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10 Chapters

第1話

個室を出た途端、ウェディングプランナーから電話が入った。「瀬尾紗英様、ドレスのウエストですが、予定どおり3センチほど出すお直しでよろしいでしょうか?」私は思わず足を止めた。「サイズは、前と変わっていませんけど」電話の向こうに、一瞬の沈黙が落ちた。「妹様の瀬尾莉緒様から、挙式のあと披露宴用のドレスとしてお召しになるので、今のままでは少し窮屈かもしれない、と伺っておりまして……」スマホを握る指先に、ぎゅっと力がこもる。「私のドレスを妹が着ていいなんて、誰が言ったんですか」「早瀬拓真様です。姉妹なんだから、そんなに細かいことは気にしなくていいと……」そのとき個室のドアが開き、拓真が出てきた。彼は何も言わず、自分のジャケットを私の肩にふわりとかける。拓真は、私が寒がっていることにいつも真っ先に気づく人だった。私がヒールを履く日には、決まって車にぺたんこの靴を1足忍ばせておいてくれる。以前の私は、そういうささやかな気遣いこそが愛されている証拠なのだと信じていた。でも、今ならわかる。彼は私を大事にしてくれるけれど、それと同じくらい当たり前に、私を飛び越えて物事を決めてしまうのだ。「どうしてドレスが、莉緒のサイズに直されてるの?」拓真は不機嫌そうに眉を寄せた。「挙式のあと、一度着るだけだろ。頼んでたドレスが間に合わなくなったんだってさ。披露宴に着ていくものがないんじゃ、かわいそうだろ」「あれは、私のウェディングドレスよ」「紗英。莉緒はお前の妹なんだぞ。そんなわがまま言うなよ」まただ。子どもの頃、大切にしていたオルゴールを莉緒に壊されたときも、母は「妹なんだから」と言った。高校卒業のとき、ずっと楽しみにしていた卒業旅行が莉緒の合宿の都合で潰れたときも、父の瀬尾博之(せお ひろゆき)は同じ言葉を口にした。みんな、口を揃えて私に我慢しろと言う。莉緒が妹だというただそれだけで、私の持っているものは何もかも、当然のように半分は莉緒のものになってしまう。「どうして、先に私へ訊いてくれなかったの?」「お前なら、いいって言うと思ったから」「どうして私が、いいって言うと思ったの?」拓真はしばらく口をつぐんだ。「……莉緒、もう友達に言っちゃってるんだよ」ああ、そういうことか。彼は私の気持ち
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第2話

翌日、母は家に代々受け継がれてきたアンティークのエメラルドのブレスレットを、私の会社まで届けてきた。箱を開けると、中に修理伝票が1枚入っていた。留め金の部分には、直したばかりの不自然なろう付けの跡が残っている。「……これ、どうしたの?」母はすっと目を逸らした。「莉緒がつけてみたら外れなくなっちゃってね。切って外すしかなかったのよ」このブレスレットは、祖母が遺してくれたものだ。亡くなる間際、祖母は私の手を握って、結婚式の日にこれをつけた姿を見たいと言ってくれた。その願いは叶わなかった。そしてこのエメラルドのブレスレットが、祖母から受け取った最後の贈り物になった。「誰が莉緒に触らせたの?」「ちょっとつけさせてみたかっただけよ。まさか、あんたの手首があんなに細いとは思わなかったの」母は、真新しいエメラルドのブレスレットを私の前に押しやった。「拓真くんが今朝買ってきてくれたのよ。前のよりずっと重くて立派なんだから。古い物より、新しい物の方が縁起がいいじゃない」「これとあれが、本当に同じだと思ってるの?」「たかがアクセサリーじゃないの」「だったら、どうしてお母さんのブレスレットを切らなかったのよ!」母の表情がこわばった。「あんた、結婚を控えてるっていうのに、どうしてそんなにヒステリックなのよ!」同僚たちの視線が、こちらに集まっていた。職場で言い争いをしたくなくて、私は黙って箱の蓋を閉じた。けれど母は、私の腕をつかんで離さなかった。「莉緒ね、インターン先から内定をもらえなかったのよ。あんたの会社、湊南支社でリーシング担当のポジションが空いてるんでしょう?上の人に口を利いて、莉緒を推薦してあげてちょうだい」それは、私が半年かけてつかみ取ったポストだった。先週、部長から、湊南に異動する気があるなら任せたいと言われたばかりだ。私は結婚の準備があるし、拓真に遠距離恋愛は嫌だと言われて、泣く泣くその話を断った。そのチャンスを、今度は莉緒に渡せというのだ。「莉緒は美術専攻でしょう。商業施設のリーシングなんて、完全に畑違いじゃない」「最初から何でもできる人なんていないわよ。あんたが教えてあげればいいじゃない」「そもそも会社のポストは私の私物じゃないわ。応募したいなら、莉緒が自分でエ
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第3話

結婚式まであと10日となった日は、父の誕生日だった。私は前もって個室を予約し、父が数か月も前から欲しがっていた高級な釣り竿を買っておいた。ところが店に着いてみると、直前になって店が変更されたと知らされた。家族のLINEグループには、一言の連絡も入っていなかった。母に電話すると、あっけらかんとした声が返ってきた。「莉緒がお寿司がいいって言うから、お店変えたのよ。場所なら拓真くんが知ってるから、訊いてみて」つまり、みんな知っていたのだ。私以外の、全員が……外は土砂降りだった。傘を持っていなかった私は、店の軒先で迎えを待つしかなかった。先に電話をかけてきたのは拓真だった。「今どこ?」「最初のお店の前」「グループLINEに新しい店の場所、送られてなかったか?」「誰も何も送ってこなかったわ」彼は少し黙った。「みんなうっかりしてたんだろ。そこで待ってろ、迎えに行くから」20分後、車が路肩に停まった。助手席には莉緒が座っていた。助手席はいつも私が座っていた場所なのに、今は莉緒に取られていた。それどころか、後部座席には額装された絵がぎっしりと積まれていた。拓真が後ろのドアを開けてくれた。「莉緒って、後ろの席だと車酔いするって言うからさ」私はキャンバスや額縁の隙間に、無理やり体をねじ込んだ。膝に木枠の角が食い込む。拓真が急ブレーキをかけた拍子に、額縁が勢いよく私のすねにぶつかった。思わず息を呑む。拓真がバックミラー越しにこちらを見た。「大丈夫か?」莉緒は私より先に、額縁へと手を伸ばしてかばった。「気をつけてよ、お姉ちゃん。それ、あたしがギャラリーで初めて担当する大事な作品なんだから」拓真の視線は、青ざめた私の顔からすっと離れていった。「気をつけろよ。傷つけるなよ」私はうつむいた。すねの皮膚は擦り剥け、血が足首のほうへと伝い落ちていた。食事の席で、私が持ってきた釣り竿は部屋の隅に追いやられた。莉緒が贈ったマフラーを、父はその場で首に巻き、気が利くなと彼女を褒めた。「お姉ちゃんのプレゼントは高価だけど、あたしのは毎日使えるものだから」莉緒はにこにことお酌をしながら言った。母もすかさず相槌を打つ。「紗英はすぐお金で済ませようとするんだから。昔から、
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第4話

結婚式の7日前、私は書類を取りに新居のマンションへ向かった。何度暗証番号を入力しても、スマートロックは無機質なエラー音を返すばかりだった。3回目の入力を試したところで、内側から莉緒がドアを開けた。私が新調したルームウェアを着て、水の入ったグラスを手にしている。「お姉ちゃん、どうしたの?」玄関には莉緒の靴がずらりと並び、リビングにはイーゼルが立てられ、ベランダには彼女の服が干されていた。どう見ても、これから私が暮らす家ではない。莉緒の家だった。「どうして、あなたがここに住んでるの?」「あぁー。前のアパート、契約更新のタイミングで退去することになっちゃってね。お母さんが、とりあえずここに住めばって言うから」「誰が勝手にそんなこと決めたの?」キッチンから物音がした。私が買ったエプロンをつけた拓真が、オートミールの入った器を手に出てくる。「俺だよ」「どうして私に一言の相談もなかったの?」「お前、最近ピリピリしてただろ。これ以上ストレスかけたくなかったんだよ」どっと疲れが押し寄せてきた。私は拓真の目をまっすぐに見つめた。「いつまでいるの?」彼が答えた。「部屋が見つかるまで」莉緒が小さな声で付け加えた。「お母さんがね、結婚式のあとも住んでていいって。ギャラリーにも近いし、あたしはゲストルームを使うだけだから。邪魔はしないよ」私はその部屋へ足を踏み入れた。私が選んだカーテンはピンクのものに替えられ、本棚を置くつもりで空けておいたスペースには、イーゼルがずらりと並んでいた。ベッド脇の棚に、写真立てがひとつ置いてある。写真の中では、拓真と莉緒が母を挟むように並んで立っていた。裏返すと、こう書かれていた。【仲良し家族 新居おめでとう!】母の字だった。私はその写真をじっと見つめた。「家族って、誰のこと?」莉緒の顔からさっと血の気が引いた。彼女は写真をひったくろうと手を伸ばす。その拍子に、手にしていたグラスが滑り落ちて砕け散った。破片が私の手の甲を切り、すぐに血が玉のように滲み出す。拓真がとっさにしたのは、莉緒を自分の背後にかばうことだった。「怪我はないか?」莉緒は首を横に振った。「その写真を持って、何してるんだよ」私は血の滲む手を掲げた。「拓
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第5話

拓真が、私の手首をつかんだ。「莉緒が住んでたってだけで、ここまでするのか?」「違うわ」私は彼の指を、1本ずつ引き剥がしていった。「20年以上、ずっと待ってたの。家族かあなたの誰かが、一度でいいから私を選んでくれる日を。もう、待つのはやめたの」その夜、私は湊南支社への異動を受け入れた。夜が明ける前に荷物をまとめ、結婚式関係の連絡先やデータをすべて削除して、家族のLINEグループを抜けた。湊南に来て2日目、拓真が私の職場に現れた。会議室のガラス越しに、受付の前に立つ彼の姿が見えた。スーツはしわだらけで、目の下には濃い隈ができている。一晩中眠れなかったのだと、ひと目でわかった。同僚が声をかけてくる。「瀬尾さん、お知り合いですか?」「ええ」「お通ししましょうか?」「いいえ」私は新規オープンの準備リストの確認に戻った。30分後、受付の女性が紙袋を持ってきた。中に入っていたのは、ビターチョコレートのケーキと消毒スプレー、それから修理されたブレスレットだった。拓真の書いたメモも1枚添えられていた。【昔は全部覚えてたはずなのに。お前が俺から離れるわけないって思い込んで、甘えてたんだ。紗英、俺が間違ってた】ケーキは同僚たちと分けて食べた。ブレスレットは鍵のかかる引き出しにしまった。メモはシュレッダーにかけた。仕事を終えて外に出ると、彼はまだビルの下にいた。湊南も、雨が降っていた。彼は片手に青い傘を差し、もう片方の手にもう1本傘を握っていた。莉緒が助手席に座り、私がずぶ濡れで車まで歩いたあの日も、彼の車には傘が2本あったはずだ。ただ、彼が車を降りて迎えに来てくれなかった。それだけのことだ。私が出てくるのを見て、彼は少し前へ踏み出し、そこで足を止めた。「家まで送るよ」「結構よ」「お前の家、駅から遠いだろ」「タクシーで帰るから」「紗英、少しだけ話せないか?」私は彼の脇をすり抜けた。彼は手を伸ばしてこなかった。ただ、2歩後ろをついてくるだけだった。「暗証番号を変えたのは莉緒だった。もう元に戻したよ。あいつの荷物も、全部出させた。結婚式の手配も全部キャンセルした。ドレスも元のサイズに戻してもらうよう頼んだし、ブレスレットは完全には直らな
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第6話

拓真は、2週間湊南に留まった。もう私に近づいてくることはなかった。ただ毎日、通りの向かいにあるカフェの窓際に座っていた。私がどれだけ遅くまで残業しても、その店の明かりは消えなかった。ある夜、胃の痛みがひどくぶり返し、ロビーに着く頃にはまともに立っていられなくなっていた。彼が横断歩道を駆け抜けてきて、私の体を支えた。彼の服からコーヒーの香りがして、その顔には隠しきれない焦燥が浮かんでいた。ほんの一瞬、気が緩んだ私の手が、彼の袖をつかんでいた。彼の体がびくりとこわばる。息遣いさえ浅くなった。「薬は車にある。取ってくるよ」彼が私を抱きかかえようとした瞬間、私は袖から手を離し、歩道脇の手すりにつかまった。「触らないで」彼はその場で動きを止めた。数秒後、彼はジャケットを脱いでベンチに敷き、私をそこに座らせてから、薬を取りに行った。戻ってきた彼は、水と薬を私の手の届くところに置くと、1メートルほど離れた場所へ下がった。「触らないよ。薬を飲んだら、帰るから」私は彼を見ないまま、薬を飲み込んだ。スマホが鳴った。電話に出るなり、母の責める声が飛んできた。「いつまでこんなこと続けるつもりなの!?拓真くん、あんたを探すために会社まで辞めたのよ!莉緒も仕事を辞めて、一日中家に引きこもってるわ。家族を滅茶苦茶にして、これで満足?」私は通りの向こうに目をやった。拓真にも、はっきり聞こえていたようだった。彼は手を差し出した。「電話、貸してくれ」私は初めて、彼にスマホを渡した。「おばさま。紗英は誰の人生もめちゃくちゃになんかしてません」母は呆気にとられたようだった。「拓真くん?紗英を見つけたの?早く連れて帰ってきてちょうだい!」「紗英は帰りません」「……今、何て言ったの?」「莉緒が仕事を辞めたのは、今回のことが原因じゃありません。ギャラリーの顧客の案件を無断で変更し、そのミスを同僚になすりつけたからです。黒木さんが俺の顔を立てて、事を荒立てずに済ませてくれただけです。紗英とは何の関係もありません。俺の仕事も、自分の意思で辞めました。自分の蒔いた種は、自分で刈り取るべきです」母の口調が和らいだ。「まあ、莉緒はまだ若いのよ。仕事で失敗するくらい普通じゃない
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第7話

湊南支社の開設日、両親が莉緒を連れてやってきた。母は何事もなかったかのように、菓子折りを抱えている。「莉緒がね、わざわざ謝りに来たのよ」莉緒はずっとうつむいていた。「ごめんね、お姉ちゃん……マンションに住むべきじゃなかったし、お姉ちゃんのウェディングドレスを着ようとするべきじゃなかった。拓真くんにも、あんなに頼っちゃいけなかった。あたし、ずっとお姉ちゃんが羨ましかったの。成績もよくて、仕事もできて、みんなからしっかり者扱いされて。あたしは自分が出来損ないだと思われるのが怖くて、みんなに寄りかかるのをやめられなかった」同僚たちが脇を通り過ぎていく。母が私の手を取った。「ほら、莉緒もこうして謝ってるじゃない。家族なんだから、いつまでも根に持つもんじゃないわ」私はその手を引き抜いた。「その謝罪は、何のため?」「決まってるでしょう。あんたを連れて帰るためよ」「帰らないわ」父の顔が険しくなった。「わざわざ新幹線で3時間もかけて会いに来たんだぞ。これ以上どうしろって言うんだ!マンションは売れたし、拓真くんから金も受け取ったんだろう。お前は何ひとつ損してないじゃないか!莉緒は仕事をなくして、縁談まで破談になったんだ。こいつがこの件で何を得したっていうんだ」私は父を見た。「……縁談が破談になったって、どういうこと?」莉緒の顔が真っ青になった。母が慌てて取り繕う。「向こうのおうちがね、あんたと拓真くんが婚約破棄したって聞いたのよ。ネットでもいろいろ噂されてたし、それで話を進められないって……」莉緒に婚約者がいたなんて、私は知りもしなかった。拓真の愛情も献身も余すところなく受け取りながら、その裏で別の男性との結婚話を進めていたなんて、想像もしていなかった。「みんな、知ってたの?」父が咳払いをした。「まだ両家の顔合わせをした程度だ。正式に決まったわけじゃない」「拓真は?」莉緒は上着の裾をぎゅっと握りしめた。「……拓真くんは、知らないの」その馬鹿馬鹿しさに、一気に笑いが込み上げそうになった。拓真は、莉緒が自分をわかってくれると信じていた。両親は、莉緒は何も持っていないと信じていた。誰もが莉緒を一番に考えていた。それなのに莉緒は、その誰にも、本当の心
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第8話

案の定、両親は期日を過ぎても一銭も振り込んでこなかった。弁護士が正式な督促状を送ると、母から何十件ものLINEの音声メッセージが届いた。「薄情な娘だ」「家の恥を外に晒すなんて」「莉緒はあんたのせいで寝込んでしまった」と、身勝手な非難ばかりだった。私は、そのどれにも返事をしなかった。1か月後、簡易裁判所で民事調停が始まった。私は振込記録と、両親とのメッセージのやり取りを印刷した資料を持って調停に臨んだ。父はまだ納得がいかない様子で、席に着くなり不満を口にした。「親子のことなのに、わざわざ裁判所にまで持ち込むのか!」調停委員は双方の話を聞いたあと、手元の資料に目を通し、静かに父へ確認した。「こちらのお金については、紗英さんのマンションの頭金に充てるため、紗英さんから借りたものだった、というご説明ですね」父がうなずく。調停委員は振込記録を示した。「ただ、提出された資料を見ると、このうち300万円は莉緒さんの口座へ振り込まれ、その後、留学関係の費用に使われたようです。当初お話しされていた使い道とは異なるようですが、この点についてはどうお考えですか?」私は凍りついた。莉緒は、留学なんてしていない。どこかの学校に出願したという話さえ、私は1度も聞いたことがなかった。「そのお金は、どこに行ったの?」莉緒は私と目を合わせようとしなかった。長い沈黙のあと、ようやく口を開く。「合格しなかったの。残りは、画材とか海外旅行に使っちゃった」あの300万円は、新卒からの3年間、私が切り詰めて必死に貯めたお金だった。マンションの頭金に必要だから少し立て替えてほしい、と母に頼まれたのだ。私はコンビニの特売弁当で食事を済ませ、冬になっても暖房をつけるのをためらった。その一方で莉緒は、そのお金で十数か国もバックパッカーで旅して回っていた。SNSに上がる写真に、私はひとつ残らず「いいね」を押していた。彼女の自由が、羨ましいとさえ思っていた。今ならわかる。莉緒の自由は、私の暮らしを削って支えられていたのだ。「残りの500万円は?」父がうなだれた。「……莉緒のマンションの頭金に使った」私は母のほうを向いた。「莉緒のマンションの頭金を出してあげてたのに、それでも私の家に住まわせたの?
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第9話

「紗英」拓真が、小さなジュエリーポーチを差し出した。中には、婚約指輪が入っていた。「あの日、お前が玄関脇の棚に置いていったものだ。ずっと触る気になれなかった。今、お前に返すよ。売ってもいいし、捨ててもいい」私はポーチを受け取った。「ほかには?」彼は首を横に振った。私は階段を下りた。背後からは、長いこと何の物音もしなかった。ようやく振り返ると、彼はまだ同じ場所に立っていた。目の縁を赤くしながらも、追いかけてはこなかった。彼は、私が離れていくことを尊重できるようになったのだ。ただ、それはあまりにも遅すぎた。湊南では、冬を待たずに初雪が降った。私は指輪を売り、そのお金で家具デザインのスクールに申し込んだ。誰かを思い出すためではない。あれは、もともと私のお金だった。だから、自分のために使いたかったのだ。スクールの修了制作展で、私の作品は最優秀賞を受賞した。展示が終わって外に出ると、入口の前に拓真の姿があった。彼は会場の中には入らず、階段の下に立っていた。「通りがかったの?」私は尋ねた。「いや」彼は正直に答えた。「協賛企業から届いた受賞者一覧でお前の名前を見つけて、入場券を予約したんだ」彼は、古いアルバムを1冊差し出した。中に収められていたのは、私たちが一緒に過ごした6年間の写真だった。その1枚1枚の裏に、彼が1行ずつ言葉を書き添えていた。【初めて友達に紹介してくれた日。俺はお前に、莉緒に席を譲らせた】【お前の誕生日。莉緒が熱を出したからって、俺は途中で帰った】【お前が昇進した日。仕事のことなんて祝うほどじゃないって言った。そのくせ、黒木さんのギャラリーのスタッフに奢って、莉緒の歓迎会を開いてやった】私がこれまで飲み込んできた悔しさを、彼はひとつひとつ書き記していた。最後のページには、写真が貼られていなかった。ただ1行だけ、言葉が書かれていた。【お前が何も言わないから、傷ついてないんだと思い込んでた】ページに舞い落ちた雪が、すぐに溶けて小さな染みになった。「どうして、これを私に見せるの?」「許してほしいからじゃない」彼は1歩下がった。「ただ、時間が経つうちに、俺自身が自分に言い訳を始めるのが怖いんだ。お前を失ったの
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第10話

2年後、湊南支社はエリア統括本部に格上げされた。私も支社長から、エリア統括部長へと昇進した。両親が最後の返済を終えた日、母から電話がかかってきた。その声は、何歳も老け込んだように聞こえた。「お父さん、体の具合がよくないのよ。莉緒も遠くへ引っ越しちゃって、家には話し相手もいなくてね。お正月くらい、帰ってきてご飯食べていきなさい。あんたの好きなもの、作っておくから」私は、はっきりとは断らなかった。「考えておく。時間が取れるかわからないけど」母はしばらく黙っていた。「紗英。お母さんね、あんたは何でもひとりでできる子だから、構ってあげる必要なんてないって、ずっと思ってたの。文句を言わない子だって、ちゃんと傷ついてるんだって、あとになってやっと気づいたのよ」今さら気づいたところで、過去は変えられない。けれど私はもう、恨みを支えにして距離を取る必要もなくなっていた。「体に気をつけてね」電話を切ってから、私は母の番号の着信拒否を解除した。ただ、自分からかけることはしなかった。そのあと、父が一度入院した。母は病院の住所だけを送ってきて、来いとは言わなかった。【お父さんも年だから、体を壊しやすくてね。莉緒は忙しいみたいだし。都合がついたら、顔を見せてあげて】私は医療費を振り込み、ちょうど出張でそちらへ行く機会に、病院へ立ち寄った。病床の父は長いこと黙り込んでいたが、やがてぽつりと言った。「……すまなかった」私は水の入ったコップを、ベッド脇の台に置いた。「今は、治すことだけ考えて」父の謝罪は受け取った。けれど、謝罪を受け取ることは、忘れることでも、元通りになることでもない。両親という後ろ盾を失った莉緒は、職を転々としているらしい。一度だけ、そんな彼女から手紙が届いた。そこには、言い訳めいた言葉はひとつもなかった。【小さい頃から、泣けばみんなが真っ先にあたしを見てくれるって、わかってた。初めてお姉ちゃんのおもちゃを取ったときは、ドキドキして楽しかった。2度目にお姉ちゃんのチャンスを横取りしたときは、あたしが手に入れて当然だと思った。それからは、お姉ちゃんからどれだけ奪えるのか、試してみたくなっただけ。お姉ちゃんがいなくなって、やっと気づいたの。あたしが勝
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