All Chapters of 「ゴミ出しに行ってくる」――夫の帰りが、日に日に遅くなっていく: Chapter 11 - Chapter 20

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11話 義母の名前

結婚記念日の翌朝、直人はいつもより早く家を出た。「契約書、読み終わったら電話して」「うん」「難しい言葉には印をつけておいて。説明するから」ドアが閉まると、紗月は仕事部屋の引き出しを開けた。昨日の契約書は、透明のファイルに入ったままだ。サイトへ提出された写しと違い、紙の原本では紗月の署名欄だけが空いている。バッグに入れ、森川真紀の事務所へ向かった。真紀は、昨夜紗月が見つけた第八条と添付表を確認した。直人はその部分を見せもせず、印のところにだけ署名すればいいと急かした。莉奈の正体を知らなければ、その言葉を信じてサインしていたはずだ。続いて、各ページと綴じ方を撮影した。写しと撮影記録は紗月の氏名と日付を添えて封筒に封じ、紙の原本には何も書き込まず、返した。直人にもう一度見せる可能性まで考えてのことだった。「ご主人のバッグやスマホには、触れていませんね?」「触っていません」「よかった。これからも同じです。渡された資料、ご自身が参加した会話、株主や取締役として閲覧する権限のある会社の資料。その範囲を使います」「それで足りなかったら?」「裁判所や捜査機関を通じて集めます。無断で他人のアカウントに入って、せっかくの証拠に問題を作る必要はありません」隣の修平がパソコンを回した。前日、紗月が作成した会計帳簿の閲覧請求に応じ、税理士事務所が渡した資料だ。総勘定元帳、請求書、支払稟議書、法人カードの明細が、年ごとに揃っていた。初め、税理士事務所は藤崎社長を通してほしいと言った。真紀が株式保有の証明と、紗月も取締役であることを示す登記事項証明書を送ると、対応が変わった。担当者は、直人の指示で、紗月には一枚の要約だけを渡していたと打ち明けた。「外注先ごとの元帳は、初めてですか」修平に聞かれ、紗月はうなずいた。「毎年、決算書にはサインしていましたけど」「決算の数字だけでは、誰に支払ったかわかりにくいんです。昨日確認したページオンへの支払いは、別にまとめました。今日は、設立前の法人カードの利用まで見ます」デジタル調査の担当者が、紗月の持参した会社のパソコンと外付けの記録媒体を預かった。共有クラウドには紗月名義の管理者権限で入り、ダウンロード履歴を複製した。誰も、直人の個人アカウントは開かなかった。午後には、古い法人カードの明細まで復元された。要約した帳
last updateLast Updated : 2026-09-20
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12話 家族ぐるみの嘘

和子は、牛すじの煮込みを二パック持ってきた。「記念日でも、ろくに食べていないんじゃないかと思って」「どうぞ、お義母さん」電話をかけ、おかずを頼んだのは紗月だった。和子は息子のいない時間に一人で来ることを、不思議がらなかった。直人には内緒にしてほしいという頼みにも、あっさりうなずいた。「あの子、知ったら私があなたの邪魔をするって嫌がるから」慣れた手つきで鍋を出す。紗月は食卓のスマホで録音を始め、画面を伏せた。自分自身が加わる会話だった。「お義母さん、昔、会社からお義母さんに送金した記録があったんです」鍋の蓋を取る手が止まった。「私に?」「五年前です。産後ケア施設の残金」和子がお玉を置いた。金属が鍋の縁に当たり、澄んだ音がした。「直人は、何て?」「まだ聞いていません。先にお義母さんに聞こうと思って」「会社のことは、よくわからないわ」「湊って、誰ですか」和子の顔から血の気が引いた。沈黙は長くなかった。椅子を引いて座ると、まずため息をついた。「もう、見たのね」「いつからご存じだったんですか」「そんな、簡単な話じゃないのよ」「いつからですか」「子どもが生まれるころ」紗月はテーブルの下で拳を握った。爪が手のひらに食い込んでも、声は揺れなかった。「私が流産したときも、知っていたんですか」和子は紗月を見られなかった。「あのとき言って、どうするの。寝込んでいるあなたに、そんな話ができるわけないでしょう」「だから、私の会社のお金で、向こうの施設の残金を払ったんですか」「一度、私の口座を通してくれって直人が言ったの。あとで戻すからって」「なぜ、お義母さんの口座を?」「莉奈の名前が直接出ると、あなたが見るかもしれないって……」言ってから、和子は失言に気づいた。紗月は表情を変えずに聞いた。「隠すためのお金だと、わかって受け取ったんですね」「息子に頼まれただけよ。あのころは会社もまだ軌道に乗っていなかったし、少し借りて返すって言うから」「返したかどうかは、確かめましたか」「夫婦のお金のことまで、私にわかるわけないでしょう」「1704号室を探したときも、ご一緒に?」「莉奈が、子連れで内見するのは大変だって言うから。不動産屋に一度ついていっただけで、そんなに悪いこと?」「不動産屋には、何と説明したんですか」「姪だって。夫
last updateLast Updated : 2026-09-20
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13話 私が書いた夜は、消せない

ストーリアの会議室は、ガラス張りだった。外から中が見え、入退室の記録も残る。怜司は紗月と二人きりで、閉ざされた場所では会わなかった。真紀が隣に座ってから、ドアを閉めた。「提出記録から、ご説明します」画面に、契約の流れが映った。藤崎紗月個人から、汐文コンテンツへ。汐文コンテンツから、ストーリアへ。これまでの契約には、作品ごとにタイトルと利用範囲が記されていた。直人が新たに提出した契約だけが違った。過去の十二作品、新作、これから書く作品まで。たった一文でまとめられ、ページオンへ渡されていた。「この契約は承認していません。ご本人の確認がないことも、システムに記録してあります」「既存の契約は、大丈夫ですか」「現在の連載と精算は継続します。権利の帰属に争いがあるというだけで既存作品まで取り下げれば、先生の損害が広がります。譲渡の申請と、新規事業だけを保留にします」「ページオンには、何と?」「権利者の確認が済んでいない、とだけ。先生が否定されたことは伝えていません」紗月は、真紀の用意した新しい権利管理確認書を開いた。著作権者は、藤崎紗月個人。汐文コンテンツは指定された作品の精算と契約実務だけを代行する。映像化、翻訳、オーディオブックなどの二次利用は、案件ごとに著作者の承認を得る。未来の作品も、包括的な代筆の条項も入れなかった。別紙には作品名をひとつずつ記した。十二作品の下に、余白さえ残さない。作品が増えたら別紙を新しく作り、紗月の個人アカウントで認証して初めて有効になる。「これなら、会社の代表が誰になっても、一人では渡せないんですね」「はい。契約ごとに、紗月さんご自身の認証が必要になります」真紀が答えた。怜司は紗月専用のアカウントを新たに用意した。復旧用のメールアドレスと電話番号は直人につながらないものにし、新しいセキュリティキーを登録する。サイトに保管されていた初稿や修正履歴も、そのアカウントへ紐づけた。九年前、紗月が初めて送った応募原稿が表示された。タイトルも今とは違う。ファイル名は『本当に最終修正3』。紗月は気恥ずかしくて笑い、それから唇を噛んだ。あのころの自分は、不安を抱えながらも、すべてのファイルを自分で作り、自分で送っていた。直人と出会う前から、汐の文章は存在した。一段落を十七回直した跡。人物名の誤りを、午前三時に訂正
last updateLast Updated : 2026-09-20
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14話 名前だけは、残してやる

夕食の途中、直人が紗月の様子をうかがった。帰宅したとき、彼はわかめの味噌汁を温めていた。手首が痛いと言ったことを覚えていて、お椀を食卓まで運んでくれた。優しさと悪事が、一人の人間の中で、何でもないように隣り合っている。「今日、どこへ行ってた?」「病院」「何の?」「手首が痛くて」紗月は箸を置いた。仕事部屋を出てから、スマホは録音を続けていた。自分が交わしている会話だ。「契約書、読んだ」直人の視線が、紗月の顔に留まった。「どうだった? 不利なことは何もないだろ」「私が病気になったら、莉奈さんが原稿を完成させるって、どういうこと?」「保険みたいなもの。連載中にまた倒れたら、読者にも配信元にも迷惑だろ」「私が、いつ倒れたの?」「覚えてない? 一昨年、締め切り前に救急へ行っただろ」過呼吸で二時間、点滴を受けたことを、直人は『執筆不能』にすり替えた。「流産の記録まで、提出する必要がある?」直人の箸が止まった。「どうして、それを知ってる?」「審査資料に入っているんでしょ。莉奈さんから、確認したいことがあるって連絡が来た」紗月の作り話だった。直人は疑うより先に、スマホを取った。「今から来てもらう。どのみち、三人で整理しないと」三十分後、莉奈がパソコンを持ってきた。直人は何を飲むかも聞かず、冷蔵庫から炭酸水を出して渡した。紗月は、その親しさに気づかないふりをした。「先生、資料のことで不快な思いをさせたなら、すみません」「私の診療記録は、どこから手に入れたんですか」「社長からいただきました。出資先から、長期連載が可能か確認したいと言われて」「私の同意は?」莉奈は直人を見た。「夫婦なんだから、そんなことまで毎回必要か?」代わりに答えたのは、直人だった。紗月は莉奈を見つめた。場をなだめる人のように眉を下げながら、彼女はもう画面に発表用の問答を開いていた。最初のページには、紗月が長期休養に入り、高瀬莉奈が執筆を引き継ぐと書かれていた。「先生も、最近おつらそうでした。同じことを何度も聞かれるときがあって」「何を、何度も聞きましたか」「新作の予定です。先週も、二回」一度目は全体の予定。二度目は海外向けの予定だけを確認した。別々の質問を、莉奈は同じ質問に変えた。「流産は、作品を書くために必要な情報じゃない」「紗月、感情的にな
last updateLast Updated : 2026-09-20
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15話 今度は、私が捨てる番

修平の中間報告は、三十二ページあった。最初のページには、三つの数字。ページオンへの累計支払額、四千七百六十万円。うち、1704号室の前払賃料と敷金として確認された額、二千八百万円。新規融資の予定額、三千万円。「これが実行されれば、再びページオンへ流れる可能性が高いです」修平が資金の流れを示す表をめくった。「返済原資の説明に使われた将来売上の予測に、新作と海外版権の収益が含まれています。まだページオンには移っていない権利です」紗月は、契約に差し出していない自分の結末が、数字になった表を見た。直人は、まだ書かれてもいない文章の利益を先に使おうとしていた。真紀はテーブルに、書類を三組に分けて置いた。「混ぜずに考えてください。会社の資金は、汐文コンテンツが取り戻します。著作権を守るのは、紗月さん個人。離婚と慰謝料は、また別の手続きです」「会社のお金も、結局は私が稼いだものですけど」「お気持ちはわかります。でも、法律上は会社のお金です。ご主人から回収して個人口座へ入れれば、同じ問題が起きます」紗月は短く息を吐いた。「すべて、会社へ戻します」最初の組は、株主として行う決議の書類だった。汐文コンテンツの全株式は紗月が保有している。直人を取締役から解任し、代表者の地位も失わせる。そして社外の経営の専門家を、暫定の代表取締役に選任する。紗月は唯一の株主として、主要な意思決定と決裁内容を直接報告させることにした。「必要な決議を成立させれば、その時点で効力が生じます。変更登記と銀行の権限変更も続けて進めます。ただ、今は実行日を確定していないので、まだ案の段階です」「代表取締役だからといって、会社の持ち主ではないんですね」「はい。藤崎さんは、紗月さんが任せた仕事を担う取締役です。任せた側が、法に従ってその任を解けます」登記を担当する司法書士は、同じビルの別室で待機していた。会社印の変更、法人用の認証手段の失効と再設定、法人カードの停止、出金権限の変更。必要な書類が順に並んでいた。イベント当日の朝、紗月が決議を確定させれば、司法書士が変更登記を申請する。受付の記録と新代表者を確認する書類を銀行の法務へ渡し、旧認証情報とワンタイムパスワードの利用停止、新規融資の保留を求める。同じ時刻、ストーリアにも代表権の変更と、権利譲渡に同意しない旨を通知する。二
last updateLast Updated : 2026-09-20
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16話 私の名前を使う、その舞台へ

ページオンのプレスリリースは、午前九時ちょうどに配信された。新人作家・高瀬莉奈のデビュー作発表。汐文コンテンツの制作ノウハウと、人気作家『汐』の創作チームで培った経験を融合した、初のプロジェクト。その下に、二日後の権利確認・ローンチイベントの場所と時刻が記されていた。企画・制作、藤崎直人。作家、高瀬莉奈。藤崎紗月の名は、『創作メンター』という小さな文字の横にあった。紗月は最後まで読んだ。公開された試し読みには、代表者確認用フォルダに置いた囮の場面が、そのまま載っていた。ホテル・ラルーチェの三十一階。八秒間の停電。白い椿のブローチに隠した録音機。本当の新作にはない場面だ。存在しない三十二階が表示される細部まで、同じだった。流出経路を確かめるための文章が、今は莉奈を売り出すための文章になっていた。作家紹介には、『汐の長期連載をともに完成へ導いた、知られざる創作者』とある。一年半、誤字を拾い、資料を整理した仕事が、共同執筆の経歴に変わっていた。莉奈の写真の後ろに、ぼかされた本棚が写っている。汐文コンテンツの会議室のものだった。紗月の作品が十二冊並んでいたが、背表紙の『汐』は読めないよう、ピントが外されていた。ページオンの想定問答も保存した。紗月が健康上の理由で長期休載を決め、莉奈が創作チームを率いて読者との約束を引き継ぐ。同じ説明が繰り返されている。紗月に確かめたことは、一度もない。二人は原稿だけで満足するつもりではなかった。紗月が自ら筆を置いたという筋書きまで、完成させていた。パソコン脇のスマホが鳴った。直人だった。「資料、見た?」「うん」「思ったより、いい出来だろ」満足そうに笑った。あと二日で、権利がすべてページオンへ渡ると信じている声だった。「どうして、私の名前を入れたの?」「莉奈さんが紗月の下で学んだのは、本当だろ。最初は名前を出したほうが記事にもなるし」「私に聞きもせずに?」「こんなことまで、いちいち聞かないとだめなのか。会社の宣伝だぞ」答えなかった。直人はため息をつき、声を落とした。「当日、少しだけ顔を出してよ。おめでとうってひと言言って、写真を撮ればいい」「私の締め切りは?」「何日か遅れたって、どうってことない。最近調子もよくないし、休みながらやればいいだろ」その言葉まで、リリースの文章に似ていた。健康上の理
last updateLast Updated : 2026-09-20
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17話 切り取られた写真

イベントまで二日となった午後、汐文コンテンツの予定管理アカウントから、会議の招待が届いた。ストーリアと、発表前に権利の範囲を調整するという。場所は人の出入りするホテルラウンジ。出席者は紗月と怜司、両社の法務担当者。直人は外部の投資家との約束で欠席するとあった。いつも契約の予定を送ってくる会社のアカウントだ。差出人だけで疑う理由はなかった。ただ、添付のメモには、法務担当者が到着する前に二人で論点を整理してほしいと書かれていた。原文を転送された真紀は、十分ほど遅れるかもしれないので、人目のある場所で待ち、どんな書類にも署名しないようにと言った。夕食の席で、直人は何気ない顔で服装まで聞いた。「今日、ホテルだろ?」「会社のメールを見たなら、わかるでしょ」「記者がいるかもしれないし、あまり普段着で行くなよ」「権利の打ち合わせに、どうして記者が?」「ホテルだから、イベントの準備に来ている人に会うかもしれないってこと」直人は汁物をすくい、目をそらした。紗月は勧められた紺のワンピースを選ばず、いつもの黒いシャツを着た。真紀と現在地を共有し、約束の場所へ向かった。怜司は窓から最も遠いテーブルにいた。空いた椅子が二脚、用意されている。「先生から先にお会いしたいと言われて、少し意外でした」「一ノ瀬さんからのご依頼では?」二人は同時にスマホを出した。会議の招待自体は同じだが、添付メモが違っていた。怜司のものには、紗月が二人だけで確認したいことがあると書かれ、紗月のものには、怜司が非公式の話し合いを希望したとあった。怜司はストーリアの法務に電話した。そもそも会議を依頼していないし、ホテルに向かっている社員もいないという。誰かが、汐文コンテンツの実際のアカウントを使い、二人に違う説明を送ったのだ。「出ましょう」怜司が先に立った。入口へ向かう途中、ガラスの向こうを見て足を止める。観葉植物の陰に座る男が、スマホを縦に構えていた。レンズが二人を追って動く。怜司は紗月との距離を空けたままスタッフへ近づき、撮影していないか確認を頼んだ。男は電話をしていただけだと言って去った。引き留める根拠はなかった。「もう、撮られていますね」「おそらく。まずは、メールを元の形式で保存します」双方のセキュリティ担当者が、二通のメールの送信情報と、会社の予定管理アカウントのアクセ
last updateLast Updated : 2026-09-20
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18話 奪う側に立つと、決めた人

前日のリハーサルは、ページオンのオフィスで行われた。入口のソファも撮影用の照明も、汐文コンテンツの帳簿で見た品だった。翻訳の前払金が処理された日に買われたものだ。壁には、まだ刊行されていない新作の人物相関図。紗月が共有フォルダに上げたメモを、色だけ変えて印刷したものだった。机には、『代表 高瀬莉奈』の名札がある。机もパソコンも揃っているが、会社の口座は直人が管理し、契約書は一枚たりとも彼の承認なしには出せなかった。見える席だけを莉奈に与え、実権は自分が握っていた。三人のスタッフが進行を合わせ、直人が投影資料をめくる。莉奈は登壇用の原稿を手に、同じ文章を何度も読んでいた。紗月は祝辞の確認という名目で、後方に座っていた。「汐先生は、健康上の理由により執筆活動を縮小し……」莉奈が読みかけて、止まった。「ここまで、私が言わなきゃだめ?」「言わないと、流れがつながらない」直人は画面も見ずに答えた。「どうして急に君が出てきたのか、記者に聞かれるだろ。紗月が書けなくなって、引き継いだという説明が要る」「書けなくなったわけじゃ、ないでしょ」莉奈の目が一瞬、紗月に触れて、外れた。直人の声が低くなった。「ここまで来て、怖がるなよ。明日が終われば全部片づく」スタッフが莉奈に決裁書類を差し出した。会場費と短期借入れに関する確認書だった。ページオンの代表である莉奈が、最後のページに署名する必要があった。素早くめくっていた手が止まる。「私が、連帯保証人なの?」「設立したばかりの会社なんだから」「問題が起きたら、損害賠償も全部、私の責任になってる」「形式的な文言だよ。問題なんて起きないだろ」「直人の名前、どこにもないじゃない」室内が静まった。直人はスタッフを先に外へ出した。紗月にも休んでいてくれと言い、会議室のドアを閉めたが、莉奈の高くなった声はガラスの仕切り越しに聞こえた。「1704号室だって、私の家じゃないんでしょ。汐文コンテンツがお金を出した、スタッフ用の住居だって」「権利の契約が終われば、ページオンの扱いにするって言っただろ」「株をくれる話も口だけ。借金と責任ばかり、私の名前じゃない」「莉奈」「私には、何が残るの?」少しの沈黙。直人の声が、前より柔らかくなった。「俺がいる。湊と三人で暮らすって、決めただろ」「紗月さんとの離婚、
last updateLast Updated : 2026-09-20
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19話 では、三十二階を説明してください

会場の前には、『ページオン新作・権利提携発表会』と書かれた看板が立っていた。車を降りる前に、紗月は真紀がまとめた一枚の進行表を読み返した。最初の創作記録。試作原稿の送信記録。包括譲渡を承認していない事実。それ以外の質問には、現在、法的手続きが進行中だとだけ答える。スマホには、ホテルの写真について追加の問い合わせが二件来ていた。答えずに消音にした。今日この場で写真の釈明を始めれば、直人が作った話の中に入ってしまう。記者、配信各社の関係者、投資会社の社員が円卓を埋めていた。紗月が入ると、数台のカメラが一斉に動いた。直人が腕をつかみ、前列へ案内しようとする。「もう少し笑って。写真に残るよ」「離して」低く言うと、その手が離れた。発表会は予定どおり始まった。直人は総合プロデューサーのように登壇し、莉奈を紹介した。紗月は健康上の理由で仕事を減らす予定で、長く創作を補助してきた莉奈が、その経験を生かして新作を書いた、と。莉奈がマイクを持った。「先輩作家のそばで、多くを学びました。今度は自分の名前で、自分の物語をお届けしたいと思います」スクリーンに新作の冒頭が映った。莉奈は紗月の文章を読み始めた。読点の前で息を整える癖まで、紗月が録音して渡した朗読データの真似だった。朗読が終わり、司会が質問を受け付けた。紗月が手を上げた。「私からも、ひとつよろしいですか」直人が司会へ目配せしたが、カメラはもう紗月に向いていた。「高瀬さん。三ページ目の最後で、エレベーターが三十二階を表示します。このホテルは三十一階までなのに、なぜそう書いたんですか」莉奈の目がスクリーンへ動いた。「それは……象徴的な場面です」「いつ、書かれましたか」「初稿のときです」「初稿のファイル名は?」莉奈は答えられなかった。司会が、作品に関係のない質問はご遠慮くださいと割って入ったが、紗月はテーブルの発表資料を持ち上げた。「作品についての質問です。
last updateLast Updated : 2026-09-22
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20話 その会社は、最初から私のもの

発表会が中断すると、直人は紗月を空の控室へ連れていこうとした。真紀が二人の間に立った。「藤崎さん。お話はこちらでお願いします」「夫婦の話です。口を挟まないでください」「紗月さんの代理人として、同席します」直人は紗月へ声を落とした。「ここまでする必要があった? 家で言えばよかっただろ」「家で何を言うかは、もう聞いた。私が神経質で、覚えていなくて、休むべきだって」「事実だろ」「だから、ここからは書類で話して」真紀が最初の封筒を差し出した。全株式を持つ紗月が適法な手続きで決議した解任の通知と、変更登記の受付記録。直人は一枚目を読み、封筒を握りつぶした。「会社の経営がわかるのか?」「知らなかった。だから調べた。今は知ってる」「俺がいなきゃ、ひと月も持たない」スマホが鳴った。汐文コンテンツの取引銀行だった。代表者変更の申請を確認したため、法人ネットバンキングの権限と、認証用機器の使用を停止したという。切るなり、直人はアプリを開いた。何度操作しても、承認権限がないという表示しか出ない。発表会後に実行されるはずだった融資も、保留になっていた。銀行へ電話し、自分はまだ代表だと言い張った。担当者は、変更登記の申請と、唯一の株主による決議を確認していると繰り返した。停止済みの認証手段でアクセスを試みたことも、記録された。「取り消せ。今すぐ、解任を取り消せよ」「手続きは、もう済んでる」「判を押しただけで、一晩でお前の会社になるのか?」「最初から、私の会社。株も、出資したお金も」「銀行に何を吹き込んだ」「自分の会社の口座を守ったの」「俺が育てた会社だ」「私の原稿料で」何か言いかけた直人は、周囲の視線に気づき、口を閉じた。莉奈は会場の反対側にいた。手招きしても、来なかった。直人は廊下へ出て、莉奈に電話した。近くで振動音がしたが、彼女は出なかった。二度目には電源を切った。駆け寄ろうとした直人は、
last updateLast Updated : 2026-09-22
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