Todos los capítulos de あなたのいないこれからは、幸せばかり: Capítulo 1 - Capítulo 10

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第1話

「香月さん、どうしたんですか?急に黙っちゃって」話の途中で言葉を止めた私を見て、アシスタントの牧瀬航平(まきせ こうへい)が目の前で手をひらひらさせた。はっと我に返り、ひまりの指先から目をそらす。ここは業界でも指折りのレコーディングスタジオだ。時間が延びれば、そのぶん料金もかさむ。無駄にできる時間はない。どれだけ気が重くても、今は目の前にいる恋人の浮気相手を指導するしかなかった。一度違和感に気づいてしまうと、それまで気にも留めなかったことまで次々と目につくようになる。たとえば、ひまりの鼻にかけるような歌い方。凌生がよく使う歌い方とそっくりだった。歌うときに目を閉じ、リズムに合わせて小さくうなずく癖まで同じだ。けれど、これはガールズグループの曲だ。ずっと目を閉じて歌っていては、ステージで求められる表情づくりにも合わない。それに、私を見る目。いつもどこか、挑むような色が混じっている。今までは、新人なりの反発心なのだと思っていた。指導されるのが面白くないのだろう。それくらいは大目に見ようと、自分に言い聞かせてきた。けれど今、これまでの小さな違和感をひとつずつつなぎ合わせてみれば、答えは嫌になるほど分かりやすい。ひまりと凌生は、ただの先輩後輩じゃない。深く息を吸い、胸の奥で渦巻くものを押し込めた。そして、できるだけいつも通りの声で言う。「花房さん。この曲はガールズグループ向けだから、凌生みたいにしっとり歌い込まなくていいの。もっと自分の歌い方で歌って」ひまりの目に、一瞬だけ動揺が走った。その直後、目元がみるみる赤くなる。「そんなつもりじゃないです。ただ、いつもと違う歌い方も試してみたくて……」「だったら、自分の歌い方でやって。わざわざ人の癖まで真似しなくていいから」そう言った途端、ひまりの指先が小さく震え始めた。結局、その日の収録は最後までうまくいかなかった。ひまりのパートだけ、何度録り直してもOKが出ない。普段なら、新人が落ち込まないよう声をかけ、励ましていたはずだ。でも今日は、そんな余裕がなかった。ずっとそばで見ていた航平も、私の様子がおかしいことに気づいたらしい。スタジオ側と話をつけ、予定より早く収録を切り上げてくれた。全員でスタジオを出ると、ひまりは真
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第2話

凌生だけに設定していた着信音が、車内に1分近く鳴り続けた。切れる寸前になって、ようやく電話に出る。「詩乃、なんでこんなに出るの遅いんだよ?そっちに男でもいるのか?なんで黙ってるんだよ。まさか図星じゃないだろうな」声には、隠しきれない焦りがにじんでいた。昨日までの私なら、きっと優しくなだめていただろう。けれど今は、これまで凌生が私の電話に出なかったときのことばかりが頭をよぎる。仕事中だった。着信に気づかなかった。スマホをマナーモードにしていた。電話に出られない理由なんて、いくらでもある。それなのに、どうして凌生は、私のそばに男がいると思ったのだろう。もしかして。自分が私の電話に出なかったときは、そばに別の女がいたから?全身から力が抜け、シートに背中を預けた。「どうして、そう思うの?」かすれた声で聞くと、凌生は黙り込んだ。しばらくして、急に話を変える。「今日、新人のレコーディングでずいぶん機嫌が悪かったって聞いたけど。どうしたんだよ?」思わず鼻で笑った。どうやら、ひまりが告げ口したらしい。それで凌生は、私に文句を言うために電話してきたのだ。「誰から聞いたの?」「誰だっていいだろ。それより、本当なのか?」「そう。もう新人の担当はしたくない」「詩乃!」凌生の声が強くなった。「引き受けるって言っただろ。今さらやめるなんて言うなよ」その言葉を聞いた途端、笑いたくなった。もともと会社から任される予定だったのは、男性アイドルグループの企画だった。けれど凌生が、私が若い男たちと近くで仕事をするのは嫌だと言って、ガールズグループを担当してほしいと頼んできた。今になって思えば、全部ひまりのためだったのだ。私に彼女を売り出させたかっただけ。「凌生だって、紫苑音楽賞のステージで恋人がいるって公表するって約束したよね。あれは守らなかったじゃない」今度こそ、凌生は何も言えなくなった。そのまま電話を切り、車を走らせて家へ戻る。案の定、誰もいなかった。2度目の紫苑音楽賞を取ってからの半年、凌生はますます売れ、仕事の付き合いが山ほどあると言って、家に帰ってくる日も少しずつ減っていた。気づいていなかったわけじゃない。スーツから、甘い香水の匂いがしたこ
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第3話

信じられない思いで、目の前の凌生を見つめた。まるで、初めてこの人の本当の顔を見たような気がした。「凌生。今の地位まで、どうやって来たのか忘れたの?」凌生は舌打ちすると、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。「そうやって、いつまでもその話を持ち出されるのが一番うんざりするんだよ。曲を書いたのがお前だからって、それが何なんだ?」灰を軽く落としながら、どうでもよさそうに言う。「結局、誰かに歌ってもらわなきゃ曲にはならないだろ。俺の顔と声がなかったら、お前の作ったメロディーなんて、パソコンの中に眠ってるだけのデータだ。俺がお前の曲を売れる曲にした。お互いに得したんだ。どっちも相手に借りなんかない」まだ涙の残る目には、凌生の輪郭がぼやけて見えた。強く瞬きをして、こぼれそうになった涙を押し戻す。「分かった。そこまで言うなら、別れよう」8年も尽くしてきた。それでも、浮気をするような人と一緒にいるつもりはない。自分で差し出したものを、今さら惜しむつもりはない。失う覚悟だってある。凌生の眉間に深いしわが寄った。「よく考えてから言えよ。今の俺なら、1分でお前の月給くらい稼ぐんだぞ」思わず、歪んだ笑いがこぼれた。「もう恋人でもない人のお金なんて、どうでもいい」凌生は少しだけ声をやわらげた。「詩乃。ひまりとは遊んでるだけだよ。お前が本命なのは変わらない」その言葉を聞いた瞬間、とうとう我慢できなくなった。振り向きざま、思いきり頬を叩く。「凌生。お願いだから、もう少しまともに生きて。ひまりがいいなら、ちゃんと向き合ってあげなよ。まだ18歳なんだから。これからってときに、あんたの遊びに付き合わせるなんて最低でしょ」叩かれた勢いで顔をそむけた凌生は、舌で頬の内側を押した。「自分がこんな目に遭ってるのに、まだあいつの心配する余裕があるんだな。でも残念。ひまりは、お前がどうなろうと気にしてないよ」その言い方に引っかかり、胸がざわついた。「どういう意味?」凌生が口元を歪める。「昨日、ひまりとキスしてるところを撮られた。あいつはもうすぐデビューだ。今スキャンダルが出たらまずい。それで、俺のスマホを勝手に使って、前に撮った俺たちの動画を流したんだよ。詩乃、ここ2、3日は外を
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第4話

腫れた目のまま会社へ入ると、周囲の視線が微妙に逸れていくのが分かった。気づかないふりをして、そのまま社長室へ向かう。ドアは少し開いていて、中から笑い声が聞こえてきた。「凌生も相当だよな。恋人を矢面に立たせて、浮気相手をかばうなんて」社長の声だった。すぐに、別の声が続く。「あれくらいやれなきゃ、ここまで売れないでしょう」深く息を吸い、ドアを押し開ける。笑い声がぴたりと止まった。社長の顔にはまだ笑みが残っている。秘書は気まずそうに私へ会釈すると、そそくさと部屋を出ていった。「来たか」社長は椅子の背にもたれ、何でもないような口調で言った。「座れよ」私は座らなかった。「社長。今、ネットでは私が仕事上の立場を利用して凌生に迫ったことになっています。きちんと否定させてください。それに、流出した動画のことも……」「もういい」社長は手を上げて遮った。「その件は、お前が動かなくていい」「でも、私、今1stアルバムの準備をしていて……」社長は手元のマグカップを取り、ゆっくりひと口飲んだ。「香月。アルバムの話は、少し先に延ばそう」思いもしない言葉に、頭が真っ白になった。「どうして……?」社長はカップを置き、ため息をついた。「会社で一番発言力があるのは、社長じゃない。いちばん稼いでくれる人間だ」少し間を置いて、私を見る。「今の青燈芸能で一番の稼ぎ頭は凌生だ。お前だって会社の人間だろ。あいつと正面から揉めて、損をするのは誰だと思う?」言いたいことは、嫌になるほど伝わってきた。どう言えば自分の立場を守れるのか考えているうちに、社長は机の引き出しから1枚の書類を取り出した。そのまま私の前へ滑らせる。「前にお前が取ってきた番組だけど、凌生が、ひまりのほうが向いてるって言ってる。だから出演はあの子に回すことにした」そして、なだめるように付け足した。「深く考えるな。会社のためだ」目を落とした。その仕事を取るために、私は3回も接待に付き合った。胃を壊しかけるほど飲んで、ようやく決まった番組だった。拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んだ。「納得できません。この番組は、私が先方と話をまとめた仕事です。勝手に出演者を変えるなら、法的に争います」社長が勢い
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第5話

自分の荷物を抱え、ふらつく足取りで会社を出た。行く当てもないまま、潮見野市の街を歩く。2年間の練習生生活。8年間の恋愛。10年かけて積み重ねてきたものが、今日ですべてなくなった。それでも、これ以上悪くなることなんてない。そう自分に言い聞かせた、その直後だった。突然、目の前が真っ暗になった。鼻を刺すような強い匂いがして、そこで意識が途切れた。次に目を覚ましたとき、いたのは人気のない廃工場だった。両手も両足も縛られている。目の前には、まだ高校生くらいにしか見えない4人の女の子がいた。そのうち1人がスマホの画面と私の顔を見比べる。「間違いない。こいつだ!」その声を合図に、ほかの女の子たちも一斉に近づいてきた。「ねえ、立場を利用して凌生くんに迫ったの、あんたでしょ?」「ババアのくせに、凌生くんに近づくとか身の程知らず!」「髪切っちゃおうよ。もう人前に出られないようにしてやればいいじゃん」恐怖で思わず後ずさる。そこでようやく分かった。この子たちは、凌生のファンだ。1人がハサミを手に近づいてくるのを見て、たまらず声を張り上げた。「違う!無理やり迫ったりしてない!凌生とはちゃんと付き合ってるの!」4人の動きが止まった。真っ先に我に返った1人が、疑うように眉を寄せる。「証拠あるの?」バッグを目で示した。「本人に電話する。今ここで確認して!」半信半疑のまま、バッグを私の手元に置いた。縛られた手をどうにか動かし、震える指でスマホを取り出して凌生の番号を押した。1分近く呼び出し音が続き、ようやくつながる。「もしもし?」凌生の声が聞こえた。向こうは静かだったが、かすかに女の笑い声が混じっている。声が震えた。「凌生。ファンの子たちにちゃんと説明して。私たちがどういう関係なのか」2秒ほど、返事がなかった。私が今どんな状況にいるのか、考えているような間だった。やがて、凌生は笑った。「今度は何なんだよ。俺たちに特別な関係なんてないだろ。そこまで言わせたいのか?俺の仕事を何本か取ってきたくらいで、彼女になれると思った?何年も俺を追いかけ回して、何回断られたと思ってるんだよ。いい加減、つきまとうのやめてくれない?」頭の中が真っ白になった
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第6話

電話を切ってから、凌生の右まぶたは何度もぴくつき、妙な胸騒ぎも消えなかった。詩乃が今、危ない目に遭っているかもしれない――凌生自身、そんな予感はあった。それでも、少しくらい痛い目を見ればいいと思った。自分に逆らえばどうなるのか、これで少しは身にしみるだろう。凌生にとって、人と人との関係は駆け引きだった。ここで自分が折れれば、これから先、本命を手元に置いたまま外では好きに遊ぶなんて生活はできなくなる。カラオケの個室には、またにぎやかな音楽と笑い声が戻っていた。凌生はひまりに、新曲をアカペラで歌ってみろと言った。ひまりは素直にマイクを手に取る。2フレーズほど歌ったところで、凌生がたまらず口を挟んだ。「ガールズグループの曲なのに、なんで俺みたいな歌い方してるんだよ。変えろ」ひまりはすぐに唇を尖らせた。「凌生さんまでなんでそんなこと言うの?みんなして私をいじめて!」凌生は眉を上げる。「これがいじめ?誰かにも同じこと言われたのか?そいつ、見る目あるじゃん」ひまりは悔しそうに足を踏み鳴らした。「もう1人は香月さんだよ!あんなおばさんと同じこと言わないでよ!」そこで凌生は思い出した。昨日、ひまりから詩乃にいじめられたと聞かされたことを。そのとき真っ先に思ったのは、詩乃がひまりに嫉妬して、わざと嫌がらせをしているのだろうということだった。昔の自分も、先輩に押さえつけられ、潮見野市に出てきてから何年も芽が出なかった。その頃の自分を思い出すと、ひまりが余計にかわいそうに思えた。腹を立てた凌生は、そのまま一晩中家に帰らなかった。それどころか、社長にまで話を通し、詩乃が取ってきた仕事をひまりに回させた。けれど今考えてみれば、詩乃はただ問題点を指摘しただけだった。そもそも詩乃は、社内でも新人の面倒見がいいことで有名だ。優しくて、根気強く、相手の気持ちもよく汲んでくれる。新人なら誰もが、できることなら詩乃にプロデュースしてほしいと思っている。そんな詩乃が、理由もなく18歳の子をいじめるだろうか。そう思うと、凌生の表情が険しくなった。「昨日、詩乃にいじめられたって言ってたの、これのことか?」ひまりは、凌生の顔つきが変わったことにも気づかず、唇を大きく尖らせた。「そうだよ
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第7話

目を覚ますと、病院のベッドにいた。全身には包帯が巻かれている。ベッドのそばでは、伊佐見さんが医師と話していた。私が目を開けたことに医師より先に気づくと、すぐに身をかがめた。「目、覚めましたか?」小さくうなずく。伊佐見さんが痛ましそうに私を見ているのが分かった。「警察にはもう連絡しました。すぐに動いてくれて、犯人たちももう捕まっています」伊佐見さんは白弦レコード株式会社の代表取締役だ。以前、かなりいい条件を提示して、私をプロデューサーとして自分の会社に誘ってくれたことがある。けれど、彼の好意はあまりにも分かりやすかった。当時の私は凌生のことしか見えていなくて、何度も断った。ただ、伊佐見さんには1曲だけ、自分の曲を贈ったことがある。そのとき彼はとても喜んでくれて、もし私がいつか青燈芸能を離れると決めたら、そのときは何でも1つ力になると約束してくれた。喉を動かし、どうにか声を絞り出す。「ありがとう……」伊佐見さんは少し不満そうな顔をした。「僕にお礼なんて言わなくていいのに。今は何も考えず、ここでゆっくり傷を治してください。全部、僕が取り返してみせます」思わず苦笑した。昔は、青燈芸能で一生働くのだと思っていた。凌生とも、一生一緒にいるのだと思っていた。だから、私が書いた曲のほとんどは、今も凌生や会社の手にある。凌生の名前で発表されたものもあれば、会社が新人を売り出すために使ったものもある。今さら取り戻そうとしても、簡単にいくはずがない。無駄だからやめて、と言おうとしたそのときだった。ドアが勢いよく開き、凌生が飛び込んできた。私を見るなり、膝から力が抜けたように、そのままベッドの脇にひざまずく。手を伸ばしたものの、包帯だらけの腕の上で止まった。手はひどく震えていたが、触れることはできないようだった。「詩乃……詩乃……なんで……どうしてこんなことに……」額をベッドの縁につけたまま、凌生はひざまずいていた。「ごめん……本当に、こんなことになるなんて思わなかった。せいぜい少し悪口を言われるくらいだと思ってたんだ。まさか手を出すなんて……知らなかった。本当に知らなかったんだ」顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。スターになってから、こんなに取り乱
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第8話

警察官に鋭く制され、今にも殴り合いになりそうだった2人も、さすがにそれ以上は動けなかった。そのうちの1人が私のそばまで来ると、数枚の写真を見せた。「香月さん、確認をお願いします。あなたを連れ去って暴行したのは、この4人で間違いありませんか?」写真には、あのときの4人が写っていた。1人ずつ顔を確かめ、最後に小さくうなずく。「はい……この4人です」警察官は写真を閉じた。「4人ともすでに身柄を確保しています。いずれも高校生で、現在、個別に事情を聴いています」その言葉を聞いた瞬間、凌生が警察官に食い下がった。「あいつら、なんで詩乃にあんなことしたんですか?」警察官は落ち着くよう手で制した。そして、少し険しい顔で続けた。「4人の供述では、葉室さん本人から『香月さんにつきまとわれている』と聞いていたそうです」凌生の表情が凍りついた。「俺は……殴れなんて言ってない」「もちろん、その点も確認しています」警察官は淡々と答えた。「ただ、彼女たちはこう話しています。『香月さんは、葉室さんとは普通に付き合っていると言っていた。でも信じられなかった』『その場で葉室さんに電話をかけてもらったら、葉室さん本人が関係を否定して、ずっとつきまとわれていると言った』『だから嘘をついていると思って、手を出した』と」凌生は何も言えなくなった。ゆっくりとこちらを見る。伊佐見さんも、そこでようやく何があったのかを理解したらしい。表情を険しくし、私をかばうように前へ出た。警察官2人が顔を見合わせる。それから、凌生に向き直った。「葉室さん。詳しくお話を伺いたいので、署までご同行をお願いします」
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第9話

退院の日は、雲ひとつない晴天だった。伊佐見さんに支えられながら歩いていると、隣ではまた、事件の進み具合を細かく説明してくれていた。「診断書はもう警察に提出してあります。被害届も受理されています。今後の手続きは弁護士にも相談してありますから、詩乃さんが1人で全部対応する必要はありません」ここまでしてもらって、私にできるのは何度も「ありがとう」と言うことくらいだった。けれど、私がそう口にするたび、伊佐見さんは少し困ったような顔をした。「詩乃さん、早く元気になってください。それが一番のお礼です」病院の正面玄関を出たところで、2人同時に足を止めた。階段の下に、凌生が立っていた。ずいぶん痩せている。しわだらけのスーツが、ひと回り細くなった体にぶかぶかに見えた。何日も着替えていないようだった。この数日、凌生も穏やかには過ごせなかったのだろう。SNSのトレンドは、凌生への批判で埋め尽くされていた。暴露したのは、ひまりだった。自分も被害者に見えるような書き方で、2人のメッセージのやり取りと、プライベートで撮った写真を一気に公開したのだ。スクショには、凌生がひまりに『かわいいよ』と甘い言葉を送り、『詩乃はただの社員だから、気にするな』と書いているやり取りまで残っていた。ひまりは、それにこう添えていた。【私も騙されていました。彼からはずっと、彼女はいないと聞かされていました】世間の反応は一気に変わった。それまで私が立場を利用して凌生に迫ったと叩いていた人たちも、今度は凌生へ矛先を向け始める。【ってことは、二股かけてたってこと?】【じゃあ前の動画も、自分で流して一般人をネットリンチさせたってこと?】【ふざけんな。高いギャラもらってる芸能人の都合のいい駒になるためにSNS見てるんじゃねーんだよ!】それでも凌生のファンは、必死になって擁護していた。【凌生くんだって被害者でしょ!ひまりが勝手に近づいただけ!】【香月詩乃だって、そんな被害者ヅラできるほどまともじゃないでしょ】【実力あるアーティストなんだから、恋愛スキャンダルくらい別によくない?凌生が新曲出したら、アンチだって結局こっそり聴くくせに】確かに、その通りだった。紫苑音楽賞・最優秀男性アーティスト賞を2度取った歌手なんて、
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第10話

足をかばいながら、ゆっくり凌生の前まで歩いていった。「痩せたね」そのひと言で、凌生はすぐに目を赤くした。視線が、私の髪に止まる。腰まであったウェーブヘアは、あの日、凌生のファンに切られてしまった。今は耳にかかるくらいのショートヘアだ。顔にかかった髪を耳にかける。「伊佐見さんが腕のいい美容師を手配してくれたの。このショート、きれいに整えてもらって、すごく気に入ってる。短くしてみて分かった。前の長い髪って、見た目はきれいでも、すごく手がかかって大変だったんだなって。そう思わない?」凌生にも、何を言っているのか分かったらしい。首を横に振り、声を詰まらせた。「髪なら、また伸ばせる。全部、まだ元に戻せるから」「でも、私はもう元には戻りたくない」まっすぐ凌生を見た。「凌生。きれいに終わらせたいなら、私の曲の権利を返して。誰かに売るつもりはない。ただ、自分が作ったものに、自分の名前を残したいだけ」凌生は空を見上げた。涙をこらえているようだった。しばらくして、ようやく口を開く。「昔のお前は、そんなこと気にしなかっただろ。お前はいつも、『私が作ったものは凌生のものでもある』『凌生の成功は私の成功でもある』って言ってたじゃないか。お前の曲に込めた気持ちを歌えるのは、俺だけだって。なのに、なんで今さらそんなこと言うんだよ。あの伊佐見に何か吹き込まれたのか?あいつとはいつから付き合ってる?」思わず、ため息が出そうになった。まただ。自分が後ろ暗いからって、私まで同じ人間にしたがる。すぐに答えずにいると、凌生はそれを肯定だと思ったらしい。「じゃあ、これでおあいこってことでいいだろ?お互いのこと、もう責めるのはやめよう」そう言うと、しわだらけのスーツの内ポケットから、小さなベルベットの箱を取り出した。蓋を開ける。ダイヤの輝きが、目に刺さった。「詩乃……」凌生は片膝をついた。声はかすれ、ほとんど聞き取れない。「これ、最初からお前に渡すつもりで買ったんだ。ひまりが勝手に持っていった。俺の服を漁って見つけたんだ。あいつにはもう責任を取らせた。外で遊んだ相手は、誰も本気で俺を思ってくれなかった。俺のことを本当に大事にしてくれたのは、お前だけだった」最
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