LOGIN「ゴミ出しに行ってくる」――毎晩そう言って家を出る夫の帰宅が、少しずつ遅くなっていく。人気作家の妻が違和感を追った先で見つけたのは、同じマンションに暮らす女と、奪われかけた作品の権利だった。愛も仕事も踏みにじられた彼女は、証拠を集め、自分の人生を取り戻すため静かな反撃を始める。もう泣き寝入りはしない。
View More前日のリハーサルは、ページオンのオフィスで行われた。入口のソファも撮影用の照明も、汐文コンテンツの帳簿で見た品だった。翻訳の前払金が処理された日に買われたものだ。壁には、まだ刊行されていない新作の人物相関図。紗月が共有フォルダに上げたメモを、色だけ変えて印刷したものだった。机には、『代表 高瀬莉奈』の名札がある。机もパソコンも揃っているが、会社の口座は直人が管理し、契約書は一枚たりとも彼の承認なしには出せなかった。見える席だけを莉奈に与え、実権は自分が握っていた。三人のスタッフが進行を合わせ、直人が投影資料をめくる。莉奈は登壇用の原稿を手に、同じ文章を何度も読んでいた。紗月は祝辞の確認という名目で、後方に座っていた。「汐先生は、健康上の理由により執筆活動を縮小し……」莉奈が読みかけて、止まった。「ここまで、私が言わなきゃだめ?」「言わないと、流れがつながらない」直人は画面も見ずに答えた。「どうして急に君が出てきたのか、記者に聞かれるだろ。紗月が書けなくなって、引き継いだという説明が要る」「書けなくなったわけじゃ、ないでしょ」莉奈の目が一瞬、紗月に触れて、外れた。直人の声が低くなった。「ここまで来て、怖がるなよ。明日が終われば全部片づく」スタッフが莉奈に決裁書類を差し出した。会場費と短期借入れに関する確認書だった。ページオンの代表である莉奈が、最後のページに署名する必要があった。素早くめくっていた手が止まる。「私が、連帯保証人なの?」「設立したばかりの会社なんだから」「問題が起きたら、損害賠償も全部、私の責任になってる」「形式的な文言だよ。問題なんて起きないだろ」「直人の名前、どこにもないじゃない」室内が静まった。直人はスタッフを先に外へ出した。紗月にも休んでいてくれと言い、会議室のドアを閉めたが、莉奈の高くなった声はガラスの仕切り越しに聞こえた。「1704号室だって、私の家じゃないんでしょ。汐文コンテンツがお金を出した、スタッフ用の住居だって」「権利の契約が終われば、ページオンの扱いにするって言っただろ」「株をくれる話も口だけ。借金と責任ばかり、私の名前じゃない」「莉奈」「私には、何が残るの?」少しの沈黙。直人の声が、前より柔らかくなった。「俺がいる。湊と三人で暮らすって、決めただろ」「紗月さんとの離婚、
夫は、捨てるものがない日にもゴミを出しに行った。最初から、おかしかったわけではない。結婚してからずっと、ゴミ出しは直人の担当だった。水曜の夜十時になるとリビングとキッチンをひと回りし、ペットボトルや缶を集める。紗月が畳んだ段ボールを玄関に置いておけば、それもひもでまとめて持っていった。敷地内のゴミ置き場は二十四時間使える。十分あれば済むことだった。「ゴミ出してくる」「うん。牛乳パックもお願い」「どこ?」「シンクの横」「わかった」いつものやり取りだった。帰ってきた直人が手を洗うあいだに紗月は麦茶を注ぎ、二人でソファに座って、十分ほどテレビを見る。何も話さず同じ画面を眺めていても、気まずくない。長く連れ添う夫婦の穏やかさとは、こういうものだと思っていた。変わり始めたのは、三か月前だ。水曜でもないのに、直人がペットボトルを二本持って出ていった。次は金曜。その翌週は月曜と木曜。ここ半月は、一日も欠かしていない。帰りも遅くなった。十分が二十分になり、四十分を超えた日もあった。「ゴミ出し、ずいぶんかかったね」何気なく聞くと、直人は冷蔵庫を開けながら答えた。「下の階の人に会ってさ。駐車場の話で長くなった」「駐車場?」「俺の車の横に、いつもぎりぎりまで寄せてくる車、あるだろ」そんな車があっただろうか。紗月は少し考え、すぐに忘れた。締め切り前の週は一日のほとんどを仕事部屋で過ごす。地下の駐車場へ下りることもめったになかった。直人は、紗月のそんな暮らしをよく知っていた。出会ったころ、紗月はまだデビュー二年目の作家だった。入金のある月とない月の差は大きく、確定申告が近づくと、夜明けまで領収書を探していた。数字に強い直人が、ひとつずつ引き受けてくれるようになった。法人を作ろうと言ったのも、直人だ。紗月が書き、直人が契約と金を管理する。新作が三作続けてヒットすると、直人は勤めていた会社を辞めた。妻の仕事をそこまで支える夫は珍しいと、周囲は羨ましがった。紗月も、そう思っていた。自分が物語の始まりから終わりまでを引き受けるあいだ、彼がその外側の世界を守ってくれているのだと。だから、法人口座の認証カードがどの引き出しにあるのかも、取引先が何社あるのかも、正確には知らなかった。決裁が必要だと言われれば、直人が広げた書類の印のある場所に署名する。七
イベントまで二日となった午後、汐文コンテンツの予定管理アカウントから、会議の招待が届いた。ストーリアと、発表前に権利の範囲を調整するという。場所は人の出入りするホテルラウンジ。出席者は紗月と怜司、両社の法務担当者。直人は外部の投資家との約束で欠席するとあった。いつも契約の予定を送ってくる会社のアカウントだ。差出人だけで疑う理由はなかった。ただ、添付のメモには、法務担当者が到着する前に二人で論点を整理してほしいと書かれていた。原文を転送された真紀は、十分ほど遅れるかもしれないので、人目のある場所で待ち、どんな書類にも署名しないようにと言った。夕食の席で、直人は何気ない顔で服装まで聞いた。「今日、ホテルだろ?」「会社のメールを見たなら、わかるでしょ」「記者がいるかもしれないし、あまり普段着で行くなよ」「権利の打ち合わせに、どうして記者が?」「ホテルだから、イベントの準備に来ている人に会うかもしれないってこと」直人は汁物をすくい、目をそらした。紗月は勧められた紺のワンピースを選ばず、いつもの黒いシャツを着た。真紀と現在地を共有し、約束の場所へ向かった。怜司は窓から最も遠いテーブルにいた。空いた椅子が二脚、用意されている。「先生から先にお会いしたいと言われて、少し意外でした」「一ノ瀬さんからのご依頼では?」二人は同時にスマホを出した。会議の招待自体は同じだが、添付メモが違っていた。怜司のものには、紗月が二人だけで確認したいことがあると書かれ、紗月のものには、怜司が非公式の話し合いを希望したとあった。怜司はストーリアの法務に電話した。そもそも会議を依頼していないし、ホテルに向かっている社員もいないという。誰かが、汐文コンテンツの実際のアカウントを使い、二人に違う説明を送ったのだ。「出ましょう」怜司が先に立った。入口へ向かう途中、ガラスの向こうを見て足を止める。観葉植物の陰に座る男が、スマホを縦に構えていた。レンズが二人を追って動く。怜司は紗月との距離を空けたままスタッフへ近づき、撮影していないか確認を頼んだ。男は電話をしていただけだと言って去った。引き留める根拠はなかった。「もう、撮られていますね」「おそらく。まずは、メールを元の形式で保存します」双方のセキュリティ担当者が、二通のメールの送信情報と、会社の予定管理アカウントのアクセ
ページオンのプレスリリースは、午前九時ちょうどに配信された。新人作家・高瀬莉奈のデビュー作発表。汐文コンテンツの制作ノウハウと、人気作家『汐』の創作チームで培った経験を融合した、初のプロジェクト。その下に、二日後の権利確認・ローンチイベントの場所と時刻が記されていた。企画・制作、藤崎直人。作家、高瀬莉奈。藤崎紗月の名は、『創作メンター』という小さな文字の横にあった。紗月は最後まで読んだ。公開された試し読みには、代表者確認用フォルダに置いた囮の場面が、そのまま載っていた。ホテル・ラルーチェの三十一階。八秒間の停電。白い椿のブローチに隠した録音機。本当の新作にはない場面だ。存在しない三十二階が表示される細部まで、同じだった。流出経路を確かめるための文章が、今は莉奈を売り出すための文章になっていた。作家紹介には、『汐の長期連載をともに完成へ導いた、知られざる創作者』とある。一年半、誤字を拾い、資料を整理した仕事が、共同執筆の経歴に変わっていた。莉奈の写真の後ろに、ぼかされた本棚が写っている。汐文コンテンツの会議室のものだった。紗月の作品が十二冊並んでいたが、背表紙の『汐』は読めないよう、ピントが外されていた。ページオンの想定問答も保存した。紗月が健康上の理由で長期休載を決め、莉奈が創作チームを率いて読者との約束を引き継ぐ。同じ説明が繰り返されている。紗月に確かめたことは、一度もない。二人は原稿だけで満足するつもりではなかった。紗月が自ら筆を置いたという筋書きまで、完成させていた。パソコン脇のスマホが鳴った。直人だった。「資料、見た?」「うん」「思ったより、いい出来だろ」満足そうに笑った。あと二日で、権利がすべてページオンへ渡ると信じている声だった。「どうして、私の名前を入れたの?」「莉奈さんが紗月の下で学んだのは、本当だろ。最初は名前を出したほうが記事にもなるし」「私に聞きもせずに?」「こんなことまで、いちいち聞かないとだめなのか。会社の宣伝だぞ」答えなかった。直人はため息をつき、声を落とした。「当日、少しだけ顔を出してよ。おめでとうってひと言言って、写真を撮ればいい」「私の締め切りは?」「何日か遅れたって、どうってことない。最近調子もよくないし、休みながらやればいいだろ」その言葉まで、リリースの文章に似ていた。健康上の理