「本物の番を見つけた」と夫に捨てられ処刑されかけた私、敵国最強の人狼王に溺愛されています ~

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last updateLast Updated : 2026-10-19
By:  常陸之介寛浩Updated just now
Language: Japanese
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結婚三周年の夜、セレナの夫ダミアンは、美しい女を抱いて帰ってきた。「彼女が俺の本物の番だ。お前とは離婚する」三年間、命を削って尽くした妻への答えは裏切りだった。さらに横領と反逆の罪まで着せられ、処刑台へ送られたセレナを救ったのは、敵国最強の人狼王ルシアン。「今度は俺がお前を選ぶ」冷酷な王は彼女にだけ激しく甘く、傷ついた心ごと奪っていく。一方、セレナを捨てたダミアンの領地は崩壊を始め、彼女こそ一族を救っていた存在だったと判明。そしてセレナ自身にも、《月の女王》という秘密が眠っていた。捨てた元夫が泣いて縋っても、もう遅い。裏切られた妻が最強の王に愛され、すべてを奪い返す逆転溺愛ファンタジー。

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Chapter 1

第1話 本物の番を連れて帰ってきた夫

第1話 本物の番を連れて帰ってきた夫

 結婚記念日の夕食というものは、こんなにも惨めに冷めていくものなのだと、セレナは三年目にして初めて知った。

 窓の外では夕刻から降り始めた雨が、夜が深くなるにつれて勢いを増していた。グレイウルフ公爵家の古い館は石造りで、夏の終わりだというのに雨の日は妙に冷える。暖炉には薪を多めに入れてもらったが、それでも広すぎる食堂には湿った空気が残り、長い卓上に並べた料理から立ち上っていた湯気も、とうに消えてしまっている。

 セレナは壁際の大時計へ目を向けた。

 十一時を過ぎていた。

「奥様、もうお下げしてもよろしいのではありませんか」

 控えていた年嵩の侍女マーサが、とうとう見かねたように口を開いた。

「旦那様は今夜、戻られないのかもしれません。明日の朝にでも改めて――」

「いいの。もう少し待ちます」

「ですが、夕刻からもう三度も温め直しております。このままでは料理人たちも帰れません」

 責める口調ではなかった。それがかえって辛かった。

 セレナは小さく息を吐き、目の前の皿へ視線を落とした。鹿肉を赤葡萄酒と香草で柔らかく煮込んだものは、ダミアンが好んで食べる料理だった。焼いた根菜に、胡桃と蜂蜜を使った温かなソース。北部では珍しい柑橘を取り寄せて作った菓子まで用意してある。

 この日のために、一週間前から料理長と相談していた。

 去年はダミアンが国境視察で不在だった。一昨年は軍務会議が長引いた。最初の結婚記念日は、そもそもセレナ自身が黒月病の発作を起こした彼を一晩中看病していたため、祝いどころではなかった。

 だから今年こそは、と勝手に思っていた。

 朝、執務室へ向かうダミアンに「今夜は早くお戻りになりますか」と尋ねたとき、彼は書類から目も上げず、「ああ、たぶんな」と答えた。

 たったそれだけだった。

 それでもセレナは、その「たぶん」に期待してしまった。

「……そうね。みんなを帰してあげてください。料理も、もう下げて構いません」

「奥様は?」

「少しだけここにいます。もし旦那様がお戻りになったら、温かいスープくらいは出せるでしょう?」

 マーサの眉間に浅い皺が寄った。

「奥様までお待ちになる必要はございません。旦那様は大人でいらっしゃいます。腹が減れば、ご自分で厨房に人を呼ぶことくらいできます」

「マーサ」

「申し訳ございません。ただ……奥様は朝からほとんど召し上がっておりませんでしょう」

 図星を突かれて、セレナは返事に困った。

 昼食を取る暇がなかったのは事実だ。領内の診療所から薬草が不足していると連絡が入り、在庫と輸送費を確認しているうちに午後になった。そのあとダミアンの父である大公から頼まれていた領地報告書をまとめ、夕食の準備を確認し、気づけば日が暮れていた。

 誰かに命じられたわけではない。

 けれど、気づくといつもそうなっていた。

 妻なのだから。

 公爵夫人なのだから。

 狼を持たない自分を妻にしてくれたダミアンの役に立たなければならないのだから。

 そう思って三年間を過ごしてきた。

「大丈夫よ。少し食べます」

 そう言って笑うと、マーサは納得していない顔のまま頭を下げた。

「では、せめて温かいお茶をお持ちします」

「ありがとう」

 侍女が食堂を出ていくと、急に館の静けさが身に染みた。

 雨音だけが聞こえる。

 セレナは左手の薬指に嵌められた銀の指輪を指先でなぞった。

 結婚式の日にダミアンが嵌めてくれたものだ。

 華美な宝石はない。公爵家の紋章である狼が小さく彫られているだけの指輪だった。それでも最初のころは、何度も眺めたものだった。

 三年前の自分は、愚かなくらい期待していた。

 政略結婚でも、少しずつ夫婦になれるのではないか。

 ダミアンは口数が少なく、不器用なだけなのではないか。

 いつか自分を妻として見てくれる日が来るのではないか。

 何しろ、周囲の誰もが彼を褒めていた。

 若くして騎士団を率いる優秀なアルファ。領民からの人気も高く、容姿も整い、名門グレイウルフ家の次期当主。しかも狼へ変身することすらできない女を妻に迎えた慈悲深い男。

 社交界では、セレナのほうが幸運だと言われた。

 その言葉を、彼女自身も信じようとしてきた。

 たとえ夫が何日も帰らなくても。

 たとえ一緒に食卓を囲むことが月に数えるほどしかなくても。

 誕生日を忘れられても。

 夜中に黒月病の発作が起これば、名前を呼ばれて嬉しいとすら思ってしまった。

 必要とされている。

 それだけでよかった。

 ――本当に?

 胸の奥から浮かんできた問いを、セレナは慌てて押し込めた。

 そのとき、遠くで扉の開く音がした。

 続いて、玄関ホールのほうから慌ただしい足音が聞こえてくる。

 セレナは反射的に立ち上がった。

 帰ってきた。

 こんな時間になったとしても、帰ってきてくれた。それだけで、冷え切っていた胸のどこかが馬鹿みたいに温かくなる。

 彼女は椅子から立ち、スカートの皺を手で整えた。

 今日のために新調した淡い青色のドレスだった。派手な装飾はない。ダミアンは華美なものを好まないと思って選んだ。

 扉が開く。

「ダミアン、お帰りなさ――」

 言葉が途中で止まった。

 最初に見えたのは、濡れた黒髪だった。

 軍服の肩には雨粒が残り、長身の身体から冷たい夜気が漂っている。見慣れた夫の姿に間違いない。

 けれど、ダミアンは一人ではなかった。

 彼の腕には、一人の女性が抱かれていた。

 正確には、支えられていたと言ったほうが近い。女性はダミアンの胸元へ身を寄せ、彼の腕に片手を絡ませている。

 長い金髪。

 白い肌。

 濡れた睫毛の下で揺れる青紫色の瞳。

 深紅の外套の下には、社交界でも一目で上等だと分かるドレスが覗いていた。

 セレナも彼女を知っている。

 ヴィオラ・レイン。

 名門レイン侯爵家の令嬢であり、王都では知らぬ者のいないほどの美貌の持ち主だった。

「……ヴィオラ様?」

 思わず名前がこぼれると、女性がわずかに身を固くした。

「あ……ごめんなさい。こんな時間にお邪魔してしまって。私、来るつもりではなかったんです。でも、ダミアン様が一人にはできないとおっしゃって……」

 声音は柔らかかった。

 申し訳なさそうにも聞こえる。

 けれど彼女は、ダミアンから腕を離さなかった。

 むしろセレナに見せるように、ほんの少しだけ身体を寄せたように見えたのは、こちらの考えすぎだろうか。

 ダミアンが食堂を見回した。

「まだ起きていたのか」

 最初に出た言葉が、それだった。

 セレナは思わず笑いそうになった。

 お帰り。

 遅くなって悪かった。

 待たせたな。

 そんな言葉を期待していた自分が、急にひどく幼く思えた。

「今日は……あなたが早く帰るかもしれないと聞いていましたから」

「言ったか?」

「朝に。今夜は早く戻れますか、と聞いたでしょう」

「ああ」

 思い出したらしい。

 それだけだった。

 ダミアンの視線が卓上へ移る。料理はすでに半分ほど下げられていたが、中央にはまだ銀器と、二人分の杯が残っている。

「何かあるのか?」

 セレナは返事をするまでに少し時間が必要だった。

「今日、結婚して三年です」

 雨音がやけに大きく聞こえた。

 ダミアンは数秒黙ったあと、「そうだったか」と答えた。

 ヴィオラが気まずそうに目を伏せる。

「まあ……私、本当に悪い日に来てしまったのね。ダミアン様、やっぱり私は帰ったほうが――」

「いや」

 ダミアンは即座に否定した。

 その速さが、セレナの胸へ妙に鋭く刺さった。

「今夜お前を一人にはできない。ここにいろ」

「でも、奥様が……」

「セレナなら話せば分かる」

 まるで、セレナのほうが場を乱す可能性でもあるような口ぶりだった。

 彼女は指先を握った。

 爪が掌へ食い込む。

「……何を、話すのですか」

 ダミアンがこちらを見た。

 金褐色の瞳。

 この三年間、何度その目の色を読み取ろうとしただろう。怒っているのか、疲れているのか、苦しいのか、自分に何を求めているのか。彼が言葉にしないぶんまで先回りして理解しようとしてきた。

 今夜だけは、何も読みたくなかった。

「座ろう」

「ここで構いません」

「セレナ」

「ここで話してください」

 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 ダミアンの眉がわずかに動いた。

 彼は従順な妻がそんな言い方をするとは思っていなかったのかもしれない。

 しばらくして、ダミアンは小さく息を吐いた。

「分かった」

 そしてヴィオラへ目を向けた。

 その瞬間だった。

 セレナの胸の奥で、何かが冷えた。

 ダミアンがヴィオラを見る目を、彼女は初めて見た。

 いつも無表情に近い男だった。

 セレナが何を作っても。

 どんな服を着ても。

 病床で一晩手を握っていても。

 あんなふうに目元を和らげたことは、一度もなかった。

「今日、王都でヴィオラと会った」

「……はい」

「そこで分かった」

 ヴィオラが泣きそうな顔でダミアンを見上げた。

 ダミアンは躊躇しなかった。

「ヴィオラが、俺の本物の番だ」

 その言葉は、思っていたより静かにセレナの中へ入ってきた。

 意味を理解するのに時間がかかったわけではない。

 《魂の番》。

 人狼にとって、月神が定めた唯一の伴侶。

 匂いで分かる。

 触れれば分かる。

 身体も狼も、理屈より先に相手を求めると言われている。

 セレナには狼がいない。

 だから、そんな感覚を知ることはない。

「……そうですか」

 やっとそれだけ言った。

 ダミアンの顔に一瞬、戸惑いのようなものが浮かんだ。

 もっと何か言うと思っていたのだろうか。

「驚かないのか」

「驚いています」

「なら――」

「驚いていますけれど、私にどうしろと言うのですか」

 自分の声なのに、どこか遠くから聞こえてくるようだった。

 ヴィオラが一歩前へ出る。

「セレナ様、本当に申し訳ありません。私も最初は信じられなかったんです。ダミアン様が既婚者なのは知っていましたし、こんなこと、誰かを傷つけてまで喜べるはずがありません。でも、番の絆は私たちにはどうすることもできなくて……」

 セレナは彼女を見た。

 美しい人だと思った。

 泣きそうな目をしていても、顔立ちは完璧に整っている。

 自分とは違う。

 ちゃんと狼を持っている。

 名門アルファ家に生まれ、社交界でも人気があり、若い貴族たちから何度も求婚されたと聞いている。

「ヴィオラ様」

「はい」

「謝らなくて結構です」

 ヴィオラが目を見開いた。

「あなたが私との結婚を決めたわけではありませんし、番を選べるわけでもないのでしょう。それなら、私に謝る必要はありません」

「セレナ……」

 ダミアンが低く名前を呼んだ。

 なぜ咎めるような声音なのか分からなかった。

「何ですか」

「ヴィオラも苦しんでいる。そんな突き放すような言い方をする必要はないだろう」

 一瞬、本当に意味が分からなかった。

 苦しんでいる。

 ヴィオラが。

 では、自分は?

 セレナは夫の顔を見つめた。

「そうですね。失礼しました」

 謝った。

 反射だった。

 三年間で身についた癖だった。

 ダミアンの機嫌を損ねない。

 争いを起こさない。

 彼の仕事を邪魔しない。

 彼の家の恥にならない。

 そうしていれば、いつか大切にしてもらえるのだと思っていた。

 ダミアンは続けた。

「番を見つけた以上、このままの状態にはしておけない」

「このまま、とは?」

「俺とお前の結婚だ」

 分かっていた。

 なのに、はっきり言葉にされると胸の奥に鈍い痛みが広がった。

 ダミアンは軍務の報告でもするような声で告げた。

「離婚してほしい」

 セレナの手の中で、指輪の冷たさだけが妙に鮮明だった。

「ヴィオラを妻に迎える」

 ダミアンはさらに言った。

「次期グレイウルフ大公妃になるのは、俺の本物の番であるべきだ。父上には俺から説明する。お前にも不自由のないだけの財産を渡すつもりだ。住む場所も必要なら用意する」

 住む場所。

 財産。

 まるで長く勤めた使用人を円満に退職させるような話だった。

「……三年間」

 気づけば声が出ていた。

 ダミアンがこちらを見る。

「何だ」

「私は、あなたにとって何だったのですか」

 聞くつもりはなかった。

 けれど、一度口から出た言葉はもう戻せなかった。

「セレナ」

「政略結婚だったことは分かっています。私たちが恋愛結婚ではなかったことも。けれど三年間、私はあなたの妻だったでしょう。病気の夜はそばにいました。遠征中は領地の仕事をしました。あなたのお父様から頼まれたことも、公爵家の仕事も、できる限りやってきました。私は……少なくとも、夫婦になろうとしていたつもりでした」

 言っているうちに、喉が熱くなった。

 泣きたくはなかった。

 今ここで泣けば、負けたような気がした。

 誰に負けるのかも分からないのに。

 ダミアンはすぐには答えなかった。

 その沈黙が、どんな言葉より残酷だった。

 やがて彼は言った。

「お前には感謝している」

 セレナは目を閉じそうになった。

 感謝。

 それだけだった。

「お前はよくやってくれた。それは否定しない。だが、番は別だ。俺たち人狼にとって、番がどういう存在か、お前も知識としては知っているだろう」

「ええ」

「なら分かってくれ。ヴィオラを見つけた以上、以前と同じようには暮らせない」

 以前と同じように。

 その言葉が、不思議と胸へ落ちた。

 ああ。

 彼にとって、あの三年間は「以前と同じように」で片づけられる程度のものだったのだ。

 セレナは静かに左手を上げた。

 薬指の銀の指輪を見つめる。

 三年前、これを嵌めてもらったとき、自分は嬉しかった。

 あの日の自分まで否定する必要はない。

 馬鹿だったとしても、必死だった。

 愛されたかった。

 家族になりたかった。

 その気持ちだけは嘘ではなかった。

「分かりました」

 セレナは言った。

 ダミアンの表情が止まった。

「……何?」

「離婚します」

 ヴィオラまで驚いた顔をした。

 どうして二人ともそんな顔をするのだろう。

 自分たちが望んだ結論のはずなのに。

「条件については、明日、正式に書面で確認しましょう。今夜は遅いですし、ヴィオラ様も濡れていらっしゃいます。客室を用意させます」

 ダミアンの眉間に皺が寄った。

「それだけか?」

 セレナは彼を見返した。

「何がですか」

「いや……」

 珍しく、ダミアンが言葉に詰まった。

 セレナはその理由を考えようとして、やめた。

 もう先回りして彼の気持ちを考える必要はない。

「三年間、お世話になりました」

 指輪へ指をかける。

 少しきつくなっていた。

 何度か引っかかったあと、銀の輪が薬指から抜けた。

 その瞬間。

「っ……!」

 鈍い音を立てて、ダミアンが卓上へ手をついた。

「ダミアン様!」

 ヴィオラが慌てて彼の腕を掴む。

 セレナも反射的に一歩踏み出しかけた。

 三年間、何度も見た。

 発作の前触れ。

 胸を押さえ、呼吸が浅くなり、顔色が悪くなる。

 身体が覚えている。

 すぐに薬を。

 水を。

 横にさせて。

 背中を――。

 けれどセレナは足を止めた。

 もう自分の夫ではなくなる男だった。

「大丈夫ですか」

 それでも尋ねてしまう自分が、少し嫌だった。

 ダミアンは胸元を押さえながら、荒い息を吐いた。

「……何でもない」

「でも、顔色が」

「番の反応だろう」

 そう言って、彼はヴィオラの肩へ腕を回した。

「急に絆が強まっただけだ。心配するな」

 ヴィオラはほっとしたように彼へ身を寄せた。

 セレナは黙って二人を見た。

 それから手の中に残った銀の指輪を、卓上へそっと置いた。

 小さな金属音がした。

 三年間の結婚が終わる音にしては、あまりにも軽かった。

「では、おやすみなさい」

 セレナはそれだけ告げて食堂を出た。

 背中にダミアンの視線を感じた気がしたが、振り返らなかった。

 だから彼女は知らなかった。

 指輪が卓上に置かれた直後から、ダミアンの胸の奥で始まった痛みが、番の歓喜などではなかったことを。

 そしてダミアン自身も、まだ知らなかった。

 三年間、当たり前のように享受してきたものが、その夜を境に一つずつ失われ始めたことを。

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第1話 本物の番を連れて帰ってきた夫
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第5話 本物の番なら、奪っても許されるのですか
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第6話 なぜセレナを手放した 大広間へ続く廊下には、いつもより多くの使用人がいた。 誰もが何か仕事をしているふりをしながら、明らかに同じ場所を気にしている。銀器を磨く手が止まり、花瓶を運ぶ侍女が足を緩め、執事見習いまで柱の陰からそっと広間の扉を窺っていた。 無理もない、とセレナは思う。 領主であるグレイウルフ大公が予定を三日も繰り上げて帰還し、そのまま息子を大広間へ呼びつけたのだ。しかも原因が、次期当主夫妻の離婚だという話まで、すでに館中へ知れ渡っている。 秘密というものは、使用人の多い館では湯気より早く広がるらしい。「奥様」 隣を歩いていたマーサが低く呼んだ。「お顔の色がよろしくありません」「そう?」「はい。大公殿下がお怒りだからといって、奥様が叱られる筋合いはございませんからね」「私だって、それくらい分かっているわ」「分かっていらしても、奥様はすぐにご自分にも悪いところがなかったか考え始めますので」 否定しようとして、やめた。 実際、その通りだった。 大公がなぜ怒っているのかは分からない。それでもセレナは、ここへ来るまでに何度か、自分が何か失礼をしたのだろうかと考えてしまった。 三年間染みついた考え方は、一日や二日で消えてくれない。「今日は謝らないようにするわ」「何も悪くないことについては、でございますよ」「分かっているってば」 マーサの言い方がおかしくて、少しだけ肩の力が抜けた。 大広間の前には二人の衛兵が立っていた。 セレナを見るとすぐ扉が開かれる。 中へ足を踏み入れた瞬間、まず目に入ったのは倒れた椅子だった。 次に、床へ落ちた書類。 そして暖炉の前に立つ大柄な男。 アーヴィン・グレイウルフ大公は、今年五十三歳になる。 灰色を帯び始めた黒髪を後ろへ撫でつけ、旅装のまま濃紺の外套を肩に掛けていた。長旅から戻ったばかりだというのに着替える時間すら惜しかったのだろう。革靴には乾ききっていない泥が付着している。 普段は感情を表へ出さない人物である。 少なくとも、セレナの知る限りでは。 今は違った。「だから、何度言わせる」 太い声が広間に響く。 その正面にはダミアンが立っていた。 今朝の発作からまだ完全には回復していないらしく、顔色が悪い。それでも背筋だけは伸ばし、父親を正面から見ている。 少し離
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第8話 夫は、私を信じなかった
第8話 夫は、私を信じなかった 領都から派遣された監察官は、セレナが想像していたより若い男だった。 三十代半ばほどだろうか。黒い制服の襟元には行政監察局の銀章が留められ、雨上がりの泥を跳ね上げて急いできたらしく、長靴の裾にはまだ乾いていない土が付着していた。けれど、表情にも声にも慌ただしさはない。「グレイウルフ公爵夫人セレナ様でいらっしゃいますね」「はい」「領内診療所支援金に関する不正流用の告発を受け、確認に参りました。現時点で罪が確定したわけではありません。まず帳簿と関係者のお話を確認させていただきます」 淡々とした説明だった。 それでも応接室に集まった者たちの空気は重い。 ダミアン、大公アーヴィン、財務官、執事長。そしてセレナの後ろには、本人が何を言っても離れる気のないマーサが控えている。 ヴィオラの姿だけはなかった。 そこに安堵した自分を認めるのは少し癪だったが、今は余計な感情を抱えている余裕がなかった。 監察官が机の上へ帳簿を広げる。「問題になっているのは、この三件です。診療所への薬草購入費、北部治療所増築費、それから昨夜引き出された臨時支援金。合計すると、金貨八百四十七枚になります」 マーサが小さく息を呑んだ。 セレナも数字を聞いて、胃のあたりが冷たくなる。 決して小さな額ではない。「最初の二件については、実際に支出された分も含まれております。ただし帳簿上、同じ目的で二重に金が動いている箇所があります」「二重に?」「はい。一度目は正規の支出。二度目が問題の支出です。そして、いずれにもセレナ様の承認印があります」 監察官が書類をこちらへ滑らせた。 セレナは一枚ずつ確認した。 確かに自分の印章だ。 だが署名の癖が微妙に違う。 最初の一枚は比較的よく似せてある。 二枚目は最後の文字が少し流れすぎている。 三枚目は、筆圧まで自分に寄せようとしたのか、逆に不自然だった。「偽物です」 セレナは即答した。 監察官は眉一つ動かさない。「署名が?」「はい。印は本物だと思います。私の印章がなくなっていますから」「最後に印章を確認したのはいつですか」「昨日の午前中です。診療所へ薬草を送る書類に使いました。そのあとは机の引き出しへ戻しました」「鍵は?」「私が持っています」「予備は」 セレナが答えるより先に、
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第9話 離婚より先に、私は罪人になった
第9話 離婚より先に、私は罪人になった 拘束、という言葉を聞いた瞬間、不思議なことにセレナの頭へ最初に浮かんだのは、床に置いたままの二つの木箱だった。 三年間の暮らしを詰めても、まだ隙間が残っていた箱。 あれを持って、この館を出るつもりだった。 どこへ行くのかも決めていない。それでも、自分の足で門をくぐり、もうダミアンの妻ではない人生を始めるつもりだった。 まさか、その前に罪人として連れ出されることになるとは思わなかった。「待て」 最初に声を上げたのは、大公アーヴィンだった。 椅子を押し退けるように立ち上がり、監察官を睨む。「拘束とはどういう意味だ。まだセレナが金を持ち出したと決まったわけではないだろう」「もちろんです、大公殿下」 監察官は表情を変えなかった。「ですが王家の救済基金となれば、通常の領内資金とは扱いが異なります。金貨三千枚近い不足が確認され、現在もっとも多くの書類に名が残っているのがセレナ様です。この状況で自由な出入りを認めることはできません」「名が残っているだけだ。書類が偽造された可能性も、お前自身が認めただろう」「だからこそ、身柄を確保した上で調べます」「確保だと?」 大公の声が低くなる。 広間にいた衛兵たちの背筋が目に見えて固くなった。 領主と行政監察局が正面からぶつかれば、下の者ほど困る。誰に従っても、もう一方の機嫌を損ねるのだから当然だった。「父上」 ダミアンが口を挟んだ。「今ここで監察局と争っても仕方ありません」 その言葉に、セレナの胸がわずかに沈んだ。 間違ったことではない。 分かっている。 けれど、それでも心のどこかでは期待していたらしい。 そんなはずがない。 彼女を連れていくな。 そう言ってほしかった。 自分でも呆れるほど往生際が悪い。「お前は黙っていろ」 アーヴィンが息子を睨んだ。「自分の妻が濡れ衣を着せられているかもしれんというときに、ずいぶん冷静なものだな」「感情で制度を曲げろと言うんですか」「感情の話をしているのではない。三年間、一番近くで暮らしてきた人間を、お前はどう見ていたのかと聞いている」 ダミアンの顎が硬くなる。「俺だって、セレナがそんなことをするとは思いたくありません」 また、その言葉だった。 思いたくない。 信じている、ではない。 セ
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第10話 あなたが黙ったことを、私は忘れない
第10話 あなたが黙ったことを、私は忘れない 監察局の保護房は、牢獄と呼ぶには整いすぎていた。 石造りの壁には小さいながらも窓があり、寝台には清潔な毛布が掛けられている。机と椅子まで置かれ、必要なら本や筆記具も貸し出すと言われた。高位貴族や重要参考人を一時的に留めるための部屋なのだろう。 それでも扉は外からしか開かない。 窓には細い鉄格子が嵌められ、廊下では衛兵の靴音が一定の間隔で行き来していた。 どれほど丁寧に整えられていても、出られない場所は牢だった。 セレナは寝台の端へ腰掛け、自分の両手を見た。 館を出るときに巻かれていた革の拘束具は、入局手続きが終わると外された。しかし、手首にはまだ薄い赤い跡が残っている。 左手の薬指には、指輪の痕もあった。 結婚指輪を外してから、まだ二日も経っていない。 たった二日のあいだに、夫から離婚を告げられ、寝室を求められ、夫の病を抑えていたかもしれないと知らされ、自分に狼が眠っている可能性まで聞かされ、そのうえ横領の疑いで拘束された。 あまりにも多すぎて、どこから悲しめばいいのか分からなかった。「……笑えるわね」 誰もいない部屋で呟く。 もちろん、少しも面白くはない。 けれど泣けば何も考えられなくなりそうで、笑うふりをしたほうがまだましだった。 窓の外はもう暗い。 領都監察局へ到着してから、何度も同じ質問を受けた。 金を動かしたか。 商人と接触したか。 敵対領に知人はいるか。 離婚を告げられたあと、グレイウルフ家へ恨みを持ったか。 王家の救済基金について、どこまで知っていたか。 すべて正直に答えた。 それでも事情聴取を終えた担当官の顔から、疑いが消えたようには見えなかった。 当然かもしれない。 証拠だけを並べれば、あまりにも自分が怪しい。 署名。 印章。 帳簿。 金貨。 取引を示す手紙。 そして離婚直前という動機。 誰かが用意した罠なら、ずいぶん丁寧な仕事だった。 そのことを考えるたび、背中が冷える。 犯人は自分をよく知っている。 少なくとも、公爵家の金の流れと、自分が何を管理していたかを知っている。 それだけではない。 自分の署名を真似られるほど、普段の書類に触れられる人物だ。 そこまで考えたところで、扉の向こうから鍵を回す音がした。 セレナは顔を
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第7話 あなたは妻を見ていなかった
第7話 あなたは妻を見ていなかった 大広間を出たあと、セレナは自室へ戻る気になれなかった。 三日だけ、この館に残る。 自分で了承したことなのに、さっきまでより息苦しさが増したように感じる。 廊下の窓から見える空は、昨日の雨が嘘のように明るかった。濡れた庭木の葉が陽光を弾き、使用人たちはいつも通り忙しそうに行き交っている。世界は何も変わっていない顔をしているのに、セレナの中では、三年間信じていたものが次々に形を変えていた。 政略結婚だったことは知っていた。 ダミアンが自分を熱烈に望んだわけではないことも、最初から分かっていたつもりだった。 それでも、父親同士が家柄や領地の利害を考えて決めた結婚なのだと思っていた。 まさか、自分の存在がダミアンの病を軽くする可能性まで、縁談の理由に含まれていたとは思わなかった。「少し、外を歩きたいわ」 セレナが言うと、後ろをついてきていたマーサが頷いた。「中庭になさいますか。それとも薬草園へ?」「薬草園がいい」 考え事をするとき、昔から植物の匂いを嗅ぐと落ち着いた。 館の裏手にある薬草園は、華やかな庭園とは違い、見栄えより実用を優先して造られている。背の低い銀葉草、淡紫色の花をつける鎮痛草、独特の苦い匂いを放つ月桂草が区画ごとに植えられ、昨日の雨を吸った土から湿った香りが立ち上っていた。 セレナは石畳をゆっくり歩いた。「私、ここを出ても薬草園だけは少し惜しいわ」「お作りになればよろしいでしょう」「簡単に言うのね」「奥様なら三年もあれば、ここより立派なものをお作りになると思います」「三年も?」「はい。旦那様のためではなく、ご自分がお好きな薬草だけ植えてくださいませ。苦い薬にしかならないものばかりではなく、香草や花も混ぜて」
last updateLast Updated : 2026-10-01
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