玄関を開けるまでは、まだ理由をつけられた。下の階の人につかまったのかもしれない。車に何か取りに行っただけかもしれない。あとを追い、別の答えを見てしまったら、今日より前には戻れない。紗月は玄関に立ち、しばらくドアノブを見つめていた。待っていれば、直人は帰ってくる。いつものように手を洗い、冷蔵庫を開け、原稿は進んだかと聞くだろう。何も知らずにいれば、今日も昨日と同じ一日として終わらせられる。エレベーターが下りていく音が、かすかに聞こえた。紗月はスニーカーを履いた。スマホだけ持って出ようとして、引き返し、薄いカーディガンを羽織った。なぜ普段どおりの外出の支度をしているのか、自分でもわからない。下で鉢合わせたら、散歩に出てきたと言うつもりだったのかもしれなかった。電話をして、どこに箱があったのか聞くこともできた。そうすれば彼は、何でもない顔で理由をもうひとつ作る。その理由を聞いて、また信じられる自信はなかった。玄関脇の鏡に映る顔は青白い。紗月は両手で頬を押さえた。まだ、何も見ていない。胸の中で何度も繰り返した。ドアを開けると、廊下の奥では非常灯だけが光っていた。エレベーターはもう一階にいる。呼び出しボタンには触れず、非常階段へ向かった。六階分を下りるあいだ、足音が壁に跳ね返ってついてきた。心臓が速いのは、急いで階段を下りたせいだと思うことにした。一階の共用玄関を出ると、晩夏の湿った空気が頬に触れた。ゴミ置き場は右手にある。青い庇の奥に蛍光灯がともり、夜勤の警備員が空の台車を片づけていた。直人はいなかった。プラスチックの回収容器を押していた警備員が、紗月に気づいて会釈した。「奥さんもゴミ出しですか」紗月は空の手を見下ろした。「夫が忘れ物をしたみたいで。さっき、見かけませんでした?」「藤崎さんですか? こちらにはいらしてませんよ」警備員は気にする様子もなく、また台車を押し始めた。その言葉が本当なら、直人は最初からここへ来るつもりがなかったことになる。遠くに、グレーのパーカが見えた。袋を提げたままゴミ置き場を通り過ぎ、敷地の奥へ歩いていく。紗月は停められた車のあいだを、距離を空けて追った。直人は一度も道を確かめなかった。遊び場の前で左に曲がり、花壇のあいだの細い道を抜け、103号棟へ向かう。初めて訪ねる部屋を探している人の足
Last Updated : 2026-09-20 Read more