「本物の番を見つけた」と夫に捨てられ処刑されかけた私、敵国最強の人狼王に溺愛されています ~ のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

20 チャプター

第1話 本物の番を連れて帰ってきた夫

第1話 本物の番を連れて帰ってきた夫 結婚記念日の夕食というものは、こんなにも惨めに冷めていくものなのだと、セレナは三年目にして初めて知った。 窓の外では夕刻から降り始めた雨が、夜が深くなるにつれて勢いを増していた。グレイウルフ公爵家の古い館は石造りで、夏の終わりだというのに雨の日は妙に冷える。暖炉には薪を多めに入れてもらったが、それでも広すぎる食堂には湿った空気が残り、長い卓上に並べた料理から立ち上っていた湯気も、とうに消えてしまっている。 セレナは壁際の大時計へ目を向けた。 十一時を過ぎていた。「奥様、もうお下げしてもよろしいのではありませんか」 控えていた年嵩の侍女マーサが、とうとう見かねたように口を開いた。「旦那様は今夜、戻られないのかもしれません。明日の朝にでも改めて――」「いいの。もう少し待ちます」「ですが、夕刻からもう三度も温め直しております。このままでは料理人たちも帰れません」 責める口調ではなかった。それがかえって辛かった。 セレナは小さく息を吐き、目の前の皿へ視線を落とした。鹿肉を赤葡萄酒と香草で柔らかく煮込んだものは、ダミアンが好んで食べる料理だった。焼いた根菜に、胡桃と蜂蜜を使った温かなソース。北部では珍しい柑橘を取り寄せて作った菓子まで用意してある。 この日のために、一週間前から料理長と相談していた。 去年はダミアンが国境視察で不在だった。一昨年は軍務会議が長引いた。最初の結婚記念日は、そもそもセレナ自身が黒月病の発作を起こした彼を一晩中看病していたため、祝いどころではなかった。 だから今年こそは、と勝手に思っていた。 朝、執務室へ向かうダミアンに「今夜は早くお戻りになりますか」と尋ねたとき、彼は書類から目も上げず、「ああ、たぶんな」と答えた。 たったそれだけだった。 それでもセレナは、その「たぶん」に期待してしまった。「……そうね。みんなを帰してあげてください。料理も、もう下げて構いません」「奥様は?」「少しだけここにいます。もし旦那様がお戻りになったら、温かいスープくらいは出せるでしょう?」 マーサの眉間に浅い皺が寄った。「奥様までお待ちになる必要はございません。旦那様は大人でいらっしゃいます。腹が減れば、ご自分で厨房に人を呼ぶことくらいできます」「マーサ」「申し訳ございません。ただ……
last update最終更新日 : 2026-10-01
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第2話 私の寝室を欲しがった女

第2話 私の寝室を欲しがった女 自室へ戻ったセレナは、扉を閉めてからもしばらく動けなかった。 廊下の向こうでは、使用人たちがヴィオラのために客室を整える足音が続いている。雨に濡れた外套を預かる者、湯を用意する者、夜食を運ぶ者。普段なら気にも留めない館の生活音が、今夜に限っては妙に耳についた。 ここは三年間暮らした家だった。 けれど、もう自分の家ではなくなる。 その事実だけが、扉一枚隔てた向こう側から、少しずつこちらへ染み込んでくるようだった。「奥様」 マーサが控えめに声をかけた。 セレナはようやく振り返る。「ごめんなさい。ぼんやりしていたわ」「謝ることではございません」 侍女はそう答えたものの、顔には隠しきれない怒りが浮かんでいた。長年この家に仕えているため、主人一家へ露骨な不満を口にすることはない。それでも、唇を引き結んだ様子を見れば何を考えているのかは分かる。 セレナはドレスの胸元に手を添えた。「脱がせてもらえる?」「もちろんです」 背中の留め具を外してもらいながら、鏡の中の自分を見る。 今日のために選んだ淡い青のドレス。 結局、ダミアンは一度も褒めなかった。 別に、それくらいはどうでもいい。そう思おうとしたところで、胸の奥に残った痛みまでは消えてくれなかった。「奥様」「なに?」「……本当に、離婚なさるのですか」 マーサの声は低かった。 セレナは鏡越しに彼女を見た。「ええ」「旦那様がおっしゃったから、ではなく?」 意味を理解して、少しだけ苦く笑った。「違うわ。あの人に言われたから仕方なく、ではないの。たぶん……私も、もう十分だったのよ」 口にした瞬間、自分でも驚くほど腑に落ちた。 三年間、ずっと我慢していた。 我慢しているつもりさえなかった。 夫婦とはこういうものだ。政略結婚なのだから仕方がない。ダミアンは忙しい。自分に狼がいないせいで、彼は周囲から同情されている。だからせめて役に立たなければならない。 理由はいくらでも作れた。 けれど、理由を積み上げたところで、寂しくなくなるわけではなかったのだ。「私、あの人に愛されるために、ずいぶん長いこと準備をしていたみたい」「準備、でございますか?」「ええ。あれをしたら喜ぶかもしれない、これを覚えたら褒めてくれるかもしれない、今日は疲れているから話
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第3話 三年間で、私のものはこれだけだった

第3話 三年間で、私のものはこれだけだった 翌朝、セレナが目を覚ましたとき、雨は上がっていた。 窓ガラスの向こうには薄い朝靄が残り、庭の石畳には夜の雨が銀色の膜となって張りついている。いつもなら起床と同時に今日の予定を頭の中で並べるところだった。ダミアンの朝食の時間、薬の確認、領地から届く書類、午後の来客、夕食に誰が同席するか。三年間、目覚めて最初に考えるのはいつも夫とこの家のことだった。 今朝は違った。 最初に浮かんだのは、自分がこの部屋を出ていくという事実だった。「……本当に、出ていくのね」 誰に聞かせるでもなく呟いてみると、不思議なくらい現実味がなかった。 昨夜、ダミアンから離婚を告げられた。 その直後にはヴィオラから寝室まで欲しいと言われた。 自分でもよく眠れたものだと思う。もっと泣き、もっと取り乱し、夜が明けるまで悩むものだと想像していたのに、実際には横になってしばらくすると身体のほうが先に限界を迎えた。 人間というものは、心が壊れかけていても眠れるらしい。 そのことが少しだけ可笑しかった。 扉が控えめに叩かれた。「奥様、お目覚めでしょうか」「入って」 マーサが朝食の載った盆を持って入ってくる。その後ろには、昨日頼んだ木箱を二つ抱えた若い使用人が続いていた。「まず二箱お持ちしました。足りなければ追加を用意いたします」「ありがとう。そこへ置いてちょうだい」 使用人が箱を床へ下ろすと、セレナは思わずそれを眺めた。 大きい。 思っていたよりずっと大きかった。 衣類だけでも何箱必要になるのだろう。三年間暮らしたのだから、十箱では済まないかもしれない。そう考えてから、セレナはふと自分の箪笥へ目を向けた。「朝食を召し上がってからにいたしましょう」 マーサが椅子を引く。「昨日はほとんどお食べになっていないのですから。荷造りは逃げません」「そうね」 素直に座った。 温かいパンと卵、薄く切った燻製肉に野菜のスープ。ごく普通の朝食だったが、久しぶりに味を感じた気がした。 これまでなら食べながら書類を読んでいた。 ダミアンの予定表を確認しながら、残りを急いで口へ運んでいた。 今日は何も見なくていい。 ゆっくりスープを飲んでいると、それだけのことで妙な罪悪感が湧いてくる。「私、ずいぶん変な暮らし方をしていたのね」
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第4話 もう、私を呼ばないでください

第4話 もう、私を呼ばないでください「奥様、旦那様が、また発作を――!」 扉の外から飛び込んできた声を聞いた瞬間、セレナの身体は考えるより先に動いていた。 荷造りをしていた手を離し、寝室を出ようとする。黒月病の発作は、軽いものなら胸の圧迫感と発熱で済むが、重くなると呼吸が乱れ、狼の力が本人の意思を離れて暴走する。これまでにもダミアンが家具を壊したことは何度かあり、最悪の場合には周囲の人間まで傷つけかねなかった。「薬は?」 廊下へ出ながら尋ねると、若い使用人は顔を青ざめさせた。「医務室から持ってきています。でも、旦那様が吐いてしまわれて、全然効かないと……お医者様もまだ到着していません」「発作はいつから?」「十分ほど前です。朝食の途中で急に胸を押さえられて、そのあと立てなくなって……ヴィオラ様がそばにいらっしゃいます」 そこでセレナの足が止まった。 昨夜までなら、最後の一言など気にもしなかっただろう。 誰がいるかなど関係なく、ダミアンが苦しんでいると聞けば駆けつけていた。水を用意し、薬草を煎じ、熱を測り、暴れそうになれば手を握って名前を呼び続ける。それが妻として当然のことだと思っていた。「奥様?」 使用人が戸惑ったように振り返る。 セレナは自分の足元を見た。 薄い室内履きの爪先が、廊下の絨毯の模様の上で止まっている。 昨日、離婚を言い渡された。 今朝からは荷物をまとめている。 それなのにダミアンが倒れたと聞いただけで、自分は何の疑問も持たず、また看病へ向かおうとしている。 まるで三年間染みついた役目から、まだ抜け出せていない。「……奥様」 今度はマーサが後ろから呼んだ。 責めるでも止めるでもない声音だった。 だからこそ、セレナは自分で決めなければならなかった。「行くわ」 マーサが何か言いかける。「ただし、医師が来るまでよ。できることだけ確認したら戻ります」「かしこまりました」 それ以上、マーサは口を挟まなかった。 ダミアンの寝室がある東棟へ近づくにつれ、館の空気が落ち着きを失っていく。 使用人たちが湯や布を抱えて行き交い、扉の前では執事長が何人かに指示を飛ばしていた。セレナを見つけると、彼は露骨に安堵した顔を見せた。「奥様、よかった。旦那様がかなり苦しまれております」「医師は?」「町から向かっておりま
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第5話 本物の番なら、奪っても許されるのですか

第5話 本物の番なら、奪っても許されるのですか ダミアンの発作が落ち着いたという知らせが届いたのは、昼を少し過ぎたころだった。 町から駆けつけた医師が薬の処方を調整し、今は眠っているらしい。命に別状はないと聞いた瞬間、セレナは胸の奥に残っていた緊張が解けるのを感じた。 だからといって、看病へ戻ろうとは思わなかった。 心配していることと、これまで通り世話を続けることは別なのだと、ようやく分けて考えられるようになった。「こちらで最後です」 マーサが本棚から一冊の手帳を取り出した。 午前中から続けていた荷造りは、思っていた以上に早く終わりへ近づいている。 床には木箱が二つと、小さな旅行鞄が一つ。 三年間を過ごした部屋から自分のものだけを抜き出した結果が、それだった。「本当に少ないわね」 改めて眺めると、今度は笑えてくる。「昨夜までは、ここを出るなんて大変だと思っていたのに」「家具まで持っていかれるおつもりでしたか」「まさか。でも、三年も暮らしたのだから、もっと何かあると思っていたの」「奥様は物を増やされませんでしたから」「そうね。必要になったら買えばいいと思っていたのに、その必要が来る前に離婚することになったわ」 マーサが手帳を箱へ入れようとしたとき、セレナは「あ、それは待って」と止めた。 受け取った革表紙の手帳には、ダミアンの発作について三年間書き続けた記録が残っている。 日付。 発作の強さ。 その日の天候。 睡眠時間。 食事。 薬の量。 どの処方が効いたか。 何をすると悪化したか。 自分でも驚くほど細かい。「これは写しを作って置いていくわ」「そこまでなさる必要がございますか?」「私がいなくなったせいで病気が悪化したら、後味が悪いもの」「奥様は、先ほどもう面倒を見ないとおっしゃったばかりでしょう」「面倒を見ないことと、知っていることまで持ち逃げするのは違うわ」 マーサは少し呆れた顔をした。「その律儀さを旦那様が十分の一でもお持ちなら、今ごろこうはなっていなかったでしょうね」「本人が聞いたら怒るわよ」「では、聞かせません」 セレナは吹き出した。 笑ったあと、少しだけ胸が楽になる。 まだ昨日の出来事を冗談にできるわけではない。それでも、朝から何度も感じていた息苦しさは少しずつ薄れてきていた。 
last update最終更新日 : 2026-10-01
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第6話 なぜセレナを手放した

第6話 なぜセレナを手放した 大広間へ続く廊下には、いつもより多くの使用人がいた。 誰もが何か仕事をしているふりをしながら、明らかに同じ場所を気にしている。銀器を磨く手が止まり、花瓶を運ぶ侍女が足を緩め、執事見習いまで柱の陰からそっと広間の扉を窺っていた。 無理もない、とセレナは思う。 領主であるグレイウルフ大公が予定を三日も繰り上げて帰還し、そのまま息子を大広間へ呼びつけたのだ。しかも原因が、次期当主夫妻の離婚だという話まで、すでに館中へ知れ渡っている。 秘密というものは、使用人の多い館では湯気より早く広がるらしい。「奥様」 隣を歩いていたマーサが低く呼んだ。「お顔の色がよろしくありません」「そう?」「はい。大公殿下がお怒りだからといって、奥様が叱られる筋合いはございませんからね」「私だって、それくらい分かっているわ」「分かっていらしても、奥様はすぐにご自分にも悪いところがなかったか考え始めますので」 否定しようとして、やめた。 実際、その通りだった。 大公がなぜ怒っているのかは分からない。それでもセレナは、ここへ来るまでに何度か、自分が何か失礼をしたのだろうかと考えてしまった。 三年間染みついた考え方は、一日や二日で消えてくれない。「今日は謝らないようにするわ」「何も悪くないことについては、でございますよ」「分かっているってば」 マーサの言い方がおかしくて、少しだけ肩の力が抜けた。 大広間の前には二人の衛兵が立っていた。 セレナを見るとすぐ扉が開かれる。 中へ足を踏み入れた瞬間、まず目に入ったのは倒れた椅子だった。 次に、床へ落ちた書類。 そして暖炉の前に立つ大柄な男。 アーヴィン・グレイウルフ大公は、今年五十三歳になる。 灰色を帯び始めた黒髪を後ろへ撫でつけ、旅装のまま濃紺の外套を肩に掛けていた。長旅から戻ったばかりだというのに着替える時間すら惜しかったのだろう。革靴には乾ききっていない泥が付着している。 普段は感情を表へ出さない人物である。 少なくとも、セレナの知る限りでは。 今は違った。「だから、何度言わせる」 太い声が広間に響く。 その正面にはダミアンが立っていた。 今朝の発作からまだ完全には回復していないらしく、顔色が悪い。それでも背筋だけは伸ばし、父親を正面から見ている。 少し離
last update最終更新日 : 2026-10-01
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第8話 夫は、私を信じなかった

第8話 夫は、私を信じなかった 領都から派遣された監察官は、セレナが想像していたより若い男だった。 三十代半ばほどだろうか。黒い制服の襟元には行政監察局の銀章が留められ、雨上がりの泥を跳ね上げて急いできたらしく、長靴の裾にはまだ乾いていない土が付着していた。けれど、表情にも声にも慌ただしさはない。「グレイウルフ公爵夫人セレナ様でいらっしゃいますね」「はい」「領内診療所支援金に関する不正流用の告発を受け、確認に参りました。現時点で罪が確定したわけではありません。まず帳簿と関係者のお話を確認させていただきます」 淡々とした説明だった。 それでも応接室に集まった者たちの空気は重い。 ダミアン、大公アーヴィン、財務官、執事長。そしてセレナの後ろには、本人が何を言っても離れる気のないマーサが控えている。 ヴィオラの姿だけはなかった。 そこに安堵した自分を認めるのは少し癪だったが、今は余計な感情を抱えている余裕がなかった。 監察官が机の上へ帳簿を広げる。「問題になっているのは、この三件です。診療所への薬草購入費、北部治療所増築費、それから昨夜引き出された臨時支援金。合計すると、金貨八百四十七枚になります」 マーサが小さく息を呑んだ。 セレナも数字を聞いて、胃のあたりが冷たくなる。 決して小さな額ではない。「最初の二件については、実際に支出された分も含まれております。ただし帳簿上、同じ目的で二重に金が動いている箇所があります」「二重に?」「はい。一度目は正規の支出。二度目が問題の支出です。そして、いずれにもセレナ様の承認印があります」 監察官が書類をこちらへ滑らせた。 セレナは一枚ずつ確認した。 確かに自分の印章だ。 だが署名の癖が微妙に違う。 最初の一枚は比較的よく似せてある。 二枚目は最後の文字が少し流れすぎている。 三枚目は、筆圧まで自分に寄せようとしたのか、逆に不自然だった。「偽物です」 セレナは即答した。 監察官は眉一つ動かさない。「署名が?」「はい。印は本物だと思います。私の印章がなくなっていますから」「最後に印章を確認したのはいつですか」「昨日の午前中です。診療所へ薬草を送る書類に使いました。そのあとは机の引き出しへ戻しました」「鍵は?」「私が持っています」「予備は」 セレナが答えるより先に、
last update最終更新日 : 2026-10-01
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第9話 離婚より先に、私は罪人になった

第9話 離婚より先に、私は罪人になった 拘束、という言葉を聞いた瞬間、不思議なことにセレナの頭へ最初に浮かんだのは、床に置いたままの二つの木箱だった。 三年間の暮らしを詰めても、まだ隙間が残っていた箱。 あれを持って、この館を出るつもりだった。 どこへ行くのかも決めていない。それでも、自分の足で門をくぐり、もうダミアンの妻ではない人生を始めるつもりだった。 まさか、その前に罪人として連れ出されることになるとは思わなかった。「待て」 最初に声を上げたのは、大公アーヴィンだった。 椅子を押し退けるように立ち上がり、監察官を睨む。「拘束とはどういう意味だ。まだセレナが金を持ち出したと決まったわけではないだろう」「もちろんです、大公殿下」 監察官は表情を変えなかった。「ですが王家の救済基金となれば、通常の領内資金とは扱いが異なります。金貨三千枚近い不足が確認され、現在もっとも多くの書類に名が残っているのがセレナ様です。この状況で自由な出入りを認めることはできません」「名が残っているだけだ。書類が偽造された可能性も、お前自身が認めただろう」「だからこそ、身柄を確保した上で調べます」「確保だと?」 大公の声が低くなる。 広間にいた衛兵たちの背筋が目に見えて固くなった。 領主と行政監察局が正面からぶつかれば、下の者ほど困る。誰に従っても、もう一方の機嫌を損ねるのだから当然だった。「父上」 ダミアンが口を挟んだ。「今ここで監察局と争っても仕方ありません」 その言葉に、セレナの胸がわずかに沈んだ。 間違ったことではない。 分かっている。 けれど、それでも心のどこかでは期待していたらしい。 そんなはずがない。 彼女を連れていくな。 そう言ってほしかった。 自分でも呆れるほど往生際が悪い。「お前は黙っていろ」 アーヴィンが息子を睨んだ。「自分の妻が濡れ衣を着せられているかもしれんというときに、ずいぶん冷静なものだな」「感情で制度を曲げろと言うんですか」「感情の話をしているのではない。三年間、一番近くで暮らしてきた人間を、お前はどう見ていたのかと聞いている」 ダミアンの顎が硬くなる。「俺だって、セレナがそんなことをするとは思いたくありません」 また、その言葉だった。 思いたくない。 信じている、ではない。 セ
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第10話 あなたが黙ったことを、私は忘れない

第10話 あなたが黙ったことを、私は忘れない 監察局の保護房は、牢獄と呼ぶには整いすぎていた。 石造りの壁には小さいながらも窓があり、寝台には清潔な毛布が掛けられている。机と椅子まで置かれ、必要なら本や筆記具も貸し出すと言われた。高位貴族や重要参考人を一時的に留めるための部屋なのだろう。 それでも扉は外からしか開かない。 窓には細い鉄格子が嵌められ、廊下では衛兵の靴音が一定の間隔で行き来していた。 どれほど丁寧に整えられていても、出られない場所は牢だった。 セレナは寝台の端へ腰掛け、自分の両手を見た。 館を出るときに巻かれていた革の拘束具は、入局手続きが終わると外された。しかし、手首にはまだ薄い赤い跡が残っている。 左手の薬指には、指輪の痕もあった。 結婚指輪を外してから、まだ二日も経っていない。 たった二日のあいだに、夫から離婚を告げられ、寝室を求められ、夫の病を抑えていたかもしれないと知らされ、自分に狼が眠っている可能性まで聞かされ、そのうえ横領の疑いで拘束された。 あまりにも多すぎて、どこから悲しめばいいのか分からなかった。「……笑えるわね」 誰もいない部屋で呟く。 もちろん、少しも面白くはない。 けれど泣けば何も考えられなくなりそうで、笑うふりをしたほうがまだましだった。 窓の外はもう暗い。 領都監察局へ到着してから、何度も同じ質問を受けた。 金を動かしたか。 商人と接触したか。 敵対領に知人はいるか。 離婚を告げられたあと、グレイウルフ家へ恨みを持ったか。 王家の救済基金について、どこまで知っていたか。 すべて正直に答えた。 それでも事情聴取を終えた担当官の顔から、疑いが消えたようには見えなかった。 当然かもしれない。 証拠だけを並べれば、あまりにも自分が怪しい。 署名。 印章。 帳簿。 金貨。 取引を示す手紙。 そして離婚直前という動機。 誰かが用意した罠なら、ずいぶん丁寧な仕事だった。 そのことを考えるたび、背中が冷える。 犯人は自分をよく知っている。 少なくとも、公爵家の金の流れと、自分が何を管理していたかを知っている。 それだけではない。 自分の署名を真似られるほど、普段の書類に触れられる人物だ。 そこまで考えたところで、扉の向こうから鍵を回す音がした。 セレナは顔を
last update最終更新日 : 2026-10-01
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第7話 あなたは妻を見ていなかった

第7話 あなたは妻を見ていなかった 大広間を出たあと、セレナは自室へ戻る気になれなかった。 三日だけ、この館に残る。 自分で了承したことなのに、さっきまでより息苦しさが増したように感じる。 廊下の窓から見える空は、昨日の雨が嘘のように明るかった。濡れた庭木の葉が陽光を弾き、使用人たちはいつも通り忙しそうに行き交っている。世界は何も変わっていない顔をしているのに、セレナの中では、三年間信じていたものが次々に形を変えていた。 政略結婚だったことは知っていた。 ダミアンが自分を熱烈に望んだわけではないことも、最初から分かっていたつもりだった。 それでも、父親同士が家柄や領地の利害を考えて決めた結婚なのだと思っていた。 まさか、自分の存在がダミアンの病を軽くする可能性まで、縁談の理由に含まれていたとは思わなかった。「少し、外を歩きたいわ」 セレナが言うと、後ろをついてきていたマーサが頷いた。「中庭になさいますか。それとも薬草園へ?」「薬草園がいい」 考え事をするとき、昔から植物の匂いを嗅ぐと落ち着いた。 館の裏手にある薬草園は、華やかな庭園とは違い、見栄えより実用を優先して造られている。背の低い銀葉草、淡紫色の花をつける鎮痛草、独特の苦い匂いを放つ月桂草が区画ごとに植えられ、昨日の雨を吸った土から湿った香りが立ち上っていた。 セレナは石畳をゆっくり歩いた。「私、ここを出ても薬草園だけは少し惜しいわ」「お作りになればよろしいでしょう」「簡単に言うのね」「奥様なら三年もあれば、ここより立派なものをお作りになると思います」「三年も?」「はい。旦那様のためではなく、ご自分がお好きな薬草だけ植えてくださいませ。苦い薬にしかならないものばかりではなく、香草や花も混ぜて」
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