第1話 五年間愛した人から、「君とは結婚できない」と言われました 水瀬美緒は、その夜のために新しいワンピースを買った。 自分のために服を買うこと自体、ずいぶん久しぶりだった。淡い青灰色の生地に細かな刺繍が入った、華美ではないけれど仕立てのいい一着である。鏡の前で試着した時、店員から「とてもお似合いです」と言われても、美緒はすぐには決められなかった。 値札を何度も確認し、この金額があれば一週間分の食費になる、来月は父の誕生日もある、亮介の仕事用のネクタイもそろそろ新しくした方がいいなどと考え、結局三十分も売り場をうろうろした。 それでも最後には買った。 今日は特別な日になるはずだったからだ。「水瀬さん、まだここにいたんですか? そろそろ会場に行かないと、乾杯に間に合いませんよ」 背後から声をかけられ、美緒はスタッフ用通路の壁時計を見た。「もうこんな時間。ごめんなさい、最後に今日のVIPリストだけ確認したくて」「確認って、もう三回していますよ。それに今日は水瀬さんだって招待客側でしょう?」 後輩の女性スタッフ、松岡茜が呆れたように笑い、美緒の手からタブレット端末を半ば強引に取り上げた。「ほら。仕事は私たちに任せてください。水瀬さん、この日のために朝から美容院まで行ったんでしょう?」「美容院は行ったけど、この日のためというより、そろそろ髪を整えないといけなかったから」「そういうところですよ」「どういうところ?」「嬉しいなら嬉しいって言えばいいのに、すぐ別の理由をくっつけるところです」 茜はそう言って、美緒の肩を軽く押した。 ロイヤル・オルビス東京の創立三十周年記念パーティー。都心でも有数の格式を誇るホテル、その大宴会場には政財界の関係者、海外企業の幹部、長年の顧客などが招かれている。 そして今夜、美緒にはもう一つ、特別な意味があった。 五年間付き合ってきた恋人、柊木亮介との婚約が正式に発表される。 少なくとも、美緒はそう聞いていた。 二週間前、亮介は珍しく仕事帰りに美緒のマンションへ寄り、いつもより上等なワインを一本持ってきた。その時、少し照れたような顔で言ったのだ。「三十周年のパーティーには、お前もちゃんと出てくれよ。親父にも話してある。もう、いつまでも曖昧なままにはしておけないからな」 具体的に「婚約を発表する」と口にし
Last Updated : 2026-10-02 Read more