兄の親友に監禁されました

兄の親友に監禁されました

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兄の失踪をきっかけに、紗良は兄の親友・怜司の屋敷で保護されることに。けれど優しいはずのその手は、次第に甘く歪んだ執着へと変わっていく。逃げられない監禁生活の果てに、兄の失踪の真相と彼の隠された本心が明かされる――

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Chapter 1

1話. 兄が消えた

夜霧の降りた郊外の国道で、パトカーの赤色灯が赤と青に明滅していた。

ガードレールに激突した黒いセダンは、運転席側が原形をとどめないほど潰れている。ドアは開いたままで、破裂したエアバッグとハンドルには濃い血痕が残されていた。

それなのに、運転手の姿だけがなかった。

「事故の直後に自力で車外へ出た可能性と、第三者に連れ去られた可能性の両方を視野に入れています。ただ、路肩で血痕が途切れた先には、足跡も残っていません」

刑事の説明が、ひどく遠くから聞こえた。

桜庭紗良は、兄の財布を両手で握りしめていた。透明ポケットには、数日前に兄妹で撮った四コマ写真が差し込まれている。

両親を早くに亡くしてから、桜庭直人は紗良にとって唯一の家族であり、何より頼れる心の支えだった。

その兄が、血を流したまま跡形もなく消えた。

「防犯カメラやドライブレコーダーは? 兄がどうしてこの道を通ったのかも、まだ分からないんですか?」

「事故現場はカメラの死角です。ドライブレコーダーのメモリーカードも抜き取られていました。事件に巻き込まれた可能性については、もう少し調べる必要があります」

刑事は、直人の携帯電話と車内から回収した所持品の一覧を差し出した。

紗良は何度も自分の名前を書き間違え、ようやく署名を終えた。兄に電話をかけても、電源が入っていないという音声案内が繰り返されるだけだった。

通信会社による位置情報の照会も進められていたが、最後の電波は事故現場付近で途切れているという。

それでも諦めきれず、紗良はメッセージまで送った。

既読には、いつまでたってもならなかった。

壁掛け時計の秒針だけが、やけに大きく響いていた。夜はいつまでも明けなかった。

「捜索願はすぐに受理します。ご家族の方は、いつでも連絡が取れる場所にいてください」

いつでも連絡が取れる場所。

その言葉が、ひどく心細かった。

両親も、頼れる親戚もいない。兄が消えた瞬間、紗良は世界にひとりきりになった。

何から始めればいいのかさえ思いつかない。

警察署の玄関を出ると、冷たい明け方の空気が頬を刺した。

そのとき、駐車場へ一台の黒いセダンが滑り込んできた。

車が停まると、警護員が降りて後部座席のドアを開ける。

皺ひとつないチャコールグレーのスーツを着た男が、長い脚でまっすぐこちらへ歩いてきた。

黒崎ホールディングス、戦略統括副社長――黒崎怜司。

直人の大学時代からの親友で、紗良が十九歳の頃から知っている人だった。

「紗良」

低く落ち着いた声を聞いた瞬間、必死に堪えていたものが崩れた。

「怜司さん……」

怜司は迷わず紗良の肩を抱き寄せた。馴染みのあるウッディな香りが、冷たい空気のなかへ溶けていく。

彼の後ろから来た秘書は、すぐに刑事のもとへ向かい、事件番号と担当捜査官の名前を確認した。

怜司はすでに事故現場や捜索範囲まで把握しているようだった。

紗良が何時間も立ち尽くしながら何ひとつできなかったことを、彼は到着するなり順番に片づけていく。

「連絡を受けて、すぐ来た。怖かっただろう」

「兄が消えたって……。あんなに血があったのに、どこにもいないって……」

「分かってる。法務部と捜索要員はもう現場へ向かわせた。警察にも、必要な資料を出すよう手配してある」

怜司は、紗良の背中をゆっくり撫でた。

「必ず見つける。俺がそうさせる」

「本当に……見つかりますよね?」

「ああ。直人は、そう簡単に死ぬような男じゃない」

怜司はそう答えると、紗良の手の中で皺になった所持品確認書を取り、秘書へ渡した。

揺るぎない断言に、紗良はようやく息をつけた。

何もかもが崩れたこの瞬間でさえ、この男だけは少しも揺らいでいなかった。

車に乗り込むと、怜司は秘書から受け取った報告書に素早く目を通した。

「君のマンションへ戻るのは危険だ」

「私の家が?」

「今日の明け方、建物の周囲で不審な男が二人目撃されている。直人が関わっていた仕事と繋がっている可能性がある」

心臓が大きく沈んだ。

「じゃあ、私はどこへ行けば……」

怜司が、冷え切った紗良の手を包み込んだ。

「俺の家へ来い。警備員が常駐している。あそこが一番安全だ」

「でも、怜司さんだって会社のことで忙しいのに、私のことまで背負わせるなんて……。近くのホテルでも――」

紗良が手を引こうとすると、怜司の指に力が入った。

痛くはない。

けれど、簡単に抜け出せる強さでもなかった。

「直人がいないんだ」

彼の視線が、紗良の顔に長く留まった。

「だから今度は、俺が君を守る」

優しい言葉のはずなのに、なぜか命令のように聞こえた。

車が闇の中を走り出してからも、怜司は紗良の手を離さなかった。

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1話. 兄が消えた
夜霧の降りた郊外の国道で、パトカーの赤色灯が赤と青に明滅していた。ガードレールに激突した黒いセダンは、運転席側が原形をとどめないほど潰れている。ドアは開いたままで、破裂したエアバッグとハンドルには濃い血痕が残されていた。それなのに、運転手の姿だけがなかった。「事故の直後に自力で車外へ出た可能性と、第三者に連れ去られた可能性の両方を視野に入れています。ただ、路肩で血痕が途切れた先には、足跡も残っていません」刑事の説明が、ひどく遠くから聞こえた。桜庭紗良は、兄の財布を両手で握りしめていた。透明ポケットには、数日前に兄妹で撮った四コマ写真が差し込まれている。両親を早くに亡くしてから、桜庭直人は紗良にとって唯一の家族であり、何より頼れる心の支えだった。その兄が、血を流したまま跡形もなく消えた。「防犯カメラやドライブレコーダーは? 兄がどうしてこの道を通ったのかも、まだ分からないんですか?」「事故現場はカメラの死角です。ドライブレコーダーのメモリーカードも抜き取られていました。事件に巻き込まれた可能性については、もう少し調べる必要があります」刑事は、直人の携帯電話と車内から回収した所持品の一覧を差し出した。紗良は何度も自分の名前を書き間違え、ようやく署名を終えた。兄に電話をかけても、電源が入っていないという音声案内が繰り返されるだけだった。通信会社による位置情報の照会も進められていたが、最後の電波は事故現場付近で途切れているという。それでも諦めきれず、紗良はメッセージまで送った。既読には、いつまでたってもならなかった。壁掛け時計の秒針だけが、やけに大きく響いていた。夜はいつまでも明けなかった。「捜索願はすぐに受理します。ご家族の方は、いつでも連絡が取れる場所にいてください」いつでも連絡が取れる場所。その言葉が、ひどく心細かった。両親も、頼れる親戚もいない。兄が消えた瞬間、紗良は世界にひとりきりになった。何から始めればいいのかさえ思いつかない。警察署の玄関を出ると、冷たい明け方の空気が頬を刺した。そのとき、駐車場へ一台の黒いセダンが滑り込んできた。車が停まると、警護員が降りて後部座席のドアを開ける。皺ひとつないチャコールグレーのスーツを着た男が、長い脚でまっすぐこちらへ歩いてきた。黒崎ホールディングス、戦略統括副社長――黒崎怜
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2話. 完璧な保護者
車は田園調布の高台に建つ、広大な邸宅へ入っていった。高い塀。隙間なく設置された監視カメラ。固く閉ざされた鉄門。外の世界から完全に切り離された場所のように見えた。「降りて」怜司は自らドアを開け、手を差し出した。紗良は一瞬迷ってから、その手を取った。案内されたのは、二階にある広いゲストルームだった。「しばらくここで過ごせ。必要なものがあれば、すぐ言ってくれ」扉が開いた瞬間、紗良は足を止めた。ベッドには、普段使っているブランドのオーガニックコットンの寝具が整えられている。ドレッサーには愛用しているフランス製のスキンケア用品。ウォークインクローゼットには、モノトーンのシルクパジャマやリネンシャツがサイズ別に並べられていた。サイドテーブルのティーカップからは、紗良の好きなベルガモットの香りが淡く立ち上っている。浴室には、アレルギーのため最近変えたばかりの無香料シャンプーが置かれていた。スリッパまで、紗良の足にぴったりのサイズだった。紗良はクローゼットを開き、すぐに閉じた。偶然揃えてあったと考えるには、あまりにも具体的すぎた。「これ、いつ準備したんですか?」怜司は扉にもたれ、何でもないことのように答えた。「直人からよく聞いていた。君が好きな香りも、肌に合わない生地も、耳にたこができるくらいな」「兄が、そんなことまで?」直人が妹の話をよくするのは事実だった。それでも、スキンケアのブランドやパジャマの素材まで、友人に説明するだろうか。疑問は浮かんだが、深く考える余裕はなかった。事故現場の血と、誰もいなかった運転席が頭から離れない。「本当にありがとうございます。怜司さんがいなかったら、今夜どこへ行けばいいかも分かりませんでした」「礼はいらない。今は休め」怜司が近づき、乱れた前髪を整えた。指先が耳元を掠めた瞬間、彼の眼差しが一瞬だけ濃くなり、すぐにいつもの静けさへ戻った。「俺の部屋は廊下の突き当たりだ。何かあればすぐ分かるように、鍵はかけるな」返事を待たず、怜司は部屋を出ていった。重い扉が閉まったあと、紗良はベッドの端に腰を下ろした。鍵をかけるなという言葉が引っかかったが、ショックで倒れたりしないか心配しているのだろうと思うことにした。携帯を確認すると、警察や会社からの着信とメッセージが何十件も溜まっていた。直人の番号に
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3話. 出られない家
オフィスに座っていても、原稿の文字がまるで頭に入ってこなかった。モニターの上に、潰れた兄の車と、今朝聞いた運転手の言葉が交互に浮かんでくる。――おひとりでは移動させられません。過保護で済ませるには、あまりにも一方的な支配だった。部長は何度も紗良の席へ来て、早退を勧めた。事故がニュースになってから、同僚たちは慎重に様子を尋ねてきたが、紗良は大丈夫だと繰り返すしかなかった。本当は、何ひとつ大丈夫ではない。一通のメールを読むだけで、同じ行を三度も四度も読み返した。昼頃、担当刑事へ電話をかけたが、新しい手がかりはなかった。兄のカードも携帯電話も、事故の直後から一度も使われていない。通話を終えて窓の外を見ると、朝乗ってきた黒いセダンが、向かいの道路にそのまま停まっていた。運転手は一度も車を離れていない。誰かが自分の出入りと動線を、最初から最後まで見張っている。その事実が、ようやく肌に迫ってきた。背中が冷えた。桜庭直人が失踪して一日。世界にひとり取り残された恐怖のなかで、信じられるのは黒崎怜司だけだと思っていた。けれど今は、その人さえ信じていいのか分からない。紗良は同僚の視線を避け、個人用の携帯を取り出した。大学時代からの親友、藤原美咲へ電話をかける。「紗良! ニュース見て、どれだけ驚いたと思ってるの? 直人さんは? あなた今どこにいるの?」友人の声を聞いた瞬間、涙が込み上げた。「美咲、兄のこともそうなんだけど……私にも変なことが起きてるの。今日、仕事が終わったら少し会えない? 渋谷駅の近くにあるブックカフェで」「何があったの? 分かった。七時までに行く」通話を切って、ようやく詰まっていた息が少し通った。退勤十分前。紗良は正面ロビーを避けるため、非常階段を使って地下駐車場側の裏口へ降りた。運転手はきっと、ロビーで待っている。暗い路地へ出た瞬間、携帯が震えた。黒崎怜司。紗良は迷った末、電話に出た。「……はい」『裏口の路地は街灯が少ない。足を捻る前に正面へ戻れ』落ち着いた声だった。紗良は足を止め、周囲を見回した。ビルの壁と、停められた車しか見えない。「どうして、私がここにいるって分かるんですか?」『美咲に会いに行くつもりだろう。さっき俺から彼女に連絡して、約束は断ってもらった。直人の件が片づくまで、外部に事
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4話. 最初の脱出
紗良は、怜司の顔を長いあいだ見つめた。十年間、兄のそばで黙って自分を気遣ってくれていた黒崎怜司と、今目の前にいる男は、まるで別人だった。「私を監禁してるんですか?」怜司はカフリンクスを外しながら、ソファへ向かった。「君がそう呼びたいなら」「何ですって?」「言葉は重要じゃない。直人が戻るまで、君を俺の目の届かない場所へは行かせない」「狂ってる。本当に狂ってるわ」紗良は携帯を取り出し、110番へかけようとした。だが、発信中の表示にすら切り替わらない。邸宅内では、個人回線が遮断されているらしかった。怜司が近づき、携帯を取り上げた。無理に手首を捻ることすらしなかった。紗良の握力が抜ける瞬間を待ち、そっと手の中から抜き取っただけだった。「返して」「駄目だ」「叫べば、誰かに聞こえます」「門まで距離がある。喉を傷めるだけだ」怜司は指先で、紗良の顎を軽く持ち上げた。力を込めてはいない。それでも、視線を逸らせなくするには十分だった。「無駄に体力を使うな。俺は君に怒りたくない」「もう十分怒ってるじゃない。声を荒らげなければ暴力じゃないとでも思ってるんですか?」怜司の目元が、ほんのわずかに固くなった。「君が傷つかない方法で止めている」「止めるって言葉から間違ってる。私は、あなたの許可がなければ動けない人間じゃない」怜司はしばらく紗良を見つめ、それから携帯を内ポケットへしまった。「夕食は部屋へ運ばせる。何も食べないのはやめろ」そう言って、頬を一度撫で、書斎へ上がっていった。しばらくすると、使用人がトマトと牛肉のシチューと温かいパンを部屋へ運んできた。紗良は手をつけなかった。代わりに、窓、浴室の換気口、繋がったウォークインクローゼットまで調べた。大きな窓は分厚い強化ガラスで、テラスの扉は制御パネルなしでは開けられない。廊下で会った使用人へ、小声で助けを求めてもみた。中年の女性は、申し訳なさそうに首を横に振った。「家族が黒崎系列で働いております。申し訳ございません、お嬢様」怜司は、この家の扉だけでなく、人々の事情まで鍵をかけていた。紗良は冷たい床へ座り込んだ。恐怖より先に、怒りが込み上げる。あの男の手の中で、大人しくしているつもりはない。自分で外へ出て、兄を捜すのだ。部屋へ戻った紗良は、邸宅内の音を数えた。深
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5話. もっと小さな鳥籠
紗良は鉄門の取っ手から手を離した。怜司は裸足で立つ紗良を見下ろし、スーツのジャケットを脱いで肩にかけた。続けて、持ってきた靴下を差し出したが、紗良は受け取らない。「いつから待ってたんですか?」「君が部屋のドアを開けたときから」「分かってて、わざとここまで来させたんですか?」「自分で確かめなければ、諦めないと思った」「諦めません」「分かってる」怜司は、その答えも予想していたように静かだった。「だから、諦めるしかなくなるまで、もっと鍵を増やす」怜司が通用口のロックを解除し、内側へ入ってきた。「戻ろう。冷えている」声は穏やかだった。怒鳴りもしない。腕を捻り上げることもしない。ただ紗良の手首を包み、そのまま邸宅へ連れていった。必要以上の力は込められていない。けれど、抵抗しても絶対に離さないという確信があった。玄関へ入ると、怜司は紗良をソファに座らせ、目の前へ膝をついた。庭の砂利で擦れた足裏を消毒しようとすると、紗良は乱暴に脚を引いた。「触らないで」「傷に土が入っている」「あなたが閉じ込めなければ、できなかった傷です」怜司の手が一瞬止まった。それでも使用人から救急箱を受け取り、消毒液と絆創膏をテーブルへ置いてから身を引いた。「自分でやれ。放置はするな」リビングを見回すと、一晩のうちに変わったものがいくつも目に入った。警備会社のスタッフが新しい機器を設置している。玄関脇のコンソールには入退館者一覧が表示され、紗良の名前の横には『単独外出禁止』という赤い文字がついていた。使用人たちは互いに目も合わせず、黙々と動いている。キッチン奥の扉には、新しい電子錠。廊下と階段の角には、追加の感知センサー。使用人たちは個人の携帯電話ではなく、業務用の無線機を持っていた。「邸宅へ入る電子機器と荷物は、すべて確認させる。配送車も、ガレージの外で検品する。昨日のようなことは二度と起きない」怜司がソファに腰を下ろしながら言った。紗良は肩にかけられたジャケットを脱ぎ、床へ落とした。「昨日のようなこと?」「この人たちも、みんな知ってるんですか? 私が嫌がってるのに、ここへ閉じ込められてるって」怜司は周囲を一度見回した。「雇用契約に従って指示を守っているだけだ。君に無礼な真似をする者はいない」「一番無礼なのは、あなたでしょう」
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6話. 一ノ瀬悠真
翌日の午後、正門のインターホンが邸宅の静けさを破った。モニターには、紗良の直属の上司であり、出版社のブランド企画部長でもある一ノ瀬悠真が映っていた。紗良が二日も出社せず、連絡まで途絶えたため、直接訪ねてきたのだろう。「桜庭紗良さんに会いに来ました。中にいることは分かっています。門を開けてください!」リビングのソファに座っていた紗良は、勢いよく立ち上がった。「一ノ瀬さん……」外の世界へ繋がる糸が、まだ残っていた。紗良が玄関へ駆け出そうとした瞬間、二階から降りてきた怜司が警備員へ手で合図した。意外にも、門は開いた。悠真は邸宅へ入るなり、紗良のやつれた顔と、随所に配置された警備員を確認した。片手には紗良のノートパソコンと社員証が入ったバッグ。もう片方には、同僚たちが持たせた洗面用品や着替えの紙袋を持っている。自ら訪ねてきたその顔には、一晩まともに休めなかった跡がはっきり残っていた。「紗良、大丈夫か? 会社にも来ないし、電話も繋がらない。どれだけ心配したと思ってるんだ」「一ノ瀬さん」紗良が近づこうとした瞬間、怜司が二人のあいだへ入った。「一ノ瀬悠真部長ですね。黒崎ホールディングスの黒崎怜司です」怜司は礼儀正しく手を差し出した。悠真は、その手を取らなかった。「直人さんの件で、紗良が動揺しているのは分かります。それでも会社や友人との連絡まで断つ理由にはなりません。紗良を無理やり閉じ込めているんですか?」怜司の手が、ゆっくり下がった。「事故の背後にいると思われる人間が、紗良の身柄を狙っています。本人とも話し合ったうえで保護しています」「それなら、本人に直接聞きます」「その前に、持ち込んだ物を確認させてもらいます」怜司が手を出すと、警備員が悠真のバッグを受け取ろうとした。悠真は身体を捻って避けた。「紗良個人のノートパソコンと社員証です。本人に直接渡します」「この家へ入る物は、すべて検査する決まりです」「ここは拘置所ですか?」二人の視線が、正面からぶつかった。悠真が怜司越しに紗良を見る。「お前が望んで、ここにいるのか?」「二人で話をさせてください」悠真の要求に、怜司は短く答えた。「できません」「ならせめて、紗良が答えるあいだ黙っていてください」ひと言でいい。嫌だと。助けてほしいと告げれば、悠真は警察を呼んでくれ
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7話. 彼の嫉妬
紗良は、コートのポケットにある携帯を強く握った。「何も受け取ってません。ただ、手を握って慰めてくれただけです」自分で聞いても不自然な声だった。怜司はしばらく紗良の顔を見つめ、ゆっくり近づいてきた。ポケットへ手を入れて奪う代わりに、乱れた髪を耳へかける。「嘘をつくとき、唇の内側を噛む癖は、まだ直っていないんだな」紗良の顎が固まった。この男が、どれだけ長いあいだ自分を観察してきたのか、想像もつかない。「知ってるのに、どうして取り上げないんですか?」「君があの男をそこまで信じるなら、一度信じてみればいい」怜司の口元へ、かすかな笑みが浮かんだ。「君のために、どこまでできる人間なのか」それ以上追及せず、怜司は書斎へ上がっていった。紗良は部屋へ入り、鍵をかけた。布団の中で予備の携帯を起動すると、悠真があらかじめ残したメッセージが表示された。【明日の午前五時半、定期の食材配送車が入る。冷蔵トラックが出るとき、荷台に隠れろ。正門を出た先で待っている。位置履歴が残らないよう、この携帯だけを使え】具体的な脱出計画だった。紗良は震える手で返信した。【一ノ瀬さんまで危険な目に遭うかもしれません。本当に大丈夫ですか?】すぐに返事が来た。【お前を一人で残すほうが危険だ。必ず出てこい】少しして、悠真から電話がかかってきた。『長くは話せない。配送業者とは話をつけてある。運転席の後ろにある箱三つ分は空けておく』「一ノ瀬さん、怜司さんはこの携帯があることを知ってます」『知っていても、回線名義まではすぐに割れない。ホテルへ着いたらSIMは捨てろ』「今からでもやめてください。あなたまで人生を壊されるのが怖いんです」『お前があの家にいると知りながら、見て見ぬふりをしたら、一生後悔する』廊下から足音が聞こえ、紗良は慌てて通話を切り、携帯をマットレスの下へ隠した。扉の外を通った怜司の影が、一瞬止まり、それからまた動いた。短いメッセージを読み返すと、涙が込み上げた。少なくとも、外には自分を所有物のように扱わない人がいる。その夜、紗良は配送車が入る時間と、ガレージまでの動線を頭に叩き込んだ。希望が生まれ、初めて眠れそうな気がした。だが翌日の午前、部屋の固定電話が鳴った。受話器の向こうの悠真の声は、ひどく掠れていた。『紗良、すまない。今日、約束し
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8話. 二度目の脱出
紗良は、しばらく声が出なかった。他人が長年積み重ねてきた努力と生活を壊しておきながら、怜司の顔には罪悪感さえ見えない。「どうしてそんなことをしたんですか? 一ノ瀬さんは兄を心配して、私を助けようとしただけです」「俺が守っている人間を、許可なく連れ出そうとしたからだ」怜司が席を立った。「私は、あなたが守っている物じゃない」「分かってる。物なら、こんなに長く待ったりしなかった」彼の手が、紗良の頬へ近づいた。紗良は顔を背ける。「直人が見つかれば、一ノ瀬の件は元へ戻す。だから周りの人間まで傷つけたくなければ、大人しくしていろ」脅迫を心配する言葉のように口にする態度に、吐き気がした。紗良は部屋へ戻り、予備の携帯を起動した。日中に警護員の交代時間を改めて確認し、ベッドには人が眠っているように布団と枕を積み上げた。浴室のシャワーを弱く流し、音が続くようにしておく。扉センサーが開閉を記録するだろうが、早朝の配送時間帯はキッチン周辺の動きが多い。すぐには気づかれない可能性があった。悠真から、最後のメッセージが届いていた。【メイプルホテル804号室。予約番号2174。監査チームの目を避けて、遅くなっても向かう。俺を待たず、先に出ろ】正門の先で落ち合う計画は崩れた。それでも、脱出経路まで消えたわけではない。午前五時。食材を積んだ冷蔵トラックが地下ガレージへ入ってきた。配送員と料理人たちが検品台で書類を確認しているあいだ、紗良は排気ダクトの裏へ隠れた。そして荷台が開いた隙に、身体を滑り込ませる。空箱と保冷材のあいだへ身を縮めると、冷気が服の中まで染み込んできた。しばらくして、車が動いた。速度を落とす振動とともに、正門が開く音が聞こえる。警備員が荷台を確認するかもしれない。紗良は口を手で覆い、息を殺した。車が停まった。後部ドアの留め金が揺れ、扉が手のひら一枚分だけ開く。懐中電灯の光が、箱の上をなぞった。紗良は保冷材の下へ顔を埋めた。心臓の音が、外まで聞こえそうだった。「異常ありません」扉が再び閉じる。数分後、車は速度を上げた。邸宅を出られた。最初の納品先である物流センターで扉が開くと、紗良は運転手たちが前方へ回った隙に飛び降りた。通りかかったタクシーを止め、ホテルの住所を告げる。メイプルホテルは、品川の外れにある
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9話. 初めて見る顔
ホテルの廊下には、怜司の警護員が並んでいた。紗良は後ろへ下がったが、室内に逃げ場はない。怜司の視線はすぐに、机のノートパソコンと外付けドライブへ向かった。「直人のことを、自分で調べるためにここまで来たのか」「どうやって見つけたんですか?」怜司の視線が、紗良のコートのポケットへ一瞬落ちた。「一ノ瀬が用意した、法人名義の回線だ。その携帯を起動した瞬間から位置は追えた」「それなら、どうしてすぐ止めなかったんですか?」「君が誰のところへ行くのか、確かめたかった」「私を囮みたいに泳がせたんですね」「俺が追える範囲でだけだ」怜司は、濡れた紗良の髪、ホテルのガウン、肩にかけられた悠真のジャケットを順に見た。最後にジャケットへ落ちた視線が、長く留まった。知りながら、わざと逃がした。紗良と悠真がどこまで行くのか、見届けるために。浴室の扉が開き、悠真が出てきた。「紗良、俺の後ろへ」彼は紗良の前へ立った。「黒崎副社長、ここまで押しかけて、何をするつもりですか?」怜司の表情が固まった。「職務停止とプロジェクト凍結だけでは足りなかったようだな」「紗良は、あなたの所有物じゃない」「では一ノ瀬部長は、何の資格があって俺の家から連れ出した?」「紗良自身が助けを求めたからです」「その言葉を待っていたように、ホテルも車も用意していたらしいな」「あなたから逃げたいと言っている人を助けるのに、特別な資格なんて必要ありません」怜司の目が細くなった。「それを言う資格が、自分にあると思っているのか?」怜司が手で合図すると、警護員二人が入り、悠真の両腕を掴んだ。悠真は抵抗したが、人数が違いすぎる。「やめて!」紗良が飛び出すと、怜司が腕を伸ばして前を塞いだ。彼は悠真を見ながら、低い声で言う。「家族が経営している出版流通会社、最近は資金繰りが厳しいらしいな。黒崎系列との納入契約まで切れたら、どれくらい持つだろう」悠真の顔から血の気が引いた。「家族にまで手を出す気ですか?」「二度と紗良へ近づかないと約束すれば、何も起きない」「決めるのはあなたではなく、紗良です」紗良は二人を交互に見た。言葉で怜司へ立ち向かっても、悠真は救えない。「一ノ瀬さんに手を出したら、二度と私の顔を見られないと思って」「そう言いながら、また逃げるんだろう」「あなた
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10話. 閉ざされた部屋
邸宅へ戻ってから、監視はさらに厳しくなった。紗良の部屋の前には警護員が常駐し、食事も部屋へ運ばれてきた。首の傷は浅かったが、怜司はかかりつけの医師まで呼び、診察させた。ホテルで見た、あのときの怜司の顔が何度も浮かんだ。ガラス片が皮膚へ触れた瞬間、彼は紗良本人よりも怯えた顔をしていた。親友の妹を守るという感情だけでは、説明できない。三日後の午後。怜司は黒崎ホールディングスの緊急取締役会へ出席するため、邸宅を出た。警備員の大半が外周と正門へ配置されている時間だった。紗良は、部屋の前の警護員が電話で席を外した隙に廊下へ出た。階下では警備会社のスタッフが正門センサーを点検し、使用人たちは夕食の準備でキッチンへ集まっている。向かったのは、二階の突き当たりにある怜司の個人書斎だった。いつも施錠されている扉が、完全に閉まりきらず、わずかに開いている。急いで出たためのミスか。それとも、意図的に残された隙なのか。紗良は息を殺し、中へ入った。濃い木の香りが染みついた部屋には、経済書と事業報告書が隙間なく整頓されていた。机の上にあるのは、決裁済みの書類と一本の万年筆だけ。紗良は引き出しと書類棚を順に開けた。直人の名前が書かれた資料はない。代わりに、自分の出版社の組織図、会社周辺の地図、一ノ瀬悠真の人事記録が入った薄いファイルを見つけた。最新の印刷日は、今日だった。怜司は邸宅を離れているあいだも、紗良の周囲の変化を報告させていた。机の下には、邸宅全体の警備状況を確認する補助モニターがあった。ゲストルーム前のセンサーや正門カメラだけではない。出版社や紗良のマンション周辺で撮影された映像まで保存されている。紗良は急いで画面を消した。本棚を調べていると、一つの柱だけ、妙に手垢がついていないことに気づいた。指先で表面を押すと、小さなクリック音が鳴る。巨大な本棚が横へ動いた。その後ろに、灰色の鉄扉が隠されていた。電子錠には、四桁の数字を入力するパネルがある。怜司の誕生日、直人の誕生日を順に入れたが、どちらも違った。三回目の入力制限を知らせる警告が出る寸前、紗良の指が止まった。まさか。自分の誕生日――0417を入力する。解錠音が鳴った。鉄扉がゆっくり開き、暗い空間が現れた。紗良は壁を探り、照明をつけた。光が満ちた瞬間、息が
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