LOGIN私、香月詩乃(かつき しの)の支えで、葉室凌生(はむろ りょうせい)が再び紫苑音楽賞・最優秀男性アーティスト賞のトロフィーを手にしたあと、私たちは一夜にして、付き合い始めた頃のような熱を取り戻した。 彼が私を見る目には、前よりずっと強い独占欲がにじんでいた。 「もう男のアーティストは担当するなよ」 背後から私を抱きしめた凌生が、くぐもった声で続けた。 「妬くから」 私は「子どもみたい」と笑いながら言った。 けれど、胸の奥には甘い気持ちが広がっていた。 あの頃の私は、ただ愛されすぎているのだと思っていた。 ある日、彼の服のポケットから、「一生に一つしかオーダーできない」とうたうダイヤのリングを見つけるまでは。 その瞬間、涙があふれた。 8年付き合ってきて、ようやく凌生も私との結婚を決めてくれたのだと思った。 片膝をつく凌生の姿まで想像した。 けれど翌日、そのリングは新人の花房ひまり(はなぶさ ひまり)の指にはまっていた。 ひまりは私を見て、挑むような目を向けてきた。 その場に立ち尽くし、このところ凌生が理由もなく見せていた嫉妬や警戒を何度も思い返した。 あれは、深い愛情なんかじゃなかった。 自分を私に重ねていただけだった。 自分がとっくに一線を越えていたから、私のすることすべてが、自分と同じに見えていたのだ。
View More凌生に関する話題は、丸1週間SNSのトレンドから消えなかった。その後、凌生はしばらく姿を消した。どこにいるのか、誰も知らなかった。そんなある日の夕方、知らない番号から電話がかかってきた。「香月詩乃さんでしょうか。潮見野消防局の救助隊です。葉室凌生さんが海に飛び込むと言っていて、あなたに会いたいと繰り返しています。こちらでも説得を続けていますが、かなり不安定な状態です。可能であれば、こちらまで来ていただけませんか?」数秒黙った。「行きません」「人命に関わることです。どうかご協力を……」「それは救助隊の方にお任せします」そう言って、すぐに電話を切った。30分後。SNSのトレンド1位に上がったのは、【葉室凌生、「海に飛び込む」と宣言し騒動に】という話題だった。動画の中で、凌生は海岸の岩場に立っていた。海水はすでにふくらはぎまで達している。強い風にあおられ、体が何度もぐらついていた。そばでは救助隊員が必死に声をかけている。けれど凌生は聞こうともせず、カメラに向かって叫んだ。「詩乃!来てるのか!?来ないなら、俺、本当に飛び込むからな!」コメント欄には、凌生を気の毒がる声もあった。【ここまで追い詰められてるのに、元カノも少しくらい来てあげればいいのに】一方で、冷ややかな反応も多い。【これただの脅しじゃん。自業自得でしょ】伊佐見さんから、少し心配そうなメッセージが届いた。『もし本当に飛び込んだら、行きますか?』『死なないですよ』私はそう返した。『私が情にほだされるか、試してるだけです』そのまま、自分の仕事を続けた。さらに1時間ほど経つと、動画が更新された。今度は、凌生が本当に岩場から海へ飛び込んでいた。幸い、救助隊員がすぐ近くで待機していたため、ほどなく引き上げられた。それでも凌生は、助けられた途端に救助隊員へ食ってかかった。岸に倒れ込み、全身ずぶ濡れのまま叫んでいる。「なんで助けたんだよ!もう死なせてくれ!」しばらくすると、叫ぶ力もなくなったらしい。目からすっかり光が消えていた。「会いたい……俺はただ、詩乃に会いたいだけなんだ……あいつがいないと無理なんだよ。全部、昔みたいに戻したい……」今夜の騒ぎでつら
けがが治る頃には、私の生活もようやく元に戻り始めていた。ただ1つ、私の作品だけはまだ青燈芸能と凌生の手に残ったままだった。そのことを思うたび、悔しくて食事ものどを通らないことがあった。あの頃の私は、どうしてあそこまで恋に夢中になって、何も考えられなくなっていたのだろう。そんな私の気持ちを、伊佐見さんはいつも察してくれた。「詩乃さんの曲は、別の形でちゃんと戻ってきます。もう少しだけ待っていてください」「何か方法があるんですか?」気になって聞くと、伊佐見さんは少し悪そうに笑った。「問題を解決するときって、あまり行儀よくやりすぎないほうがいいこともあるんです」翌日。匿名のアカウントがSNSに長文を投稿し、凌生がこれまで「自作曲」として発表してきた楽曲の制作プロジェクトファイルを公開した。元のデモ音源には、はっきりと私の歌声が残っていた。【葉室凌生は曲なんて作れない。香月詩乃が作った曲のコードを少しいじって、自分名義の曲として出していた。会社の上層部も全部知っていた。でも「天才シンガーソングライター」という売り方のほうが人気が出るから、ずっと隠してきた】その投稿をきっかけに、ネットは一気に炎上した。少し前から、ひまりの暴露で凌生への反感はかなり高まっていた。そこへ今回の件が重なり、批判が一気に噴き出した。昔のインタビューまで掘り返された。凌生が「曲のインスピレーションは日常から生まれる」と語っている動画には、【詩乃の日常から、でしょ】そんなコメントが並んだ。以前、人気だけの歌手を「クリエイターとは呼べない」と批判していた映像まで見つかり、【自分が一番偽物だったじゃん】と皮肉られた。ファンは一気に離れていった。大手ファンアカウントの管理人まで活動休止を宣言し、ファンコミュニティも次々に閉鎖された。それでも擁護を続けるファンは、今度は一般のユーザーから容赦なく叩かれていた。スポンサー各社は凌生を起用した広告を次々に取り下げ、出演予定だった番組の告知からも名前が消えていく。これまで凌生を高く評価していた音楽評論家たちも、相次いで謝罪した。【彼のチームに騙されていました】伊佐見さんが、どこか嬉しそうに私を見る。「牧瀬くんのほうから僕を訪ねてきたんです。詩乃
「凌生。私が今までされたこと全部、指輪1つでなかったことにできると思ってるの?」ようやく口を開いた。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。視界の端で、伊佐見さんの強張っていた顎からふっと力が抜けた。凌生は、信じられないという顔で私を見ていた。「伊佐見さんとは何もない。それに、私と凌生も、もう何の関係もないよ」いつの間にか周囲には人が集まり、空気も読まずにはやし立て始めた。「結婚しちゃえ!」「受けてあげなよ!」そんな声が飛び交う中でも、私は凌生の顔を立てるつもりはなかった。「もう、好きじゃない」一語一語、はっきりと告げる。「浮気したときから。私が立場を利用してあなたに迫ったなんて嘘をついたときから。私が地面に顔を踏みつけられていたのに、あなたがカラオケで別の女を抱いてたときから。もう、好きじゃなかった」凌生の顔から、完全に血の気が引いた。私は背を向け、伊佐見さんの車へ歩いていく。後ろで何かが地面に落ちる音がした。続いて、こらえきれなくなった凌生の泣き声が聞こえてくる。「行かないで……俺、お前がいないと無理なんだ……」振り返らなかった。その日のうちに、凌生のプロポーズ動画がSNSへ投稿された。風が強く、凌生の声は途切れ途切れにしか聞こえない。はっきり聞き取れたのは、最後のひと言だけだった。「俺と結婚してくれないか?」そのあとに映っていたのは、迷いもなく背を向けて立ち去る私の姿だった。人気アーティストが人前でプロポーズを断られたことで、凌生を気の毒がる声が集まった。皮肉なことに、それまで落ちていた世間からの好感度まで少し持ち直したらしい。【どれだけ素敵な人でも、恋愛では傷つくんだね。凌生見てたら、なんか自分まで吹っ切れた】【そろそろ新曲来そう。推しがこんな振られ方したら、絶対泣ける曲書くでしょ】【ちゃんと反省してプロポーズまでしたのに、それでも振るとか、この女ちょっと冷たすぎない?】コメントを1つずつ眺めながら、呆れるやらおかしいやら、何とも言えない気分になった。早くも凌生の次の「神曲」を期待して、新しい失恋ソングの誕生を喜んでいる人までいる。伊佐見さんが心配そうに私を見た。「大丈夫ですか?」どうしてそんなことを聞くのか分から
足をかばいながら、ゆっくり凌生の前まで歩いていった。「痩せたね」そのひと言で、凌生はすぐに目を赤くした。視線が、私の髪に止まる。腰まであったウェーブヘアは、あの日、凌生のファンに切られてしまった。今は耳にかかるくらいのショートヘアだ。顔にかかった髪を耳にかける。「伊佐見さんが腕のいい美容師を手配してくれたの。このショート、きれいに整えてもらって、すごく気に入ってる。短くしてみて分かった。前の長い髪って、見た目はきれいでも、すごく手がかかって大変だったんだなって。そう思わない?」凌生にも、何を言っているのか分かったらしい。首を横に振り、声を詰まらせた。「髪なら、また伸ばせる。全部、まだ元に戻せるから」「でも、私はもう元には戻りたくない」まっすぐ凌生を見た。「凌生。きれいに終わらせたいなら、私の曲の権利を返して。誰かに売るつもりはない。ただ、自分が作ったものに、自分の名前を残したいだけ」凌生は空を見上げた。涙をこらえているようだった。しばらくして、ようやく口を開く。「昔のお前は、そんなこと気にしなかっただろ。お前はいつも、『私が作ったものは凌生のものでもある』『凌生の成功は私の成功でもある』って言ってたじゃないか。お前の曲に込めた気持ちを歌えるのは、俺だけだって。なのに、なんで今さらそんなこと言うんだよ。あの伊佐見に何か吹き込まれたのか?あいつとはいつから付き合ってる?」思わず、ため息が出そうになった。まただ。自分が後ろ暗いからって、私まで同じ人間にしたがる。すぐに答えずにいると、凌生はそれを肯定だと思ったらしい。「じゃあ、これでおあいこってことでいいだろ?お互いのこと、もう責めるのはやめよう」そう言うと、しわだらけのスーツの内ポケットから、小さなベルベットの箱を取り出した。蓋を開ける。ダイヤの輝きが、目に刺さった。「詩乃……」凌生は片膝をついた。声はかすれ、ほとんど聞き取れない。「これ、最初からお前に渡すつもりで買ったんだ。ひまりが勝手に持っていった。俺の服を漁って見つけたんだ。あいつにはもう責任を取らせた。外で遊んだ相手は、誰も本気で俺を思ってくれなかった。俺のことを本当に大事にしてくれたのは、お前だけだった」最
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