All Chapters of 「ゴミ出しに行ってくる」――夫の帰りが、日に日に遅くなっていく: Chapter 1 - Chapter 10

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2話 「パパ、今日は泊まる?」

玄関を開けるまでは、まだ理由をつけられた。下の階の人につかまったのかもしれない。車に何か取りに行っただけかもしれない。あとを追い、別の答えを見てしまったら、今日より前には戻れない。紗月は玄関に立ち、しばらくドアノブを見つめていた。待っていれば、直人は帰ってくる。いつものように手を洗い、冷蔵庫を開け、原稿は進んだかと聞くだろう。何も知らずにいれば、今日も昨日と同じ一日として終わらせられる。エレベーターが下りていく音が、かすかに聞こえた。紗月はスニーカーを履いた。スマホだけ持って出ようとして、引き返し、薄いカーディガンを羽織った。なぜ普段どおりの外出の支度をしているのか、自分でもわからない。下で鉢合わせたら、散歩に出てきたと言うつもりだったのかもしれなかった。電話をして、どこに箱があったのか聞くこともできた。そうすれば彼は、何でもない顔で理由をもうひとつ作る。その理由を聞いて、また信じられる自信はなかった。玄関脇の鏡に映る顔は青白い。紗月は両手で頬を押さえた。まだ、何も見ていない。胸の中で何度も繰り返した。ドアを開けると、廊下の奥では非常灯だけが光っていた。エレベーターはもう一階にいる。呼び出しボタンには触れず、非常階段へ向かった。六階分を下りるあいだ、足音が壁に跳ね返ってついてきた。心臓が速いのは、急いで階段を下りたせいだと思うことにした。一階の共用玄関を出ると、晩夏の湿った空気が頬に触れた。ゴミ置き場は右手にある。青い庇の奥に蛍光灯がともり、夜勤の警備員が空の台車を片づけていた。直人はいなかった。プラスチックの回収容器を押していた警備員が、紗月に気づいて会釈した。「奥さんもゴミ出しですか」紗月は空の手を見下ろした。「夫が忘れ物をしたみたいで。さっき、見かけませんでした?」「藤崎さんですか? こちらにはいらしてませんよ」警備員は気にする様子もなく、また台車を押し始めた。その言葉が本当なら、直人は最初からここへ来るつもりがなかったことになる。遠くに、グレーのパーカが見えた。袋を提げたままゴミ置き場を通り過ぎ、敷地の奥へ歩いていく。紗月は停められた車のあいだを、距離を空けて追った。直人は一度も道を確かめなかった。遊び場の前で左に曲がり、花壇のあいだの細い道を抜け、103号棟へ向かう。初めて訪ねる部屋を探している人の足
last updateLast Updated : 2026-09-20
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3話 昨夜の声

子どもの顔は、よく見えなかった。直人が抱いたまま部屋へ入り、クリーム色のカーディガンの女がドアを閉めた。鍵のかかる音を聞いてから、ようやく紗月は防火扉の取っ手を離した。指の節が、白くなっていた。どう階段を下りたのか、覚えていない。足を踏み外しかけるたび、手すりをつかんだ。涙が出るより先に、空っぽの胃がせり上がるような吐き気が、何度もこみ上げた。パパ。階段を下りるあいだ、あの声がずっとついてきた。直人と結婚して七年。子どもが五歳なら、計算するまでもない。初めて流産したころには、すでに別の女がいた可能性が高い。病院の廊下で、自分の手を握っていた人。「大丈夫。二人で生きていけばいい」そう言った人に、別の子どもがいた。最初の流産のあと、直人はひと月、毎朝お粥を作ってくれた。紗月が自分を責めるたび、誰のせいでもないと言ってくれた。二度目のときは医師の説明を代わりにメモし、これからは自分から子どもの話をしないと約束した。その気遣いに救われたから、生きてこられた。紗月はそう信じていた。けれど、あの子が五歳なら、最初に病院へ通っていた時期と重なる。紗月と一緒にエコー写真を見ながら、別の女とのあいだに子どもを作っていたのかもしれない。病院の駐車場で、誰かとの電話を慌てて切った日も。地方出張が増えた年も。すべてつながっていたのかもしれなかった。切られた電話。増えた出張。明け方に一人で帰ってきた日。記憶が順序もなく押し寄せた。どこから事実と突き合わせればいいのかわからない。紗月は両手でこめかみを押さえた。今、過去まで一度に確かめたら、耐えられなくなる気がした。花壇の横のベンチに、身を折るように座った。スマホに直人からのメッセージが届いていた。〈警備員さんと話してる。少し遅くなる〉嘘は、驚くほどありふれた顔をしていた。紗月は画面を保存した。なぜそうしたのか、自分でもわからない。ただ、消してはいけないという思いが先に立った。帰宅したのは、十一時四十九分だった。スニーカーを靴箱の奥にしまい、いつものスリッパを玄関に揃える。冷たい水で顔を洗い、仕事部屋の椅子に座った。画面には、書きかけの一文が残っていた。『彼は、ついに帰ってこなかった。』紗月はその一文を消した。今は小説を書けない。零時八分、玄関のドアが開いた。「まだ起きてた?」直人は何事も
last updateLast Updated : 2026-09-20
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4話 完璧なアシスタント

紗月は唇を一度噛んでから、ドアを開けた。高瀬莉奈が、満面の笑みを浮かべていた。片手にノートパソコンのバッグ、もう片方にコーヒーを二つ。昨夜見た、クリーム色のカーディガンを着ている。「今日はラテにしました。昨日、あまり眠れなかったんじゃないですか?」「わかります?」「少し。先生、締め切り前って決まった顔になるから」莉奈は当たり前のように家へ入り、自分のスリッパを出した。週に三日、ここで働くようになって一年半。靴箱の二段目、直人のスニーカーの隣に、淡いピンクのスリッパが置かれていた。その距離が近すぎると、今日、初めて思った。莉奈を連れてきたのも、直人だった。出版社で校正をしていた人で、発想がよく、口も堅い。そう言って履歴書を見せた。締め切り前の資料調べや誤字の確認を任せられる人が欲しかった紗月は、簡単な面接のあと、莉奈を採用した。初日から息が合った。長い文章の終わりで紗月が忘れがちな句点を見つけ、登場人物の名前が入れ替わった箇所も正確に指摘する。締め切りが重なる日は、明け方まで残ってくれることもあった。直人がタクシーを呼んで送ると言うと、莉奈は決まって、同じ方向ですから、と笑った。紗月は会社近くのワンルームに住んでいると思っていた。住所を確かめたことはない。雇用契約書も身分証の写しも、直人が管理していた。二人は、その無関心まで利用した。「社長は、もう出社されました?」「ええ。さっき」「今日は外で打ち合わせでしたよね」「そうでしたっけ」直人の予定を、莉奈のほうがよく知っていた。「どうしたんですか。予定、変わったんですか?」「いえ。昨日、ファイルを整理していて聞いた気がしたので」莉奈は軽く笑い、キッチンへ向かった。食器棚からグラスを出し、コーヒーを移す。紗月がよく使うグラスも、ストローのある引き出しも、聞かずにわかる。紗月はテーブルの向かいに座り、その手を見ていた。「莉奈さん」「はい?」「子ども、好きですか」グラスの中で氷がぶつかった。「急に、どうしたんですか?」「バッグのシールが可愛かったから」パソコンバッグの持ち手に、緑色のティラノサウルスが貼られていた。直人の袖から剥がしたものと、同じ絵だ。莉奈はシールを見下ろし、爪で端を擦った。「甥っ子が貼ったんです。今、恐竜に夢中で」「いくつですか」「五歳です」「男の
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5話 私の署名、知らない契約

紗月はベランダのドアを閉め、怜司にかけ直した。莉奈には頭痛がひどいから今日は休むと伝えた。彼女は心配そうな顔で、薬を忘れずに飲んでくださいねと言って帰っていった。最後まで、完璧なアシスタントだった。「今なら話せます」『お送りした暗号化メールは、ご覧になりましたか』「まだです」『開く前に確認させてください。先生は、ページオンという会社と、著作権の包括的な譲渡契約を結ばれましたか』「いいえ」迷わず答えた。『既存の連載作品十二作と、執筆中の新作を含む契約です。電子書籍、コミカライズ、映像化、海外翻訳の権利も含まれています』「そんな契約、していません」電話の向こうで、紙をめくる音がした。『契約書には署名があります。汐文コンテンツの代表、藤崎直人さんが代理で確認したことになっています』「夫です」『存じています。ですから、会社の担当者に差し戻さず、直接ご本人に確認しました』怜司は事情を聞かなかった。驚いた声で慰めることもなく、必要な事実だけを短く伝えた。「契約書を送ってください」『まず写しをお送りします。原本と提出記録はこちらで保全します』「承認は?」『ご本人の確認が取れるまで、保留にしています』「そのままにしてください。拒否したという連絡も、まだしないで」少し、沈黙があった。『状況を確かめる時間が必要ですか』「はい」『わかりました。まず、ご自身のアカウントのパスワードを変更してください。会社の共用アカウントと同じものなら、別々に』「一ノ瀬さん」『はい』「その契約書、いつ届いたんですか」『昨日の午後四時十二分です』昨日、直人は外で仕事があると言って、午後はずっと会社にいた。夜には折り畳んだ紙を袋に入れ、1704号室へ運んだ。「ページオンの代表は、誰ですか」『高瀬莉奈さんです』紗月は目を閉じた。左手で右の手の甲を包む。指先が冷え、なかなか感覚が戻らなかった。「写しを送ってください」『すぐに。できれば、お一人では確認しないでください。信頼できる弁護士や公認会計士が必要になるかもしれません』「紹介していただけますか」『はい。先生が望まれるなら』通話を終えると、パスワードで保護されたメールが届いた。契約書は十四ページ。最初のページに、汐文コンテンツとページオンの名が並んでいた。契約期間は十年。国内外での翻案
last updateLast Updated : 2026-09-20
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6話 四千七百六十万円の行き先

翌日の午後、紗月はストーリア本社の向かいにあるビルへ入った。家を出るとき、直人には担当編集者と昼食を取ると言った。鏡の前で、いつもの口紅まで塗ってきた。玄関で傘を渡され、遅くなるなよと言われても、笑顔を崩さなかった。怜司が用意したのは、法律事務所の小さな会議室だった。窓際には弁護士の森川真紀と、公認会計士の大野修平が座っていた。怜司は契約書の提出記録と配信サイトの本人確認手続きを説明し、席を立った。テーブルには紗月が受け取った写しと、サイト側の受付記録が別々に束ねられていた。怜司は書類をめくりながらも、その契約が作られた理由を推測しなかった。「原本とアクセス履歴はこちらで保全します。ほかに必要なものがあれば、ご連絡ください」紗月は少し意外に思って、彼を見た。「同席されないんですか」「ここから先、どこまでお話しになるかは、先生が決めることですから」ドアが閉まると、真紀が最初に尋ねた。「ご主人に気づかれた様子はありますか。今、ご自宅に戻るのが危険ということは?」「それはありません。私が知っていることには、まだ気づいていません」「できるだけ、その状態を保ってください。問い詰める前に、やるべきことがあります」「先日、夫が別の家に入るのを見ました。女の人と、子どもがいました」真紀は驚いた顔をする代わりに、新しい記録用紙を出した。「お子さんの存在を初めて確認した日から、記録しましょう。写真や録音はありますか」「ありません。ついていっただけです」「大丈夫です。これから適法な方法で確かめましょう。もう一度あとを追って気づかれたり、無理に証拠を作ったりする必要はありません」紗月は初めて、長く息を吐いた。今すぐ何かをしなければ全部逃してしまう気がしていた。けれど真紀は、立ち止まることにも順番があると言った。真紀は契約書の写しを、一枚ずつ確かめた。署名画像のある最終ページでは、拡大鏡で印刷面まで見た。「この契約書に、ご自身で署名を入れたことはないのですね」「はい。画像を夫に送ったことはあります」「そのメールは消さないでください。送信日時と添付ファイルを確認できる、元の形式で残してくださいね。スクリーンショットだけでは足りない場合があります」紗月は手帳を開こうとして、スマホを置いた。真紀に渡された紙に、手で書き込む。個人メールとクラウドのパス
last updateLast Updated : 2026-09-20
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7話 あの家を支えたのは、私の言葉

ページオンは、一年八か月前に設立された会社だった。莉奈が紗月のアシスタントになる、その二か月前だ。登記された事業目的には、コンテンツ企画、翻訳、広告、著作権仲介と並んでいた。設立時の所在地は、月単位で借りられるシェアオフィス。設立三か月目には、汐文コンテンツの翻訳と宣伝の大半を請け負うようになっていた。修平が請求書を三枚並べた。発行月も金額も違うのに、品目の説明は一字一句同じだった。『海外市場拡大に向けたコンテンツの現地化企画および監修』どの国の、どの作品なのか。どこにも書かれていない。「これほど急に取引先を変えた理由は、報告書にありましたか」「私が見ていた報告書には、取引先の名前自体がありませんでした」直人が書いてきたのは、外注費という項目と数字だけ。作品に必要な費用なのかと聞くと、これからは海外市場が伸びるから、と答えた。「実際の成果物を受け取ったことは?」修平が尋ねた。「翻訳のサンプルや、広告の実施報告などです」「直接届いたものは、ありません。夫に任せていたので」言ってから気づいた。自分はこれまで、どれだけ多くの話を、その言葉で終わらせてきたのだろう。直人に任せていた。税金も、契約も、会社も。紗月は、物語を書くことで自分の役割は果たしていると信じていた。修平は会計表の横に支払いの証憑を表示した。ページオンは毎月、編集業務や広告代理の名目で金を受け取っている。同じ月に翻訳料と広告費が重なることもあった。ところが共有フォルダには、成果物も、外部へ再委託した記録もなかった。「実際に業務を行ったかどうかは、さらに確認が必要です。現段階で、すべて横領だとは断定できません」「本当に仕事をしていたら?」「その仕事の価値と支払額が見合うかを調べます。相手との個人的な関係も、伏せていたわけですから」修平は金額の隣に、成果物を確認できたかどうか記していった。十九件のうち、添付ファイルがあるのは二件だけ。それも、紗月の作品紹介を機械翻訳した四ページの文書と、公開済みの表紙画像を貼った広告案だった。「これが三百万円の成果物だというなら、説明が必要ですね」紗月は、紹介文の誤字に見覚えがあった。莉奈が来た最初の月、直してほしいと渡された文書だ。あのときは、練習のつもりで翻訳会社のテストを手伝っているのだと思っていた。真紀は、紗月が別に書いて
last updateLast Updated : 2026-09-20
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8話 その場面を、なぜ知っているの

朝食の席で、直人も先にアカウントの話をした。「パスワード、変えた?」「うん。知らない端末からアクセスがあったって、メールが来たから」「会社のも?」「個人用のだけ」直人はスプーンを置き、スマホを見た。「共有フォルダの接続が全部切れてる。新しいの教えて。つなぎ直しておくから」「二段階認証にしたから、私がやらないと。あとでやる」「そんな面倒なこと、わざわざ自分でやらなくても」「私の原稿のアカウントでしょ」短い沈黙のあと、直人はまたスープをすくった。「わかった。忘れないでよ」いつものように食器をシンクへ置き、出勤していった。玄関のドアが閉まるまで、表情は変わらなかった。エレベーターに乗った途端、誰に連絡するのだろう。考えても、確かめる手段はなかった。木曜の午前十時、莉奈は予定どおり来た。「先生、クラウドのパスワード、変えました?」挨拶より先に出た言葉だった。紗月はドアを閉め、莉奈を見た。「どうしてわかったんですか」「朝、共有フォルダからログアウトされていて。保存していたログイン情報が使えなくなったので」莉奈に教えたのは、完成原稿を上げる補助作業用のアカウントだけだ。昨日変えたのは、紗月個人のものだった。「最近、乗っ取りが多いそうなので。全端末からログアウトしたんです」「そうだったんですね。びっくりしました」莉奈はすぐ笑顔になった。バッグを置いてキッチンへ行き、冷蔵庫から炭酸水を出す。「先生も飲みます?」「私は結構です」「社長が新しく注文したこれ、美味しくて」手が一瞬止まった。「この前、ここで飲んだんです」紗月は答えなかった。炭酸水が届いたのは三日前。それから莉奈が家に来たのは、今日が初めてだった。莉奈は、紗月がほとんど使わない背の高いグラスに炭酸水を注いだ。直人が酒を飲まない日に使うグラスだ。冷凍庫の二段目からレモンを出す手にも、迷いがない。「私より、物の場所をよく知っていますね」「よく来てますから。先生は書き始めると、キッチンにもあまり出てこないでしょう?」紗月が書いているあいだ、莉奈が直人とコーヒーを飲んだり、昼食を注文したりする日は何度もあった。そのたび、二人が気遣ってくれているのだと思っていた。仕事はいつもどおり始まった。莉奈が読者コメントの反応と前話の修正候補を読み上げ、紗月が必要なものだけ選ぶ。
last updateLast Updated : 2026-09-20
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9話 盗ませるための物語

翌朝、偽の場面を書き上げるまでに、一時間かかった。ホテル・ラルーチェの三十一階で、きっかり八秒間の停電が起きる。ヒロインは白い椿のブローチに録音機を隠し、暗闇の中で彼のジャケットに留める。本当の次回作には、ホテルも録音機も出てこない。登場人物の名前も仮のものにした。わざと、目立たない細部も入れた。復電後、エレベーターの表示に、存在しない三十二階が一度だけ映る。筋だけを読んで莉奈が思いつくには、不自然な組み合わせだった。文章を書くことには慣れている。誰かが盗むのを待つために書くのは、初めてだった。普段なら人物の動機を三度は直す場面を、紗月はそのままにした。仕上げすぎると、いつか自分の作品に使いたくなりそうだった。クラウドへ上げる前に、真紀と怜司へ送った。タイトル、作成日時、ファイルのハッシュ値も保存してほしいと頼んだ。怜司からは、すぐに返事が来た。〈ストーリアのサーバーに、受信した状態のまま保存します〉ファイル名は『次回作_後半_修正案』。直人がときどき確認する、代表者確認用フォルダに置いた。補助作業用のアカウントには、アクセス権のない場所だ。莉奈には新しいファイルの話をしなかった。直人には、前日の食卓で、次回作の後半を書き直しているとだけ漏らしておいた。一人が正当な権限で開き、もう一人へ渡す可能性もある。莉奈が保存済みの認証情報で直接入る可能性もある。いずれにせよ、今必要なのは流出経路を決めつけることではなかった。アップロードしたのは、午前十時十二分。十時二十九分。見覚えのないWindows端末がファイルを開いた。ダウンロードの記録も残った。紗月は、それが誰の端末なのか、すぐには追わなかった。アクセス履歴を保存して真紀へ送り、いつもの原稿へ戻る。一段落を直しているあいだも、画面右下の時計ばかりが目に入った。午後一時を過ぎても、連絡はなかった。直人は会社にいる。莉奈は来ない日だ。二人があの文書を見て何を話すのか、考えるだけで胃がひっくり返りそうだった。パソコンを閉じ、食卓についた。朝、直人が使った皿がシンクに残っている。縁に、米粒がひとつ乾いていた。洗うか、そのままにするか迷って、水につけた。手の慣れたことは、考えずにできる。直人からメッセージが来た。〈新作の後半、直してるんだっけ。今日中に終わりそう?〉紗月は画面を長く見ずに
last updateLast Updated : 2026-09-20
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10話 七本の薔薇と、代筆契約

結婚記念日の朝、直人は食卓に七本の薔薇を置いた。「もう七年か」紗月は花を見て、尋ねた。「いつ買ったの?」「出勤前に寄ってきた。夕方六時までに支度しておいて」「どこへ行くの?」「予約した。今日は締め切りを言い訳にするなよ」以前なら、まず店の名前を聞いていただろう。紗月は薔薇の茎を切り、花瓶に挿した。「わかった」直人が後ろから肩を抱く。頬のそばに、慣れた香りが近づいた。紗月ははさみを置くふりで身を離した。「花、気に入らない?」「どうして?」「嬉しそうじゃないから」「寝不足なだけ」「だから、書く量を減らせって。もう一生使い切れないくらい稼いだだろ」冗談めいた言い方だったが、紗月はその言葉を心に留めた。書かなくなった自分を、直人は何度想像したのだろう。「遅れるよ。行ってらっしゃい」夕食は、隅田川を見下ろすホテルのレストランだった。直人は七年前の結婚式で、どれほど緊張したかを話した。新婚旅行の飛行機に乗り遅れかけたことも。毎年、同じ席を取ってくれる店だ。最初の流産のあとの記念日は予約を取り消した。翌年、直人がまた紗月を連れてきた。子どもがいなくても二人で幸せに暮らせばいい。窓際の席で、そう言って手を握った。今日も同じ席で、直人がワインを注いだ。「俺たちに、乾杯しようか」紗月はグラスを持ち上げた。「何を願って?」「これから、もっと幸せになるように」その『これから』に莉奈と湊が入っているのかは、聞かなかった。グラスが触れ、澄んだ音がした。二人しか知らない思い出を語る顔に、無理をしているところはない。「あのとき、バッグを家に忘れたんだよな」「あなたがパスポートを持ったって言ったから」「自分のは持ったよ」「それで、空港で大喧嘩になったんでしょ」直人が笑った。紗月も少しだけ口元を上げた。あの日腹が立った気持ちまで、覚えている。七年すべてが嘘だったとしたら、その時間を生きた自分まで消えてしまいそうだった。直人は、数か月前に紗月が綺麗だと言った金のブレスレットを差し出した。「これ、高すぎるよ」「紗月が稼いだ金だろ。高くなんかない」留め具をつけさせるため、紗月は手首を差し出した。ページオンへ流れた四千七百六十万円のうち、いくらがこれに使われたのだろう。確かめてもいない考えは、飲み込んだ。食事中、直人のスマホが二度鳴った。
last updateLast Updated : 2026-09-20
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11話 義母の名前

結婚記念日の翌朝、直人はいつもより早く家を出た。「契約書、読み終わったら電話して」「うん」「難しい言葉には印をつけておいて。説明するから」ドアが閉まると、紗月は仕事部屋の引き出しを開けた。昨日の契約書は、透明のファイルに入ったままだ。サイトへ提出された写しと違い、紙の原本では紗月の署名欄だけが空いている。バッグに入れ、森川真紀の事務所へ向かった。真紀は、昨夜紗月が見つけた第八条と添付表を確認した。直人はその部分を見せもせず、印のところにだけ署名すればいいと急かした。莉奈の正体を知らなければ、その言葉を信じてサインしていたはずだ。続いて、各ページと綴じ方を撮影した。写しと撮影記録は紗月の氏名と日付を添えて封筒に封じ、紙の原本には何も書き込まず、返した。直人にもう一度見せる可能性まで考えてのことだった。「ご主人のバッグやスマホには、触れていませんね?」「触っていません」「よかった。これからも同じです。渡された資料、ご自身が参加した会話、株主や取締役として閲覧する権限のある会社の資料。その範囲を使います」「それで足りなかったら?」「裁判所や捜査機関を通じて集めます。無断で他人のアカウントに入って、せっかくの証拠に問題を作る必要はありません」隣の修平がパソコンを回した。前日、紗月が作成した会計帳簿の閲覧請求に応じ、税理士事務所が渡した資料だ。総勘定元帳、請求書、支払稟議書、法人カードの明細が、年ごとに揃っていた。初め、税理士事務所は藤崎社長を通してほしいと言った。真紀が株式保有の証明と、紗月も取締役であることを示す登記事項証明書を送ると、対応が変わった。担当者は、直人の指示で、紗月には一枚の要約だけを渡していたと打ち明けた。「外注先ごとの元帳は、初めてですか」修平に聞かれ、紗月はうなずいた。「毎年、決算書にはサインしていましたけど」「決算の数字だけでは、誰に支払ったかわかりにくいんです。昨日確認したページオンへの支払いは、別にまとめました。今日は、設立前の法人カードの利用まで見ます」デジタル調査の担当者が、紗月の持参した会社のパソコンと外付けの記録媒体を預かった。共有クラウドには紗月名義の管理者権限で入り、ダウンロード履歴を複製した。誰も、直人の個人アカウントは開かなかった。午後には、古い法人カードの明細まで復元された。要約した帳
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