LOGIN結婚三周年の夜、セレナの夫ダミアンは、美しい女を抱いて帰ってきた。「彼女が俺の本物の番だ。お前とは離婚する」三年間、命を削って尽くした妻への答えは裏切りだった。さらに横領と反逆の罪まで着せられ、処刑台へ送られたセレナを救ったのは、敵国最強の人狼王ルシアン。「今度は俺がお前を選ぶ」冷酷な王は彼女にだけ激しく甘く、傷ついた心ごと奪っていく。一方、セレナを捨てたダミアンの領地は崩壊を始め、彼女こそ一族を救っていた存在だったと判明。そしてセレナ自身にも、《月の女王》という秘密が眠っていた。捨てた元夫が泣いて縋っても、もう遅い。裏切られた妻が最強の王に愛され、すべてを奪い返す逆転溺愛ファンタジー。
View More結婚記念日の夕食というものは、こんなにも惨めに冷めていくものなのだと、セレナは三年目にして初めて知った。
窓の外では夕刻から降り始めた雨が、夜が深くなるにつれて勢いを増していた。グレイウルフ公爵家の古い館は石造りで、夏の終わりだというのに雨の日は妙に冷える。暖炉には薪を多めに入れてもらったが、それでも広すぎる食堂には湿った空気が残り、長い卓上に並べた料理から立ち上っていた湯気も、とうに消えてしまっている。
セレナは壁際の大時計へ目を向けた。
十一時を過ぎていた。
「奥様、もうお下げしてもよろしいのではありませんか」
控えていた年嵩の侍女マーサが、とうとう見かねたように口を開いた。
「旦那様は今夜、戻られないのかもしれません。明日の朝にでも改めて――」
「いいの。もう少し待ちます」
「ですが、夕刻からもう三度も温め直しております。このままでは料理人たちも帰れません」
責める口調ではなかった。それがかえって辛かった。
セレナは小さく息を吐き、目の前の皿へ視線を落とした。鹿肉を赤葡萄酒と香草で柔らかく煮込んだものは、ダミアンが好んで食べる料理だった。焼いた根菜に、胡桃と蜂蜜を使った温かなソース。北部では珍しい柑橘を取り寄せて作った菓子まで用意してある。
この日のために、一週間前から料理長と相談していた。
去年はダミアンが国境視察で不在だった。一昨年は軍務会議が長引いた。最初の結婚記念日は、そもそもセレナ自身が黒月病の発作を起こした彼を一晩中看病していたため、祝いどころではなかった。
だから今年こそは、と勝手に思っていた。
朝、執務室へ向かうダミアンに「今夜は早くお戻りになりますか」と尋ねたとき、彼は書類から目も上げず、「ああ、たぶんな」と答えた。
たったそれだけだった。
それでもセレナは、その「たぶん」に期待してしまった。
「……そうね。みんなを帰してあげてください。料理も、もう下げて構いません」
「奥様は?」
「少しだけここにいます。もし旦那様がお戻りになったら、温かいスープくらいは出せるでしょう?」
マーサの眉間に浅い皺が寄った。
「奥様までお待ちになる必要はございません。旦那様は大人でいらっしゃいます。腹が減れば、ご自分で厨房に人を呼ぶことくらいできます」
「マーサ」
「申し訳ございません。ただ……奥様は朝からほとんど召し上がっておりませんでしょう」
図星を突かれて、セレナは返事に困った。
昼食を取る暇がなかったのは事実だ。領内の診療所から薬草が不足していると連絡が入り、在庫と輸送費を確認しているうちに午後になった。そのあとダミアンの父である大公から頼まれていた領地報告書をまとめ、夕食の準備を確認し、気づけば日が暮れていた。
誰かに命じられたわけではない。
けれど、気づくといつもそうなっていた。
妻なのだから。
公爵夫人なのだから。
狼を持たない自分を妻にしてくれたダミアンの役に立たなければならないのだから。
そう思って三年間を過ごしてきた。
「大丈夫よ。少し食べます」
そう言って笑うと、マーサは納得していない顔のまま頭を下げた。
「では、せめて温かいお茶をお持ちします」
「ありがとう」
侍女が食堂を出ていくと、急に館の静けさが身に染みた。
雨音だけが聞こえる。
セレナは左手の薬指に嵌められた銀の指輪を指先でなぞった。
結婚式の日にダミアンが嵌めてくれたものだ。
華美な宝石はない。公爵家の紋章である狼が小さく彫られているだけの指輪だった。それでも最初のころは、何度も眺めたものだった。
三年前の自分は、愚かなくらい期待していた。
政略結婚でも、少しずつ夫婦になれるのではないか。
ダミアンは口数が少なく、不器用なだけなのではないか。
いつか自分を妻として見てくれる日が来るのではないか。
何しろ、周囲の誰もが彼を褒めていた。
若くして騎士団を率いる優秀なアルファ。領民からの人気も高く、容姿も整い、名門グレイウルフ家の次期当主。しかも狼へ変身することすらできない女を妻に迎えた慈悲深い男。
社交界では、セレナのほうが幸運だと言われた。
その言葉を、彼女自身も信じようとしてきた。
たとえ夫が何日も帰らなくても。
たとえ一緒に食卓を囲むことが月に数えるほどしかなくても。
誕生日を忘れられても。
夜中に黒月病の発作が起これば、名前を呼ばれて嬉しいとすら思ってしまった。
必要とされている。
それだけでよかった。
――本当に?
胸の奥から浮かんできた問いを、セレナは慌てて押し込めた。
そのとき、遠くで扉の開く音がした。
続いて、玄関ホールのほうから慌ただしい足音が聞こえてくる。
セレナは反射的に立ち上がった。
帰ってきた。
こんな時間になったとしても、帰ってきてくれた。それだけで、冷え切っていた胸のどこかが馬鹿みたいに温かくなる。
彼女は椅子から立ち、スカートの皺を手で整えた。
今日のために新調した淡い青色のドレスだった。派手な装飾はない。ダミアンは華美なものを好まないと思って選んだ。
扉が開く。
「ダミアン、お帰りなさ――」
言葉が途中で止まった。
最初に見えたのは、濡れた黒髪だった。
軍服の肩には雨粒が残り、長身の身体から冷たい夜気が漂っている。見慣れた夫の姿に間違いない。
けれど、ダミアンは一人ではなかった。
彼の腕には、一人の女性が抱かれていた。
正確には、支えられていたと言ったほうが近い。女性はダミアンの胸元へ身を寄せ、彼の腕に片手を絡ませている。
長い金髪。
白い肌。
濡れた睫毛の下で揺れる青紫色の瞳。
深紅の外套の下には、社交界でも一目で上等だと分かるドレスが覗いていた。
セレナも彼女を知っている。
ヴィオラ・レイン。
名門レイン侯爵家の令嬢であり、王都では知らぬ者のいないほどの美貌の持ち主だった。
「……ヴィオラ様?」
思わず名前がこぼれると、女性がわずかに身を固くした。
「あ……ごめんなさい。こんな時間にお邪魔してしまって。私、来るつもりではなかったんです。でも、ダミアン様が一人にはできないとおっしゃって……」
声音は柔らかかった。
申し訳なさそうにも聞こえる。
けれど彼女は、ダミアンから腕を離さなかった。
むしろセレナに見せるように、ほんの少しだけ身体を寄せたように見えたのは、こちらの考えすぎだろうか。
ダミアンが食堂を見回した。
「まだ起きていたのか」
最初に出た言葉が、それだった。
セレナは思わず笑いそうになった。
お帰り。
遅くなって悪かった。
待たせたな。
そんな言葉を期待していた自分が、急にひどく幼く思えた。
「今日は……あなたが早く帰るかもしれないと聞いていましたから」
「言ったか?」
「朝に。今夜は早く戻れますか、と聞いたでしょう」
「ああ」
思い出したらしい。
それだけだった。
ダミアンの視線が卓上へ移る。料理はすでに半分ほど下げられていたが、中央にはまだ銀器と、二人分の杯が残っている。
「何かあるのか?」
セレナは返事をするまでに少し時間が必要だった。
「今日、結婚して三年です」
雨音がやけに大きく聞こえた。
ダミアンは数秒黙ったあと、「そうだったか」と答えた。
ヴィオラが気まずそうに目を伏せる。
「まあ……私、本当に悪い日に来てしまったのね。ダミアン様、やっぱり私は帰ったほうが――」
「いや」
ダミアンは即座に否定した。
その速さが、セレナの胸へ妙に鋭く刺さった。
「今夜お前を一人にはできない。ここにいろ」
「でも、奥様が……」
「セレナなら話せば分かる」
まるで、セレナのほうが場を乱す可能性でもあるような口ぶりだった。
彼女は指先を握った。
爪が掌へ食い込む。
「……何を、話すのですか」
ダミアンがこちらを見た。
金褐色の瞳。
この三年間、何度その目の色を読み取ろうとしただろう。怒っているのか、疲れているのか、苦しいのか、自分に何を求めているのか。彼が言葉にしないぶんまで先回りして理解しようとしてきた。
今夜だけは、何も読みたくなかった。
「座ろう」
「ここで構いません」
「セレナ」
「ここで話してください」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
ダミアンの眉がわずかに動いた。
彼は従順な妻がそんな言い方をするとは思っていなかったのかもしれない。
しばらくして、ダミアンは小さく息を吐いた。
「分かった」
そしてヴィオラへ目を向けた。
その瞬間だった。
セレナの胸の奥で、何かが冷えた。
ダミアンがヴィオラを見る目を、彼女は初めて見た。
いつも無表情に近い男だった。
セレナが何を作っても。
どんな服を着ても。
病床で一晩手を握っていても。
あんなふうに目元を和らげたことは、一度もなかった。
「今日、王都でヴィオラと会った」
「……はい」
「そこで分かった」
ヴィオラが泣きそうな顔でダミアンを見上げた。
ダミアンは躊躇しなかった。
「ヴィオラが、俺の本物の番だ」
その言葉は、思っていたより静かにセレナの中へ入ってきた。
意味を理解するのに時間がかかったわけではない。
《魂の番》。
人狼にとって、月神が定めた唯一の伴侶。
匂いで分かる。
触れれば分かる。
身体も狼も、理屈より先に相手を求めると言われている。
セレナには狼がいない。
だから、そんな感覚を知ることはない。
「……そうですか」
やっとそれだけ言った。
ダミアンの顔に一瞬、戸惑いのようなものが浮かんだ。
もっと何か言うと思っていたのだろうか。
「驚かないのか」
「驚いています」
「なら――」
「驚いていますけれど、私にどうしろと言うのですか」
自分の声なのに、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
ヴィオラが一歩前へ出る。
「セレナ様、本当に申し訳ありません。私も最初は信じられなかったんです。ダミアン様が既婚者なのは知っていましたし、こんなこと、誰かを傷つけてまで喜べるはずがありません。でも、番の絆は私たちにはどうすることもできなくて……」
セレナは彼女を見た。
美しい人だと思った。
泣きそうな目をしていても、顔立ちは完璧に整っている。
自分とは違う。
ちゃんと狼を持っている。
名門アルファ家に生まれ、社交界でも人気があり、若い貴族たちから何度も求婚されたと聞いている。
「ヴィオラ様」
「はい」
「謝らなくて結構です」
ヴィオラが目を見開いた。
「あなたが私との結婚を決めたわけではありませんし、番を選べるわけでもないのでしょう。それなら、私に謝る必要はありません」
「セレナ……」
ダミアンが低く名前を呼んだ。
なぜ咎めるような声音なのか分からなかった。
「何ですか」
「ヴィオラも苦しんでいる。そんな突き放すような言い方をする必要はないだろう」
一瞬、本当に意味が分からなかった。
苦しんでいる。
ヴィオラが。
では、自分は?
セレナは夫の顔を見つめた。
「そうですね。失礼しました」
謝った。
反射だった。
三年間で身についた癖だった。
ダミアンの機嫌を損ねない。
争いを起こさない。
彼の仕事を邪魔しない。
彼の家の恥にならない。
そうしていれば、いつか大切にしてもらえるのだと思っていた。
ダミアンは続けた。
「番を見つけた以上、このままの状態にはしておけない」
「このまま、とは?」
「俺とお前の結婚だ」
分かっていた。
なのに、はっきり言葉にされると胸の奥に鈍い痛みが広がった。
ダミアンは軍務の報告でもするような声で告げた。
「離婚してほしい」
セレナの手の中で、指輪の冷たさだけが妙に鮮明だった。
「ヴィオラを妻に迎える」
ダミアンはさらに言った。
「次期グレイウルフ大公妃になるのは、俺の本物の番であるべきだ。父上には俺から説明する。お前にも不自由のないだけの財産を渡すつもりだ。住む場所も必要なら用意する」
住む場所。
財産。
まるで長く勤めた使用人を円満に退職させるような話だった。
「……三年間」
気づけば声が出ていた。
ダミアンがこちらを見る。
「何だ」
「私は、あなたにとって何だったのですか」
聞くつもりはなかった。
けれど、一度口から出た言葉はもう戻せなかった。
「セレナ」
「政略結婚だったことは分かっています。私たちが恋愛結婚ではなかったことも。けれど三年間、私はあなたの妻だったでしょう。病気の夜はそばにいました。遠征中は領地の仕事をしました。あなたのお父様から頼まれたことも、公爵家の仕事も、できる限りやってきました。私は……少なくとも、夫婦になろうとしていたつもりでした」
言っているうちに、喉が熱くなった。
泣きたくはなかった。
今ここで泣けば、負けたような気がした。
誰に負けるのかも分からないのに。
ダミアンはすぐには答えなかった。
その沈黙が、どんな言葉より残酷だった。
やがて彼は言った。
「お前には感謝している」
セレナは目を閉じそうになった。
感謝。
それだけだった。
「お前はよくやってくれた。それは否定しない。だが、番は別だ。俺たち人狼にとって、番がどういう存在か、お前も知識としては知っているだろう」
「ええ」
「なら分かってくれ。ヴィオラを見つけた以上、以前と同じようには暮らせない」
以前と同じように。
その言葉が、不思議と胸へ落ちた。
ああ。
彼にとって、あの三年間は「以前と同じように」で片づけられる程度のものだったのだ。
セレナは静かに左手を上げた。
薬指の銀の指輪を見つめる。
三年前、これを嵌めてもらったとき、自分は嬉しかった。
あの日の自分まで否定する必要はない。
馬鹿だったとしても、必死だった。
愛されたかった。
家族になりたかった。
その気持ちだけは嘘ではなかった。
「分かりました」
セレナは言った。
ダミアンの表情が止まった。
「……何?」
「離婚します」
ヴィオラまで驚いた顔をした。
どうして二人ともそんな顔をするのだろう。
自分たちが望んだ結論のはずなのに。
「条件については、明日、正式に書面で確認しましょう。今夜は遅いですし、ヴィオラ様も濡れていらっしゃいます。客室を用意させます」
ダミアンの眉間に皺が寄った。
「それだけか?」
セレナは彼を見返した。
「何がですか」
「いや……」
珍しく、ダミアンが言葉に詰まった。
セレナはその理由を考えようとして、やめた。
もう先回りして彼の気持ちを考える必要はない。
「三年間、お世話になりました」
指輪へ指をかける。
少しきつくなっていた。
何度か引っかかったあと、銀の輪が薬指から抜けた。
その瞬間。
「っ……!」
鈍い音を立てて、ダミアンが卓上へ手をついた。
「ダミアン様!」
ヴィオラが慌てて彼の腕を掴む。
セレナも反射的に一歩踏み出しかけた。
三年間、何度も見た。
発作の前触れ。
胸を押さえ、呼吸が浅くなり、顔色が悪くなる。
身体が覚えている。
すぐに薬を。
水を。
横にさせて。
背中を――。
けれどセレナは足を止めた。
もう自分の夫ではなくなる男だった。
「大丈夫ですか」
それでも尋ねてしまう自分が、少し嫌だった。
ダミアンは胸元を押さえながら、荒い息を吐いた。
「……何でもない」
「でも、顔色が」
「番の反応だろう」
そう言って、彼はヴィオラの肩へ腕を回した。
「急に絆が強まっただけだ。心配するな」
ヴィオラはほっとしたように彼へ身を寄せた。
セレナは黙って二人を見た。
それから手の中に残った銀の指輪を、卓上へそっと置いた。
小さな金属音がした。
三年間の結婚が終わる音にしては、あまりにも軽かった。
「では、おやすみなさい」
セレナはそれだけ告げて食堂を出た。
背中にダミアンの視線を感じた気がしたが、振り返らなかった。
だから彼女は知らなかった。
指輪が卓上に置かれた直後から、ダミアンの胸の奥で始まった痛みが、番の歓喜などではなかったことを。
そしてダミアン自身も、まだ知らなかった。
三年間、当たり前のように享受してきたものが、その夜を境に一つずつ失われ始めたことを。
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