Masuk五年間尽くした恋人から「妻にするには地味すぎる」と捨てられ、しかも選ばれた相手は実の妹だった。さらに仕事まで奪われた水瀬美緒は、失意の夜、ホテルの長期滞在客・神代蓮司から突然求婚される。交際ゼロ日で結婚した翌日、彼の正体が世界最大級の財閥を率いるCEOだと知って大混乱。けれど蓮司は金や権力で囲い込むのではなく、美緒の意思を尊重し、傷ついた心ごと大切に愛してくれる。誰かのために我慢することしか知らなかった美緒が、本物の溺愛と自分自身の価値を知り、仕事も人生も取り戻していく逆転シンデレラ・ラブストーリー。
Lihat lebih banyak水瀬美緒は、その夜のために新しいワンピースを買った。
自分のために服を買うこと自体、ずいぶん久しぶりだった。淡い青灰色の生地に細かな刺繍が入った、華美ではないけれど仕立てのいい一着である。鏡の前で試着した時、店員から「とてもお似合いです」と言われても、美緒はすぐには決められなかった。
値札を何度も確認し、この金額があれば一週間分の食費になる、来月は父の誕生日もある、亮介の仕事用のネクタイもそろそろ新しくした方がいいなどと考え、結局三十分も売り場をうろうろした。
それでも最後には買った。
今日は特別な日になるはずだったからだ。
「水瀬さん、まだここにいたんですか? そろそろ会場に行かないと、乾杯に間に合いませんよ」
背後から声をかけられ、美緒はスタッフ用通路の壁時計を見た。
「もうこんな時間。ごめんなさい、最後に今日のVIPリストだけ確認したくて」
「確認って、もう三回していますよ。それに今日は水瀬さんだって招待客側でしょう?」
後輩の女性スタッフ、松岡茜が呆れたように笑い、美緒の手からタブレット端末を半ば強引に取り上げた。
「ほら。仕事は私たちに任せてください。水瀬さん、この日のために朝から美容院まで行ったんでしょう?」
「美容院は行ったけど、この日のためというより、そろそろ髪を整えないといけなかったから」
「そういうところですよ」
「どういうところ?」
「嬉しいなら嬉しいって言えばいいのに、すぐ別の理由をくっつけるところです」
茜はそう言って、美緒の肩を軽く押した。
ロイヤル・オルビス東京の創立三十周年記念パーティー。都心でも有数の格式を誇るホテル、その大宴会場には政財界の関係者、海外企業の幹部、長年の顧客などが招かれている。
そして今夜、美緒にはもう一つ、特別な意味があった。
五年間付き合ってきた恋人、柊木亮介との婚約が正式に発表される。
少なくとも、美緒はそう聞いていた。
二週間前、亮介は珍しく仕事帰りに美緒のマンションへ寄り、いつもより上等なワインを一本持ってきた。その時、少し照れたような顔で言ったのだ。
「三十周年のパーティーには、お前もちゃんと出てくれよ。親父にも話してある。もう、いつまでも曖昧なままにはしておけないからな」
具体的に「婚約を発表する」と口にしたわけではない。それでも、五年間交際し、双方の家族も関係を知っている二人にとって、その言葉が何を意味するのかは考えるまでもないと思っていた。
美緒は自分から結婚を急かしたことは一度もない。
亮介には仕事がある。柊木ホテルズの専務として、いずれ会社を背負う立場でもある。付き合い始めた頃から彼は忙しく、美緒も同じホテル業界で働いているから、その事情はよく分かっていた。
だから待った。
仕事で予定をキャンセルされても責めなかったし、誕生日を一日間違えられても笑って済ませた。
亮介が海外企業との商談前に眠る暇もなく資料を作っていた時には、自分の勤務が終わった後で英文資料を整えた。彼がホテルの新しい宿泊プランを考えあぐねていた時には、現場で集めた顧客の声を分類し、参考資料としてまとめた。
それを犠牲だと思ったことはない。
好きな人を支えるのは、そういうものだと思っていた。
「水瀬さん」
茜が少し声を落とした。
「今日、何かあったら教えてくださいね」
「何かって?」
「分かってるくせに。柊木専務とのことですよ」
「……まだ何も決まったわけじゃないから」
「じゃあ決まったら。私、絶対にお祝いしますから」
「ありがとう」
美緒は笑い、それ以上は言わなかった。
嬉しくないわけではない。
むしろ、胸の奥が朝からずっと落ち着かなかった。
とうとう亮介と家族になる。
そう思うだけで、これまで待ってきた五年間が、すべて一つの場所へつながっていくような気がしていた。
宴会場に入ると、眩しいほどのシャンデリアの光が降り注いでいた。
天井まで届きそうな装花。磨き上げられたグラス。控えめな生演奏。スタッフとして見慣れているはずの会場なのに、客として立つとまるで別の場所に見える。
美緒は自然と亮介の姿を探した。
すぐに見つかった。
濃紺のスーツを着た亮介は、何人もの取引先に囲まれていた。三十歳という若さで専務を務める彼は、社内でも社外でも目立つ存在だ。背が高く、話し方にも自信があり、初対面の相手とも臆せず会話ができる。
美緒と二人でいる時は、もっとだらしないところもある。
ソファに靴下を脱ぎっぱなしにしたり、冷蔵庫のプリンを勝手に食べたのに「最初からなかった」と言い張ったり、疲れている時は子供のように黙り込んだりする。
そんな部分まで知っているからこそ、美緒は彼を近い人間だと思っていた。
亮介がこちらに気づいた。
ほんの一瞬だけ目が合ったものの、彼はすぐに隣にいた役員へ何かを話し、視線を逸らした。
美緒は足を止める。
忙しいのだろう。
そう思った。
思おうとした。
「美緒」
今度は父の水瀬隆一が近づいてきた。
「お父さん」
「来ていたのか。仕事じゃないんだから、もう少し早く会場に入ればよかっただろう」
「スタッフの引き継ぎが少し残っていて」
「そういうところは相変わらずだな。今日は柊木家にとって大事な夜なんだから、仕事ばかり気にしていないで、もう少し周りを見なさい」
叱責というほど強い口調ではない。
父はいつもそうだった。
美緒へ何かを言う時、声を荒らげることはほとんどない。ただ、正しいことを教えてやっているという調子で、逃げ場のない言葉を置いていく。
「うん。ごめんなさい」
反射的にそう答えると、父は満足したようにうなずいた。
「それと、今日は妙なことを言ったりしないようにな」
「妙なこと?」
「いや……何でもない。とにかく、落ち着いていなさい」
何かが引っかかった。
問い返そうとしたが、父は知人らしい男性に呼ばれ、そのまま離れていった。
美緒は父の背中を見送りながら、首を傾げる。
妙なことを言うな。
なぜ、そんなことを言われるのだろう。
婚約の発表があるのなら、むしろ自分は何を話せばいいのか事前に確認しておきたいくらいだ。
もっとも、亮介のことだから、そういう段取りを細かく説明するのを面倒がっただけかもしれない。
美緒が考え込んでいると、スマートフォンが震えた。
画面には亮介の名前。
『十分後、二階の桐の間に来てくれ。話がある』
心臓が大きく鳴った。
ついに来た。
そう思った。
人前で発表する前に、二人で話をしたいのだろう。
もしかすると指輪を渡されるのかもしれない。
そこまで考え、自分で自分が恥ずかしくなった。
「二十八にもなって、何を浮かれてるんだろう……」
誰にも聞こえない声でつぶやき、美緒はワンピースの裾を整えた。
桐の間は、大宴会場から少し離れた小規模な応接室だった。
扉をノックすると、すぐに「入って」と亮介の声がした。
「失礼します」
「お前まで仕事みたいに言うなよ」
亮介は苦笑した。
その顔を見て、美緒は少しだけ安心した。
「だって、こういう部屋に入ると癖で」
「まあ、座れよ」
亮介はソファを示した。
テーブルには何もない。
花も、シャンパンも、もちろん美緒が想像していたような指輪の箱もなかった。
それでも、そういう演出を好まない亮介らしいと思えば、不自然ではない。
美緒は向かいのソファに腰を下ろした。
「今日は忙しそうだね。夕方も取引先が何組か来てたでしょう?」
「ああ。まあな」
「オーストラリアの会社の方とは話せた? 前に食材調達の契約で条件が合わないって言っていたけど」
「美緒」
名前を呼ばれ、口を閉じる。
亮介はネクタイを少し緩めた。
疲れている時の癖だった。
「今日は仕事の話じゃない」
「うん」
「先に言っておくけど、俺は別にお前を嫌いになったわけじゃない」
美緒は、一瞬、意味を理解できなかった。
「……何の話?」
「最後まで聞いてくれ」
「待って。最後までって、何?」
声が少し上ずった。
亮介は美緒から目を逸らし、テーブルの上で両手を組んだ。
「俺たちの結婚の話だけど、なかったことにしてほしい」
部屋の外では、遠くからピアノの音が聞こえていた。
知っている曲だった。
ホテルのラウンジでも時々演奏される、耳慣れたジャズのスタンダードナンバー。
美緒はその旋律を聞きながら、自分だけが音のない場所へ落とされたような感覚に陥った。
「……どういう意味?」
「言った通りだよ」
「言った通りじゃ分からない。だってこの前、今日ちゃんと話すって言ったじゃない。お父様にも話してあるって」
「ああ。話した」
「だったら」
「だから、話した結果だ」
亮介の言い方に、美緒の胸の奥が冷えた。
「誰かに反対されたの?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、会社の事情? 今は結婚している場合じゃないとか、そういう話なら私は――」
「違うんだ、美緒」
亮介が眉を寄せた。
困っている。
美緒にはそう見えた。
まるで、自分こそ言いづらい役目を押しつけられていると言いたげな表情だった。
「別に時期を延ばしたいわけじゃない。お前との結婚をやめたいんだ」
今度こそ、言葉の意味は理解できた。
理解できてしまった。
美緒は膝の上で指を握った。
「理由を聞いてもいい?」
「それは……」
「五年付き合ってきたんだよ、私たち。昨日まで普通に連絡してた。来週の日曜日は家具を見に行こうって話もしたでしょう。私、あなたのお母様から新居のことまで聞かれていた。それなのに突然やめたいって言われて、理由も聞かないで『分かりました』とは言えないよ」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
泣いてはいなかった。
まだ涙が出るところまで感情が追いついていない。
亮介は深く息を吐き、背もたれにもたれた。
「お前に大きな不満があるわけじゃないんだ」
「それ、最初にも言ったね」
「ああ。むしろ、お前には感謝してる。俺が忙しい時も文句を言わなかったし、仕事の相談にも乗ってくれた。親父たちとも問題なく付き合ってくれた。正直、一緒にいて楽だったよ」
楽だった。
それは恋人へ別れを告げる時に使う言葉なのだろうか。
美緒は唇の内側を噛んだ。
「じゃあ、どうして?」
「結婚相手として考えた時に……少し違うと思ったんだ」
「何が?」
亮介は答えにくそうに黙り込んだ。
その沈黙の方が、美緒には残酷だった。
「言って。ここまで言われたら、曖昧にされる方がつらいから」
「……華がないんだよ」
美緒は瞬きをした。
「華?」
「言い方が悪いのは分かってる。でも俺はこれから会社の代表になるかもしれない。国内だけじゃなく、海外の取引先とも付き合う。式典やレセプションに夫婦で出る機会も増える。そういう立場を考えた時、お前は少し地味すぎるんだ」
目の前の人が、知らない男に見えた。
美緒は自分のワンピースを見下ろした。
この服を選ぶのに、ずいぶん悩んだ。
似合っているだろうか。
亮介の隣に立って恥ずかしくないだろうか。
派手すぎないだろうか。
それなのに、彼が見ていたのはそんなことではなかったらしい。
「それは……今まで分からなかったの?」
「だから、そんな言い方をするなよ」
亮介の声にも苛立ちが混じった。
「俺だってずっと考えたんだ。付き合う相手と結婚する相手は同じじゃない。お前は家庭的だし、気も利くし、人間としては信用してる。でも、経営者の妻にはそれ以外も必要だろ?」
「私、ホテルでずっとVIP対応をしてきたよ」
「仕事と妻の立場は違う」
「英語も中国語も話せる。海外のお客様への対応なら、亮介も何度も私に相談したでしょう?」
「だから能力の話をしてるんじゃないって」
「じゃあ何の話をしてるの?」
少し声が大きくなった。
亮介は眉間を押さえた。
「こういうのが嫌だったんだ」
「……何が?」
「お前は理屈で返してくるだろ。俺は責めてるわけじゃないのに、一つずつ反論してくる。そういうところも、結婚したらしんどいと思った」
美緒は言葉を失った。
理屈で返したつもりはなかった。
ただ、分からなかったから尋ねただけだった。
なぜ自分が結婚相手として足りないのか。
何が駄目だったのか。
それを知りたかっただけなのに、尋ねることまで責められている。
亮介は少し身を乗り出した。
「美緒、俺は喧嘩したいわけじゃない。五年間を全部悪かったことにするつもりもないんだ。むしろ感謝してる。だからこそ、変に揉めたくない」
「揉めたくないって……」
「お前なら分かってくれると思ったんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、美緒の中で何かが止まった。
昔から、何度も聞いてきた言葉だった。
美緒なら分かってくれる。
お姉ちゃんなんだから分かるでしょう。
あなたなら我慢できるでしょう。
亮介だけは違うと思っていた。
家族とは違って、自分が選んだ人だった。
美緒が黙っていると、亮介はそれを了承と受け取ったらしい。
「もちろん、急に言われて整理できないのは分かる。でもこれからも仕事では顔を合わせるし、できれば今まで通り――」
「今まで通り?」
美緒は思わず聞き返した。
「いや、何もなかったみたいにという意味じゃない。社会人同士として普通にってことだよ。お前もその方がやりやすいだろ?」
亮介は本気でそう思っている。
それが分かった。
美緒がこれからどんな顔で彼と働くのか。今夜、婚約発表があると信じて新しい服を買ったこと。五年間先延ばしにされても待ち続けたこと。
そこまで想像していないのではない。
想像したうえで、美緒なら受け入れると思っている。
いつものように。
「一つだけ聞いていい?」
「何だ?」
「他に好きな人がいるの?」
亮介の表情が変わった。
ほんのわずかだったが、美緒は見逃さなかった。
五年間も一緒にいたのだ。
「いるんだね」
「……その言い方は卑怯だろ」
「どうして私が卑怯なの?」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「じゃあ違うって言って」
亮介は答えなかった。
美緒の指先が冷たくなる。
「いつから?」
「美緒」
「いつからなの?」
「今日ここで全部話す必要あるか?」
「あるよ」
「なんで」
「私はあなたと結婚するつもりだったから」
そこで初めて、美緒の声が震えた。
「五年間、そう思ってた。あなたが忙しいから待った。会社が大事だから待った。私だって二十八だよ。結婚したいって思ったこともあるし、子供のことだって考えたことがある。でも、あなたを急かしたら負担になると思ったから、一度も言わなかった。それなのに、あなたは別の人を好きになって、私には『地味だから』って説明するの?」
「別に、それだけが理由じゃない」
「じゃあ他にもあるんだ」
「そうやって言葉尻を取るなよ!」
亮介が声を荒らげた。
すぐに我に返ったらしく、彼は顔をしかめて声を落とした。
「悪い。でも、お前だって俺と結婚して本当に幸せだったか分からないだろ。俺は仕事中心になる。これからもっと忙しくなる。お前はお前で仕事を続けたいんだろ? 無理して一緒になるより、お互い別の道を選んだ方がいい」
美緒は亮介の顔を見た。
この人は今、自分にも利益がある話にしようとしている。
そう気づいてしまった。
「私のためでもあるって言いたいの?」
「結果的にはそうなると思ってる」
「だったら、せめて私に選ばせてほしかった」
亮介が黙る。
「私は馬鹿だったのかもしれない。でも今日ここに来るまで、本気であなたと結婚すると思ってた。あなたはもう別の未来を決めていたのに、私は知らなかった。その状態で『お互いのため』なんて言われても、すぐには納得できないよ」
美緒は立ち上がった。
これ以上座っていたら、泣いてしまいそうだった。
亮介の前で泣きたくない。
意地だった。
つまらない意地かもしれない。それでも今は、それくらいしか自分を支えるものがなかった。
「美緒、待てよ」
「まだ何かある?」
「今日はパーティーなんだ。とりあえず会場には戻ってくれ。親父たちにも挨拶があるし」
美緒は思わず笑ってしまった。
「私、あなたに婚約を解消されたばかりなんだけど」
「だからって突然帰ったら、周囲が変に思うだろ?」
「……亮介って、こんな人だった?」
「何だよ、その言い方」
「ごめん。私が知らなかっただけかもしれない」
ドアへ向かおうとした、その時だった。
廊下側から軽いノックの音がした。
美緒は足を止めた。
亮介の顔から、さっと血の気が引いたように見えた。
「誰?」
美緒が尋ねる。
「いや、ちょっと待て」
亮介は立ち上がった。
しかし制止するより早く、扉がゆっくりと開いた。
最初に見えたのは、細いヒールと淡い桃色のドレスだった。
次に、丁寧に巻かれた明るい栗色の髪。
そして、美緒が子供の頃から何百回、何千回と見てきた顔が現れた。
「……莉奈?」
異母妹、水瀬莉奈は、美緒と目が合った途端に動きを止めた。
その顔には驚きと気まずさ、そしてほんの少しだけ怯えたような色が浮かんでいる。
だが、美緒が何より先に見てしまったのは、莉奈の左手だった。
薬指に、見覚えのない指輪が光っていた。
莉奈はその手を慌ててドレスの陰へ隠そうとした。
もう遅かった。
「どうして……あなたがここにいるの?」
美緒の問いに、莉奈は亮介を見た。
亮介は答えなかった。
二人の間に交わされた一瞬の視線だけで、十分だった。
胸の中で、何かが音を立てて崩れた。
莉奈は唇を震わせ、それでも逃げずに美緒を見た。
「お姉ちゃん……」
そして、泣きそうな声で言った。
「ごめんね」
第20話 初めて、自分の仕事に値段をつけました 条件面談の日程が決まったあと、美緒は人生で初めて「自分はいくらの給料をもらうべきなのか」を真剣に考えることになった。 これまで給与というものは、会社が決めるものだった。 昇給通知を受け取ればありがとうございますと言い、賞与額を見て少し喜んだり落ち込んだりする。それ以上のことを考えた経験はほとんどない。 まして、自分から希望額を口にするなど想像したこともなかった。 ところがグランド・ルミエール東京から届いた案内には、はっきり書いてある。『これまでのご経験、および想定する役割を踏まえ、ご希望の待遇をお聞かせください』 美緒は朝からノートパソコンの前で、その文章を何度も読み返していた。「……ご希望って言われても」 つい独り言が漏れる。 前職の年収を基準にすればいいのか。 同年代のホテルスタッフの相場を見るべきなのか。 今回提示されているのは、ゲストリレーション業務だけではなく運営改善プロジェクトの兼務だ。 なら責任は増える。 けれど、管理職経験はない。 英語は業務で使えるが、中国語は完璧ではない。 考えれば考えるほど、自分を高く言う理由と低く言う理由の両方が出てきた。「五十万くらい下げて言った方が……」「なぜです?」 突然背後から声がして、美緒は椅子の上で飛び上がりそうになった。「蓮司さん!」「はい」「いつ帰ってきたんですか?」「今です」「音しませんでしたよ」「しました」 またこの会話である。 蓮司はネクタイを緩めなが
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第17話 夫の従妹は、私を「財産目当てでは?」と疑っていました」 美緒が次の仕事を探し始めて三日目の朝、神代家から新たな人物がやってきた。「初めまして。神代沙耶です」 リビングで名刺を差し出した女性は、蓮司より三歳年下の三十歳だという。 肩までの黒髪を隙なく整え、濃紺のパンツスーツを着こなし、化粧も装飾品も控えめだった。美人なのは間違いないのだが、笑顔になっても相手を観察する目だけは少しも緩まない。 名刺には、神代グローバルホールディングス法務統括室の肩書きが記されている。「こちらこそ初めまして。神代美緒です」 自分も名刺を出そうとして、美緒は手を止めた。「あ……すみません。今、名刺がなくて」「当然でしょう。退職されたばかりだと伺っています」「はい」「それに今日は仕事の面談ではありませんから、必要ありません」 言葉は丁寧だった。 けれど妙に硬い。 隣にいる蓮司を見ると、彼は何とも言えない顔をしていた。「沙耶」「何?」「最初からその調子なのか」「法的な話をしに来たのだから、遊びに来たような態度を取る方がおかしいでしょう」「美緒さんが緊張する」「その美緒さんは、あなたより落ち着いて見えるけれど」 沙耶の視線が戻ってくる。 美緒は思わず姿勢を正した。「緊張してます」「そうですか?」「かなり」「それなら普通ですね」「普通?」「神代家の財産に関する契約を初対面の親族と話すのに、まったく緊張しない人なら、その方が私は警戒します」 なるほど。