All Chapters of 『「地味な君とは結婚できない」と捨てられた夜、見知らぬ男に求婚されました。翌朝、彼が世界最大級の財閥CEOだと知りました: Chapter 1 - Chapter 10

20 Chapters

第1話 五年間愛した人から、「君とは結婚できない」と言われました

第1話 五年間愛した人から、「君とは結婚できない」と言われました 水瀬美緒は、その夜のために新しいワンピースを買った。 自分のために服を買うこと自体、ずいぶん久しぶりだった。淡い青灰色の生地に細かな刺繍が入った、華美ではないけれど仕立てのいい一着である。鏡の前で試着した時、店員から「とてもお似合いです」と言われても、美緒はすぐには決められなかった。 値札を何度も確認し、この金額があれば一週間分の食費になる、来月は父の誕生日もある、亮介の仕事用のネクタイもそろそろ新しくした方がいいなどと考え、結局三十分も売り場をうろうろした。 それでも最後には買った。 今日は特別な日になるはずだったからだ。「水瀬さん、まだここにいたんですか? そろそろ会場に行かないと、乾杯に間に合いませんよ」 背後から声をかけられ、美緒はスタッフ用通路の壁時計を見た。「もうこんな時間。ごめんなさい、最後に今日のVIPリストだけ確認したくて」「確認って、もう三回していますよ。それに今日は水瀬さんだって招待客側でしょう?」 後輩の女性スタッフ、松岡茜が呆れたように笑い、美緒の手からタブレット端末を半ば強引に取り上げた。「ほら。仕事は私たちに任せてください。水瀬さん、この日のために朝から美容院まで行ったんでしょう?」「美容院は行ったけど、この日のためというより、そろそろ髪を整えないといけなかったから」「そういうところですよ」「どういうところ?」「嬉しいなら嬉しいって言えばいいのに、すぐ別の理由をくっつけるところです」 茜はそう言って、美緒の肩を軽く押した。 ロイヤル・オルビス東京の創立三十周年記念パーティー。都心でも有数の格式を誇るホテル、その大宴会場には政財界の関係者、海外企業の幹部、長年の顧客などが招かれている。 そして今夜、美緒にはもう一つ、特別な意味があった。 五年間付き合ってきた恋人、柊木亮介との婚約が正式に発表される。 少なくとも、美緒はそう聞いていた。 二週間前、亮介は珍しく仕事帰りに美緒のマンションへ寄り、いつもより上等なワインを一本持ってきた。その時、少し照れたような顔で言ったのだ。「三十周年のパーティーには、お前もちゃんと出てくれよ。親父にも話してある。もう、いつまでも曖昧なままにはしておけないからな」 具体的に「婚約を発表する」と口にし
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第2話 私の代わりに選ばれたのは、妹でした

第2話 私の代わりに選ばれたのは、妹でした「お姉ちゃん……ごめんね」 莉奈の声を聞いた瞬間、美緒は返事ができなかった。 謝罪の言葉は耳に届いているのに、その意味だけがうまく頭の中へ入ってこない。視界の端では亮介が何か言おうとしているのが分かったが、美緒の意識は莉奈の左手に吸い寄せられていた。 細い薬指に光る指輪。 大粒すぎず、けれど明らかに安物ではないダイヤモンド。その石を囲むように、小さな宝石がいくつも留められている。 美緒はジュエリーに詳しくない。それでも、その指輪が「たまたま買ったもの」ではないことくらいは分かった。「その指輪、どうしたの?」 自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。 莉奈は一度、亮介を見た。助けを求めるような目だった。 亮介は顔をしかめる。「美緒、ここでは――」「亮介には聞いてない」 美緒が遮ると、亮介の口が止まった。 五年付き合ってきて、彼の言葉を途中で遮ったことなど、ほとんどなかった。それが今になって初めてできたことに、美緒自身が少し驚いていた。 莉奈は左手を胸元まで持ち上げたまま、困ったように指輪へ触れた。「これは……亮介さんにもらったの」「いつ?」「お姉ちゃん」「いつもらったの?」 責めたいわけではなかった。 少なくとも、美緒はそのつもりだった。 ただ、一つずつ確かめないと何も信じられない。さっきまで婚約を発表されると思っていた自分と、今ここにいる自分が同じ人間だとは思えないほど、状況が急激に変わりすぎていた。 莉奈は俯いた。「一週間くらい前」「一週間前……」 美緒は小さく繰り返した。 一週間前。 その日、美緒は亮介の母親から電話を受けていた。『新居のキッチンは広い方がいいでしょう? 亮介は料理なんてしないんだから、美緒さんが使いやすいものを選びなさいね』 笑いながらそう言われ、美緒も笑った。 亮介は料理をしないけれど、朝食だけは和食が好きだとか、仕事が忙しくなると食事を抜くから、冷凍しておける作り置きが便利だとか、そんな話までした。 あの電話をしていた時には、もう莉奈の指にこの指輪があったのか。「一週間前に指輪を渡したのに、今日まで私には何も言わなかったの?」「俺もタイミングを見てたんだよ」 亮介が口を挟んだ。 美緒はそちらを向く。「今日、婚約を発表する予定だっ
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第3話 婚約者だけでなく、仕事まで失いました

第3話 婚約者だけでなく、仕事まで失いました「水瀬さん?」 名前を呼ばれ、美緒は雨の中へ踏み出しかけた足を止めた。 振り返ると、神代蓮司がホテルの正面玄関からこちらへ歩いてくるところだった。黒いスーツに濃いグレーのコートを重ね、騒がしい車寄せの中でも不思議と目を引く。美緒がこれまで何度か接客した限りでは、長期滞在中の企業経営者らしいということ以外、詳しい素性は知らなかった。 彼はホテル側が用意した特別室を利用していたが、横柄なところがない。深夜に戻ってきてもフロントへ無理な注文をせず、翌朝に顔を合わせれば夜勤スタッフにも「昨夜はありがとう」と声をかける。高額な宿泊料金を払っている客ほど、時にサービスを当然と考えるものだが、蓮司はむしろ人にしてもらったことをよく覚えている人物だった。 そんな客に、今の顔を見られたくなかった。 美緒は反射的に仕事用の笑顔を作った。「神代様。こんばんは」 自分で口にしてから、おかしいと思った。 勤務中でもないのに、いつものように「神代様」と呼んでしまった。 蓮司も気づいたらしく、わずかに眉を上げる。「こんばんは。……と言うべきなんでしょうけれど、そんな顔をしている人に普通の挨拶だけして通り過ぎると、あとで少し寝覚めが悪そうです」「そんな顔、してますか?」「かなり」 即答だった。 愛想笑いでごまかす余地すら与えてもらえず、美緒は困って口元を押さえた。「すみません。お客様の前なのに」「今のあなたは勤務中ではないでしょう」「それでも、ここは職場ですから」「職場から一歩出たところでも?」 そう言いながら、蓮司はホテルの軒先と美緒の足元を交互に見た。 美緒の右足はすでに雨に濡れていた。「傘は?」「持っていません。朝は降っていなかったので」「では、貸します」「いえ、大丈夫です。駅まではそれほど遠くありませんから」「大丈夫に見えないから声をかけたんですが」 今日だけで何度「大丈夫」と口にしただろう。 茜にもそう言った。 父にも、本当は言おうとした。 長年、誰かに心配をかけないために使ってきた便利な言葉が、今夜はやけに薄っぺらく感じられた。 美緒が返答に詰まると、蓮司は追及せず、近くにいたドアマンから一本の傘を受け取った。「これを」「でも、ホテルの備品では……」「僕が借りていたものです
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第4話 失った夜、私は見知らぬ男と夕食をとりました

第4話 失った夜、私は見知らぬ男と夕食をとりました 神代蓮司に夕食へ誘われたあと、美緒は自分でも妙な選択をしたものだと思った。 昨日までなら、ほとんど知らない男性と二人きりで食事をするなど考えもしなかっただろう。まして相手は宿泊客で、自分はつい数時間前までホテルの従業員だった。仕事上の関係から踏み出すことには抵抗があったし、何より今は恋愛について考えられる状態ではない。 それでも断らなかったのは、たぶん家へ帰りたくなかったからだ。 帰れば、亮介からの連絡を見ることになる。 父からも連絡が来ている。 莉奈の長いメッセージも、いまだに未読のままだ。 だからといって一人で喫茶店にでも入れば、結局スマートフォンを眺めながら同じことを考えるだけだろう。「その箱、車に置いておきましょうか」 蓮司が、美緒の抱えている段ボール箱を見て言った。「え?」「それを持ったまま食事をするのは大変でしょう」「ああ……そうですよね。でも、車って」「僕の車です。運転手に預けておけば、帰りに渡してもらえます」 美緒は玄関の向こうへ目を向けた。 昨日も見た黒いセダンが車寄せに停まっている。派手な車種には見えないが、美緒はホテル勤務をしていたため、それが一般的な会社員が気軽に所有する車ではないことくらい分かった。「神代さんって、やっぱりかなり成功されてる経営者なんですね」 何気なく口にすると、蓮司が少しだけ間を置いた。「そう見えますか?」「運転手付きの車でホテルに長期滞在されてますから。少なくとも、私よりはずっと成功していると思います」「比較対象が今日無職になったばかりの人というのは、勝ってもあまり嬉しくありませんね」「ひどい」「すみません」 謝りながらも、蓮司は少し笑っている。 美緒もつられて笑った。 たった一日で婚約者と仕事の両方を失った女に向かって、普通ならもっと慎重に言葉を選ぶだろう。それなのに蓮司は必要以上に腫れ物扱いしない。 その距離感がありがたかった。 運転手が車から降りてきた。「お預かりいたします」「すみません。お願いします」 美緒が段ボール箱を渡すと、男性は慣れた手つきでトランクへ収めた。 蓮司が後部座席の扉を開ける。「どうぞ」「神代さんも乗るんですか?」「もちろんです。その質問をされるとは思いませんでした」「だっ
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第5話 それなら、僕と結婚しませんか

第5話 それなら、僕と結婚しませんか「水瀬さん。それなら、僕と結婚しませんか」 濡れた歩道の上で、神代蓮司はひどく落ち着いた声でそう言った。 美緒はしばらく返事ができなかった。 車道を走るタクシーのタイヤが雨水を跳ね、少し離れた交差点では歩行者用信号の電子音が鳴っている。仕事帰りらしい人々が二人の横を通り過ぎていく中、美緒だけがまるで別の時間に取り残されたようだった。「……すみません」 ようやく出たのは、そんな言葉だった。 蓮司がわずかに眉を上げる。「何に対する謝罪ですか?」「たぶん、聞き間違えました」「何と聞こえました?」「僕と結婚しませんか、って」「合っています」「じゃあ、やっぱり私の頭がおかしくなったんだと思います」「その可能性より、僕が本当にそう言った可能性を考えてもらえると助かります」 蓮司の顔には冗談を言っている様子がない。 美緒は思わず額へ手を当てた。「ちょっと待ってください。本気なんですか?」「本気です」「でも私たち、今日初めて二人で食事したんですよね?」「はい」「私、昨日まで別の人と結婚するつもりだったんです」「知っています」「今、その人と別れたばかりです」「それも知っています」「しかも今日、仕事まで辞めました」「聞きました」「私、今かなり面倒な状態ですよ?」「それも、だいたい分かっています」 あまりに淡々と肯定され、美緒は逆に言葉を失った。「……分かったうえで、結婚しようって言ってるんですか?」「そうです」「どうして?」 その問いに、蓮司はすぐには答えなかった。 さっきまで軽口を交わしていた時とは違い、表情が少しだけ硬くなる。「車に乗りませんか」「え?」「ここで話していると水瀬さんが風邪をひきそうです。僕も少し落ち着いて話したい」 言われて初めて、美緒は夜気の冷たさに気づいた。 雨は上がっているものの、足元から湿った冷気が伝わってくる。薄手のコートでは長く立っているには寒い。 蓮司の運転手も少し離れた位置で、こちらを見ないように気を遣いながら待っていた。「……分かりました」 美緒はうなずいた。 結婚を承諾したわけではない。 話だけ聞く。 自分にそう言い聞かせ、開けられた後部座席へ乗り込んだ。 蓮司も隣へ座る。 ドアが閉まると、外の雑踏が急に遠くなった。
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第6話 助けてもらうためだけに、あなたとは結婚しません

第6話 助けてもらうためだけに、あなたとは結婚しません 翌朝、美緒は目覚まし時計が鳴るより少し早く目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む朝の光を見ながら、しばらく天井を眺める。昨夜はなかなか眠れないだろうと思っていたのに、意外なほど深く眠っていたらしい。 ただし、目が覚めた途端に現実は戻ってきた。 五年間付き合った亮介とは別れた。 異母妹の莉奈と亮介が婚約した。 七年間勤めたホテルも辞めることになった。 そして昨夜、宿泊客だった神代蓮司から求婚された。「最後だけ、やっぱりおかしい……」 布団の中で呟いてみても、夢にはならなかった。 枕元のスマートフォンを手に取ると、昨夜最後に届いた蓮司からのメッセージが残っている。『明日、お返しします。これでまた会う理由が二つになりましたね』 美緒は玄関に置いた傘を思い出し、思わず口元を緩めた。 知らない男から求婚された翌朝に笑っている自分も、十分おかしいのかもしれない。 その下には亮介、父、莉奈からの着信とメッセージが並んでいた。 今までなら、先にそちらを確認していただろう。 誰かを待たせていると思うだけで落ち着かなかったからだ。 けれど今朝は、スマートフォンを伏せた。 まだ読みたくない。 それも一つの選択なのだと思うことにした。 ベッドを出て簡単な朝食を作り、コーヒーを淹れる。いつもなら出勤時間を逆算しながら慌ただしく済ませる食事なのに、今日は急ぐ必要がない。 テーブルの向こう側には誰もいなかった。 亮介はこの部屋に泊まることもあったが、朝食を一緒に食べることは少なかった。泊まった翌朝も彼はぎりぎりまで眠り、美緒が用意したものを急いで食べて出ていくことが多かった。 昨日、蓮司が言っていたことを思い出す。『朝、一緒に食事をしたい』 とても普通の願いだった。 だからこそ妙に心に残っている。「結婚……」 声にしてみる。 やはり現実感がない。 蓮司を嫌いではない。 むしろ昨夜話してみて、一緒にいることを心地よいと感じた。 しかし、それと結婚はあまりにも遠い。 美緒はカップを両手で包みながら、自分に問いかけた。 本当に断るつもりなら、昨夜の時点で断れたはずだった。 それをしなかった理由は何なのか。 元婚約者を見返したいからか。 仕事を失い、将来が不安だからか。
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第7話 出会って半年、交際ゼロ日で夫婦になりました

第7話 出会って半年、交際ゼロ日で夫婦になりました 翌朝九時ちょうど、美緒のマンションのインターホンが鳴った。 昨夜から何度も確認していた時計をもう一度見て、美緒は玄関へ向かう。 早すぎもしなければ遅くもない。約束した時刻ぴったりである。 モニターには神代蓮司が映っていた。 昨日までと違い、今日は濃紺のスーツに白いシャツ、落ち着いた色のネクタイという、隙のない格好をしている。その後ろにはもう一人、眼鏡をかけた男性の姿があった。「……本当に来た」 思わず独り言が漏れた。 来るに決まっている。 自分で今日婚姻届を出そうと決めたのだから。 それでも、玄関の向こうに未来の夫が立っているという状況には、まだ頭が追いついていなかった。 美緒は扉を開けた。「おはようございます」「おはようございます」 蓮司はいつもの調子で答えたあと、美緒の顔を少しだけ確かめるように見た。「眠れましたか?」「思ったよりは。でも三回くらい目が覚めました」「僕も似たようなものです」「神代さんでも緊張するんですね」「今日はかなりしています」 昨日も同じことを聞いた気がする。 ただ、やはり見た目からはまったく分からない。 美緒はそこで、蓮司の後ろに立つ男性へ目を向けた。 年齢は蓮司より少し上だろうか。整ったスーツ姿ではあるものの、蓮司ほど近寄りがたい雰囲気はなく、むしろ目元には人のよさそうな笑みがある。「ご紹介します。久我誠司です。僕の秘書をしています」「初めまして。久我です」 男性は丁寧に頭を下げた。「神代がいつもお世話になっております、と言いたいところですが、むしろ今日からはこちらがお世話になる側でしょうか」「久我」「冗談ですよ」 蓮司がわずかに眉を寄せると、久我は悪びれず笑った。 美緒も慌てて会釈する。「水瀬美緒です。こちらこそ、初めまして」「お名前は以前から存じ上げています」「え?」 美緒が蓮司を見ると、彼は一瞬だけ目を逸らした。 久我はその反応を見逃さなかったらしい。「おや、そこはまだ説明していなかったんですか」「余計なことを言わなくていい」「承知しました。では私は何も知りません」「それ、絶対に何か知ってますよね?」 美緒が聞くと、久我はにこやかに答えた。「何を申し上げても社長に怒られそうなので、沈黙を選びます」
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第8話 私の夫は、とんでもない人でした

第8話 私の夫は、とんでもない人でした 神代グローバルホールディングス。 その名前を聞いた瞬間から、美緒の頭の中では、いくつもの記憶が一気につながり始めていた。 ホテル勤務をしていれば、嫌でも耳にする企業名だった。国内外に高級ホテルブランドを持ち、大規模都市開発、物流、金融、IT、航空関連事業まで抱える巨大企業グループ。経済ニュースでは定期的に名前が出てきたし、海外VIPの宿泊予定を確認する際にも、神代グループ関係者というだけでホテル側の対応レベルが一段上がることがあった。 その代表取締役CEO。 それが、自分の隣に座っている男だという。「ちょっと待ってください」 美緒は車内で額を押さえた。「はい」「一回、整理させてください」「どうぞ」「神代さんは、神代グローバルホールディングスの代表取締役CEO」「はい」「私が知っている、あの神代グローバル」「たぶん、その神代グローバルです」「国内だけじゃなくて、海外にもホテルをたくさん持ってる?」「はい」「金融も、不動産も、航空も、ITも?」「はい」「それで、あなたはそこのトップ?」「そうなります」 蓮司はひどく落ち着いていた。 その落ち着きが、今は腹立たしい。「どうしてそんな大事なことを黙ってたんですか!」 美緒の声が車内に響く。 助手席の久我が、ほんの少しだけ肩をすくめた。 蓮司は逃げずに美緒を見た。「言い訳に聞こえると思いますが、話すつもりはありました」「婚姻届を出したあとに?」「そこは僕の判断ミスです」「判断ミスで済ませないでください。私、昨日まであなたのことを『ちょっと裕福な経営者』くらいに思ってたんですよ?」「ちょっと裕福、という表現は新鮮ですね」「感想を言ってる場合じゃありません!」「すみません」 ちゃんと謝ってはいる。 ただし、どこか口元が緩んでいるように見えるのが腹立たしい。「私、あなたに聞きましたよね。何の会社を経営してるんですかって」「はい」「その時、ホテル、不動産、金融、ITって言いましたよね」「嘘ではありません」「むしろ全部本当だから余計に悪いんです!」 美緒は思わず身を乗り出した。「普通、それだけ並べられたら、いくつか会社を持ってる人なのかなって思うでしょう。まさか全部まとめて巨大グループのCEOだとは思いませんよ!
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第9話 元婚約者との商談へ、妻として同行します

第9話 元婚約者との商談へ、妻として同行します 翌朝、美緒は目を覚ましてから数秒、自分がどこにいるのか分からなかった。 見慣れない高い天井と、淡いグレーのカーテン。枕元には昨夜使った覚えのない照明操作用のタブレットが置かれていて、ベッドの向こうには、大きな窓いっぱいに朝の東京が広がっている。 昨日まで暮らしていた自分のマンションとは、何もかも違った。 そこでようやく思い出す。 婚姻届を出した。 神代蓮司と夫婦になった。 そして、その夫が神代グローバルホールディングスのCEOだと、提出したあとで知らされた。「……やっぱり情報量が多すぎる」 美緒は布団の中で呟いた。 昨夜は結局、蓮司から神代家と会社について一通り説明を受けた。 神代家は代々一つの企業だけを経営してきた家ではない。曽祖父の代に始めた不動産事業を起点として、祖父の征一郎がホテルと金融へ事業を広げ、その後も国内外の企業を買収しながら巨大グループへ成長したという。 蓮司はその直系の後継者。 現在三十三歳。 神代グローバルホールディングス代表取締役CEO。 国内外のグループ企業を統括する立場にあり、創業家が保有する資産の一部についても管理責任を負っている。 そこまで聞いただけで、美緒は一度休憩を求めた。 数字の説明に入る前だったのが幸いである。『今日はもう無理です』 そう言うと、蓮司もさすがに諦めた。 ただし最後に、『祖父には結婚したことを早めに話さなければなりません』 と付け加えたため、美緒は布団へ入ってからもなかなか眠れなかった。 神代征一郎。 経済界に詳しくない美緒でも、その名前くらいは知っている。 神代グループを現在の規模まで成長させた人物で、数年前まで会長を務めていたはずだ。 そんな人物へ、 昨日結婚しました。相手はホテルを辞めたばかりの元従業員です。交際期間はありません。 と説明するのである。 どう考えても穏やかな話にはならない。 それでも今は、まず今日を乗り切らなければならなかった。 柊木ホテルズとの商談。 亮介と顔を合わせる。 昨夜、自分で行くと決めた。 だから逃げたくない。 美緒はベッドを出た。     ◇ 着替えを済ませて廊下へ出ると、どこからともなくコーヒーの香りがした。 香りを追ってリビングへ向かうと、蓮司がキッ
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第10話 元婚約者の前で、「私の妻です」と紹介されました

第10話 元婚約者の前で、「私の妻です」と紹介されました「こちらは、妻の美緒です」 神代蓮司の声は、驚くほど平静だった。 自慢げに言うわけでも、誰かへ見せつけるような調子でもない。ただ会議の出席者を一人紹介するのと同じ自然さで、美緒を自分の妻だと告げた。 だからこそ、その言葉は会議室の空気を一瞬で変えた。「……妻?」 最初に声を出したのは亮介だった。 聞き間違いを疑っているような顔で蓮司を見て、それから美緒へ視線を戻す。 美緒は蓮司の手に自分の手を重ねたまま、そこから逃げなかった。「はい。昨日、婚姻届を提出しました」 蓮司が補足する。 余計だった。 美緒はそう思ったが、今さら止めようもない。「昨日……?」 亮介の顔から、さらに血の気が引いた。 隣にいた柊木ホテルズ社長――亮介の父親、柊木正臣も、さすがに表情を隠せなかった。「神代社長、失礼ですが、本当に……水瀬さんとご結婚を?」「正確には、現在は神代美緒です」「ああ……これは失礼いたしました」 正臣はすぐに取り繕った。 経営者として長く生きてきた人間だけあって、動揺しても立て直すのが早い。「このたびは、おめでとうございます。しかし、まさか美緒さんが神代社長と……」「ありがとうございます」 美緒は頭を下げた。 声が震えなかったことに、自分でも少し驚く。 柊木家とは長い付き合いだった。 亮介と交際していた五年間、正臣とも何度も食事をしている。将来は義父になるかもしれないと考え、誕生日や父の日に贈り物を選んだこともあった。 その相手から今、「神代社長の妻」として祝いの言葉を受けている。 人生というものは、時に冗談でも思いつかない形へ転がるらしい。「ちょっと待ってくれ」 亮介の声が割り込んだ。「昨日って……お前、何言ってるんだ?」 美緒はその言葉に小さく眉を寄せた。 お前。 かつてなら何とも思わなかった呼ばれ方だったのに、今はひどく雑に聞こえる。「亮介」 正臣が低い声で制した。「ここは商談の場だ」「でも父さん、昨日だぞ? 美緒が会社を辞めるって言ったのも昨日で、その前の日まで俺と――」「柊木専務」 蓮司が静かに呼んだ。 強い声ではない。 それでも亮介は言葉を止めた。「妻に確認したいことがあるのでしたら、商談のあとに本人へ聞いてください。た
last updateLast Updated : 2026-10-02
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