時刻だった。映っているのは、郊外のひとけのないラブホテルの駐車場。『紗希、救助隊が行くから。バッテリー、無駄にするなよ。切るぞ』マイクが拾った直人の声は、冷たく、何の感情もなかった。通話が切れた直後、甘えるような女の声と、笑い声が車内に響いた。『ねえ、ほんとに切っちゃったの? トンネルが崩れて、人が埋まってるんでしょ? どうするの?』『どうするも何も。1億5,000万の当たりくじが、自分からトンネルに入ってくれたんだぞ』カメラには、駐車場の入り口が映っていた。直人のゆったりした息遣いと、そのすぐ隣で笑う莉央の声が重なる。『救助隊が遅れれば遅れるほど、俺たちには都合がいい。酸素がなくなって窒息すれば、ただの災害による死亡だ。1億5,000万が一括で入ったら、お前も晴れて社長夫人だよ』『きゃあ、直人さん最高! 今夜は私、いっぱいサービスしちゃう!』キスの音。シャンパンのコルクが抜ける、乾いた音。何もかも、はっきり聞こえた。胸が裂ける、という程度ではなかった。砕けたあとに残ったものまで、黒く焼け落ちていく気がした。私は、冷たいコンクリートの墓場で泥水をすすりながら、信じていた。夫が助けに来てくれる。その思いだけで、72時間を生き抜いた。その夫は、私の吸う酸素がなくなるのを待ち望みながら、初恋の女と笑っていたのだ。人は、どこまで裏切られたら何も感じなくなるのだろう。少なくとも、まだそこまでは届いていなかった。憎い。指先が白く
last updateLast Updated : 2026-09-16
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「紗希、全部誤解なんだ!」――すがる夫の手を、彼が止めた

東京都府中市。約100平方メートルの、少し広めのマンション。結婚前から積み立てた貯金で買った、3,000万円の私の家だった。14階でエレベーターを降りると、玄関のドアは開け放たれていた。引き出しをひっくり返す音が、廊下まで響いている。「おい! 紗希のダイヤのセット、どこだよ! クローゼットのブランドバッグも、金の置物も、全部詰めろ!」直人はリビングに大きなスーツケースを3つ広げ、寝室の収納や金庫を手当たり次第に漁っていた。莉央は私のドレッサーの引き出しを開け、百貨店の商品券の束とロレックスを、自分のバッグへ押し込んでいる。「ねえ直人さん、このシャネルのクラシック、私がもらっていい? あの女、いちいち数なんか確かめてられないでしょ」「いいから全部持ってけ! 売れるもんは売って、まず借金の利息を払わなきゃならないんだよ!」他人の家財を漁っていた2人の視線が、玄関に立つ私と桐生のところで止まった。「……さ、紗希!」莉央の手からロレックスが滑り落ち、床を転がった。彼女は盗もうとしていたバッグを背中へ隠し、部屋の隅へ後ずさる。「私の葬式から追い出されて、次は私の家で泥棒?」リビングへ踏み込むと、直人の顔がたちまち涙と鼻水にまみれた。見事な切り替えだった。彼は床に膝をつき、私のほうへ這ってくる。「紗希! 誤解だ、全部誤解なんだよ! 莉央に脅されてたんだ! あの女に、言われるままにやるしかなくて……!」「はあ? 直人、あんた何言ってんの? 私のせいにする気? 1億5,000万もらったらバリに行こうって言ったの、あんたじゃない!」莉央が目をむいて叫んだ。直人は聞こえないふりで、私の足元へ手を伸ばす。「紗希、愛してる。本当に愛してるんだ! 事故のときだって、病院で一晩中泣いて……。なあ、告訴だけ取り下げてくれないか? 頼むよ!」その顔を見下ろしているだけで、血が逆流しそうだった。私が地下の墓場で必死に生きようとしていた間、死ぬのを待っていた男。それが、今さら愛を口にしてすがってくる。薄汚れた手が、コートの裾に届きかけた。その前に、桐生が一歩出た。革靴のつま先が、直人の手の先をふさぐ。踏みつけたわけではない。ただ、私の前に立ちはだかり、彼を見下ろした。「触らないでください」「なんだよ、お前! 夫婦のことに口出すな!」直人が
last updateLast Updated : 2026-09-16
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3,000万円の自宅を取り戻す――あなたの居場所は、もうここにはない

「通報した現場はこちらです。2人が紗希さんの宝飾品を持ち出そうとしていました。バッグとスーツケースを確認してください」桐生の言葉とともに、府中署の刑事4人がリビングへ入ってきた。「な、なんだよ! 離せよ! ここは俺の家だぞ。住んでる人間を、なんで捕まえるんだ!」腕を押さえられた直人が、声を張り上げた。莉央も女性警察官に腕を取られ、身をよじる。「離して! 私はついてきただけ! 直人さんが、全部持っていっていいって言ったのよ!」私はマンションの登記事項証明書と購入時の契約書を、責任者の刑事に差し出した。「この家は結婚前、私のお金3,000万円で購入しました。名義も私です。今後は売却を進めて、代金も私の口座で受け取る予定です。でも、そのことと、私の宝飾品を勝手に持ち出していいかは別の話でしょう。処罰を求めます」刑事は書類を確認してうなずき、直人へ向き直った。「住居の権利関係と、物品を持ち出した件は分けて確認します。お2人を、共同して宝飾品を盗んだ疑いで、窃盗の現行犯として逮捕します。黙秘権があり、弁護人を選任できます。言い分があれば、伺います」「紗希! お前、本気で頭おかしいんじゃないか? 家を売ったら、俺はどこに住めばいいんだよ!」「どこに住むかは、あなたの問題でしょう。佐伯さん」私は彼を見た。「少なくとも、私の家ではないわ」莉央が詰め込んだバッグとスーツケースを開け、刑事の目の前で中身を床へ並べた。それから、2人が入れていた自分たちの上着と古い靴だけをゴミ袋へ押し込み、廊下へ放り出す。「ちょっと! 私の服、ブランド物なんだけど! 紗希、あんた、人の物になんてことするの! ただで済むと思わないでよ!」莉央は髪を振り乱して暴れたが、女性警察官が腕を押さえ、手錠をかけた。「一ノ瀬さん、窃盗容疑での現行犯逮捕です。確認が終わるまで、物には触らないでください」2人が警察官に連れられ、エレベーターへ向かっていく。私は腕を組み、その後ろ姿を見送った。直人の落としたスマートフォンが、床の上で激しく震えていた。画面に表示された名前は、【新宿キャピタル 黒崎部長】。スピーカーをオンにして、通話ボタンを押した。『おい、佐伯! カイエンの残金と、借りた1,000万! 明け方までに入金しねえと、親の家も会社もぶっ潰すって言ったよな!』荒っぽい
last updateLast Updated : 2026-09-16
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1,000万円のポルシェとブランド品――届いたのは、保険金ではなく請求書

その日の午前、府中署で起きたことは、後から聞いた。直人は留置されてからも、どうすれば外へ出られるか、そればかり尋ねていたという。しわだらけの高級シャツ。手首には手錠。冷たい床にしゃがみ込んだ彼は、しきりに爪を噛んでいた。指は震え続け、口の端には式場で切れた傷のかさぶたが残っている。ほんの数時間前まで、妻の死亡保険金1億5,000万円でバリへ行くだの、ポルシェに乗るだのと大口を叩いていた男の面影はなかった。鉄格子に囲まれた場所で聞こえるのは、酔っ払いの怒鳴り声と、それをたしなめる警察官の声ばかり。面会室に移された直人は、手錠の当たっていた手首を何度もさすった。鉄の扉が鳴るたびに、顔を上げる。扉が開いた。黒い革のジャケットを着た、大柄な男が3人入ってきた。新宿キャピタルの黒崎と、その取り巻きたちだった。「よう、佐伯社長。税金で飯食って、涼しいとこで休んでたわけだ」太い金の指輪をつけた黒崎が、アクリルの仕切りを叩く。直人は顔色を失い、慌てて仕切りの前へ寄った。「く、黒崎さん! どうしてここが……。助けてください! 弁護士さえ呼べば、すぐに出られるはずです!」「出て、どこ行くつもりだよ。このクズが」黒崎は床へ唾を吐き、分厚い契約書と借用書を、仕切りに叩きつけるように示した。「奥さん、生きて帰ってきたんだってな。1億5,000万はなし。口座に仮差押えまで入ったら、どうやって返すんだ? カードも全部止まってるそうじゃねえか」書面には直人の自筆の署名と印が、くっきり残っていた。「カイエンの残金800万。それから先週、初恋の女にブランドバッグを買うって借りてった元金1,000万。延滞利息と手数料をつけて、きっちり2,100万だ。正午までに入れろ。でなきゃ、田舎の親の家も持ち山も、まとめて競売だぞ」車の残金まで、自分の貸し金であるかのように足した数字だった。契約書の金額と、黒崎が口にする額は違っていた。その食い違いを説明する代わりに、黒崎は親の家の話を繰り返した。「お、親の家だけは勘弁してください! 外に出たら、会社をどうにか立て直して返しますから!」「会社だあ? お前の女房、法人の口座まで調べてんだろ。そこからまた抜いて、俺に回せるのかよ?」面会を終え、直人は取調室へ戻った。担当の警察官が、所持品とともに届いた封筒や電子文書の印
last updateLast Updated : 2026-09-16
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「金持ちじゃなかったの?」――初恋の女が見せた、本当の顔

2人を同席させた取り調べの内容も、後になって確認できた。府中署の第3取調室。直人と莉央は、向かい合うなり責任をなすりつけ合ったという。手錠をかけられた2人の間には、長い金属製の机があった。莉央の顔に、数十万のフォロワーを抱える美容系インフルエンサーの華やかさは残っていなかった。高価なマスカラは涙と汗でにじみ、黒いミニワンピースは埃に汚れて、よれきっている。目元を手の甲で拭った莉央は、黒く汚れた手を直人に突きつけた。「直人さん、どうなってるの? 弁護士は? お金、ちゃんと払ったんでしょうね!」手錠のついた両手で、机を叩く。直人はくぼんだ目を伏せ、震える指を見ているだけだった。「金が……ないんだよ、莉央。カードも止まった。口座まで押さえられたら、本当にどうにもならない」「は? ないって何? 保険金の1億5,000万はどうなったのよ!」「紗希が生きて帰ってきただろ。保険会社、払わないって……。診断書を書いた医者も調べられてる」ぼそぼそとした告白に、莉央の顔が驚きと怒りでゆがんだ。「じゃあ、あんた……1億5,000万も、マンションの3,000万もなくて、本当は一文無しの借金まみれってこと?」「莉央、それでもお前にいい暮らしさせたくて、借金してポルシェの申込金も入れたし、ブランド物だって……」「借金って、ふざけんじゃないわよ! この詐欺師!」莉央は立ち上がるなり、手錠のついた両手を振り上げ、直人の顔へ振り下ろした。頬を叩き、爪を立てる。「痛っ……! 莉央、何すんだよ! やめろ、離せ!」「誰が頼んだのよ! 1億5,000万ある社長夫人にしてやるって、私の人生に責任持つって言ったの、あんたでしょ! フォロワーもモデル契約も、全部なくなりそうなのよ。あんたなんかのせいで!」莉央が直人の髪をつかんで引き、顔に唾を吐いた。痛みと怒りで目をむいた直人も、その襟元をつかみ、床へ倒す。2人は取調室の床で取っ組み合い、噛みつき、蹴りつけた。「ふざけんな、この女! お前だって香典袋を開けて、バリに行こうって煽ってたじゃねえか!」「黙れ、人殺し! 私はあんたに騙された被害者よ!」刑事4人が飛び込み、もつれ合う2人を引き離した。それぞれの腕を押さえ、反対側の壁へ離す。ようやく静まったとき、直人の顔は血だらけで、莉央のつけ爪は折れ、指先から血が
last updateLast Updated : 2026-09-16
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