Semua Bab 兄の親友に監禁されました: Bab 11 - Bab 20

22 Bab

11話. 十年

紗良は、『SARA / ARCHIVE 2016-2026』と書かれたバインダーを開いた。最初のページには、大学一年の頃に短期間付き合った年上の先輩の写真と経歴がまとめられていた。彼が突然、長期の海外研修へ参加することを決め、その後、黒崎建設の海外支社へ就職するまでの流れが、日付順に記されている。当時は、奨学金と就職先が同時に決まったのだから、彼にとって良い話なのだと思っていた。遠距離恋愛に耐えられず、別れただけだと。だが書類の最後には、黒崎人材開発財団の特別推薦承認書が添付されていた。推薦者の欄には、黒崎怜司の印がある。ファイル内のメモは、さらに露骨だった。『対象との関係継続可能性・低。海外研修を提示した場合の受諾確率87%』人の心も、別れも、確率で計算されていた。紗良は紙を握り潰したくなったが、指に力が入らない。次のファイルは、二十三歳のときに付き合った初恋の相手についてだった。彼の父親が経営する工場が資金難に陥り、融資の期限を突然延長してもらえなくなったこと。一家が地方へ移らざるを得なくなったこと。その債権を買い取った会社が、黒崎キャピタルの関連会社だったこと。紗良はページをめくる手を止めた。別れの日、彼は泣きながら言った。『ごめん。家がこんな状況なのに、君まで引き止められない』その直後、怜司は何も知らない顔で紗良を迎えに来た。泣き疲れた彼女へ温かい紅茶を渡し、時間が経てばきっと楽になると話した。ページをめくるほど、あの慰めさえ疑わしくなる。初恋の人と別れた日、怜司は連絡もしていないのに川沿いの公園へ現れた。雨に濡れた紗良を車へ乗せ、何も言わず家まで送ってくれた。そのときは、兄から聞いたのだと思っていた。だが記録には、紗良がベンチへ着いた時刻も、泣き止んだ時刻も残されていた。出版社の採用面接日程。初出勤の日の移動経路。いつも飲むコーヒー。病院で受けた診察と処方薬。気持ちが沈んだときに訪れる河川敷のベンチ。写真の横には、短いメモまで書かれていた。『表情が暗い。桜庭直人から連絡させる』『一ノ瀬悠真と二人で残業。帰宅車両を配置』『見合い相手の身元確認。接触遮断が必要』『マンション契約更新予定。管理会社と協議し警備会社を変更』『他社からの転職提案、撤回を確認。現職維持が管理上有利』入社三年目、大
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-22
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12話. 好きだったんじゃない。壊したのよ

十九歳だった春から。その言葉を理解するまで、数秒かかった。大人になってからの、ほとんどすべての時間だ。誰かを好きになり、別れ、失敗して、それでも自分の力で立ち直ってきたと思っていた年月。その背後には、いつも黒崎怜司がいた。「直人のアパートで、初めて君を見た」怜司は壁に貼られた古い写真へ目を向けた。「雨の日だった。黄色い傘を畳んで入ってきて、俺を『怜司さん』と呼んで笑った」「やめて」「その日から、一度も忘れたことがない。忘れようとしたことはあっても、成功しなかった」怜司の視線が、壁にある最も古い写真へ向かう。黄色い傘を持って笑う、十九歳の紗良。写真の中の自分は、誰かに見られていることも知らず、無防備に笑っている。その顔を見るほど、胃の中がひっくり返りそうになった。自分の過去なのに、知らない誰かの一場面のように感じる。怜司は、紗良の強張った表情を見ても話をやめなかった。「最初は、君が直人の妹だということだけを繰り返し自分に言い聞かせた。食事を奢って、家へ送る程度なら問題ない。大学を卒業すれば自然に離れていくと思っていた」「でも、できなかった?」「できなかった」「聞きたくないって言ってるの」紗良が耳を塞ごうとすると、怜司が手首を掴んだ。強く握り締めたわけではない。それでも、離しはしなかった。「直人の妹だから、一線を越えられなかった。君が俺を家族のように信じていることも分かっていた」「だったら、告白すればよかった。私に選ばせるべきだったんです」「拒絶されると分かっていた」「拒絶されたら、終わらせるのが普通でしょう」「俺には終わらせられなかった」「だから、裏で私の人生を壊したんですか?」「君の隣に立つ男が、全員気に入らなかった」怜司の口調は静かだった。「最初は待つつもりだった。君が本当に良い男と出会えば、諦められると思っていた。でも、誰一人、君のそばへ置いておけなかった」「あなたが追い払ったからでしょう!」「そうだ」怜司は否定しなかった。「遠くへ行ける機会を与えた。隠していた弱みは、表へ出るようにした。君の前で、君を選べないように」「初恋の人の家の借金も、あなたが作ったんですか?」「借金は元からあった。俺が返済期限を早めただけだ」「それが違うとでも思ってるんですか?」「いや。違うと言うつもりはない
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13話. 兄まで、あなたが?

紗良の視線が、床へ落ちた別のファイルに止まった。『S.N / INCIDENT REPORT 2026.08』桜庭直人のイニシャルと、事故が起きた月が記されている。紗良はすぐに膝をつき、ファイルを開いた。一枚目には、事故当日の直人の移動経路が分単位で表示されていた。車両速度。携帯電話の基地局接続記録。黒崎ホールディングスの民間警護チームによる追跡報告書。兄は、事故に遭う前から怜司の人間に尾行されていた。紗良は次のページをめくった。事故の三十分前、直人と最後に話した人物は黒崎怜司。通話時間、四分十二秒。さらに二時間前には、黒崎グループが保有する麻布台のペントハウスで、二人が会っていた記録もある。ファイルの後半には、郊外の国道を撮影した衛星写真、潰れた車両の写真、血痕鑑定の結果が貼られていた。一部の文章は黒く塗り潰され、『対象移送完了』という文字だけが残っている。別の封筒には、直人のパスポートのコピーと、国外移動用の仮身分書類。黒崎グループが管理する地方空港のチャーター便運航記録まで入っていた。目的地は、セキュリティコードで隠されている。最後のページには、こう記されていた。『桜庭紗良・保護段階引き上げ。黒崎怜司個人邸宅へ直ちに移送』紗良の手が止まった。「事故の日、兄に会ったんですか?」怜司の視線が、ファイルへ落ちた。「最後の電話もあなた。事故前から人をつけて追わせてた」返事はない。紗良は乱暴にページをめくった。車からメモリーカードが消えた時刻。路肩で血痕が途切れた地点。正体不明の黒い車両の移動経路。すべての痕跡が、怜司へ繋がっていた。紗良は日付と時刻を何度も見直した。自分の読み間違いであってほしかった。けれど、別々の資料がすべて同じ結論を示している。事故前の最後の通話も、車が止まったあとの移送も、怜司の指揮系統の中にあった。十年間、紗良の周囲から人を遠ざけてきた男。自分を完全に独占するため、最後に消さなければならない人間は一人しかいない。兄、桜庭直人。「兄は、どこにいるんですか?」怜司の表情が固くなった。「あなたが、事故を仕組んだの?」怜司の携帯が短く震えた。画面には発信者名ではなく、セキュリティコードだけが表示されている。彼は確認せず、電源を切った。「紗良」「私の名前を呼ばないで
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14話. 従うふり

一睡もできないまま朝を迎えた紗良は、鏡の前へ座った。泣き腫らした目を冷水で冷やし、乱れた髪を梳かす。もう、怒りだけで正面からぶつかるのはやめる。二度の脱出は、どちらも失敗した。悠真まで傷つけられた。怜司の警備と権力を、力で突破するのは不可能だ。けれど、彼にも弱点はある。桜庭紗良。十年間隠してきた執着こそ、唯一の亀裂だった。紗良は秘密の部屋で見た記録を思い出した。重要資料は、個人書斎のセキュリティ金庫へ保管されている。金庫を開けるには、怜司が常に持ち歩くマスターカードが必要だ。それを手に入れるには、まず彼の警戒を解かなければならない。紗良は一日、怜司の行動を思い返した。邸宅内でも、カードホルダーはスーツの内ポケットに入れている。夜、寝室のソファへジャケットを脱いで置き、まっすぐ浴室へ向かう習慣があった。十年間、自分を観察してきた男を、今度は紗良が観察する番だ。クローゼットには、怜司が用意した服が色ごとに並んでいる。紗良はその中から、彼がよく視線を留めていた淡い紫のワンピースを選んだ。手に取った瞬間、屈辱で胸が焼けたが、押し殺した。午後七時、ダイニングルーム。怜司が邸宅へ戻ると、紗良は淡紫のワンピース姿でテーブルに座っていた。ここ数日、部屋から出ず、食事まで拒んでいた姿とはまるで違う。怜司は向かいの椅子を引きながらも、紗良から目を離さなかった。「何を考えてる」「食事をしようと思ってるだけです」「それだけか?」「他の理由があったほうがいい?」怜司は答えない。視線がワンピースの袖、整えた髪へ留まり、それから紗良の目へ戻った。「ここで餓死したら、私だけが損でしょう」紗良はカトラリーを取った。怜司はすぐには食べ始めず、彼女の表情を観察している。「俺にしてほしいことがあるなら、言え」「一ノ瀬さんの件を、先に元へ戻して」「今日、職務停止は解除された。プロジェクトも再開する」紗良の手が、一瞬止まった。「ご家族の会社は?」「手を出していない」「その言葉を、信じろと?」「確認していい」ホテルで交わした約束を守ったからといって、心が動くわけではない。ただ、計画を続ける理由はさらにはっきりした。「言えば、何でもしてくれるんですか?」「できることなら」「外へ出して、は無理?」「ああ」予想どおりの答え
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15話. 一番弱い場所

書斎には、二人の呼吸だけが残った。紗良はゆっくり両腕を上げ、怜司の首へ回した。近づくほど、心臓が速くなる。恐怖のせいなのか、別の感情なのか、区別したくなかった。「これでも、罠から逃げないんですか?」「ああ」「私がカードキーを盗むためにしてるのかもしれないのに」怜司の目が一瞬、胸元のカードホルダーへ下がり、また紗良へ戻った。「分かってる」「それでも?」「君が自分から俺へ口づける理由が、一つでもあるなら、それでいい」答えに迷いはなかった。紗良はつま先立ちになり、怜司の唇へ自分の唇を重ねた。最初は、触れるだけの短い口づけだった。怜司の手が宙で止まる。紗良を抱き寄せるべきか、そのまま待つべきか判断できないように、指先だけが微かに震えた。呼吸も浅くなっている。彼はすぐには動けず、ただ紗良の顔を見下ろした。やがて、その腕が腰へ回る。一瞬だけ力がこもった。けれど紗良が息を呑むと、すぐに緩んだ。怜司は、彼女が離れられる余地を残したまま、慎重にもう一度唇を重ねた。手は腰に留まり、紗良の身体が少しでも強張るたび、すぐに力を抜く。最後まで選択肢を残すとは思わなかった。紗良は目を閉じた。カードを手に入れればいい。兄の居場所を知るためだと、何度も自分に言い聞かせた。それなのに、頬を涙が伝った。怜司の動きが止まった。唇を離し、紗良を見る。指先が濡れた頬へ触れかけ、すぐに落ちた。「嫌なのに、どうしてする」「あなたが望んでることでしょう」「君が望んでいない一線は越えない」「閉じ込めておいて、よくそんなことが言えますね」怜司の顔が固まった。「閉じ込めることと、これは違う」「私には同じです」「……そうだな」怜司が初めて目を逸らした。「俺が違うと決めれば済むことじゃない」その言葉に、紗良のほうが揺れた。罪を認めながら、それでも閉じ込める人。すべての選択を奪いながら、最後の一線では引く人。どちらの顔が本物なのか分からない。怜司はしばらく、何も言えなかった。紗良の肩からずれた服を整え、一歩下がる。「部屋へ戻れ。今夜は、これ以上引き止めない」「私を疑わないんですか?」「疑ってる」「それでも、一人で帰すの?」怜司は苦く笑った。「これ以上ここへ置いたら、君が本当に俺を耐えられなくなりそうだから」紗良は俯いた
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16話. 兄の声

紗良は書斎の扉を施錠し、銀色のUSBメモリをノートパソコンへ差し込んだ。画面に、八桁のパスワード入力欄が表示される。秘密の部屋を開けた自分の誕生日と、直人の誕生日を続けて入力した。04171024。ロックが外れ、金融取引記録と音声ファイルが現れた。フォルダの中には、事故の翌日に撮影された直人の写真もあった。左のこめかみに包帯を巻き、病床へ横たわっているものの、意識ははっきりして見える。海外の病院が発行した診療記録には、肋骨骨折、裂傷、大量出血に対する治療内容が書かれていた。写真の隅には、撮影時刻と保護施設の識別コードも残っている。紗良は画面に映る兄の顔を、指先でなぞった。生きていた。少なくとも、事故の翌日までは確かに生きていた。一番上のファイル名は、『202608_Last_Voice_SN』だった。紗良はしばらく、カーソルを再生ボタンの上へ置いたまま動けなかった。これが兄の最後の声かもしれない。覚悟を決め、再生する。短いノイズのあと、聞き慣れた声が流れた。『紗良。これをお前が聞いているなら、兄ちゃんはまだ直接連絡できない状況にいる』息が止まった。紗良は両手で口を覆った。録音された直人の声は疲れていたが、間違いなく生きている人のものだった。『俺は黒崎グループの海外裏金口座を追っていて、会長派の人間に気づかれた。事故に見せかけて、俺を消すつもりだったらしい』直人が息を整える音がする。遠くでは、医療機器らしい規則的な電子音も鳴っていた。『警察の中にも情報を流している人間がいる。俺が生きていると知られたら、次はお前が人質にされる。だから当分、誰にも連絡できない』紗良は画面を見つめたまま、動けなかった。『俺を逃がしたのは怜司だ。あの日、麻布台で会って、逃走経路を決めた。国道での事故も追跡を切るための偽装だった』一度、声が途切れた。『追ってきた車を振り切る途中で本当に衝突して、怪我はした。でも怜司が警護チームを送る前に、あいつらが先に着いていたら、俺は死んでいた。車に残った血は俺のものだが、致命傷じゃない』紗良の視界が滲んだ。怜司が兄を殺したのではなかった。むしろ、救ったのだ。『俺が消えたことになっていれば、お前まで標的にされずに済む。ドライブレコーダーのメモリーカードと通話記録を消したのも、追跡を断つためだ。
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17話. それでも許せない

紗良は手の甲で涙を拭い、ゆっくり立ち上がった。脚に力が入らず、机へ手をついた。それでも、怜司から目は逸らさない。「兄を助けてくれたことは、感謝しています」声が掠れた。「事故を偽装して逃がして、保護施設まで用意したことも聞きました。あなたがいなければ、兄が死んでいたことも分かりました」怜司は黙って聞いていた。「あなたが兄を殺したと決めつけたことは、私が悪かった。そのことは謝ります」「謝るな」怜司の声は低かった。「疑わせたのは俺だ。説明しなかった。君が一番恐れる形の資料を、そのまま見つけさせた」「それでも、事実じゃないことであなたを憎んだ」「もっとひどいことを言われても当然だ」紗良は一度息を整え、USBメモリを机へ置いた。「でも、それで過去十年が消えるわけじゃない」怜司の目が、ほんの少し揺れた。「私の周りから人を遠ざけて、携帯を覗いて、今は扉まで閉めた。兄を救ったことが、その全部を正しいことにはしてくれません」「分かってる」「あなたは、何を後悔してるんですか?」怜司はすぐには答えなかった。「君に怖がられるようになったこと。君が自分自身を餌にするしかなかったこと。君が泣いても、手放せなかったこと」「私を欲しいと思ったことは、後悔しない?」「それは後悔できない」予想していたはずなのに、実際に聞くと痛かった。「本当に分かってるんですか?」紗良が一歩近づいた。「あなたはずっと、保護だと言ってた。私が危険だから、兄に頼まれたから仕方なかったって」「それは口実だった」怜司の答えは、低く明確だった。「直人が君を頼んだのは事実だ。外部からの危険があったのも事実だ」そこで一度、言葉を切った。「だが、君をこの家へ閉じ込めたのは、直人のためじゃない」「それなら、誰のため?」「俺が、そうしたかった」紗良の表情が強張った。「十年間、君が他の男と笑い、俺の知らない場所へ帰っていくのを見続けることに疲れた。危険が迫っていると知ったとき、最初に感じたのは、君を守れるという安堵じゃなかった」怜司は自嘲するように口元を歪めた。「これで誰にも疑われず、君を俺の家へ連れてこられると思った」「それを愛だと言うんですか?」「分からない」「愛は、相手が嫌だと言ったら止まることです。相手に選ばせることです」「その基準なら、俺がしたこと
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18話. 本当の脱出

翌朝、紗良は小さな旅行鞄へ自分の持ち物を詰めた。多くは必要なかった。この邸宅にある服も化粧品も、そのほとんどが怜司の用意したものだ。自分の携帯、財布、最初に着てきた服だけを入れた。クローゼットに掛かった淡紫のワンピースの前で、しばらく手が止まる。怜司を欺くために選んだ服。あの口づけと、彼が途中で動きを止めた瞬間が蘇った。それでも紗良は手に取らず、扉を閉じた。ベッド脇には、怜司が返した携帯が置かれていた。位置追跡アプリは削除され、警備会社の遠隔アクセス権もすべて解除されている。それでも紗良は電源を切り、鞄へ入れた。鞄を引いて一階へ降りると、使用人たちが動きを止めた。誰も紗良を止めはしない。ただ、全員が怜司の顔色を窺っている。怜司は、リビングの中央に立っていた。ネクタイも締めず、シャツの袖だけを捲った姿だ。一睡もしていない顔だった。「どこへ行く」「自分の家です」「駄目だと言った」「昨夜、朝になったらもう一度聞けと言ったでしょう」「一晩考えても、危険だ」「代わりに安全な場所を決めるなんて言わないで。ホテルも、別の家も嫌です。自分のマンションへ帰ります」「警護だけはつけさせろ」「嫌です」「許可をもらいに降りてきたんじゃありません」紗良は玄関へ向かった。扉はまだ施錠されている。ドアノブを握った手へ、少しだけ力が入った。「開けてください」怜司が近づいてくる。紗良はドアノブを掴んだまま、彼を振り返った。「あなたのそばにいると、私は自分じゃない人間になる」声は、不思議なほど静かだった。「毎日あなたを疑って、逃げる方法ばかり考えて、生き延びるためにあなたが望むふりまでしました。このままここにいたら、本当に壊れてしまいそうです」怜司の顔から血の気が失せた。紗良は泣かなかった。怒りさえ残っていない人のように、疲れ切っていた。「あなたが好きだったのが、笑って生きている桜庭紗良なら、このままにしないで」「外で何かあったら?」「私から助けを求めます。そのとき来てください」「助けを求められない状況なら?」「その可能性まで言い訳にして、私の人生を奪わないで」紗良が言い終えると、怜司は目を閉じた。理性を保つため、呼吸を数えるようにゆっくり息を吐く。リビングへ長い沈黙が落ちた。怜司は、紗良の鞄と疲れ切った顔を
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-22
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19話. 彼は来なかった

マンションへ戻って、三日が過ぎた。紗良は出勤を再開し、溜まっていた原稿を整理し、帰りは一人で電車に乗った。どこへ行くのかと尋ねる人はいない。会社へ戻った初日、悠真は何も言わず、温かいコーヒーを差し出した。職務停止は解除され、中断されていたプロジェクトも再開している。それでも目元には、数日分の疲れが残っていた。「一ノ瀬さん、ごめんなさい」「お前が謝ることじゃない」「私のせいで、会社まで……」「黒崎怜司がしたことを、お前の責任にするな」悠真は少し迷ってから尋ねた。「警察へ被害届を出すつもりはないのか?」紗良は、すぐには答えられなかった。兄の安全と裏金事件が片づく前に、軽率には動けない。何より、自分が何を選びたいのか、まだ分からなかった。携帯から位置追跡アプリは消えている。新しいパスコードを設定し、マンションの電子錠も交換した。毎晩、窓と玄関を二度ずつ確認したが、見知らぬ車や警護員の姿は見えない。黒崎怜司からは、電話もメッセージも届かなかった。あれほど望んだ自由だった。それなのに、日常のあちこちに空白がある。ビル前の黒いセダンもない。帰宅したか確かめる短い連絡もない。十年かけて、知らないうちに生活へ入り込んでいた存在が突然消えると、見慣れた景色まで違って見えた。紗良は、その感情を恋しさとは呼ばなかった。監禁から抜けたあとに起きる混乱にすぎないと考えた。三日目の夜。残業を終え、マンションの廊下へ入った。壊れかけた人感センサーの照明が、二度点滅する。非常階段の扉脇に、見知らぬ男が二人立っていた。紗良が引き返そうとした瞬間、一人が口を塞ぎ、もう一人が腕を背中へ捻り上げた。携帯が床へ落ち、画面にひびが入る。「帳簿はどこだ」耳元で低い声がした。「桜庭直人が渡した原本の場所を言えば、生かしてやる」兄を狙っていた人間だった。「動くな」鼻先に、強い薬品の匂いが近づく。紗良は鞄を振り回し、手すりを掴んだ。踵で男の脛を蹴り、叫ぼうとしたが、口を塞ぐ手へさらに力が入る。爪が割れそうなほど手すりへしがみついても、身体は階段側へ引きずられた。薬品を染み込ませた布が、目の前へ迫る。視界がぼやけ始めた。その瞬間、下の階で扉が壊れそうな勢いで開いた。黒いコートを着た怜司が、階段を駆け上がってくる。数歩遅れて、警護
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20話. 今度こそ、手放すために

手術は三時間以上続いた。悠真と怜司の秘書も病院へ駆けつけた。秘書は手術室の前でも、検察との電話を切らなかった。怜司は襲撃組織の車両を確認した直後、自分に何かあれば裏金に関する証拠をすべて提出するよう、あらかじめ指示していたという。「副社長は、今夜戻れない可能性まで考えて動かれていました」その言葉を聞いた瞬間、紗良の手はさらに強く震えた。紗良は救急処置室前の椅子に座り、血で汚れた両手を見つめていた。何度洗っても、爪の間に赤い跡が残っている。医師は、刃が内臓を外れており、出血も止まったと説明した。左腕の神経にも大きな損傷はないが、回復には時間が必要だという。命に別状はないと聞いて、初めて固まっていた息が抜けた。紗良は背もたれへ身体を預けた。一晩中強張っていた肩が、震えながら落ちる。安心した瞬間、かえって涙が激しく溢れた。悠真が黙ってティッシュを差し出す。紗良は震える手で受け取った。悠真は隣へ座り、しばらく何も言わず待っていた。「あの人がお前を救ったことと、お前にしたことが消えるかどうかは別だ」「分かってます」「だから、罪悪感で決めるな」紗良は頷いた。今の感情に名前をつけるには、あまりにも多くのものが絡み合っている。怜司は翌日の午後、意識を取り戻した。紗良が病室へ入ると、彼は真っ先に尋ねた。「君は、平気か?」「どうして、また私の心配からなんですか?」紗良はベッド脇へ立ち、涙を堪えた。「私を閉じ込めて、壊した悪い人なら、最後まで悪い人でいてよ。どうして私のために、刃物で刺されたりするんですか?」怜司は力なく笑った。「君を守ること以外、まともにできたことがないから」「その守り方が、間違ってたでしょう」「分かってる」今度は、言い訳をしなかった。怜司は、サイドテーブルに置かれた書類ファイルを目で示した。「裏金帳簿の原本だ。ペーパーカンパニーの実質所有者一覧と、会長派の非公式組織に関する資料も、すべて検察へ渡した」紗良はファイルを見た。「俺の名義で保有していた議決権も凍結した。戦略統括副社長の辞表も出してある」その資料が公になれば、黒崎グループの後継者争いも崩れる。怜司自身も、後継者としての立場と、かなりの持分を失うはずだった。「どうして、そこまでするんですか?」「連中を残せば、君がずっと危険だからだ
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